稽古日誌

人間は歳をとる、それを忘れてはいけない

甲野先生とであって20年経ちます。
20代の頃、40代は「大人」だと思っていました。でも、実際に自分が40代になってみると、全然、「大人」になっていません。それでいて「子供」でもないんです。「大人」になりたい、ならなきゃ、というまま、20年経ってしまいました(笑)。
 
 
 
ただし・・・、身体は衰えているのを感じます。徹夜もできなくなってきたし、若い頃と同じように食べて飲んでみると、後が大変です(笑)。
 
しかし、不思議な事に肉体そのものは衰えても、動きは20代の頃よりも比べ物にならないほど速く、軽くなっています。考えもしなかった夢のような技も出来るようになって、本当に不思議です。実は理由はわかっています。「動き方」が変わり続けているからです。
 
 
 
知っていますか?、単純に「歩く」というだけでもものすごく繊細な変化が身体には起きています。一歩足を進めるたびに体重が偏り、バランスを崩します。そのバランスの崩れを気に出来ればいいんですが、たいていは無意識に肉体に任せます。まぁ、無理をするって事です。
その無理が一日一日と積み重なって、30代の頃には肩こりと腰痛が出始めて、それでも仕事に勢いが付き始めて休めなくって、がんばって、そのまま40代になって痛みが慢性化して時々の整体通いなんかでごまかす、そんな人、まわりにいませんか?
 
甲野先生に出会い、「身体感覚」という事を学びました。身体の声を聞く、そんなイメージだと思ってください。大丈夫、とアタマで言い切ってがんばるのではなく、身体に無理な力が掛かっていないか、小さな動きだったとしても、全身で分担して動けないかを追及していきました。
その結果、20年歳をとったにもかかわらず、動きは軽く、速いのです。そして、声を大にして言いたいのは、これからもまだまだその動き方は進化をしていくだろうなぁ、という希望を持てている、という事です。
 
 
 
誰でも絶対に歳をとります。
特に日本人は加齢による負担が大きいです。理由は簡単、骨や筋肉が欧米人と比べて弱いからです。内臓の強さも違うかもしれません。外国人のようにいくつになってもステーキをがっつり食べられる自信ってありますか?私はありません(笑)。
 
 
 
今、多くの人が頼りにしているエネルギーは「筋肉」です。それも、鍛えるだけのトレーニングで。仕事の合間、生活の合間に少しでも筋トレを・・・と、テレビでは良くやっていますが、その努力を筋肉ではなく、動き方に向ければいいのに、と本当に思います。
皆、言われるまま、がんばってトレーニングしています。確かにトレーニングをすれば筋肉は大きくなるでしょう。でも、それは年齢と共に効率が悪くなっていきます。そして筋肉トレーニングは「栄養」「トレーニング」「休息」のサイクルが止まってしまうとせっかくついた筋肉が今度は邪魔なお肉に変身してしまいます(笑)。
 
いいですか、私たちの骨は弱いんです。歳をとった時、不意に転んで骨折をしたらどうなると思います?考えた事がありますか?それまでトレーニングで身体を維持してきた人が一気に動けなくなってしまいます。なぜなら、筋肉でしか動く事を知らないからです。 
 
 
 
筋肉で動けば疲れます。世の中には疲れたい人もいるんです。子供たちはその代表(笑)。無駄に走り回って、汗だくになって、すやすや眠ります。それが身体を大きく強くするのをわかっているんでしょうね。でも、肉体の成長がとまって衰えていく私たちはそれだけでは駄目です。筋肉以外の動き方も知っておいたほうがよくないですか?
 
