稽古日誌

9/16 豊橋中日文化センター

毎月第3水曜日はとよはしの中日文化センターでの講座。
今日も例の「板」を持って行きました。

私の稽古というのは仮説を作って、それを壊すための稽古です。
カラダの使い方によって生まれてくる働き、主には強さなんだけど、なぜそこに強さや優しさがでるんだろうかと考えていきます。そして今ある強さを崩すにはどうしたらいいのかと考えています。

甲野先生がそういう姿勢だったからですが、とにかく稽古の中には遠慮はいりません。もちろん「研究」のための遠慮ですが・・・。お互いがより動きを高めるために最善を尽くして研究するのは企業が新しい商品を徹底的に開発している姿勢に似ています。決して売れそうだからと安易に販売に走るのとは違います(笑)

・・・で、「板」の話なのですが、あまり説明をせずにとにかく試してもらう事にしているんです。なぜか、といえば私自身なぜ乗るだけで動きがよくなるのか分からないから。私も不思議、乗っている人も不思議、その不思議を外から眺めているのが楽しいからです。

今日は板への食いつきが良かったせいか、新しい使い方まで見つかりました^^
今一番きつい稽古といえば、片手を両手で床へと力いっぱい押し付けてもらい、それを上へと上げる稽古です。相手の押し付けてくる力に「つい」反応してしまうのですね。

気にしないぞ!と思っても、カラダは無意識に抵抗します。その抵抗は「力み」として表れてきますから、どんなに頭が固くても認めざるをえません。この辺りが頭や心だけで自分を探す作業とは違うところです。

つい相手を意識してしまうわけですが、この時、足の下に「板」を置いておきます。すると、なぜか手をあげることができるんです。「上がる」という現象は結果です。「なぜ上がるのか」を考えなくてはいけません。

そしてここからはいつものように「仮説」です。
足の下に置いた板は正体不明の感触です。もちろんただの板ですから感触としては普通です。ただ、手彫りというランダムなカーブのおかげで無意識の興味をひくようになっているのではないか・・・。自分の中にある意識と無意識の大きさを比べれば無意識の部分の方がはるかに大きいはずです。その大きなものが全部足に向かっていきます。すると余分なエネルギーがアタマに上らずに、抑えられている手に対して過分に考えすぎる事がないのでしょう。意識する力が少ない分、カラダが協力せざるを得ない状況を生んでいるような気がします。

簡単に言えば、教室を掃除してくれる女子がいれば男子は遊ぶ、という話です。

9/14 操体法にて

早いもので操体法を学び始めて2年がたちます。
この2年で操体法から学んだものは何だろう?

技術も学びましたが、実際に覚えている「手順」だけを使って直せることは多くありません。
・・・多くない、というよりも治ってしまう不思議はあるけど、痛みがなくなることと生きることが楽しくなることはイコールではない事に気づいた事が大きなことです。。

なにも治せなかった頃には治してあげられれば・・・と思っていたけど、今はちょっと違う。
せっかくそこにある「痛み」を自分のものとしてどうすれば感じ取ってもらえるのだろう・・・そんな事を考えています。

痛みの痛さ、というよりも、痛みから生まれる感情に興味が出てきました。
きっかけは最近稽古で遊んでいる「あの板」です。二重曲面で作られているただの板、この板が生む働きが面白い。

ちょうど稽古のテーマが「無心」なのは偶然なのか、必然なのか?
あの板に乗ると、なぜか強く、しっかりするのは試してもらったとおり。

操体法的に板に乗ってカラダを回旋させてみました。
これが、よく廻るのです。
何も無いところで廻してみると、引っかかるところが出てきますが、それが出てきません。
痛みも減っている、という事になります。

なぜか・・・?
ここからは仮説というより、私の解釈。
あの板は人が作ったものです。しかも手で。一彫り一彫り丁寧に。
その板に足の裏を載せると、足の裏の緊張が抜けます。なんだか「探っている」感じです。

足の裏が「ここどこだ?」と情報を探っているんでしょう。
そこに自分の無意識が集まり、結果としてアタマが色々と考える余裕がなくなるのではないか、そう考えました。

この板を触っていて思ったことがあります。
そういえば今は全部「人工」のものだ!という事。
床も地面も、自然なものはほとんどありません。
土の地面であっても、私達は靴でそこを歩きます。

この板の手触りはある場所の床に似ている気がします。
ある場所とは、「お寺」です(確かめてはいませんが・・・)。
長い年月を多くの人たちが集う中で自然と生まれたであろう、床のくぼみ。
この柔らかいカーブと二重曲面が似ているような気がしてきました。

自分のカラダが無意識に受け取っているもの、それを意識できた時に生きている事にありがとうと言いたくなります。

9/13 月一定例稽古

日曜日は名古屋で月一の定例稽古。文化センター枠とは違い、好きなだけ時間を取れるので、求めている本来の稽古が「伝えられ」ます。どうしても「講座」や「講演」はその時自分が思っている事、感じている事を伝えるだけで時間が来てしまいます。「自分から」稽古するところにも楽しさがあるのですが、目の前に「先生」がいると遠慮しちゃうんでしょうね、きっと。

