心と体

カラダの受身、ココロの受身

 おはようございます。

 あれだけ暑かったのに、昨日は雨の影響もあって涼しさを感じる事ができまして。それでも道場でココロを集中して稽古していると汗がじわっとでてきます。眠るときでもこれまで布団も要らなかったのが、朝方などはなんか寒い・・・体調を壊してはいけないなぁ、と思っていたら鼻水が出てきてるし・・・う~ん、カラダは正直です^^

 昨日の定例稽古は胸鎖関節をテーマに研究を進めました。前日に胸鎖関節の働きとして受身があるのではないかと気づき、受身を通して稽古をしてみました。受身は一人で稽古できるので、家でなにをしたら良いのか、という悩みを持っている人の手がかりになりそうです。

 受身というとなんだか敷居が高いですが、動けなくなったときにどう動くか、だと思ってください。例えば転んで怪我をするのは、転んだときにカラダが固まってしまうから。衝撃が逃げないんですね。動きを止めない、固めない、というのは稽古を始めたときからのテーマでしたが、どこまでできれば合格なのかがよくわからないんです。自分の中の「のびのび」さがよくわかりません。昨日の受身からこれまで「のびのび」を求めて稽古してきたけれども全然足りていなかった、という事がよくわかりました。

 稽古の仕方は簡単です。受身というよりも寝返りをうつ程度でもかまいません。左右に寝返りをうってみると、背中がついたときにちょっと動きが止まります。もしこれが1メートル上から落ちてきたと考えてみると、痛そうです^^その圧力が出てきた時にどう動くか・・・普通の使い方では体重が動く事はありません。そのまま落ちていくだけです。でもこの状態であっても胸鎖関節は動くんですね。つまりくるりと胸鎖関節を動かしてみると、カラダ全体が自然とくるりと回ります。

 寝返りを続ける事が、受身の稽古になっちゃうんです。ちょっと今日は細かい話になってしまいましたが、これも目で見てやってみれば簡単です。変な稽古ですが(笑)寝転んでなにやっているんだろう・・・そんな感じでしょうか^^

 カラダが動かない、ということで考えてみると、普段私たちは色んなものに縛られています。それは約束とか、責任とか、夢や希望にも縛られているかもしれません。ストレスをカラダが感じると、それだけ動きが止まります。なかなか動く事ができません。こういう状態は実際にカラダを抑えられているときと同じなんです。激突する瞬間にカラダが固まるような状態です。問題を突きつけられて、カラダを固めてしまえば、その問題に押しつぶされてしまい、ココロが怪我をしてしまうかもしれません。

 カラダが動くという事はココロも動くということです。苦しい状況で足は動かなくても、胸鎖関節のように深いところにあるものは動きます。カラダを通して受身を学び、ココロでも受身が取れるようになれば良いですよね。なぜ今の時代に「武術」をわざわざ稽古するのか、そんな事がちょっとわかった気がします^^今度丁寧に稽古しますからね。

 分からない事、気になった事があればメールください。

 jun@karadalab.com

発想の転換

昨日面白い感覚があったので報告します。今日はちょっと「技術」的です。僕的にはココロも十分に技術的なんですが、どうしても言葉にするとあやふやになってしまうので、今日はしっかり「カラダ」を意識して書いてみますね。

状況で言えば、ベッドに座っている人を車椅子に移動させたい時の技です。色々な方の話を聞いていると、人によって、施設によって「方法」は違うようです。当たり前ですよね、移動させる人、移動される人、みな同じではありません。体格差、カラダの状況、全部違ってきます。ですからこれから紹介する技も、これが「正しい」というわけではありません。参考程度で聞いてください。

見た目の形としては座っている人を立たせずに、そのまま抱えて向きをかえ、イスに移動しているように見えます。目で見た動きをそのまま行おうとすると、手で「上げたく」なってきます。でも上げてしまえば、やっぱり「重い」です。大切なのは上げない事。でも目で見ると、上げているように見えるので、上げたくなる。このギャップをどう埋めるかがポイントみたいですね。

これまでも「似たような」動きで工夫をしてきましたが、これほど「上げない」ですむとは思いもよりませんでした。実際に技として形になってみれば、どうして気づかなかったかな?と思えますが、仕方ありません(笑)

上げずにどうすれば抱えた形を作れるかと考えてみると、「相手よりも小さくなる」しかありません。正座をして相手の正面(少し角度をつけたほうがいい時もあります)に座り、相手のわきの下に自分の頭を入れカラダを少し前に倒しながら肩に乗せる様な感じで体重をこちらへ少しずつ移動させます。

ココからがポイントです。肩に乗ってきた相手の体重を感じながら、自分がもう一段「小さく」なってみましょう。肩で支えていたのが背中に移ってくるように意識してください。自分は小さく丸まるようになってもいいので、とにかく「小さく」なります。しっかりと相手の体重をもらうことができると、相手のお尻が浮いてきます。この時手で少し誘いをかけてもいいですが、決して力で上げてはいけません。

浮いてくればイスの方向へと自分のカラダ全体が向き変われば、後は腰を下ろしてもらうだけです。相手の体が前へと倒れる事で、お尻が浮き、そのままの形で向き変わり、ゆっくりとお尻を下ろしてもらいます。それだけの動きで上げることなく移動する事ができます。

上から(自分は立ったまま)という形にこだわってしまえば、どうしても相手を引き上げなくてはいけません。いかに楽に出来るか、負担をなくすかと言う事を第一に考えて工夫をすればまだまだ変わって行きそうです。講座では「手順」を伝えて技ができるようになる事を第一にはしていません。色々な技を通して発想を転換する楽しさを知ってもらいと思っています。