ちゃんと、知った上で「選択」すればいいんです。全力を出し切って眠りたい人は汗をかけばいいし、そうでなければ他を選べばいいんです。それこそ、病気や怪我で全力を出せないときには筋肉以外の力をエネルギーとして選択しなくてはいけなくなります。
 
 
 
実は今からの時代は本当に危ないです。
なぜなら、ものすごい機械がどんどん出てきそうだから。
筋肉の力は使えなくなる、といいました。でも、その代わりに機械がやってくれるようになります。小型のアシスト装置を身体につければ、自分だけでは動けなくても、機械の力に助けてもらって動く事ができます・・・、身体の動かし方を求める人はもっともっと、減ってしまうかもしれません。
 
実際、仕事の現場は機械だらけです。工場では当たり前のようにロボットが動きます。物流の世界ではフォークリフトは当たり前です。介護の世界も機械だらけ。もう、身体だけではなくなりました。仕事量ははるかに増えましたが、楽しいと思っている人が減っているんです。動けるけど、楽しくない。機械の力は心にまでなかなか届いてきません。
 
理由は簡単、身体が動いていないから。身体がずっと、ぎゅっと、窮屈にされていて、動いているのは機械だからです。身体が動かなければ心にも楽しさは生まれません。どう考えたって、この先機械抜きで生活するのは無理です。だからこそ、機械と暮らしながらも、自分はちゃんと身体を使っているか、身体の声を聞かなくてはならないと思います。 
 
 
 
筋肉以外の力を少し紹介しておきます。「お尻」から生まれる力です。
前に歩く時、膝を上げたり、地面を蹴ったりして歩くと、それは「筋肉エネルギー」です。まぁ、馴染み深い、いつもの、普通の動き方です。
でも、この時、まず、「お尻を振ります」。ぶんぶんすばやくではなく、ゆっくりです。ゆっくり、お尻を左右どちらかに振れば、自然と身体が横に向いていきます。足が自然と浮いてくればそのままお尻の「重さ」を感じながら「踏む」ようにして、前へと出て行きます。たった、これだけの事ですが、肉体に掛かる負担は全然違います。
 
もし、今、あなたが身体のどこかが痛いのなら、その効果に驚くはずです。身体のブレがなくなり、少ないエネルギーで身体を動かす事ができるので、動く事によりバランスの崩れがなくなっているからです。
 
 
 
この歩き方で凍った道を歩いてみました。踏んでいるんですから、滑りにくいです。逆に筋肉エネルギーだとどうしても「蹴って」進むしかありません。踏ん張りの利かない氷道ではどうしたって転びやすくなります。
 
つまり・・・、雪国の人たちは自然とそれを身につけているかもしれないんです。ただ、凍った道がなくなると、筋肉エネルギーに戻ってしまいます。滑らないから気が緩むんでしょうね。筋肉エネルギーとお尻エネルギーとの区別をアタマで出来ていないから、使えません。せっかく動くお尻を持っていても、使わなくてもいい環境にいれば発揮されない。なんてもったいないことでしょう。
 
 
 
もう一つ例を。この例えを思いついた時、昔ってすごいな、と思いました(笑)。
お尻のエネルギーですが、なにげない日常に溢れていたはずだ、と確信しました。
どんな例えかというと、少しの間にクイクイっとお尻を滑らせ座ってこられるおば様の動きです。まさに、あれはお尻エネルギー。お尻からではなく、足から行けばもう、気配の時点でにらまれ入れません。でも、お尻から動いていれば身体全体が滑らかに目的地へと滑り出します(笑)。
 
 
 
冗談のようですが、今ではもう、ほとんど見ませんから、駄目ですね、すっかり、忘れてしまったエネルギーとなりました。そうそう、クレヨンしんちゃんでもお尻をフリフリしてますね。あれも素敵な力です(笑)。
 
 
 
仕事でもコンピューターや機械が増えて、歩いたり、動いたりする事がなくなりました。じっと座ってモニターとにらめっこです。いつのまにか動ける大人が減ってしまい、お手本がなくなってしまったので、今の子供たちはもっと大変かもしれません。身体を使う遊びも危ないから禁止になっていたりしますから。まぁ、なんと言っても、派手なゲームが楽しいですからね、余計に身体を使う機会が減りそうです。
 
 
 
まずは自分が自分の身体が動く事の楽しさを知る事です。40代を過ぎると、いつガクッと体力が落ちるかわかりません。定期健診で身体の中に悪いところが見つかり、自覚した瞬間、気持ちの支えがなくなって、体力が落ちるかもしれません。グローバルな社会になり、一気に環境が変わってしまう事もあるかもしれません。常に仕事のやり方が変わっている時代ですから、新しいことについていけなくなったら、もう、がんばれなくなります。
 