この月一稽古はその「自由」を探すために行っているようなものです。自分がやりたいことって何だろう・・・それに気づくための時間だと思っています。講座のように親切ではないし、丁寧でもありません。ただ、感じたこと、思ったことは気兼ねなく聞ける環境だけは整えているつもりです。

実はこの月一の稽古会では「分かった」という答えは渡したくないと思っています。答えにしてしまうと、そこに居ついてしまうから。答えではなく、よくわかんないけど、確かそう・・・という方向が「次」へと向かわせてくれます。答えが無いからこそ、次に向かうための勢いをなくさずに求め続けていけるんですね。

あとちょっとで分かりそうなんだけどなぁ・・・という時の楽しさが一番元気がでてきます。

それにしても昨日の稽古ではセールスマンがモノを売るための仕組みとして話をずっとしていたのは我ながら驚きました。もちろんカラダの動きを通してです。考えていたわけでもないのに、話し始めたら、どんどん「分かって」いくんですよね。話をしているときには自分自身では自分の言葉を信じているんです、完全に。でも絶対この理論が「正しい」と思い込むとダメな事も知っています。だからこそ、稽古を通じて何をするかといえば、自分の仮説を壊す「なにか」を見つけるわけです。

自分の正しさを補うのではなく、自分の隙を見つけて補っていくのが稽古ですから。

9/12 浜松中日文化センター

久しぶりのようでも、久しぶりでない昨日の浜松中日文化センター。前回の参加者が少なかったせいなのかな?

1回1回の講座で行う新しい術理をマスターしなければ先に進めないわけではないので、気軽に休めるようになってしまうというのもよくないですが、そもそも自分のカラダに「既にある」ものを見つけていく作業ですから、きっと講座で無い日にもカラダのことを考えてくれているだろう・・・と思うようにします。

浜松の講座には家族で参加してくれている人がいます。中1の子と小4のお子さん。彼らを前にして「無心」の話をしていると、彼らの場合は無心の方が多いんですね。講座中、ずっと動いているし。出来ないことがあってもそれに「居着かされずに」すぐにココロを切り替えて別の楽しいこと、興味のある事に向かっていけます。

なにが大切かって、こういう子供の姿勢にこそ学ぶべきものがあると思っているのです。我々大人はすぐに止まってしまう。切り替えて動きを続けていけばもしかしたら新しい解法が見つかるのかもしれないのに、目の前の問題をじっとみて考えてしまいます。子供達は止まりません。そこにあるのは何か・・・アタマとカラダの使い方の問題でしょう。
今日は定例稽古です。
7時間ぐらい動き続けるのかな?とにかく新しいことが生まれてきやすい環境を作ることを一番に考えていきます!

9/11 アクテノン

今日はアクテノンでの稽古。
いつもと変わらず2週間ぶりの稽古のはずなのに、なんだかずいぶんと間が空いてしまった気がします。いつも以上にもやもやを抱えていたせいなのかもしれません。

ある時期からアクテノンでは「動く稽古」はしなくてもいい、と思ってホームページでの告知は変えてあります。とにかく自分とはなんだろう・・・という事をカラダを通して感じてみたい、そんな思いでいつも向かっています。

その甲斐あってか、これまでこのアクテノンでの成果は大きなものとなっています。ただ、その成果を使いきれない、自分がいることに気づいてしまったんですね・・・。

ただ、動きを求めていたときには動くだけでよかったし、目標とする技もありました。それが上達?する事で、形のある結果を求めるよりも、自分の内面に興味が向くようになったのです。向き合ってみれば色々と気づくこともあるようで、これまで振り回されていた事に対して自分なりの答えをもてるようになってきました。

自分自身で「成長」を感じているはずなのに、それを「発揮」するものが無い、そんな感じです。作品としてモノであったり、演奏だったりがあればどんなに楽しいだろうか・・・そんな事を求めていたりする自分がいて驚いています。これまでそんな事を考えたことも無かったですから。

誰かと競い合うことも、誰かに自分の作ったもの、考えたものを見てもらいたい、と思った事がないんです。自信のなさ、といえばそうかもしれません。それが「自分」という存在を少しずつ認めだして、その「自分」を全てなにかにぶつけたらどんな形になるんだろう、そう思い始めています。

もちろん、今の活動は自分の全てをぶつけているつもりです。ただ、そこに目標というべきゴールが曖昧なんですね。脳の働きの1つとして、自分が望んだものを脳は自動的に実現する方向へと向かう、と言われています。これまでアタマはなるべく働かさないようにしてきました。そろそろアタマを考えるときがやってきたのかなぁ・・・。

※お知らせ

9/26の甲野先生の講座ですが、徐々に定員が埋まりつつあります。

現在のところ残り10名ほどです。

申し込みはこちらから