心と体

カカトを踏む使い方

なんだか毎日があっという間に過ぎてしまって、ついつい自分が説明していた事を忘れてしまいそうなのがとても心配です。

これまでのカラダの使い方の変化で「言葉」として残せてきたのは指アーチ(読みにくくてすいません、稽古で配布している小冊子のテキストですから、ご勘弁を。)までです。この指アーチに気づいて、工夫して・・・手のひらに張り付く感覚が生まれ、それがどうやら足の裏にも使えそうというところで終っています。

いつかは書かないとな・・・そんな事を思っていたらあっというに春になってしまいました。

最近はこの指のアーチから出てきた一連の使い方から別の線路へと進んでしまいましたから、この先説明する機会もさらに少なくなってしまいそうです。

というわけで、この場を借りて記録しておく事にしましょう。

小冊子「指アーチからの展開」のその後です。

足裏の貼り付け感が出てきたといっても、それはカカトではなく、つま先でした。ご存知のとおりつま先で「蹴って」動くというのは、ありえないわけです。それでもつま先に力がたまり、勢いに変わりそうな予感がするわけです。

この時、自分のココロの中で強い葛藤というか、迷いが出てきたのを覚えています。知識としては「蹴ってはいけない」。でもつま先が床に強く入っていくと「体幹部」が勢いよく動く・・・。このままこの使い方を研究していってもいいのだろうか。

迷った時は「楽しい方」。これは私の稽古の一番の基本です。なにかを期待して、ノルマをかけて稽古して成果が出るほど私に才能はありません。これまでずっと上達を続けてこれたのは楽しく稽古できたからだと思っています。だからこそ、「楽しさ優先」で選択しました。

研究モードとなって使い方をよくみてみると、どうやら「普通に蹴って」動いているのとは違うようです。脚の力で蹴っているのではなく、体重が力となって、つま先から地面に入っているようです。この時つま先のアソビがうまく取れている状態が「貼りつき感」を生み出しているようでした。

「蹴っていない」という事がわかった時には正直、ほっとしました。これで「強く蹴って動け~」なんて言い出したら、甲野先生にあわす顔がありませんから^^;

おそらく「カカト」と「つま先」のどちらが意識しやすいか、といえば私の場合は「つま先」だったんでしょう。もしかしたらいきなりカカトで実感できる人もいるかもしれませんが、私には無理でした。カカトを意識すると、動くどころか、立っていられませんし。

つま先の貼りつき感で遊ぶ稽古がしばらく続きます・・・。

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力がぶつかるという事

対人での稽古の良さというのはなにより、「問題点が明確になる」という事だと思います。

例えば相手に手を押さえてもらった時に、つい力が入ってしまう場所があります。大抵の場合この力がぶつかった事で自然さが失われ、「できない」状況が生まれてきます。

問題はこの「できない」状況をどう考えるかですね。「できない」事を感情的に引っ張られてしまえば、そこからあせりや不安や劣等感などが出てきて余計に悪循環です。すこし冷静になってみて、「できない」事を受け入れてみる事が次の一歩に繋がってくるようです。

どう力がぶつかっていて「できない」のか、それがわかると、ぶつかっている部分を流してあげるという選択肢がカラダの感覚を通して見えてきます。もしかしたらそこを「通らない」ようにする力の道が見えてくるかもしれません。

とにかく「できない」状況を体験させてくれる自分よりも「できる」人というのは貴重な存在なんです。感謝しましょう^^

話はかわりますが、脇がしまり自分の動きだけで自然と力が集まってくる事がわかると、その力のおかげで、自分のカラダの中のゆがみが現れてくる事にきづきました。

例えば私のカラダの場合左の脇を締めて、力がぐぅ~と入ってくると、右肩があがってきます、回り込みながら。どうやらこれが普段から自分の中にあった「余分」な力だったみたいです。この力を抜いてみると、今までに感じた事の無いほど肩が軽くなってきます。

自分の中にこれほど力みとして力が入っていたと、これまで分からなかったのですね。改めて気づく事の大切さを知りました。

ピアノと身体操法

明日(もう今日か・・・)、長年の稽古仲間であるエリちゃんの卒業演奏会が名古屋で開かれます。名古屋音楽大学の4年生ですが、なんと学園一位となっての代表での演奏だそうです。すごいですよね!

彼女はもう5年ぐらい稽古しているのですが、とにかくつかみ所が無いわけです。もともと「武道」の方に入ってきたのですが、2年ぐらい経った時「身体って不思議ですね」と言われ、今まで気がつかなかったの!?と驚かされた覚えがあります・・・。

その後ピアノにも生かせるような身体の工夫の仕方を「勝手に」言わせてもらい、それを彼女なりにまた「勝手に」工夫をしたんだと思いますが、それで結果を出しているのがなんともすごいです。

本人からは、ほとんど先生(一応私のこと^^)に身体の事を教えてくれたおかげです!と言われていますが、それはまちがい^^
教えただけで上手になれれば苦労はいりません。分かりますよね。

やっぱり自分の中で「すごい」と思えるような身体の感覚に感動できたからこそ、変ってこれたのだと思います。もちろん最初の「人の話を聞く」というのは大切な要素ですが、聞きすぎるとよくないんですね~(笑)

音楽の事はよくわかりませんが、間違いなく腕は上がっているのでしょう。自分が変われた要素というか、使い方を他の人に伝えていってくれればいいなぁ。

自信と勇気を分かちあう

日曜日はある講習会を受講しに「奈良」へ。
道中の車の中で、最近のカラダの使い方やこれから「なにを」「どう」伝えていけばいいのかを色々と考えました。(車で一人ですからね^^渋滞してるし。時間はたっぷりありました。)