そういう時でも筋肉ではない力は大丈夫です。いつでもどうなっても、この身体は動かせる、とわかっていれば、やってくるアクシデントだって乗り越えられます。
お尻の力は「筋肉」ではなく「お肉」のエネルギー。つまり、重さのエネルギーです。重力の力を借りていますから、楽なんです。坂道を転がっていく車のように身体を使えれば、がんばらなくても生きていけます。どうせ遠くに行くには新幹線だし、飛行機です。自分が全力で走らなくても、目的地へ近づく事ができます。私たちはただ、その目的地で楽しく過ごせればいいわけです。ゆっくり、のんびり、気持ちよく身体を動かす方法を今のうちに身につけておく事をおすすめします。
 
 
 
とにかく、お尻の事を考えて、お尻で歩き、お尻で手を動かすのを意識してみてください。それだけでも全然違ってくるはずです。座っていたって意識をする事が出来ます。今、こうしてキーボードを打っている私のアタマはお尻を動かす事に全力です(笑)。
特に、無意識にできる仕事の中でそれを試してみると、いいと思います。自分が感じた事に自信を持って、どんどん工夫をしていってください。それが遠回りのようで、一番の方法だと思います。
 
質問があれば、遠慮なく。
 
 
 
【お知らせ】
2月15日(日)に武術家、甲野善紀先生を浜松にお招きし講習会を行います。武術、武道、スポーツ、運動の経験は全く問いません。最近は女性の参加者も多いです。ユーチューブなどで見れますが、先生の身のこなしを美しい、と思って生で見たい、と来られる方もいます。強制される事のまったくない講習会ですから、講演会気分で来られるのもいいかもしれません。お申し込みは下記のサイトからどうぞ。お待ちしています。

最初の一つ目は「右肩を引く」

 稽古をしていると、毎日が発見になります。
 
 もちろん、最初からそうだったわけではありません。甲野先生に出会い、実際に技を受けた時、どう言葉にしていいのかわからず、どう自分の練習に生かしていいのか、わからなくなりました。
 
 運がよかったのは私にプライドがなかった事。もし、わずかでもプライドがあればそれが邪魔をして、あれは気のせい、催眠術のようなもの、と手を出さなかったと思います。漫画や映画、物語の中の世界が目の前に広がっているんです。もう、興奮しました(笑)。
 
 
 
 今、「練習」という言葉を使いました。甲野先生は「稽古」といいます。最初、稽古という言葉を使うのにはものすごく抵抗がありました。自分のやっている事が「稽古」と思えなかったんです。練習はいやいやでも出来ますが、稽古はちょっと違う、そう思っていたからです。ようやく、自分が行っている事を「稽古」といえるようになって来ました。ぜひ、みんなにもこの「稽古」を伝える事ができればなぁ、と思います。
 
 
 
 自分の身体を頼りに動きを見直そう、そう考えても、実際にはどこから手をつけていいのか、全く、わかりませんでした。難しい「型」があれば手順を追っているだけで時間は潰せます。なんでも最初の数年は楽しいんです。手順を覚えるにしたがってやれる事も増えますから。
 
 ただ、私が躓いたのはそこから。壁が現れてからその壁をどう乗り越えていいのかわからなかったんです。壁が現れたら違う道を行く。それも解決方法の一つでしょうが、私の場合、逃げた先にもすぐに壁が出てきてしまって、全然、楽しくないんです(笑)。
 
 
 
甲野先生の動きを手に入れようとして手がかりにしたのは唯一つ、「手を上げる」という事だけでした。手を上げるだけですから、手順なんかありません(笑)。もし、体験なしにそれを指示されても続かなかっただろうと。実際に身体を通して想像を超えた世界を体験できたからこそ、興味を持って「ただ手を上げる」という動きを追求できたんだと思います。
 
 
 
