心と体

シンクロニシティ

人生は演劇である、だれかがそう言っていたのだろう。魅力的な言葉ですよね。

ただ、その意味は全く分かりませんでした。今日までは・・・。

昨日までの稽古で見つけた事はカラダに任せてみると、信じられないバランスがそこにあった、という事です。それまでは、このカラダを「運転」する事が一番の方法だと思っていたから。

カラダに任せるって、怖かったんだと思います。カラダの事は信じていても、どうしてもその瞬間、まだ、自分に出来ることがあるんじゃないか?とカラダに緊張が走ります。つい、カラダを動かしたくなるんです。

世の中には素晴らしい教えが山ほどあって、その1つにでも自分をゆだねられたらどんなに楽に生きれるだろうか・・・と考えたりします。でも、やっぱり、イザと言うその瞬間にはカラダが反応をしてしまう。信じていると信じても、奥のほうでは信じていない自分がいるんだろうなぁ・・・と教えてくれているんだろうなぁ。矛盾の世界がここにあります。

その矛盾を「手を上げる」という小さな世界であればカラダに任せられるようになってきました。これは大きな一歩です。そのカラダに任せている間は、これまでの工夫以上の働きを感じることができるし、自分の中に一体感が生まれて、さらに相手とも一つになっていくような感じすらあります。自分のカラダに任せた瞬間に別人になる感じです。

そして、本題はここから。今日の気づきです。
このカラダに向かう意識から、逆に外へと意識を向けました。カラダに判断を任せるように、この目の前に広がっている世界、これはココロの世界と言っていいと思いますが、その外に広がる世界に自分をゆだねられないかを考えて見たんです。

この時、頼りにしたのが「シンクロニシティ」。詳しい意味は他に譲りますが、世の中には偶然は無く、全て、完璧なタイミングで自分にやってきている・・・そんな感じで語られるようなものです。そんな世界を感じてみたい、とは思っても、どうしても、それを都合のいい言葉、として考えてしまいます。

なぜかと言えば、やはりそれは武術を通して自分を見つめたいから。

偶然はない、というのであれば、ただ、手を上げるだけ、という瞬間的な間にもそのシンクロニシティがなければなりません。抑えられた手をあげる、という単純な動きの中でそれを感じられないとダメなんです(笑)

どんなに信用のある人がそれを口にして、熱心に伝えようとしても、カラダがその瞬間危ない!って緊張するんです。これ、シンクロニシティを信じている、って言えますか?ダメです、そんなの。都合のいいシンクロニシティではイザと言うとき役に立たないんです。

その勝手な疑問が今日、ぱっと目の前が晴れるように納得いったんです。目の前に広がっている出来事は全て意味があって、自分の望むべき目標に対して、完璧なタイミングでそこに「あった」という事が。

長くなってますが、ここで「演劇」の例えになります。
これまで、自分のおかれた立場は演劇ではなく、現実だと思っていました。だからこそ、その瞬間瞬間に現れるさまざまな出来事は「偶然」だと思っていたんです。だって、シナリオが分からないですから。

もしこれが舞台だとすれば、意味もわからず、観客がいるとも知らされず、隠し撮りをされている役者という感じになります。そのあわてている様子を見て、笑っている人がいるかどうか分かりませんが。

自分自身を役者として考えるのではなく、監督で考えてみるといいかもしれません。

普通、目の前に広がって見えるのは役者としての目線です。でも、そうではなく、監督の視線で相手を客観的に見るんです。そして、この時、超ポジティブな視線で見るわけです。相手がどんな動きをしたとしても、その動き、具体的には自分を力いっぱい、抑えて、攻撃をしてくる動きです。どんな動きも、その「動きがベストで最高、OKだ!」と判断するんです。

役者としては監督にOKをもらえれば気持ちも楽でしょう。なぜか、そのOKを出した瞬間、相手と自分の世界がつながって、丸くなるですよね。もう、これは文字にはできません、ここが限界(笑)。

ただ、シンクロニシティを考えたときに、武術と言う枠の中でそれを感じられた、というのは大きいです。誰しも、自分を攻撃してくる相手が現れるって嫌なもんです。でも、それが「完璧」なんですから。

日々、生活の中で嫌なことに出会うことはありませんか?ポジティブになろう、って訓練をしている人も多いはず。でも、いくら口でポジティブポジティブといっても、カラダがガチガチではいけません。正直ですよ、カラダは。

