【思考実験】

子供の自由さを手に入れるには

昨日、久しぶりの鳴海の中日文化センターでの講座の事です。
休み前の復習で肘を原点に肩へと入り込む力の流れと、指先へと流れていく力を確認してもらいました。
それを意識してもらった時には出来る動きも、休みがあいてしまうと、つい、いつのまに、今までどおりの動きに戻っていきます。
今までの動きと言うのは流れのない動き、つまり、ゼロ次元、点のレベルです。
 
 
 
点の次元で自分の身体を認識している時、ぶつかった問題を解決しようとすると、その点の大きさを拡大していくしかありません。
単純に筋力を増やそう、と考えてしまうわけです。
 
 
 
意識すれば「できる」のに、いつの間にか、「出来なくなっている」。これは、普段の自分の見方の問題です。線を意識する事は出来ても、無意識には点にフォーカスしているんですね。
もし、現在の生活の中で、大きく力の要る道具を使って生活をしなくてはいけなければ、点から線(流れ)の力を使う事を認識せざるを得ないと思いますが、私たちの目の前にあるたくさんの便利な機械は指先一つで、いや、すでに、自動的に、動いてくれるようになってしまいました。
つまり、わずかな力でも求めていた働きを得る事が出来るようになってしまったのです。
点の次元の動きのままでも、機械やサービスのおかげで快適に生活していけれますから、苦労というものがなくなってしまったんです。
 
 
 
点から線へと認識の次元を上げるには、「線の動きを必要にならなければ」いけません。
必要のないものを私たちは排除していく傾向があると思うんです。
とは言っても、これだけ便利になった社会をまた、壊す、というのも無茶な話ですよね。
では、どうすれば、自分にとって「必要」となるのか・・・。
それは、線で動いた時の「感じ」を「気持ちがいい」、と思えればいいのはないでしょうか?
 
 
 
肘から先へと力を流して動いている時、なぜか、「懐かしさ」を感じていたんです。
なぜだろう?と考えながら稽古をしてきたのですが、この外へ力を発散させていく動き方は子供の動き方なのではないだろか?と考えるようになりました。
 
 
 
子供たちはいつも「ありのままの自分」ですよね。
難しい事をしているわけではないのに、楽しそうですし、集中力がすごいです。
しかし、その簡単な事を大人がまねをしようとしても、なかなか集中する事ができません。
 
 
 
肘から外へと力を出している時、身体の中に気になる部分がなくなっていきます。
結果として、自分の心の中に「詰まる」ところがなくなります。
身体の外にはたくさんのものがありますが、それは全て、外にあるものです。
外にあるものは「詰まり」としてではなく、「興味」として捉えられるのかもしれませんね。
 
 
 
子供の頃を思い出してみてください。
ちっとも戻りたくない、と思われる人もいるかもしれません。
しかし、どんなに周りの環境が変わっても、そこを「ありのまま」に受け取れ、生きていくことが出来る子供たちの強さは大人にとっては憧れにならないでしょうか?
肘から先へと力を外へと出した時、子供の頃の伸び伸びとした感覚に戻ります。
そこにいつも、戻りたい、伸び伸びと生きて行きたい、と思えるのならば、肘から外へと力を出していく動き方は「必要」になります。
どんな事ができるのか、という事だけに依存するのではなく、自分の中の「気持ちよさ」を強く求める事も、上達の要因になるかもしれませんね。

価値観がヤバイ

昨年の地震はもちろんですが、今年に入っても自然の力の大きさ、人の力の小ささを思い知らされていますね。
GW最後には竜巻までも起こってしまいました。
たくさんの被害がでた事で、ようやく、私たちの意識はそこに集中します。
 
 
 
さて、今、私たちはなにが、どうなれば、幸せなんでしょうね。
 
 
 
先日、名古屋地方の深夜に「エンロン事件」の映画が放送されていました。
世界一ともいえる企業の破産事件です。
2001年の出来事なんですね。当時は全く、自分とは関係がない世界の話だと思っていたのか、まるで、実感のないニュースでした。
 
しかし、今、私たちの誰もが、今のままの社会でいいのか?という問いを突きつけられているような気がしませんか?
 
