稽古日誌

ライフワークって

ふと、本棚にあったライフワークを見つけよう的なものに目が行き、久しぶりに手にとってパラパラとめくってみました。もう、10年以上も前に手に入れたものです。当時は楽しく仕事をしている、というよりも、生活のために仕方なく、という気持ちの方が大きかったんです。自分の一生って何だろう、なんて考え、模索をしていた時期だったんだなぁ、って懐かしく思いました。
 
そこに書いてあるのは、まさに正論、読めば読むほど、そうだよなぁ、と思えるものの、実際に仕事はあるし、生活はなかなか変えられない、っていうジレンマばかりを大きくしてしまったような覚えがあります。
 
でも、今、改めて読んで見ると、自分が今、この瞬間生きて生活している時間はライフワークそのものだ、って気づかされました。
当時分からなかったものを気がつけば、手に入れている、って不思議です。
 
 
 
ただ、一つ、違うのは、当時その本を読んで感じたことはライフワークにできる「なにか」を探さなきゃ、と思った事。でも、実際に今、幸せだなぁ、と思えるのは、自分のこの身体を通して、感じられる感覚が遥かに大きくなったから、何です。探しても探しても見つからなかったのは当たり前かもしれません。だって、どんなに探しても自分の感受性がカチコチだったんですか(笑)。
 
でも、今は違います。嫌な事、不安な事に出会っても、そこからそれまで見てこなかった自分を見つけられるって分かったんです。これはとっても、楽しいこと。この気づきこそ、ライフワークといえるものを手に入れるのに大切なものだと思っています。
 
 
 
今、幸いにも、身体の楽しさを伝える事を仕事に出来ました。好きな事を伝える事をして、仕事になっているんですから、四六時中楽しいに決まっています。
でも、実は、ちょっと違うんです。
 
 
 
もし、今の状態、例えば古武術を教える仕事が出来なくなって、それまでと同じように、好きでもない仕事をしなくてはいけなくなっても、今と同じように、楽しい自分でいられるだろう、って確信があるんです。
先のことはわかりません。もしかしたら、明日事故にあうかもしれないし、病気が見つかるかもしれません。・・・でも、なんとか楽しい自分でいられるだろう、って思うんです。
生きている以上、色んなことに気づくはずなんです。そんな事を学ばせてもらった甲野先生にはどう感謝をしていいのかわかりません。
 
先生自体にお返しをする術を持たないので、これは、もう、まわりに振りまくしかない、と考えています。
少しでも、多くの人に甲野先生との縁をつなぐ役目をしよう、と。
 
 
 
ご存知のとおり、甲野先生の教え方は普通ではありません(笑)。
一言でなにも教えない教え方、と良く言ってしまいますが、実は違います。しっかりと言葉にして、教えてくれようとします。もう、それは、ものすごく丁寧に。
ただ、その先生が言葉にする言葉が全く分からないんです(笑)。
きっとその理由はその言葉を受け取るだけの身体が無いから。でも、その時聞いた言葉と、実際に身体を通して受けた感覚がどこかでバチッと会うと、自分の中で気づきとなって生まれるんだと思うんです。
そんな事を私はずっと、経験してきました。
稽古を通して気づく事は誰かに教わったというよりも、自分の中に見つけたっていう気持ちが大きいんですが、よくよく考えて見ると、やっぱり、甲野先生からもらっていたものばかりなんです。
 
 
 
なかなか一人では稽古を続ける事も難しいかもしれません。そんな時は、成果を求めず、ただ、参加して、同じ時間、同じ空間を共有するだけでもいいと思います。私がそうでしたから。
もしかしたら私と同じように、ものすごいものをもらっていた・・・と気づくのに10年、15年かかるかもしれません。でも、稽古をやめなかったからこそ、その事に気づく事が出来たんです。
こういう時代です。頼るべきものが見つからないなら、身体、というものを育てる事をひとつ、趣味にしてみるといいんじゃないかなぁ、と思います。
1/25、26日に浜松、名古屋にて甲野先生の講習会を開催します。
ぜひぜひ、お越しください。人それぞれ、刺激の受け方が違って面白いですよ。
詳しくはカラダラボのウェブサイトをごらん下さい。

指導者としての自覚

毎週月火木金の夜は少林寺拳法の時間。
私が子供の頃は何十人と門下生がいたものの、今はその半分以下。体の感覚を通して「気づき」を重ねていく学び方の大切さを知ってからは、大勢を一斉に指導するにはどうしたらいいのだろうか・・・と迷っていたから、丁度いいと言えば丁度いい。
 
 
 
