超長文、力の種類と関節との関係について

お盆休み、せっかくなので、今考えていることを少し、丁寧にまとめておこうとおもう。
 
甲野先生譲りなのか、動きの変化が激しい。
とにかく、自分の身体をもっと、拓いていきたいのだ。きっと、甲野先生に出会わなければこんな考え方は持てなかったはず。
手に入れてきたモノを必死になって守る生き方になってしまっただろう。
 
もちろん、その生き方が間違い、というわけではない。
ただ、歳を重ねることでつい、守りに入ってしまうのが人間。だって、僕らは壊れゆく身体と共に生きているんだから。
 
 
 
壊れていく身体をネガティブに考えれば、どうしても、現状維持を一番に考えるだろうし、一瞬でも自分の力を失わせる選択はしないはず。
ちいさな選択、行動が徐々に習慣となり、守りに入ってしまうのだ。
 
残念ながら、ネガティブに守りに入って幸せそうな人はいない。見たことがない。
 
 
 
 
壊れていく身体はネガティブなものではなく、実は超、ポジティブ、ありがたい事のように思えてきてならない。
もともと出来ないことだらけだった自分が、甲野先生から自分の身体を見直し続ける、という稽古法を学び、実践したところ、今度はこの身体を悲観的に見ることが出来なくなってしまった。
なかなか表現がしづらいんだけど、とにかく、身体からみた自分はどう考えてもすごい奴だ、としか思えなくなってしまったのだ。
 
 
 
身体という一面からだとしても、その身体だけでもう、十分とも思える信頼を自分の中に見つけられたのは大きい。
でも、なぜ、こんな気持ちになれたんだろう・・・。
 
じっと、心の内にあるモノを観察してみたら少し、理由が分かってきた。
今日はそれをなんとか、言葉にしてみようかなぁ、と思う。
 
 
 
 
昨年末、稽古納めの時に「肌の働き」に気づくことが出来た。
相手を動かす際に衝突し、力で相手を動かすしか方法がなかったところに、いきなり現れた術理、それが「肌」だった。
この半年、その肌をずっと見続けてきて、それまで、自分の内面にばかり意識を集めていたことに気づかされる。
それもそのはず、甲野先生の不思議な技、術を学ぶには目を瞑り、じっと、自分の身体の感覚に耳を澄ませ、身体の声を聞くことが一番だと信じ続けてきたからだ。
 
しかし、肌は外にあるもの。
肌の術理は相手の肌の声を聞かなくてはいけないのだ。
 
 
 
相手の肌に指先が触れる。
その際の僅かな圧力。
その圧力を手がかりに相手の肌がもっと動きたい方向を探り、後ろからそっと背中を押すように力を加える。
 
この時、意識は相手の肌に集中し、自分の身体の事はすっかり忘れてしまっている。
甲野先生はよく、結果的に、という言葉を使われるが、そんな状態かもしれない。相手の事を一番に考え、それを壊さないようにすることで、「結果的に」自分が整ってくるのだ。
 
 
 
 
とにかく肌の発見は大きかった。
それまでの筋肉主導の動きから一気に世界が広がったのだ。
 
そうそう、この「世界が広がる」という言葉は新しいモノに出会ったときに良く聞くフレーズだけど、実は私はあまり、この言葉を信用していない(笑)。
 
何故かというと、アタマで世界が広がっても、実際に「行動」として変化がなければ、結局、この世界では同じだからだ。
アタマでは分かったけど、できません。
これは実は身体ではわかりません、という事。肉体的にはぜんぜん、視野は広がっていないもん。
 
 
 
その点、武術の稽古はすばらしい。
自分の世界が広がった、とわかった瞬間、自分のこの身体が動く世界が広がるのだ。
その結果、それまで出来なかった動きが出来るようになる。
努力して練習して乗り越えるのではなく、気づいた瞬間、自分の身体が動くのだ。
 
 
 