 
 
その問いとはもちろん、資本主義です。
 
 
 
フランスの大統領が変わるそうです。相変わらず、ギリシャは不安定です。いや、元気のよかった中国もいい話ばかりではなさそうですし、このままでいい場所というのはないのかもしれませんね。
 
 
 
資本主義ってのはなんでしょうね。
そんな事を考えるのは学者の仕事で、自分には縁のない話だと思っていました。
資本主義から新しい資本主義へと変わっている途中が「今」なんだ、と言われる方もいます。
 
難しい事は分かりませんが、考えておかなくてはいけない事があります。
 
 
 
それは、自分にとって一番、大切なのはなんだ?
という事です。
 
 
 
もちろん、お金は大切です。
資本主義はそのお金をものさしに考え、シンプルにそれを突き進めてきたんでしょう。
しかし、針が振り切れそうになったのか、このままではよくないかもしれないぞ、という事を考えさせるようになったのかもしれません。
こういう時でなければ、自分の生き方を考える事もないかもしれません。
もしかしたら、数十年後、今、この瞬間の決断が非常に重要な意味を持つかもしれませんね。
 
 
 
 
私たちは常に、なにかをモノサシにしなくては生きていけないのでしょう。
それが、お金や学歴、肩書きというのもモノサシの一つだったのかもしれませんね。
生まれてからこれまで、そういった自分にとってのモノサシについて考える機会を与えてもらった事があるでしょうか?
私は子供の頃から少林寺拳法を学んでいます。
少林寺拳法の開祖の教えに「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という言葉があります。
この教えが私の中での大きな指針となっています。
 
 
 
しかし、大人になり、働き、お金を稼ぐようになると、なかなか、それをどう、社会の中で生かしていくのかが難しい事も知るようになりました。
会社からの指示、命令にはなかなか逆らえません。
また、社会的な動きに対してもそうです。
この時代に科学的な進歩を捨てて、エネルギーを使わない社会へ向かう事は許されません。
もし、それを本気で求めていくとなると、相当な覚悟を要求されます。
 
 
 
頭だけを納得させるのであれば、いくらでもそれを正当化する理由は作れます。
しかし、身体は「絶対に」納得しません。
その身体が納得しないままに生き続ける事は誰も、求めていないはずです。
しかし、どう、身体を納得させるのか、その方法を失ってしまいました。
 
 
 
 
なぜ、こんな事になってしまったのか・・・。
理由の一つはあまりにも、この時代が便利になってしまったからだと思います。
便利になり、身体を動かす機会をなくしてしまったのです。
身体を使うというのは「経験」をする、という事です。
現代は「経験」無く、「知識」を簡単に手に入れられる時代なのです。
こんな時代は今まで無かったはずです。
人類史上初、ですよ。
 
 
 
経験を得るには簡単です。
私たちは生きているだけで、たくさんの経験をしているからです。
しかし、「経験は身体の感覚」です。身体の経験の中にはつらい事もあります。いや、つらいものばかりかもしれません。
それを嫌って、頭の中で快楽を得られるように、生活をバーチャル化させてきました。
経験が大切なはずなのに、つい、「刺激」に対して、「反射」してしまいます。
ちょっときつい事があれば、それを無かった事にしようと、楽しさを求めてしまうんです。
これが、よくない。経験できなくなってしまうから。
 
 
 
身体に生まれる痛みや苦しみを学び、経験値に変えることができれば、生き方がガラリと変わっていくでしょう。
私はそれに、17年前に気づき、今日まできました。
 
ただ、運がよかっただけですけど。
技を受け、面白いように崩れ、不思議な技がこの世に存在するんだ、という事を体験できたからです。
その後、ずっと、楽しく過ごして来る事ができました。
 
 
 
気がつけば、この身体、身体感覚がモノサシになっていたんです。
もちろん、現代的な幸せも欲しています。
ただ、身体感覚があることに気づき、根を張る事ができて、なにがあっても、この身体が感じる喜びに戻ってこれる自信を得る事が出来ました。
 