今介護を必要としない男性陣にも「発想をかえる」と言う点ではパズルのように楽しいと思います。力の強い男性はどうしても自分の力に頼ってしまいますから。もう「手はつかわない」それぐらいの気持ちで向かってみてもいいかもしれませんね。

目で見れば、体感すればすぐの事もやっぱり「言葉」にすればこれでも足らないぐらいです^^なにげない言葉で落ち込んじゃう事も多いですが、うまく使えば言葉で気持ちよくさせる事も簡単なはずです^^言葉に振り回されないようにしたいですね。そのためには言葉を「感じる」ことが必要なのかなぁと思っています。また意見を聞かせてください。

ありがとう

昨年、中日文化センターの方から「古武術の講座」を依頼され時、自分が伝えたい事が、「講座」という形で伝える事ができるだろうか・・・と考えました。というのも、普段の私のスタイルというのはカリキュラムのようなものがないからです。常に今の自分に必要なもの、求めているものはなんだろう・・・と問いかけながらしているからです。

普段の稽古というのは時間も自由、内容も自由、自由だからこそ「自分は何を?」という事が求められます。それに対して、文化センターの講座では時間が定められていますから、始まるまではとても不安でした。求められている事も「介護の技」が中心だという事もわかっていましたから。

技としての「手順」を伝えるだけなら、カリキュラムを作って伝える事のほうが有効かもしれません。ただそれでは「自分が変わる」という事が伝わらないと考えたのです。自分が「技」を学ぼうと思っていた時には全然上達しなかったからかもしれませんが。

「技」を学ぶのではなく、自分を観る、という事が大切だと知ってからは常に発見の連続、甲野先生がよく言われるように「スランプ」はなくなりました。誰かと競い合う事で、自分を見つけるのではなく、今の自分の殻を破りつづける事で自分というものを考えて欲しかったのです。だからこそスタイルを変えずに「カリキュラムを作らないまま」で講座をスタートさせました。

不安の中ではじめた文化センターでの講座でしたが、そこで大きな出会いがいくつもありました。自分が伝えたい事は、言葉ではなく、姿勢で伝わっていくことが分かったのです。気がつけば本当に伝えたい事を理解してくれた人もいます。この事実にどれだけ勇気をもらったか分かりません。

勇気をもらうたびに、やはりカラダを通してココロを伝えていこう、という気持ちが強くなってきました。生き方に正解はありません。ただ自分の納得できる道を探すだけです。その時自分のカラダの声、ココロの声が聞こえればどんな結果が生まれてきたとしての、受け入れる事ができるはずです。形だけの強さでなく、そういう人間としての強さを求めて稽古を続けているんですね、一緒にがんばりましょう^^

中日文化センター岡崎での講座

中日文化センター岡崎での講座「古武術に学ぶ身体操法」が始まりました。
どういう宣伝、告知をしたかは分かりませんが、平日のお昼だというのに満席になってしまいました。・・・という事で、急遽2部構成で行うことになりました。

合計で35人ぐらいの講座ですが、内わけがすごい!
女34男1・・・信じられません。

昔々、甲野先生を迎えての稽古会では、「武道系」ばかりだったし、介護への展開が出てきたといっても、男性がやはり中心でした。

時代は変わるものですね。
女性相手の稽古は必然的に柔らかさが求められます。この柔らかな稽古が今私がおこなっている技を伸ばしてくれた大きな要因です。女性でも出来るように、力でなく、感覚を伝える事を第一に考えていたら、自然と余分な力みが消えてしまった気がします。

初めての稽古なので「流れ」をついやってしまいましたが、これは私の中の自信の無さの現われですね(笑)
「それ」をやればよかったのかなぁ^^

「選択」という事

甲野先生に同行させていただいた「若手経営者」への講演会。武術そのものには興味のない人へどのような切り口で話されるのか、じかに感じたくて同行をお願いさせていただきました。

技そのものを「稽古する」会ではないので、いかにその人たちのココロに届かせるのかを見せていただきました。稽古会でも言われていたと思いますが、今の先生の動きというのは「過渡期」だそうです。どう変化していくのか、ご自身でもわからないそうです。

普段は今一番真剣に取り組んでいるものを材料に色々と組み立てていくそうですが、その材料があまりにも「普通の」考えからは飛躍していますからね(翼や蹴りの事です)。この20年ぐらいで一番困った、と言われていました。とはいえ、横で見ているとそんなに困っているようには見えないし、むしろ何かを模索しているようで、楽しそうに見えてしまいましたが・・・。

その講演の中でココロに残ったのは「なにを選択するか」という事。ちょうどその日の午前中、先生の後ろの「それ」を見つけたばかりでしたから、自分が「見る」という事をずっと考えていたからかもしれませんね。

自分が選択するとは、どこから何を見ていくかを決めるという事でしょう。人間は見たいものしか見ないし、聞きたいものしか聞こえない、といいます。「あれを見なさい」といわれても、形そのものをみるのか、その後ろにある考え方をみるのか、その人の中で必要としてしているものしか見えないはずです。

そして世の中では形として現れてこないものばかりですよね。その形として現れてこない不安を「科学的根拠」という所に安心をもとめてしまうように思えます。

まずは自分がみている枠を広げていく事。その広がった中で「なにを」見ていくかを決めていきたいと思いました。カラダからのメッセージは強烈です。その感覚に振り回されてしまうことも多いですが、一つ一つを経験にしていければいいなぁ・・・。