 最初の手がかりは「右肩だけを引く」という動きでした。たまたま一緒にいた方にヒントをもらったんです。手を上げる「前に」右肩を引いて、その後手を上げてみると、相手に止められなくなります。
 
 
 
 今考えると、手を上げる、という単純な動きにもたくさんの「手順」がある、というのをその人は教えてくれたのかもしれません。今となってはその人が誰かもまったくわかりませんが、本当にありがとう!です。
 
 
 
 そうそう、甲野先生からは技術はもちろんですが、なにより、「稽古法」を学びました。この稽古法がすばらしいんです。号令に合わせた稽古は全くなく、すべて、研究です。自分の心に引っかかったものをほったらかす事無く、掘り下げるのです。気がつくと、自然に自分の心の中が滑らかになります。なかなかしっかりした組織ではこんな稽古はできません(笑)。空気に合わせる事のほうを皆、大切にしちゃいますから。
 
 
 
 「右肩を引く」というヒントは教えてもらいましたが、その後、それが本当だ!と気づいたのは自分自身の体験です。この身体を通して得た納得こそ宝物です。
 
 あれから20年ほどたちましたが、年々、気づきの頻度が増えていきます。気づきというのは気がつかないから大変です(笑)。気がついていないものは本当に素通りですから目の前にあっても使えないんです。さらに、現代はたくさんの情報がどんどん入ってきて、気づくよりも先に知識が増えちゃって大変です。歳を重ね、身体は衰えていきましたが、それ以上に効率のよい身体の使い方がわかってきて若い頃には想像もできなかった事ができるようになりました。
 
 
 
 なにかに気づく、というのはそこに「違い」があるからです。違いは心に生まれるものですが、この時、身体にも変化が起こっているんです。身体がどう変化しているのか、そのセンサーがどんどん敏感になっているのかな、と想像しています。ただがむしゃらに鍛える事しか知らなかった時にはその変化が見えなかったんです。
 
 
 
 全然壁を乗り越える事が出来なかった自分でしたが、気がつけば、壁を頼りに自分の知らない自分を見つける事が出来るようになりました。ちょっと違う自分になればそれまで壁に見えていたものがなくなるんです。こんな解決の仕方もあるんです。便利な道具が増えてやれる事も増えましたが、逆に言えば、道具がなくてはやれなくなってきたともいえます。自分の心に生まれる壁は自分だけの壁の事も多いです。便利な道具がなくても大丈夫、それを伝えられればいいなぁ。私がそうだったように、まず、「体験」をしてもらいたいです。後はお好きなように(笑)。 
 
 
 
12/17(水) 大人の武道塾 【浜松】

子供たちが危ない!

最近、ビックリしたことがありました。それは、この三つです。
 
1、ちょうちょ結びができない
2、片足立ちができない
3、体重移動ができない
 
実は、タイトルは嘘です(笑)。本当に危ないのは僕らです。
自分の中にできないものを見つけても、自分でなんとかしようとしなくなってしまったらお終いだなぁ、と思いました。彼らを通して、自分の中のできていない部分、忘れてしまったものを実感しました。今日はそれを書いてみようと思います。
 
 
 
えっ!と、驚いて彼らにそれらを教えながら、思いました。
今、こうしてちょうちょ結びを教えているけど、私自身はそれ以外を知らないぞ・・・と。
日常的に仕事でロープを使っている人は鮮やかにロープを使います。どんなに引っ張っても取れない結び方を、その時に一番適切な結び方で。
魚釣りが趣味な人なら釣り糸を鮮やかにくるくるって。
 
そういう必然性がなくなったので私ができる結び方はちょうちょ結びだけ。
そういう私は子どもたちがちょうちょ結びができないことを笑えないなぁ、って。
 
 
 
最近、あるものを固定する機会があったのですが、その時にはプラスチックで出来たロープにそれ用の固定するものを使いました。簡単にしっかりと間違いなく固定できる優れものです。
下手に縛って事故が起こるよりはよっぽど賢い選択です。
 
 
世の中、こうして、どんどん便利になっているはず。子どもたちにだけ身体を使うことを強いても、大人が身体を持て余してしまってはねぇ・・・。
 
 
 