考えて見ると、私が子供の頃はただ、号令のもとでひたすら体を動かす。そんな練習の仕方だった。教えがあっても、それをどう考えるかなんてほとんどしなかった。ただ、それでも、「教え」として目指すべき道が確実に示されていたからこそ、今、こうして、少林寺拳法の先生をしているんだと思う。
 
 
 
少林寺拳法ってのはたぶん不思議な武道だ。
まぁ、その他多くの武道をそれほど知らないからあれだけど(笑)
大会に出て入賞する事に重きを置かないし、段位が上だからといって偉いわけでもない。分かりやすいゴールが外からは見にくいんだと思う。
 
だからだろうか、少林寺拳法の先生は皆、個性的である。
自己確立、自他共楽、という大きな意味での道しるべをそれぞれの先生が自分なりの解釈を持って指導しているんだと思う。
 
 
 
私の場合は・・・というと、これまでずっと、指導者というよりも、修行者だったんだ、と改めて思った。
体の感覚を認識して、それを元に稽古をする学び方は現代においては、ほぼ、見られなくなっている。マニュアルな指導というか、どこから見聞きした知識の組み合わせの練習ばかり。
 
練習、稽古、というと、勉強に近く、多くの人がそこに苦痛も感じている。苦労する経験があるからこそ、身につくのだ・・・と。
しかし、それが違ったのだ。
 
 
 
興味を持って稽古に向き合うと、もう、どんな時でも、体の事を考えてしまうようになる。自分の体にこんなにも可能性が残っていたのか・・・という気持ちは子供の頃、運動オンチだった人ほど喜びとして感じてもらえると思う。膨大な利子が付いて帰ってきたようなものなのだ(笑)
 
 
 
運動オンチの人でなくても、我々は皆、歳をとる。老いるのだ。
年々動かなくなっていく体を喜ぶ人は少ないだろう。
 
体を通しての稽古はその常識が間違いだった、と教えてくれるのだ。
 
 
 
そういう楽しさを感じたからこそ、まず、子供たちには自分が楽しく体と向き合い、練習をする、という姿勢を見せる事が一番なんだ、とやってきた。
もちろん、それは今でも変わらないけど、そこにもう一つ、向き合い方を得たのだ。
 
それが「上から目線」。
ネーミングは偉そうだけども、中身はもうちょっと真面目(笑)。
自分がやっている事に自信を持って、伝えていく、という事。
 
 
 
これまで、ずっと、自分に対して劣等感を持って稽古をしてきた。その劣等感が無くなり続けるところに楽しさを感じていたんだけど、それを聞く側からみればきっと、頼りない指導者に見えていたはず。
自分の気持ちの中では一修行者と言っても、子供たちから見れば先生だもん。
 
自分に対しての劣等感も姿勢から来ているのだ、と実感する事が出来たのだ。
 
 
 
自分がなにかに向き合ったときに感じてしまう恐れ。それはその向き合った対象と自分とがピタリと揃ってしまったからこそ生まれてしまう。
骨盤を締める事を見つけたときに、細かく左右へ体をずらせる事に気づき、ずいぶんと心を楽にすることが出来た。
その感覚を応用してみると、上方向へも自分をずらす事を実感したのが、つい先日の火曜日のこと。
 
 
 
以来、少し上から自分と相手を観察するようにしている。
なにがどう変わっていくかはこれからだけども、自分の気持ちの中にこれまで感じたことの無かった指導者としての気持ちが沸いてきている。
 
 
 
私の父は少林寺拳法を大人になって始めた人。開祖という憧れる存在に出会い、その教えを広めようと人生をかける事ができたのは、自分の中に教えを通して変われた自分を感じられた自信があったからだと思う。
 
でも、私は物心つく前から道場にいた人間だ。
自分に自信を感じたことなんて一度も無かったし(笑)
少林寺拳法を好きになれたからこそ指導者の道へと進んでみたけど、伝えられるのは楽しく自分の体と向き合う姿勢だけだった。どこかに自分は体の事を好きになれたけど、それをうまく言葉に出来ない弱気な自分がいたんじゃないかな、と思う。
 
 
 
ちょっと上から自分を観察できるようになり、自分の取り組みの仕方は今の時代にあっているのかもしれない、って思えるようになった。
 
カラダラボではこれからも模索を続けていくつもり。
そして、カラダラボにはその模索を一緒に楽しくしてくれる仲間が集まってくれている。
 
少林寺拳法には教えがある。模索はもちろん必要だけども、進むべき道を示してくれているのだ。特に子供たちには大人になった時に自分に自信を持ち、強く生きていく事を伝えていくことが必要だろう。そしてそれを子供たちに伝えるのは、全ての親に課せられた義務だと思う。なんとなく勉強させて進学させる。名の通った会社に入る。そんな事が幸せに直結しないのはもう、みんなわかっているはず。
それでも、それ以外の幸せの道が分からない人も多い。
知識としての答えは山のようにある時代だけど、実は体の感覚がなければそこに納得もなければ、自信も生まれないのだ。
 