  
 
身体さえあれば、誰でも、この身体感覚に気づく事ができるはずです。
私はこの「一人一人がもつ身体感覚」がモノサシになればなぁ、と思っています。
夢物語で、青臭く思えるかもしれませんが、私自身がまず、それを信じていなければなにも始まらないだろうなぁ、と思います。
 
 
 
 
ついつい、難しいテーマに手を出してしまいました。
また、次回につなげさせてください。
 
 

半眼の話

疲れていたせいか、朝起きるのがつらい。
寝ぼけながら布団の中であれこれ考えていました。
こんな気づき方でいいのかわかりませんが、ふと、「半眼」についてハッとする事がありました。考えてみれば、目を開けたくても開けられない状態。自然半眼状態ですもんね。
 
 
 
それにしても、改めて、いつでもこんな事(武術・体の事)を考えているんだなぁ、と我ながら感心しました。夢にまで出るってのもあながちウソではないかもしれません(笑)。
 
 
 
 
さて、本題の半眼なんですが、言葉は知っていて、座禅の時など、それを意識して構えたりはするものの、一体「なにが」必要で、この目の形にしなくてはいけないのか、今ひとつ、分からず終いでした。
 
 
その分からなかった意味に気がついた、と言っていいのかな?
しっかりと目を開けている時、その時目に入ってくるものは全て、左や右、上と下など、「分かれている」ものばかりです。
分かれているからこそ、その分かれているものをどう使おうかと、頭の中で自然と考えが生まれてきます。
その考えの先に「直線」を見つけ、左手から生まれた力を右手へと流していくにはどうすればいいのか、と工夫が出来るのです。
 
 
 
 
自分の中に生まれた工夫は必ず、結果を持ってきます。
うまくいかない場合もあれば、うまくいき効果を発揮する時があります。
しかし、これが曲者。
工夫して、効果が出てくると、うれしいものですが、それは「今のレベル」だからこそ、生まれてくる工夫であり、効果なんです。
もし、もっと上のレベルの状態に自分がいれば、そんな工夫をしよう、とも考えないはずですからね。
 
 
 
そういう上の状態に移る事を「創発」とお話もしましたが、その上の状態へと今のレベルのままいく「お試し期間」が半眼なのかもしれません。
 
 
 
ちょっとややこしくなっていますが、今日、気づいた事を「そのまま」お話しますね。
 
半眼状態のときに、肘から先へと力を流す事を考えました。
肘から先へといつもよりも気持ちよく、力が流れていく実感があります。
頑張って目を開けて、どう肘が働いているかを見てみると、とたんに力が指先で止まってしまうんです。
目に入る「直接の身体」が壁になり、邪魔をしているんだ、と思いました。
 
 
 
また、改めて、半眼状態に戻りうつらうつら・・・。
やはり先ほどとは比べ物にならないほど、直線が意識できます。
その直線がなかなか消えないんですね。
消えない直線をすこし、遊んでみると、3本の直線で三角形が作れます。
イメージの中で作った三角形ですが、これも、なかなか消えません。
 
 
 
もう一度、目を開け、手を動かしながら、感覚の中で三角形を作ってみても、やはり、目の前にある「2本の手」に意識が集まり、すぐに、三角形はなくなってしまいます。
 
 
 
 
心の中に思い描いた形、姿、理想が目を開けていると崩れてしまうんですね。
当たり前と言えば当たり前。しかし、こういうことをひとつひとつ、自分の身で経験しなければ、やはり、わかりません。
 
 
 
感覚で作った三角形を壊さないように目を半眼にし、布団から起き、歩いてみました。
足元には体重がかかり、親指や踵に体重が偏るたびに、バランスが崩れ、気になるはずなのに、心の中にある三角形はその外圧をうまく、流している感じです。
 
外から来る力をどう流すか、というのは武術において非常に大切ですが、そこに大きなヒントを見つけました。
 
 
 
単純に目を瞑って歩こうと思っても、怖さが先にやってきて動けません。
しかし、半眼は辛うじて、見えるわけです。
最低限の情報は自分の中に入ってきますが、それ以上のものは入ってきません。
だからこそ、自分の内側に集中したままでいられるようです。
 
 
 
 
以上が「たまたま」気づいた半眼の気づきです。
さて、どんな変化をもたらせてくれるのか・・・、また、報告しますね。

3角形の話

GWもいよいよ最終日です。
しかし、これだけサービス業がメインになった社会に休息なんてあるのかな?
 
