心と体

「怖い」言葉の力

何か新しいカラダの使い方、術理に気がつくと興奮します。この術理を使いこなしたらどうなるんだろうか・・・。夢のような「あの達人」のようになれるんだろうか・・・つい期待してしまう。

今現在で言うと「それ」ですね。この使い方を共有しようと色々とあの手この手で解説をします。決められた「指導法」があるわけではないので、その人に一番伝わりそうな説明をするわけです。

最初興奮気味に説明していた事も、何度も何度も繰り返すうちに自分の中でどんどんと当たり前になっていくわけです。ちょっと「怖いな」と思いました。

何が怖いかといえば、うそもホントになってしまうかもしれない・・・ということ。自己啓発系、願望達成の術を読むと頭は現実と夢とを区別できない、とあります。うそなのかホントなのかを判別せずに全てを無意識は求め続けるのだそうです。

最初「ある」と感じた「それ」がたくさんの人に伝える事で、どんどんと実感になっていくんですね。触れているだけでも、離れていても、そして見ていなくても・・・相手の中心となる「それ」を意識しているのといないのとでは全然その後の対応が違ってきます。

自分の中で生まれてきた実感だったので、大きく育ってきた事を認めることも出来ますが、これが「気」であったり実感の無い「丹田」だったら大変な事です。

あると思って話し続けているうちに、頭の中でどんどんと想像力を膨らませてしまうのかな?自分の実感とはかけ離れて言ってしまうような気がします。能力だけで自分の優劣を決めるのならそれもいいでしょう。ただそれは楽しくないかもしれません。

お金があっても楽しくない、幸せになれない、そういうことを良くききます。今の時代潜在能力を活用させる「マニュアル」はたくさんあります。そこではほぼ100%自分が「できる」事を疑わない、それどころか「できてしまった」事を当たり前として行動しようといわれています。言葉は悪いですが、自分をどんどんとだましていくのかもしれません。

整体協会の野口先生だったと思いますが、ある会で(七夕の会だったかな)願い事は完了形で、ありがとうという形で書くといいですよ、といわれたそうです。そういわれると受講生はみんな書きますよね、自分の願望を。その方法をつかって。

やはり願い事は「自分の事」ばかりだったようです。その時にさりげないく野口先生は来年はもう少し自分以外の人の幸せを願う人が増えればね・・・といわれたそうです。

そんな事を思い出しました。

人としての「器」

ここ数日甲野先生から大きな衝撃を受けた事で、自分の中でも戸惑っています。
何とか伝えたくて言葉にして、書いたもの、話した事を検証してみると、そこに「ズレ」があることに気づきます。違うなぁ・・・そんなことを感じながらも、形にしていかないととの思いがあるので、それを繰り返しています。

ふと成功と失敗について考えました。
成功の反対は失敗といわれますが、現実には失敗ではなくて「行動しないこと」なのかもしれません。この辺りの話は小冊子にも書きましたが、イメージとして浮かんだ事があるので聞いてください。

失敗の一つ一つは「ダメ」なものかもしれません。第三者から見れば役に立たないものばかりでしょう。でもその失敗を繰り返していくといつか必ず成功します。ではこの成功はゴールなのかな?自転車に乗れない子供がいます。彼が失敗を繰り返し、乗れるようになった、それがゴールだとするともっと先の技術は出てきませんね。

成功した、うまくいったと同時に新しい「枠」が広がっているのではないかと感じます。ただこの枠を見ないようにしてしまうと、今の技術で停滞してしまうわけです。「枠」は「器」と言い換えた方がしっくりくるのかな?

例えばこんなイメージです。
大きなビーカーのような容器に小さなボールを入れていきます。一つ一つのボールは失敗です。この失敗が積み重なっていき、あるラインを超えたとき、ビーカーからボールが溢れた時、これが成功です。運良く大きな失敗を乗り越える事が出来たとしたら、一気に成功へと近づくはずです。ただ失敗が積み重なっていく時には怖いでしょうね、やっぱり。

では溢れたボールはどこに行くのか、ビーカーの外にまた一回り大きな容器があるような気がします。これ、人間の器じゃないかなぁ、と。器を広げていくためには、経験が必要です。その経験は失敗を恐れていてはなかなか広がっていきません。どう失敗を楽しく積み重ねていくか、ココが人生が楽しくなるかどうかのポイントではないでしょうか。

生活の中でどこでもこの経験はつめるはずです。
仕事でも学校でも子育てでも、家族間の人間関係でもそうです。それを「武術」という枠で考えてみると、短時間で多くの事を楽しく学べるような気がします。