古武術でも少林寺拳法でも、体の感覚の大切さとこれまで見過ごされてきた不思議さを一生懸命伝えていこう。
 
 

上から目線の技

気がつけば11月。今年もあと、一月ちょっと・・・。信じられません(笑)
 
 
 
色んな意味で忙しさを味わっていますが、少しずつ落ち着く事も出てきたので、また、稽古日誌を再開できそうです。
日記は更新できなくても、技や術の気づきはどんどん出てきます。気づきの多くはつながりの中で出てくるモノなので、出来ればそのつながりを眺めていて欲しいなぁ・・・なんて。
 
 
というのも、新しい動き方が見つかると、それまでの動き方の説明が端折られるから(笑)
いや、丁寧に説明をすることもできるんですが、どうしても、気持ちは新しいところに行ってしまうから。まぁ、最新の動き方は興奮している分だけ分かりにくい、ってのもあるかもしれないので、どちらがいいとは言い切れませんが。
 
 
 
先週の金曜日、短刀取りの稽古の際、体がグッと下に「落ちていきました」。
これまでも「膝を抜く」という動きを通して重心を下へ落とすという動きは行っていましたが、それまで感じたことの無い「落ち方」でした。
落ちている間、体がふわっと浮いたんです。きっと、エレベータが落ちる時ってこんな感じです(笑)
 
 
 
体が浮いている間、足は使えませんでしたが、手は動きます。
足が使えないため不自由になるかと思いきや、手も軽いんです。どうも、体に生まれる緊張が出てこないからみたいです。
 
 
 
甲野先生は昔、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような動き、と通常の動きを語られていました。
改めて恐怖を感じてしまったときの体がブレーキになっている事に気づいたんです。
 
自分の体にこんなにも「ブレーキ」がかかっているとは夢にも思いませんでした。
 
 
 
あれから3日間。
今日、一つのアイデアを秘めて稽古に向かいました。「ずれ」です。
骨盤を締める事に気づいた時、体からねじれをとる事で、固まった体を横へとずらす事が出来るようになりました。横への微調整で相手からの攻撃に対して体の緊張を生まなく出来るんです。
 
 
この動きが出てから短刀取りへの恐怖心が全然違ってきました。また、苦手な人、苦手な事に対する自分の向き合い方を変える事も出来る、とわかりました。実は自由だと思っていた世界はとっても不自由な世界だったのです(笑)
 
 
 
もしかしたら、これと同じ事が「上下の方向」にもあるかもしれない、そう考えたんです。
今日、今さっきですが、色んな技で試してきました。結果は思った以上に効果的!
相手の動きに惑わされず、冷静に眺め続ける事ができました。
横方向へのずらしは「突き」に対しては有効でしたが、「払い」に対してはずらしきれずに、課題になっていたんです。
それが上方向へとずらして見ると、それまで困っていた払いの動きに対しても体を固めず、見ていられます。
 
 
 
この感覚、まるで、「上から目線」です(笑)
余裕を持って、目の前の相手と対峙できるんです。
頭で考えれば怖い事が、体の動き方を変えて見ると、平気になる。斬られてもいいんです。ただ、心にビクリビクリを作りたくなかったんです。それが可能になる動きです。
こんな急激な変化をこれまで、何度も体験してきましたが、この短刀に対する動きは長年の夢だっただけに、思わず、日記を書いちゃいました(笑)
 
 
 
ただ、いつものごとく、この新しい見方はこれまでにも平気な時には当たり前に行われていたのも感じています。恐怖に対して体を緊張させるのは、そのことに対して「出来ない」と自分で決めているんだ、と改めて感じています。
自分自身、これまでずっと、自分に対する評価をずっと、落として生きてきました。でも、やっぱり、人間は凄いんです。それを体感してしまった以上、それを伝えないわけにはいきません。
 
実はこういう気づきで何ができるか、ってのには興味がありません。もちろん、スポーツにも仕事にも、武道にも即使う事は出来るでしょうが、どうでもいいんです。ただ、自分の事をちゃんと知った上で生きていくならば相当楽しいんだ、それが伝わってくれたらなぁ、と思います。
 
 
 
久しぶりの日記なので、グダグダ感満載ですね(笑)
稽古で違いを感じてもらいます。
 
 
 
そうそう、体の動きと五行説の関係、斬るって話も書いて残しておきたい、と思っています。また、お付き合いください。
 
 
 