このきっかけを大事にして、これからの稽古はしばらく、シンクロニシティをテーマにしていこうかなぁ、と思っています。

ただ、ちょっとココロの部分が多いので、アクテノンでの稽古どまりになるかもしれませんが・・・。興味があれば、聞いてください。何でも答えますから。

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大丈夫な自分、ダメな自分

さて、ご無沙汰してました。ここ最近の感覚の変化が大きすぎて、すっかり「言葉」に落とす事から逃げていました、すいません(笑)。

もちろん、講座の中では「言葉」を通して動きと感覚を伝えていますから、多少は言葉になってはいるものの、「言葉だけ」でと、考えたときには全然まとまらず、書いては捨ての繰り返しでつい、甘えてしまいました。

ただ、これだけ我慢をしてきたせいなのか、ずいぶんと自分の中で言葉が外へと出たがっているのを感じます(笑)。・・・という事で、とにかく今、感じている事、考えている事を報告がてら、書いてみようかなぁと思います。

とにかく稽古の根幹ががらりと変わってしまったのです。
どう変わってしまったのかといえば、これまで「カラダを運転する」、と言ってきた事と真逆になってしまったのですから。

「運転」するのではなく「任せる」。つまり、なにかをしようとしてはいけない、という事に気づいてしまったのです。してはいけない、と強制されたわけではなく、カラダに任せたほうがはるかに自然であり、能力を一番発揮できる、と分かったんですね。

これは武術の面でも、介護やスポーツの面でもです。それどころか、あらゆる場面でそうであったほうが良いと感じるようになりました。

この感覚はこうして、なにかをしようとしている人同士で話しをしていると、変な言葉に感じますが、実は私たちは普段、無意識の時にはカラダに任せて、なにかをしようとはしていないのです。そして、その「気にならない時」こそ、完璧なバランスでこの世界とつながっているんですよ。

さて、この言葉を皆さんはどうお聞きになられたでしょうか?なんだか言っている事は分かるけど・・・。そんな言葉が聞こえてきそうです。私もどこかで聞いたような言葉だな、と思っていますから(笑)。でも仕方ありません。こんな程度でしか伝えられなくて申し訳ない!、そんな気持ちでいっぱいです。

自分の我を手放そう、と言葉にしている人は多いです。そして、それを実践している人たちも。ただ、私はこれまで、それを望んでも、どうしても出来ませんでした。何も無いときには、出来ているかなぁ?と期待する瞬間はありました。でも、実際に、武術を必要とする場面で、それを行おうとした時には手放すどころか、カラダがカチカチに緊張していきます。ここを上手にクリアできなくて、どうして手放している!なんて気持ちになれるのでしょうか?

だからこそ、このカラダを運転していこうと工夫を重ねてきたんです。カラダどころか、ココロまで。確かに、それまでの動き方からはどんどんと変わっていく事ができました。最初は自己満足でしかなかった動きも、だんだんとその道の専門家の方たちからも評価されるようになりましたから、まさかこの道が間違ってはいないだろう・・・と考えていたんです。

自分自身を成長させ続ける、という道として考えてみれば、これまで見つけた工夫にしがみつかず、今一番カラダが求めている動きを追求することは間違いではないと思います。ただ、完全な技術論からすると、今までの方法はダメのダメになってしまったわけです・・・。

自分の足らない場所を補うように、工夫を続け、進化を求めていく、というスタイル自体が考え違いだったんです。自分の足らない場所を探すのではなく、自分はそのままですでに完璧なんだ、と信じていくところから始めなければいけません。その完璧さというのが無意識の部分です。無意識だからこそ、普段の記憶から離れて、観察をすることが出来ません。でも、ちゃんとそこに、完璧なバランスをとった自分という存在がいるんです。

無意識の時っていうのはなにかをしよう、と考えてはいません。でも、私たちはなにかをしようと考えたときには、その考えた事が気になります。その気になったことを「消す」というのは簡単ではありません。簡単ではない、というのも私の見方です。私にとって難しい、という事です。難しいと考えている事が観念であり、それを壊していけばいいのですが、なかなかこれが壊れないんですね(笑)。

言葉で導いてくれる人であれば、その壊せなくて許せない自分を許しなさいとか、さらにその許せない自分を許せない自分を許せばいいんだよ、とか言うかもしれません。どこまで行っても自分を許す、認めることが大切であり、一番の近道なんだと思います。ただ、それが武術の場面では使えません。自分を許せずに、困っている間に斬られてしまうのですから。