この「できる」という経験はとても大切。
分かるだけで出来る、というのはつまり、もう、ずっと前から、できる要素はあった、という事。ただ、そのできる自分に気づかなかった、という事なのだ。
 
甲野先生の稽古法はこんな経験を何度もさせてくれる。
自分には出来るはずがない、と自己否定の塊だった私のアタマも、何度も「できる」を経験することで、どうも、自分は自分のことを知らないだけなのだ、と身体の言うこと、やることを信頼せざるを得なくなってしまったのだ。
 
 
 
皮膚の術理で分かったのは皮膚は「形の力」を引き出してくれる、という事。
今、多くの人が頼りにしているのが筋肉の力。
筋肉の力ってのは努力の力、続けることが難しいのだ。
 
 
  
 
私たちは「力」と簡単に口にしているけど、どうやら力には種類がある。
今、分かっていて、使い分けているのは4つ。
「重さ」、「筋肉」、「形」、「意識」だ。
 
 
 
そして、どうも、それぞれ、「関節」と深いつながりがありそう。
長くなってしまいそうだけど、お盆だし、いっか・・・、一気に力と関節の繋がりもまとめてしまおう。
 
 
 
まずなじみの筋肉は「肘」のタイプ。
ヒンジ型の関節だ。
ヒンジは振り子のように左と右を行き来する。
 
筋肉はトレーニングで増大していくけれども、同時に急速も必要になる。
アタマで考えれば、努力だけを重ねれば良さそうだけでも、勉強する努力だけではダメなのだ、しっかりとリラックスする努力も必要なのだ。
 
正反対の目的をどう行い、どうバランスをとるのかがヒンジ型では大切。
そして、同時にその正反対の行動を何のために行うのか、という大きな目標をしっかりと見続けなくてはいけない。
 
 
このヒンジタイプの関節は肘、膝、手足の指の第2関節、それらが同じ動き、働きを持っていそうな感じだ。
 
 
 
ヒンジ型の関節はいつまでたっても「バランス」をとり続けるのが宿命。
そして、私たちの身体は常に、動き続けている。
動きがある以上、そのバランスをとり続けるのが肘や膝なのだ。
いつまでたっても、ゴールがない、そんな役割を持っていると言える。
 
ゴールを求めて生きている人にとって、ゴールのないモノに頼ってしまうと、これは、とっても、辛いこと。
生きることが「苦」という言葉はこんなところから生まれてきたのかもしれない。
 
 
 
 
次に解説をするのは「肌」、「形の力」だ。
私たちの身体を覆っている皮膚。全身、どこに触れても皮膚にあたるが、一番皮膚の力を発揮する部分が手首、足首の関節。
他の関節では皮膚の力を発揮するよりも他の力が強く出て来てしまうのだ。
 
 
 
手首の関節、足首の関節はそれぞれ、8つ、7つの骨が石垣のように組み上がって出来ている。ピラミッドといった方がかっこいいだろうか(笑)。
 
手首、足首の関節はクルリクルリと表と裏がひっくり返る動きが出来る。
このひっくり返る動きは他者が止めようと思ってもなかなか止められない不思議な動きなのだ。
 
 
 
甲野先生は武術の動きを魚の群が瞬時に向きを変える動き、と言われたが、苦労をしなくても、この手首、足首は常に、たくさんの骨がそれぞれの役割を知って、ちゃんと、一つの石として仕事をしている事がわかった。
 
自分の中に「無い」動きを求めるのと、「有る」動きを求めるのとでは気持ちの持ちようが違う。
「どんな人の中にも」すばらしく動ける身体がちゃんと「ある」、それを是非、経験してもらいたいなぁと思う。
 
 
 
ピラミッドやお城の石垣、それらは強大な存在感をだしているもの。
数千年を経過しても、そこに存在し続ける力がある。
手首にある力もそう。
もう、ここに存在している。
 