先日、ニトリさんで息子のためのシステムベッドを買いました。
さすがに人気のニトリさんです。配達は1週間後で、ちょうど、GWの始まりでした。
 
配達に来られたのは二人の若い男性です。
2階にまで上げてもらって、そこで組み立ててもらうまでが仕事だったんですが、チラッとトラックの中をのぞくと、山のような家具が・・・。
聞くと、その日「14件」もの商品を配達し、組み立てるそうです。
いや~すごい!お疲れ様です。
 
 
 
 
仕事の形もこれから、どんどん変わっていくんでしょう。
特に、インターネットをメインに仕事をされている方はまず、休みがありません。
休みがない、というよりも、生活全てがなにかにつながっている、というのを感じませんか?
 
 
 
三角形の意味、というのを考えていました。
最近ずっと興味のある宇宙、次元、理論、というのを考えてきて、1次元の直線に自分なりに身体で表現できるようになってきて、自然と気持ちは「次」へと向かっています。
直線の次、というのが面、三角形です。
 
 
 
以前、首の7番を操作する事によって、左右のバランスが取れ、強くなる、というのを見つけました。
その時、身体の中に3角形が感じられ、やはり、バランスなんだな、と思いを強くしました。
身体にとっての3角形の要素を簡単です。「具体的」なものがありますからね。しかし、生活という抽象的なものに対しての3つの要素はなにを選択するのかで違ってきます。
どうとればいいのかな?と考えていたんです。
 
 
 
 
ふと、仕事、プライベート、睡眠、というのはどうだろう?と浮かびました。
時間で区切ってみると、なんとなく、うまくいきそうな気がします。
しかし、現在は24時間仕事ができる時代です。
フェイスブックなどネットが進化し、一人静かになれるプライベート時間と言うのも減っています。
睡眠時間も減っていますよね。上手な眠り方というのがノウハウになってしまう時代です。
 
 
 
 
つまり、仕事もプライベートもどんどんその境界線を越えて、拡大しつつあります。
このまま、バランスをとれずにいると、当然、どこかで崩れを持ってきてしまうはず。
 
 
 
ここで、武術的感覚です。
大切なのはなにか?
仕事でも、プライベートでも、睡眠でもありません。
 
 
 
 
どんなに一人静かに心落ち着ける時間が持てても、仕事がなければ、生活できません。
そして仕事がどんなに順調で、お金もたくさん入ってきても、心静かにできる時間と場所がなければ、いずれ、身体か心を壊します。
 
 
 
もしかしたら、睡眠というのがそのバランスをとってくれていたのかもしれませんね。
しかし、よく分からない睡眠に任せてしまう、というのも怖いですよね。
 
 
 
 
大切なのはなにか?
仕事でもプライベートでも睡眠でもありません。
 
 
大切なのはその「バランス」です。
 
 
 
3角形は作れているのか?
どうしても、一つ一つの「点」に意識が向いてしまいます。
ちょっと、視点を引いてみて、「全体」を観察してみましょう。
 
 
 
点だけを見ている人にはバランスは理解できません。
当然、他の人との間に溝を作るかもしれません。
それも自分のものとして、バランスをどうとるのか、と考えてみてください。
 
 
 
自分のバランスを整えてくれるものってまだ、ありませんからね。
まずは自分が自分のスペシャリストになる事が一番の近道に思えます。

左手と右手の話

身体に「流れ」がある、というのはずっと前から分かっていました。
ただ、そこに「方向」があるとは思いもしなかったんです。
そもそも動きがなかったところに突然流れが見つかり、世界が拡がったんですから、それで十分楽しかったんですね。
それが、一方向だけではなく。反対側にもあったとは・・・。
「次元」として考えていけば想像する事も出来たかもしれませんが、まさか、こんなにも身体が数学や物理のようなものと関係が深いとは思いもしませんでした。
 