片足立ちはこんな感じ。
よく、老化チェックで目を閉じての片足立ちしますよね。でも、あれ、自分だけの問題じゃないですか?
武道の状況で必要な片足立ちは自分だけの問題ではなく、相手との衝突でも崩れない片足立ちなんです。
 
例えば左足前で右手で突きをだします。当然、左足に重心が移ります。8対2、9対1で重心を固定します。ちょっとでも崩れようものなら威力はゼロです。むしろ、こっちが崩されます。
 
あぁ、根本的な筋力がないんだなぁ・・・。そう思いました。
今の自分は一応、子供の頃遊んだり、それなりに身体を使うことで出来上がってきた筋力があるけど、それはいずれ、なくなるもの、使えなくなるものです。
今、できるからいいや、ではなく、それに頼りすぎていてしかも、その後の事がありません。
 
この気付きから始めた練習で思わぬ収穫があったのが体重移動です。
 
 
 
体重ってどう考えてますか?
おそらく、今、多くの人にとって体重は嫌うものです。いつの時代もより効率のいいダイエットがブームになります(笑)。もちろん、そういう私もこれまで、様々なものにチャレンジしてきました。
 
とにかく、体重を使うという事がこんなにも大切なものとは夢にも思いませんでした。
なぜなら、当然、大切、と思っていたからです。もう、知っているよ、と。
でも、それは、頭の中で大切、と思っていただけで、身体では全然、実感ができていなかったようです。
 
 
 
愛や相手を思いやる気持ちが大切なんだ、と言われたら誰でも、そうだ、と思うはずです。でも、それって具体的に形のあるものではないので、実は、本当にはわかっていません。甘やかさせる愛もあれば厳しくする愛もあります。人それぞれ、愛は違います。それを追求している人もいるはずですが、多くの人は、知らんぷりです。
 
愛はいいですよね、難しい、とわかっていますから。しかも、なかなか、格が高い!
でも、体重はそうはいきません。もう、みんな、バカにしています(笑)。無くせるものならどんどん捨てたいはずです。
 
 
 
私はこれまで、時間だけはたっぷりとつかって稽古をしてきました。武道歴だけで言うと、もうすぐ40年です(笑)。
体重の凄さに気づいて、これまでの稽古ががらりと変わったんです。
この先、このたった一つの気付きで人生が変わるのを実感しています。いや、もう、すでに、あらゆる行動が体重を基準に始まっていますもん。楽しくなるのは間違いありません。
 
 
 
また、改めて書きますが、こんな風にもいえるかもしれません。
自分にはまだ気づいていない潜在的な能力があるはずだ、脳の力は数%しか使われていないっていうし。でも、その脳を活性化するにはどうしたらいいんだろう?努力で大きく変われるとは思えないし。
 
潜在能力については不思議なことがいろいろなところで目にするようになったので、ある、という事を信じている人は多いはず。でも、手がかりがないんです。その手がかりというか、正体が体重なのかもしれない、そう感じています。
 
 
 
また報告します。お楽しみに!
実際にこの「当たり前の体重」を感じてください。お近くに講座がある人は特に。東海地方は転々としてますので、気楽にどうぞ。
カラダラボのWebサイト

「死ぬ」のが怖い

 常識っていうのはいつの間にかあるもの。当たり前すぎて疑いようのないものだ。
 毎日常識って何だろう?と考える人がいれば、きっと、変な人に見えると思う(笑)。
 
 
 そして、私はその「変な人」だ。
 武術を通して身体感覚が「ある」事を知って、それまでの常識がガラガラっと壊れた。
目から鱗が落ちた、というのも同じものかもしれない。
 初めて甲野先生の技を受けたとき、その技をどう言葉にしていいのかわからなくなった。一瞬にしてパニックになったのだと思う。
 武道の世界には不思議な技ってたくさんある。指先一つで投げられたり、抑えられたり。触れずに相手をコントロールするものまで。
 ただ、こういう「不思議すぎる」技にはタネがあることも無意識はよく知っているんだろう。不思議だ!と心は奪われても、すぐに忘れる事ができる。
 