稽古を通して、自分のカラダが変わり、もてないものが持ち上がったり、今までよりもつよいボールが打てたりというのは結果です。出来ればうれしいですが、それだけを伝えたくてこの仕事を一生の仕事として選んだわけではありません。

ただそれをどう伝えていくか、いつも試行錯誤です^^
失敗のボールを積み重ねている途中です(笑)

カカトを踏む使い方 その4

 では実際にどう「カカト」を意識していくのか。そこを詳しく書いていきましょう。まず大切なのは、カカトを押し出す感覚です。カカト自体は動きませんから、体重をカカトを通して地面へと伝えていく事が必要になります。
 
  「力を入れる」事では体重は生かしきれません。自分の体重が上から下へ降りていくのを感じながら、カカトで着地をしてみます。この時に足首が力まないようにするといいのかな、カカトで地面を引きずるように摩擦力を感じてみましょう。
 
  最初から不慣れなカカトの感覚は分かりづらいですよね。だからこそ、敏感な「手のひら」を使って実験をしてみます。手を開いて、指先をつま先、親指の付け根辺りをカカトとして考えてみましょう。ぺったりと床に手を置いて、指先、手首と交互に体重を乗せてみてください。この時「指のアーチ」を作ってみてもいいですね。
 
  真っ直ぐに降ろすよりも、横に押し出した方が強く地面を押し出せるような気がしませんか?特に親指の付け根は動かしにくいですので、カラダの重さが実感しやすいと思います。カラダの重さが跳ね返ってくるのをしっかりカラダで確認してみてください。しっかりと親指の付け根に体重が乗ると指先が浮いてきませんか。指先の余分な力がこれで抜けてくるはずです。
 
  この手のひらで感じた「跳ね返って来る力」を足の裏で再現してみましょう。カカトをそぉ~っと降ろし、横へ押し出すように重さをかけていきます。「踏む」事を意識しすぎてつま先に力が入ってしまう人は、むりに「踏む」事を意識しなくても大丈夫です。重さが「カカト」から出て行くことを考えてみましょう。
 
  カカトがずれ、地面との間に摩擦力が生まれてきます。下から上へと力が上がってくるのを感じてみましょう。足元から生まれた力が頭を揺らすように・・・ぐっ、ぐっ、と感覚を確かめながら踏んでみてください。
 
  少しずつ跳ね返ってくる重さに身をゆだねるようにして、カラダを飛ばしていきます。いきなり何メートルも飛ばなくていいですからね。最初は10センチでも良いと思います。無理に飛ぼうとするとそれまでの使い方が出てきてしまいますからね。自分のカラダの重さが自分のカラダを飛ばす力になる事を確かめてみてください。

講座・稽古の予定はカラダラボのサイトで

カカトを踏む使い方 その3

 新しいつま先の使い方でできる事が広がりました。最初は左右への飛び出しぐらいにしか使えなかった動きも、検証を続けるうちに、より細かな操作が出来るようになってきます。だんだんと身についてくるようになるんですね。
 
  ひと通り、日常生活の動きや普段稽古している技に応用して、その効果を楽しむとそれまで「楽しかった」つま先の操作の中にも「ものたらない」場所が見えてきます。楽しかった事がつまらなくなるわけですから、損したように思えますが、実はこれが次へのステップへの信号なのです。
 
  自分の中にまた新しいものを見つけてやろう、という気持ちが生まれて来なければ次の成長は無いからです。自分が身につけた技、出来るようになった技を捨てる事はなかなか出来ないかもしれません。私自身もそうでしたからよく分かります。それでもココは声を大きくしてぜひ伝えていきたいところです。
 
  「今のカラダの使い方を手放す事で新しい自分が見えてくる」、という事を。
 
  さてこれほど早くに「つま先」の使い方に物足らなさを感じてきたのは、やはりココロの中で「カカト」をどう使うかが引っかかっていたからでしょう。つま先の動きも今までの中では一番速くて強い動きだったものの、どうしてもこれをこの先何年もずっと稽古していく気にはなれなかったのです。
 
  だからこそ、自分の中の細かな力みが分かったのかもしれません。つま先側だけでは処理しきれない重さに力んでしまっている場所が気になってきたのです。
 
  つま先を意識する事で、「貼りつく」感覚はずいぶんと分かるようになりました。次にする事はこの「貼りつく」感覚を「カカト」で出せないかという事です。カカトをただ降ろすだけでなく、接地してからすこし「押し出す」ようにしてしてみました。
 