 
 
 
それまでの私の身体は内向きへの力ばかりでした。
外から入ってきた力は常に、内向き、つまり、背骨や腰に入ってきました。
そして、その入ってきた力を使う事を一番の方法だと思っていたのです。
 
 
 
今、その反対側、つまり、指先側へと力が流れ、相手に渡す方法があったんです。
反対側を使う事でどんな事が起こるかといえば、なにより、衝突しにくい、という効果があります。
 
 
 
相手に力が向かうのに、衝突しにくい?
伝わりにくい言葉に聞こえるかもしれませんが、こう、考えてみてください。
外に出て行く力は全て、「プレゼント」のようなものなのです。
普段、衝突だと思っているのは、力同士がぶつかっているのではなく、お互いの奪われたくないものを引き合っている力なんです。
それに対して、外へと出て行く力は、プレゼント、ギフトです。
自分の事を思って贈られたプレゼントはたとえそれが自分にとって気に入らないもの、必要のないものであっても、つい、受け取ってしまいます。
「モノ」そのものよりも、贈ってくれる「気持ち」がうれしいからです。
特に、日本人はそうですよね。
 
 
 
 
この原理(と言っていいのかは分かりませんが(笑))が武術の中でも生きてきます。
なるほど、先人が愛を持って戦うなど、教えの中に愛や調和といった優しい言葉を入れたのも納得です。
 
 
 
さて、左手と右手の話でした。
内向きに使っていた時、相手の力が左から入っても、右から入っても、内向きですから、たどり着くのは背骨や腰、腹です。
体幹部を鍛えようと意識しているアスリートはその内向きの力の行き着く先の感覚が鋭いんでしょう。
乱暴な言い方ですが、左でも、右でもそれが気にならないほど、身体に入れるので、ある意味左と右が統一されます。
 
 
 
 
外向きの力は正反対です。
左手から外へと出て行くとき、右手は寂しいです。やる事がないですから。
 
 
 
そんな時、ふと、抑えられている手とは反対の手がすぅ~と動いたんです。
その時動いた手は普段どおりですから「内向き」でした。
内向きに動いた手から生まれた力が身体の中心に届いた時、今度は押さえられている手のほうから「外へ」と、力が流れていったんです。
 
 
 
改めて考えてみると不思議さはないのですが、具体的な「技」として考えてみると、とっても不思議です。
なぜなら、抑えられている手を何とかしようと考えた時、必要になるのは、正反対の手を動かす事なんですから。
 
 
 
もし、これが日常の生活の中でおきるトラブルの場面だとしたらどうでしょう。
目の前に困った相手がいます。
その人を何とかしたいと思いますよね。
でも、その時、自分がつい、内向きになったりしていませんか?
無償の愛、なんて言葉がありますが、まさに、それはプレゼント、ギフトの心です。
でも、なかなかそれを体現するのって難しくって、つい、自己保身が入り込んできます。
 
 
 
まぁ、何とか、ギフトモードになれたとします。
そして、次に必要なのは、その困った状況とは正反対のところで動きを出す事なんです。
これ、何でしょうね?
まだ、よく分かりません。
もう、ちょっとで、なにか気づけそうな気もするんですけど・・・。
 
 
 
 
関係ないような話に聞こえるかもしれませんが、これが、武術を現代に生かす基本パターンです。
武術を通して、そこに原理、原則を見つけるんです。
「うん」と納得する事ができれば、その原理を信じていけば、強く生きていけるようになりますもんね。
 
 
 
今考えているのは左手と右手を結ぶこの身体がより、レベルの高い「伝導体」になる事かな、と思っています。
左手や右手、それぞれでなにかをするのではなく、この二つをうまく組み合わせる事が大きな力を生み出していくんではないかと思うんです。
まぁ、分かりませんけどね(笑)。
身体を通して分かった時、動きが変わり、技が変わるので、その時まで笑いながら、待つことにします。