 
 
 甲野先生の技は不思議なんだけど、不思議じゃなかった。
 感度を敏感にして、相手の動きを注視する。目だけではなく、指先にまで神経を行き届かせてわずかな動きも逃さないようにしていると「なんとかなる」。これが私の中の当たり前だった。
 ルールの中で勝ちを得るにはそこからまた工夫が必要なので難しい問題は山ほどあるけど、ただ、手を出す、しかも、かわしたり、フェイントをかける事無く、ただ、まっすぐ手を出すという状況で「何度やっても」崩されてしまったのだ。
 
 
 
 もちろん、この動きの中にも「タネ」はある。しかし、そのタネは心という不思議なものにあるのではなく、当たり前だと思っていた「身体」にあった。さらに甲野先生はその「タネ」を惜しげもなく、術理として言葉にして全部、教えてくれたのだ。
 
 当時は若く、頼りにする実績もなかったので、鱗を落としてくれた甲野先生の技を追いかける事に躊躇はなかった。自分の持っていた最大の運はこの瞬間だったかもしれない(笑)。
 もし、これが、ある程度の役職を得て、その立場の中で甲野先生と出会っていたら、その技を身につけたい、と考えても、すべてをすててそこにいく事は決してできなかっただろう、と思う。中途半端に組み合わせようと思っても絶対に無理だから。
 
 
 
 それでも、どんな事があろうとも、そんな常識、しがらみを捨てて、自分の「この先」を考えなくてはいけないと思う。
 私の「先」はなんと言っても「死ぬ」という事。なにより、死ぬ事が怖いのだ。
 死ぬってなんだろう、死んじゃったらどうなるのかなぁ。調べればいくつか「答え」は見つかるけれども、どれにも納得できるものはない。頭だけわかっても、安心はぜんぜん生まれない。
 
 
 
 「死ぬ」という事に恐れを持ってしまうといろいろと大変なのだ(笑)。
 どんなに力を得ても・・・それはお金や、権力や、名声であっても・・・、最後にやってくるだろう「死ぬ」という事実を考えると「役に立たない」ものになってしまうから。
 この先、世の中はさらに便利ですごい機械が発明されてくるはず。人間がこれまでいけなかった世界、宇宙だったり、時間旅行もなんとかなっちゃうかもしれない。でも、怖いのだ(笑)。
 
 
 
 「死ぬ」事を恐れてしまった人に明るい未来を描かせるのは無理かもしれない(笑)。
 しかし、世の中は未来へと向かっている。身体は必ず老いていくからだ。
 
 
 
 でも、今、私は未来に対してものすごく明るい。相変わらず「死ぬ」のは怖いけれども、きっと死ぬ頃には平気になっているんじゃないだろうか、という確信がある。
 稽古を通して見つかっているのは、子供の頃の自分の気持ちなんじゃないか、と思う。
 新しく気づくパワフルな動きは新しいものではなく、子供の頃の自分の気持ちなんだと思うようになってきた。
 
 子供たちはいろいろな事を「気にしない」。大人になっていく中で人と自分とを比べ、変わる努力をしてしまう。でも、オギャー、と生まれた瞬間はなにも気にしていないはず。
 
 
 
 武術は「具体的に」自分が「平気」かどうかを試す事ができる。自分の見ている世界が広がり、大丈夫だとわかると、次に同じ状況が来ても、気にならなくなってしまう。そんな不思議な体験が稽古をすればどんどん経験できる。
 
 
 
 「寿命」という言葉を作ったのは誰だろう。
 0歳でなくなっても、100歳でなくなっても「寿」命なのだ。言葉の上ではそれをわかる事はできても、身体を通してそれを感じる事は簡単ではない。
 自分の中の「死ぬ」という現実を「当たり前」として捉えられたとき、「寿命」という事がもう少しわかるかな、と。
 
 
 
 こんな事を考えるのは私が子供の頃から少林寺拳法という武道をしていたからなのかもしれない。身体感覚を知る前はこんな自分を「めんどくさい奴」とものすごく嫌いだった。でも、今は違う。自分の事をしる手がかりが「身体感覚」だとわかったからだ。
 