一度、存在してしまえばそれを壊すことは難しい。
この意味も武術の稽古で体感することが出来る。
 
 
どんなに押しつぶされても、その手はちゃんとそこに、有り続けることができる。
問題は「移動」。
この手の形はその瞬間、その場所にあるもの。移動するモノはなにもないからこそ、そこに存在し続けられる、そんな気がする。
その場に、その形でいる事がベストだからこそ、壊れずにすむのだ。
 
 
ただ、武術的に、抑えられている状況をなんとかしたい、逃れたい、とアタマは言い続ける。
この時、「移動」とはなにか、と考えさせられた。
 
 
 
普通、手が動く、というのは肩や肘で手を引こうとする。
実は、無意識の時にはそうでもないんだけど、相手に抑えられてしまったときなど、つい、動かしやすいところで動いてしまうのだ。
 
しかし、それでは相手にも簡単に察知をされ、止められる。
結果的に衝突が起こり、力比べになってしまい、失敗してしまうだろう。
  
 
 
手首の立場にたってみると、もう、そこでゴールなのだ。
それでも動く、というのは、それまでのものを全部すて、作り直すことが必要になる。
材料は同じ石でもいい。でもいったん、今の形を作っているモノをばらして、組み直すのだ。使い回すことは考えない。常に、「新しい手」を存在させる、そんな気持ちになってみるといい。
 
 
実は手をひっくり返す、という動きはこの壊して、作る、という作業をいつも行っているのではないかと思う。
魚の群が向きを変えるのも、しっかりとしたリーダーがそこに必要な訳ではなさそうだ。
抑えられている状態で手をひっくり返すとき、相手の力がたくさんある手首の骨のどれかにかかってくる。
それでも、他のモノで対応し、新しい手を作ることはそれほど、苦にならない。
むしろ、普通に移動をさせようとしてまったく希望が持てなかった状態でも、意外と普通に返すことが出来るようになってしまう。
 
 
 
そして、ここでも「習慣」の力がすごい。
しっかり抑えられた手を返す、という事を繰り返し行っていると、アタマが変わってくる。
 
どんなに抑えられても、全く動けなくなる状態ってないんだ、という事に。
 
いつでも動いていたい、それはきっと、どんな人も持っている願いだろう。
その願いが叶うんだ、とわかる経験が意外と簡単なんだよなぁ・・・と言ってもきっと、簡単には信じてくれない。
 
でも、信じない、疑う、そんなスタンスぐらいがきっと、ちょうどいい。
なぜなら、どんなに疑ったとしても、自分の手首、足首を通して動きを感じたとき、自由であり続ける自分を感じられると思うから。
 
 
 
さて、ようやく二つ(笑)。
スピードを上げて説明を続けよう。
次はキャスター系の関節の話。
キャスター系の関節の代表は股関節。あと、わかりにくいかもしれないけど、肩甲骨、手足の指の第三関節、顎の関節もそう。
 
とにかく、キャスターを想像してもらいたい。
自分の身体に高性能なキャスター構造がたくさん、存在しているのだ。
 
外からどんな力を加えられたとしても、するりと流してしまうのがキャスター構造。
タイヤが地面についてさえいれば、力はとどまることなく、流れ続ける。
そして、壁にぶつかるまではひたすら、外の力に従い動き続けるのがキャスター構造だ。
 
 
 
さらに、傾斜がついていれば、その傾斜の力までも自分のモノとして使いこなせてしまうんだから、すごい!
そのすごい構造がこの身体に入っているのだ。
肌の力がそこで完全し、動かないモノとは逆にキャスターの力は重さを持つ、身体を常に動かしてしまう力という事になる。
重さを持つモノが動く、動けば、そこにエネルギーが生まれる。それが、キャスターの持つ力だ。
  
 
 
しかし、この高性能な構造を意識して喜び使っている人は少ない。
持っているのに、使っていないのだ。
これは、これまでの関節の話と全く同じ。自分には出来る力があるのに、それを経験した事がないから、それを認識できない状態なのだ。
 