  すると以前試した時では分からなかった「貼りつく」感覚がすこし生まれてきているように感じました。ただ、実際の動きとなると使いこなすところまでは程遠く、結果だけを求めてしまうと、「つま先」に頼りたくなりますが、もちろん後戻りはいけません。
 
  こういう姿勢で稽古していると、よく人から「先生は潔いですね~」と感心してもらえる事があります。そこは胸を張って威張りたいところですが、そんなにすごいわけではありません。これまでの稽古を通して「何度も」自分が変わる体験をしたからこそ、今の自分が大事にしているものを「手放す」事が出来るようになっただけです。慣れてしまっただけなんですね。
 
  なかなか伝えきれませんが、カラダの稽古の隠れたメリットはこういう考え方が身につくという事もあるのではないかと思っています。実生活の中、特に仕事の中で「手放す」習慣を身につけるという事は難しいですよね。失敗してはいけない、という怖れや不安がありますから。どれだけ自分が成長してもっともっと大きくなれるから・・・と言われても現実に自分の失敗を想像してしまえばなかなか手放せません。

  それがカラダの稽古でなら身につきますから。ウソだと思って試してみませんか(笑)?

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カカトを踏む使い方 その2

 つま先に貼りつき感が出てくることで「出来る事」を考えてみます。
 
  大きく眼で見て分かる変化は横への移動が速くなった事ですね。例えばサッカーやバスケットボールで相手を抜き去る時に使えそうです。ちょっとそんな様子をイメージしてみてください。
 
  では自分から見て左側から相手を抜くと考えてみましょう。この時どこから動き出して、どうやって力が入っていくでしょうか?多分ほとんどの人が「無意識」で動いているために、自分が「どうやって」動いているかは意識できないと思います。意識していなかった事を意識する事が自分の動きを変えていく一歩ですから、めんどくさがらずに考えてみてください。
 
 
  どうですか?難しいですか?
  色々と細かいところは違ってくるでしょうが、私の「普通」を書いてみます。
  1、まずは相手を認識、腰を落として次の動きの準備をします。
  2、(左に抜くと仮定しましたから)右足のつま先(親指辺りですね)に力を入れ、自分のカラダを斜めに入れていきます。
  3、勢いのせいで悪くなった姿勢を立て直しながら前へと走り抜けます。
 
  大雑把に書くとこうです。ただし、このままで使えるかと言えば無理ですよね。自分と同じ動きを相手がトレースしてくれば当然抑えられてしまいますから。だからこそ「右に行くと見せかけて、左」と言うようなフェイントが必要になるわけです。コメディー映画にありましたよね、相手の前で上体だけをブンブン振っているのを想像してみてください^^

 結局、自分が普通に使っている動きは相手も使えるために追いつかれてしまうわけです。タメができる、気配が出る、動き出しの初速が低い、カラダの中で置いてきぼりになってしまう場所が出来る。いろいろと原因は上げられるわけです。
 
  この状況を改善するためにカラダの運転の仕方を変えるわけですが、それが今回は「つま先の貼り付け」になるわけですね。左に行くために右足の親指に力をこめて飛び出す。これがダメな事はもう分かりますよね。居着いてしまって、動きを読まれてしまいますから。力を使いやすい筋肉に頼るのではなく、カラダの重さを使います。
 
  「左」に抜いていくためにまず最初に行なう事は、「右」に飛び出していく動きなのです。右に飛び出していき、右足が着地した時に脚を「力ませずに」、つま先が「ぴとっ」とはり付く感じを意識してみると自分の体重が地面にぶつかり跳ね返ってくる感覚が生まれます。
 
  足裏でブレーキをかけない、と言っても良いかもしれませんね。ついつい力の入りやすい親指を使わない事で、戻ってくる力を使う事が出来るようになるのです。ただ、右、左とカラダが動く事で普通の「フェイント」と何が違うの?という疑問が湧いてきます。
 
 この疑問は上手な人も下手な人も同じやり方でフェイントをしている、という思い込みから出てきています。上手な人と下手な人、そこにカラダの運転の仕方があると考えてみましょう。自分の動き方が変っていくからできなかった事が出来るように近づいて行くのですから。
 
  この動きを試してみると、自分もその動きにだまされているような感じがします(笑)。全力で右にカラダを飛ばしていったのに、足裏に意識を置いて、自分のカラダが丈夫になる事で、「勝手に」カラダが左側へ飛んでいくのです。自分がだまされるほどの動きであれば、少なくとも意識から出てくる「気配」は消えそうですよね。

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