体調が悪かった時にはマイナスな考えばかりが思い浮かびましたが、カゼもすっかりと良くなって、もう少し前向きな思考が出来るようになってきました。やっぱり繋がっているんですね、カラダとココロは。

考えている中で自分は何を伝えたいのか、という事をはっきりとした言葉に落とす事が出来ました。
それは「自信と勇気を分かちあう」という事。

自信と勇気。このどちらも自分の中ではずっと「コンプレックス」として抱えてきた問題です。甲野先生に出会い、カラダの感覚を教えてもらい、自分の中の感覚を掘り下げているうちに、気がついたらそのコンプレックスが消えていました。

逆に今は人の前に立ち、自分の考え方を話させて貰っています。以前の自分からでは考えられない事なんです。

世の中には自信がある人もいれば、無い人もいる。どっちが多いのかな、多分自信が無い人のほうが多いでしょう。幸せを感じて楽しそうに生きている人もいる一方、世の中に対して恨んでいる人もいるし、そういう事を考える暇も無く忙しく過ごしている人もいるでしょう。

自分自身が自信の無い人でしたから、どうしても力になってあげたいなぁ、と思うのはそういう人に対してなんです。(自信満々のひとは大丈夫!どんどん行っちゃってください^^)

ある程度稽古をしていると二つのタイプに分かれます。
自信のある人はこちらが何も言わなくても「すぐに」自分の感覚を伝え始めます。こっちがちょっと違うなぁ・・・と思っていてもお構い無しです。色々と間違いながらもどんどんと前に進んでいくんですね。

逆にずいぶんと技が出来るようになってきているのに、「まだまだ私は・・・」というタイプの人もいるんですね。私はこっちでした。ただ、私の場合はまわりを見たときに自分以外の人がこの「カラダの感覚」というのを知らなかったので、自然と「伝える側」にまわるしかなかったのです。自分がやらなくてはいけない「場」が与えられた事で、もう少し成長する事ができました。

人に何かを伝えるときってドキドキします。怖いんですね。自分の考えがあっているかどうかという事が。これが「答え」がちゃんとあるものなら心配は要らないでしょう。でもカラダに関していえば「正解」は無いわけです。自分がもっている「感覚」そのものを出していかなくてはいけないのです。自分の感覚って自分そのものじゃないですか。ココロの奥まで見られている感じがするんですね。

怖いけれどもそれを伝える事で、喜んでくれる人がいる。そこでなんだか自分が認められた気がしてくるんですね。

実はコンプレックスは自分にとって最大の長所になるところなんだよ、と教えてくれた人がいます。
本で読んだだけの知識ではそれを理解する事は出来なかったと思います。カラダを通して感じれたからこそ、今ようやく分かってきました。

先週の浜松の稽古会ではずいぶんと教える側にまわっていただきました。静岡の人たちも僕と似てますから、遠慮してるんです、もうすごく出来るのに(笑)
ありがとうございました。上手に丁寧に教えていて、一回り大きくなったように見えましたよ!

コミュニケーションについて

 身体を通して自分を見ていくと、思いもよらなかったところにも影響が出てきます。その1つが『コミュニケーション』。もともと私は人の前に立つのが苦手、当然話すのも苦手、コンプレックスがありました。

 その私が今、大勢の人の前に立ち、話し、動き方、生き方を伝えています。自分の中で何かが変わったのは確かです。その『なにか』が分かれば同じように困っている人の助けになるのでは、と思いこれを書いています。
 
  最近では『空気が読めない』事が流行語にも選ばれるほど問題になっています。本当に空気が読めないのでしょうか。私はちょっと違うと思っています。場の空気、雰囲気と言うのは確かにあって、ほとんどの方は感じていると思うのですね。
 
  問題はその空気に自分が負けてしまっているのではないか、と思っています。『会議』を例にあげて考えてみましょう。最近では会議自体をうまく廻す方法もいくつか出ていますが、ほとんどの場合は出口が見えないか、答えありきの『報告会』になっている事が多いのではないでしょうか。
 
  それこそ『空気の重い』席では手を上げて発言するのも勇気が要りますよね。いろいろな事が頭を巡り、自分が言わなくてもいいや・・・と答えを出した経験ありませんか?私はあります、しょっちゅうです。その度に反省をしますが、なかなか『空気の壁』は破れません。本当に重いんです・・・。
 
  つまり自分の心が作った怖れで身体が動かなくなってしまったのです。一度動かなくなってしまえば、普段どおりにはとても行きませんよね。そしてその動かなくなった自分を当たり前だと思ってしまうからこそ、どんどんと自分を尊敬できなくなってしまうと考えています。
 
  自分の事を尊敬できなければ、人に対して優しくなれるはずがありません。相手の嫌なところが目に付いたり、自分が少しでも不利にならないように無意識に守ってしまいます。どんな自分であってもそれを認めて、次の一歩を踏み出す力に変えることが出来ればいいなぁと思っています。
 
  そのためには小さなところから『練習』しなくてはいけないのですが、その練習こそ自分を丁寧に見つづける『武術』の稽古が最適なようです。身体が動くようになり、出来ない時にも冷静に自分を見つめれるようになると、全てが自分の気づきのために繋がっているような気になります。
 
  自分自身の残っている可能性を身体で感じれるようになったからこそ、ココロに余裕が生まれたのかな。『自信を持って』とはよく聞かれる言葉ですが、自然に自信は生まれてくるものでしょう。ココロの問題ですから、形としてあらわす事は出来ません。ただ自分の中で大きな変化があったのは事実です。
 
  自分とはなんだろう、自信を持ちたい、そんな事を求めているなら、少しは力になれるかもしれません。試してみてください。

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