この厳しい状況が私のように頑固な頭を持っている人間には良かったんでしょう。許せない自分をどうすればいいのかを真剣に考えるきっかけになります。長くなってきましたので、今日は1つ、具体的な稽古法を紹介しておきます。許せない自分を許す方法です。

許せないからこそ、もがいてしまうんです。このままじゃ、ダメだぞ!って。なにを許せないかというと、相手の攻撃に対して、無力である自分です。どうしてもそれに立ち向かおうとしてしまいます。抵抗するのではなく、カラダに任せるってどうするんでしょうか?

許せずになにかをしようとする自分がいます。意識です。この意識がどこを向くかで、その時のカラダやココロが決まります。自分のカラダを守ろうとしちゃうんですね。もしかしたらココロを守ろうとしているのかもしれません。意識が守るのではなく、カラダに任せることがずっと有効だと言いました。さて、どうするか?

1つは、この意識に仕事を与えてしまうのです。意識ががんばろう、と出てくる余裕があるから、働きすぎてしまうのです。休んでていいよ、と言ってもなかなかサボろうとはしません。すごいですね(笑)。ですから、守る側ではなく、攻撃をする側に移ってもらいます。

このカラダをラクに動かそうとするのではなく、逆に、カラダにストレスを与える側になってもらうのです。具体的には右手で左腕をぎゅーっと締め付けるんです。それもとにかく力いっぱい。おそらく、自分の右手に負けて倒されてしまう人はいないと思います。人間は常にバランスをとっているからです。右手で力いっぱい締め付けたとき、その力に耐えているカラダを感じてみてください。これまで無意識にバランスをとってきたカラダのほうに目を向けるのです。

どうですか?抜群の精度で、右手の力を体全部で均一に支えているのを感じませんか?

意識を二つに割ることって多分難しいんです。だからこそ、あえて、自分にストレスを与える側にまわってみると、同時に大丈夫な自分までそこに同時に存在している事に気づけるのです。

今お話できるのはこの辺りまでです。
この大丈夫なカラダは本当にすごいです。今までこんなすごい自分と一緒にいたんだなぁ、と感じさせてくれます。大事なことなので改めていっておきますが、このすごいカラダは誰の中にもあるんです。でも、それを教えてくれるチャンスはほとんどなくなりました。でも、毎朝目覚めるたびに、その自分と一緒にいるんです。

長くなってしまいましたが、どうしても伝えたいため、書きました。
これからもどんどん書いていこうと思っています。もし興味が生まれてきたら、ぜひ稽古会、講座へお越し下さい。全力でそのすごいカラダに気づいてもらえるようにサポートさせてもらいますからね!

では、また!

質問等はこちらへどうぞ

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すごい速さで戻ってきていたチカラに驚く。

循環する事で気づいた事を少し。

今朝なにげなく挨拶をしました。昨日、自分からチカラを出していくことの大切さをカラダの感覚で得たので、それを気にしながら、声をかけてみました。すごい速さで戻ってくるものを確認しました。その戻ってくるものが挨拶と言う「コトバ」もあれば「笑顔」というのもあります。巡っているものを感じた瞬間でした。

歩きながら、考えました。
挨拶がなくて気にしている人がいます。
気にすることで、出ていたはずの挨拶は見返りを求める、「奪う」行為になっているのかもしれない。相手を非難することで、奪ってしまえば、そこに思い描く循環は生まれません。

相手から戻ってこなかったのではなく、自分から出た挨拶と言う力は相手の中にある、生きていく中で生まれている穴に吸収されているかもしれません。その穴を埋めるために自分の力が使われちゃえば、挨拶として戻ってくる事はないでしょう。じゃあ、やることは一つ。その穴が埋まるまで、優しく、声をかけ続けるだけ、気持ちを出していくだけ、決して求めてはいけません。これ、武術的身体観察から生まれた一つの答えです。

太陽に向かって歩いていました。
まぶしい太陽、暖かい光、もらっているのを実感。ふと振り返ると、影が後ろへ伸びている。これも循環?この影を消すことはできません。影と共に生きていくしかない、そんな事を考えて散歩しました。