 
 
 今はなんとなく生きると、なんとなく生きられてしまう時代。便利な道具がいっぱいあり、ずっと、若者でいられる時代。でも、かならず、「死ぬ」直前はきっと来る。現実を見ないままずっと夢の国を暮らしているようなものかもしれない。
 
 誰かが「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」と言ったそうだ。良かれと思って世界は変わっていく。それはそれで仕方ない。それでも、自分の身体は自分の意思で掘り下げる事ができるものなのだ。これからも、めんどくさい、変な自分を楽しみに生きていく事にしよう。
 
 
 
 身体感覚からみた自分を知りたいのならカラダラボか、名古屋緑道院、愛知大府道院へどうぞ。

やっとのこと、屏風座りに手がかりが。

 火曜と金曜はいつも、こんな時間に帰ってくる。
 6時から9時までは少林寺拳法の練習、そして9時からは古武術「大人の武道塾」だ。
 その大人の武道塾はいつの間にか終わる時間が1時ごろになってしまった。それも、こちらでそろそろ終わりますよ、という雰囲気を出してやっとだ(笑)。皆、仕事があるにもかかわらず、「楽しい」ものに向き合っていると疲れないらしい。
 
 
 
 今日もこのまま寝ようかと思ったけど、記録的にでも書いておきたい、と思ったのでパソコンに向かうことにした。
 
 とにかく、義務感ゼロ、興味100パーセントの仲間たちに囲まれていると、毎回、新しい発見が出てくる。以前ほどブログや小冊子を書かなくなったのは、その発見のスピードに書くスピードが追いつかなくなってしまったからだ。
 
 それでも、今日はちょっと、ターニングポイントになるかも、という発見があったので、言葉に残しておこうと思って、がんばって書いているのだ(笑)。
 
 
 
 その発見とは甲野先生が重要視されている「屏風座り」に手がかりが見つかったということ。
 私の講座や稽古に出られている方はお分かりだろうが、私は師匠である甲野先生の技をほとんど練習しない(笑)。なぜかというと、できないから。そして、できそうにないからだ。
 ただ、勝手に工夫をしていくと、時々、あっ!と気づくことがある。今日の稽古のまさに、帰りがけ、それがあった。
 
 
 
 それまで、屏風座りはまったくできずにいました。そして、今もそう(笑)。
 それでも、この発見がこの先、屏風すわりに近づく大きな発見になる確信がある。
 
 そのポイントは「立たない」という事。
 自分の中の無意識が「一人で立たなくてはいけない」というものを大事にしている、事に気づいたのだ。
 
 
 
 自分の目の周りにはたくさんの人がいて、モノがある。頭の中には明るい未来もあれば、ありがたかった過去もある。そういうものに頼る事無く、自分の力で立たなくてはいけない、という力みが自分の中にあったのだ、と気づくことができた。
 
 
 
 私の稽古はいつも「柾目返し」だ。片手を片手、もしくは両手で十分に押さえてもらう。その「自由」を奪われた中でどう「自由」を感じて動くか、ということが稽古できるすごい技だ(笑)。
 
 「立たない」という事を意識してその柾目返しをやってみると、これまで感じたことのない滑らかな動きが生まれてきた。
 武術はすぐに答えが出る。頭の中ではまだまだ未整理でよくわからないものも、身体を通してこれは「なにかある」という結果が出てくれるのだ。結果が出ているのだから、後はそれを完全に信頼し、その意味を求めることができる。
 
 この稽古の仕方でどれだけの人生の秘密に納得が行ったかわからない(笑)。まさに、大人の武道の楽しみ方だと思う。
 
 
 
 ちなみに、この立たない立ち方で動くと、それまで練習したことのなかった背中合わせの相手抜きも楽にできるようになった。練習せずにできるようになる、という事が「身体にはある」のだ。
 
 
 
 また、この気づきからの展開はなるべくこまめにご報告します。
 
 
 
 仲間募集中です。深夜の練習なら、数もありますので、遠くの方もどうぞ。