今日は見方についてのお話をしたいと思います。
モノの見方が大きく変わった、というのはお伝えしました。興味のあるモノと興味のあるモノの間に興味のないモノがあった、というお話でした。
言葉にすると単純な事も、私にとっては大変な事だったんです。だって、今まで見えてなかったモノとは「存在しない」事と同じなんですから。
この慣れないモノの見方はまだ自分のモノにはなっていません。スイッチを切り替えるように意識をしないと「見えません」。
それでも少しずつ早くなっている気がします。今みたいな時って楽しいんです。きっとできない自分よりも出来そうな自分に興味が向いてるからからだと思います。
さて、味方の話を進めて行きたいと思います。今日、ある「旗」が気になりました。子ども110番、というのぼりです。
最近はのぼりだらけですよね。どこのお店にも大抵のぼりが立っています。気になった「子ども110番」ののぼりは、その他多くののぼりとなにも変わりません。材質もデザインも。すぐ近くのお店には「おでん」と「入居者募集」ののぼりがありました。
同じのぼりでも「子ども110番」ののぼりは他のぼりとなんか違う、そう思ったんです。なにかが、違う。
じっと、そののぼりをみて思いました。そうか、見ている場所が違うんだ!同じように立っているのぼりも「誰に」、という視点が違うとなにかが変わるんですね。
お店でよく見かけるのぼりは「お客さんにきてもらいたいから」立っています。お客さんのために、と言うよりは経営者の都合何じゃないかなぁ・・・と。
でも、子ども110番ののぼりは「子供達になにかあったらここに来たらいいよ!」と言う事を「伝えている」ように見えます。伝えている訳ですから、当然見えなくてはいけません。とっても見やすいところに、しかもまっすぐ、きれいに立っていました。
でも、おでんののぼりはどうも、そんな気がしない。ただ、そこにあるだけ。それこそ、本部が用意をしてくれたのぼりをただ、立てただけ、そんな感じです。
これ、中身の話しじゃないんですよ。おでんがダメで子ども110番がすごい訳じゃないんです。
子ども110番ののぼりでも、あなた役員でしょ、と子供達の事を考えずに、ただ役目だから、という気持ちで立てれば、コンビニで見たおでんののぼりと変わらないと思うんです。
逆に、おでんののぼりも、今日みたいに寒い日にあったかいおでんを食べたら元気が出るだろうなぁー、と考えて、お客さんが見やすいところ考えて、立てたら違ってくる気がします。
でも、どうやら多くののぼりはお客さんのためにと言うよりも、自分の事を考えているように思います。だって、汚れているのぼりも平気で出ていたり、力なく倒れているようなのぼりも多いですから。
こののぼりを人と同じと考えると面白いです。
先日、連鎖の話しを書きました。悪意も善意も連鎖すると。
伝えたかったのは「気がついていないけど、相手の力、例えば元気みたいなモノを奪っているかもしれないよ」、と言うことです。
例えば自分が今ココにいる時、誰にも迷惑をかけていないと思っているとします。でも、それを見ている誰かがいたらどうですか?
その時の姿勢が力無く、倒れそうなら、大丈夫かなぁー、と心配させてしまうし、真っ黒で汚れているのなら、それだけで嫌な思いを持たせてしまうかもしれません。
のぼりも同じ役目があるかもしれません。どんなに上手に、きれいに出来ていても、ここに置けばいいんだろう、とあればダメですよね。
この時、のぼりの置き方まで、細かく指示があればいいかもしれませんが、のぼりはその一例です。お店にある、看板、ポスター、レイアウト、接客…あまり細かく指示だらけになれば働く側の息が詰まります。
厳しい指示も、少しの間は続くんです。でも、ずっとは続きません。結果を最短距離で求めたい気持ちもわかりますが、結果としてそうなるようにしていかなくてはいけないんだろうなぁ、と思います。
重要な事ですが、答え合わせはいりません。子ども110番ののぼりをみて、思いがこもっている、と感じましたが、立てている人はなにも考えずに立てているかもしれませんから。ただ、目に見えるものだけが全てではなく、それ以外のものがある、という事が大切なんです。
話を変えてもいいですか?自分自身の見方です。自分のいいところ、ダメなところ。いくつあげられるでしょうか?
これまで私は自分の長所をあげるのは苦手でした。自信を持って言えるものはあまりありませんでした。
でも、それは大間違い!大変な間違いをしていました。みんなはどうですか?自分のすごいところってちゃんとわかっていますか?
稽古を通して見えて来たのは自分の身体をうまく使っていない、という事です。決して、自分がダメな訳ではありませんでした。指の力、手のひらの力、手首の力、全部集めたら大変な事になります。
それらの力をうまくまとめきれなかっただけだったんだ、と思うようになりました。そういう話しはこれまでも何度も話して来ました。
でも、すごいのはそれだけじゃないんです。私たちの身体は傷ができると勝手にそれを治してくれます。かさぶたになり、時間が来れば自然にそれが取れてまたきれいな皮膚が出来上がります。
手足があって、指があり、目を通して世界を見る事ができ、匂いも音も感じる事ができます。食べ物を食べると身体が勝手にそれを分解して栄養に変えて、明日を生きる力にしてくれますよね。
そういう「すごさ」って履歴書には書きません(笑)。でも、書いてみたい!よくわかんないのですが、傷が治っちゃうし、栄養も取り込んでしまいます・・・って。そんなすごいカラダが当たり前だと思っているから、自分のすごさを見逃してしまうんでしょうか。
お互い褒めあって稽古する、ってのはちょっとやりにくいですが、相手をすごいと思って稽古するというのは大切な気がします。
大切なので、もう一度言います。身体がやってくれている事ってすごいんです!
そしてその身体って一体「誰」なんでしょう?
自分ですよね。カラダも自分です。でも、自分のカラダが嫌いな人ってたくさんいます。すごいところを認めないで、こんな顔で生まれてきたくなかったとかね。僕も文句ばっかり言ってました(笑)。
でも、もう、自分はダメだ、なんて言葉言えないかもしれません。すごい自分がすぐそこにいる事がわかったんですから。
すごい自分がいると思って稽古をするのと、ダメな自分が稽古をしている、と思って稽古するのとどう違うのか、ためして見たいと思います。もしよければ一緒にためして下さいね。
ありがとうございました。