日陰に入ると、ぞくっとします。この寒さがさらに増すのですから、仕方ありません。冬の日陰は嫌われ者です。でも、夏の日陰は憩いの場になります。同じ日陰なのに・・・。

やっぱり人は現実を思考を介せずに受け止めることはできません。

今朝、般若心経の解説本を見ていて、一つの言葉が気になりました。
四苦八苦の一つ、五蘊盛苦というコトバです。詳しくは各自調べてもらうことにして、人間が生きている中で感じる事が盛んになりすぎることで苦にもなる、という事です。盛んにさせないようにただ、見守る、その時に集中させてもらえる存在が関節のような気がしました。カラダの中に気にさせてくれる存在があるんですから、ありがたいことです。

巡ることが自然の法則だと知っていても、自分がなにを得ているのかを実感できていなければ、なにもなりません。嫉妬や愚痴から始まってしまう人もいるでしょう。でも、この時代に、この日本という国に生まれただけで、それは大きな幸運をもらっていることなのかもしれませんよ。どんな境遇であったとしても、出すところからスタートをした方がよさそうです。

では、また。
ありがとうございました。

カラダの形

カラダの形は一つじゃない。
いろんなカラダがある。
一つしかないように「みえる」だけ。「思える」だけ。
期待に胸を膨らませているときのざわざわ感。
この時のカラダの形はどんな形だろう?

真夏の稽古

昨日の名古屋の気温はおよそ35度。
いよいよ夏がやってきました。
立っているだけで汗がガンガン出てきます。

苦しい環境を「嫌」なものと考えれば
次から次へと甘い誘惑がやってきます。
その苦しい場所からどうすれば逃げられるのか、
そんなことばかり考えてしまいます。

これ、自分の中に生まれた理想と現実との「ギャップ」ですね。
どうも人はそのギャップを「そのまま」にはしておけないみたいです。
ギャップそのものをなくすことは出来ません。
では・・・そのギャップをどうすればいいんでしょうか。

昨日一つ、相談を受けました。
学校とのトラブルなんですが、どうも不満がたまって、
なんとかできないか、という事でした。
ここにも現実と理想のギャップがあったんですね。

話を聞いていると、いくつか「対応策」は出てきます。
でもこの問題に力を貸してしまえば、
それは本当の力に気づかないまま大人にしてしまうことになるかもしれません。
世の中に出て、一人立ちすれば、理不尽と思えるような問題は山ほどあります。
いつまでも誰かに頼れるわけではありませんよね。
ちょっと厳しいかな、と思いつつ、自分で試してみないと・・・と言っておきました。

こういう問題が生活の中で生まれてくればいいのですが、
問題に向き合わないまま、惰性で流れていく生き方もあります。
私はそうでした、とにかく目の前の問題から逃げまくっていました。

そうすると、自分の中には弱い心しかないんだ、と思ってしまうんです。
稽古を通して見えてきたのはギャップに対する身の振り方です。
生活の中では逃げまくっていましたが、稽古では逃げることはできません。

手を上げたい、そんな単純な事もちょっと邪魔をされれば出来なくなってしまいます。
この問題がおきたときにどうするのか・・・
方法は二つです。

一つは技に頼ること。
「正しい」形の中には力があります。
その形に助けてもらい、問題を排除していきます。
ただ、これには弱点があります。どうしても「知っている」形でないと使えないのです。
空想を広げて、応用技として考えなくていけません。

そしてもう一つ。
技に頼るのではなく、「勢い」を増していく方法です。
困った問題に対して諦めずに自分の全身をぶつけていく方法です。
全身全霊、という言葉がありますが、最近はあまり使われなくなりました。
対応策が事細かに作られて、それを追うことが精一杯だからでしょうか?

私が今頼りにしているのは後者、勢いをどう増していくか、という事です。
でも我慢、というわけではありません。
そして心構えという事でもありません。(心構えを作るのは苦手中の苦手です・・・)
動くことで自然と生まれてくる勢いがある、それが頼りになっています。

まずは自分の中にギャップを見つけることが大切だと思っています。
そういう意味では「暑い」夏はもってこいです。
立っているだけで稽古になってしまいますから(笑)

さて、最後にご連絡です。
真夏の名古屋、8月2日は甲野先生を名古屋へお招きして講座を開催いたします。
既に申し込みは始まっておりまして、残り10名ほどの枠しか空いておりません。
興味がある方は下記をご覧ください。
http://www.karadalab.com/modules/eguide/event.php?eid=138