どんなに力を持っていても、気づいていなければ使えない。
どんな多くの遺産を受け取れるとしても、それを知らなければ、自分は「持っている」という認識にはならない。そんなものかもしれない(笑)。
 
 
 
この世界にはたくさんのストレスがある。
人間関係が複雑になり、たくさんの力を得たことで、そこから生じる様々な負の問題もそう。そもそも、この身体自体、壊れ続けるという負の面を持っている。
そのあらゆる力も身体が持つキャスター構造に任せてしまえば、動きに変えられる、それを学ぶ事ができるようになる。
 
どんなに強い力で押されたとしても、クルリと回せば力は逃げる。ダメージはゼロ。
理想をそこに置いたとしても、それを実現する構造がなければ、もちろん、叶わない。しかし、それを実現するための構造はもう、ちゃんと、この体の中に有るのだ。
それがわかってくると、自信を持たないわけには行かなくなる(笑)。
 
私のアタマはいつも、疑いを投げかけてくる。
自分には出来るはずがない・・・って。
でも、身体を通してのたくさんの経験に照らし合わせてみると、なんとかなっちゃうんじゃないかなぁ、って答えの方が強くなるのだ。
 
結果的に気持ちが楽になって、前を向くしかなくなるんだけど、最初から前を向こうと気持ちだけで立ち向かっている場合とでは全く意味が違ってくる。
前向き、ポジティブシンキングには同意をするけど、それは「結果的」な時だけ。根っこにネガティブを持っている人はやめた方がいい。根っこにある意識は必ず芽を出し、苦しめにくるから。
 
 
 
 
実は最後の「意識」の力と関節ってのにはまだ、すこし、納得にまでたどり着いていない。
股関節、膝関節、足首関節に関して言うと、自分の中で納得がいき、この時点では間違いのない事。どんなに人に言われても、自分の中で体験、という確信がある。
どこにもそんな理論が有るわけではないけど、自分の身体で確かめた、心地よく、軽やかに動くために必要な事だ。
 
身体の事が分かれば分かるほど、昔からの言い伝えのお作法が非常に大切だったことが分かる。どうやら、私たちは便利な機械やサービスによって楽に生きていく事ができるようになったけど、それらを失った瞬間、なにも出来ない人になってしまうリスキーな生き方をしてしまっているみたいだ。
 
世の中に便利なモノや仕組みが無かった時代は、自分自身に頼ることでしか幸せになれなかったのだろう。
そして、自分に目を向け、求めてみた事でみつかった様々なことをお作法として色々と残してくれていたはず。
機械によって効率化が進む中でどんどんと切り捨てられていくお作法だけども、まだ、私たちにはちゃんと、身体が存在している。
この身体がここにあるまでは、いつでも、その力を借りることができるはずだ。
 
 
 
 
もしかしたら機械やサービスでは解決できない問題に直面した人から順番に身体への信頼を取り戻していくのかもしれない。
武術を必要とする場面は常に、不便な場面。だからこそ、身体に意識を向けることができる。
 
甲野先生に出会う前、とにかく、鈍くて、身体の感覚どころか、手順もろくに覚えられない私が今、こうして自分の身体を通して楽しく暮らせるようになったのは、こんな考え方の変化があったから。
出来なかった自分をよくしっているからこそ、自信を持って言える。
誰でも、自分はいつでも動くことができ、何者にも壊されない存在でいられるんだって気持ちになれるって事を。 
 
 
 
きっと、この感覚を確かにするのは「背骨」。
命の元に限りなく近い背骨が動き、勢いを出し続けられるって分かったとき、また、言葉にしていこうと思う。
 
 
 
 
さて、このあたりで今日はいったん締めることにしよう。
身体の感覚をどう言葉にして伝えていけばいいのか、できないからこそ、試行錯誤でやっていくだけ。
ながながとおつきあい、ありがとうございました。
 
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