甲野先生の浜松稽古会、現在募集中です。
今回は平日の月曜日、夜ですが、もし都合がつくならご参加ください。
今回も懇親会まで考えています。
平日なので、いつもよりは人数は少なめになるはずです。濃い時間を共有できると思いますよ。
詳しくはカラダラボのウェブサイトをごらん下さい。

縦軸と横軸、時間軸と可能性

今を生きる人の集いに参加してきました。
噂に聞いていた以上の濃い時間と空間であり、どう言葉にしていいのか分からないほどの混乱を山ほどもらってきてしまいました。
 
月曜日の早朝に帰ってきましたが、まだ、身体がぼーっとしてます(笑)
 
 
 
きっと、あの場所で過ごしたどの瞬間も「今」だったんだなぁ、と。
時間がコマ割され、自分の求めている講座へと出られるようになっているのは普通です。
しかし、講座が始まって見ると、その講座を受講しなにかをしたい、という未来への期待も、自分の過去にひきづられる事もなくなります。ただ、その瞬間、その場を楽しむ事ができました。
まさに、「今」です。
 
 
 
ただ、この「今」はそこに集ったたくさんの方がその瞬間を共有した事で生まれた空気に助けられたもの。この「経験」がこの先、間違いなく、自分の「今」を常に感じられるようになるためのきっかけになるはずです。
 
「今」を感じた事で改めて見えてきたのは自分の中に生まれる過去と未来のこと。
最新の脳研究によると、記憶というのは「その都度」、頭の中で作られるものらしいです。つまり、脳研究の場でも「今」しかない、と分かってきているって事でしょうか。
 
 
 
どんなに頭で「今しかない」と知ったとしても、この身体で感じて見ると、明日はあるし、1年後も間違いなくあります。そして、いつか、死ぬであろうその瞬間も。未来は頭の中で作られ続けています。
 
自己啓発、宗教のような世界では取り越し苦労はしてはいけない、といわれます。そして、それは皆、良く分かっているはず(笑)。
分かっていても出来ないのはなぜだろう・・・、ここに生きていくことの難しさがありますよね。
 
 
 
身体はそんな「問い」に対して答えをくれます。
今日は自分の中に生まれる時間の話をしますね。
 
 
 
最近、骨盤をどう使えばいいのか、という事が分かりました。
本屋さんに行けば骨盤をどう使えばいいのか、というのは山ほど見つける事ができます。しかし、多くの場合、知ってはいても、なぜ、そうでなくてはいけないのか、よく分かっていません。
実はこの骨盤は「横方向の自由」を生むものだったのです。
 
 
 
 
心と身体は一つです。一つであるから、それぞれに生じたストレスや喜びは瞬時に関係を作ります。
自分の頭でどんなに「自由」を願ったとしても、身体そのものが「不自由」つまり、「動けない」状態であれば、自由を感じられるわけがありません。
 
骨盤の働きに気づく事が出来たからこそわかったのですが、どうやら、この数十年、私は一歩も横に動けていなかったみたいです。
横に動けないからこそ、目の前に広がる道は1本しかありません。その目の前に障害が出てくれば力の大小で片つけるしか方法がなかったんです。
 
でも、横方向へと自由に動けるようになれば、今度は「かわす」事が出来るようになります。その「自由さ」が骨盤を締め、身体のアソビをとる事で感じることが出来るようになります。
 
 
 
もちろん、中には戦いたい人もいるでしょう。
この話を中高生の若い人にしてみると、反応が薄いんです(笑)。
現実に動きとしては力がぶつからず、理想的な動きに近づきますから、求めていた技になるんですが、どうも、食いつきがわるい(笑)。
きっと、彼らはもっと「衝突」したいんです。そして、衝突しても負けない強い力が欲しいんだと思います。
確かにスポーツや勉強といった、決まったルールの中で生きている子達ですから、横にかわすという発想がないのかもしれませんね。
 
でも、大人になれば、ルールはどんどん消えていきます。むしろ、新しいルールを作る側になる事を要求されます。
大人にこそ必要なのが横方向への柔軟性だと思います。
 
 
 
横の話をしましたが、縦方向は簡単です。
前を向いたり、後ろを見たり。縦の方向は自然としてしまう時間の流れだと思ってください。
 
このまままっすぐ前に出ていいだろうか?と考えて見ると、ちゃんと頭に答えがやってきます。このままだとぶつかりますよ、と。
問題はここから。
 
答えが分かっていても、なお、そこに居続けてしまうんです。
なぜなら、それは、物理的、身体的に、この身体を横方向へと動かせないから。
 
 
骨盤の動きに気づく前の私は地面を足で蹴るか、腰に頼って動こうとしていました。
これらの動きは「ねじれて」しまうんです。
ねじれてしまうというのは、「その場」ですから、目の前からやってくる力にどうしてもぶつかってしまいます。
今でこそ、それを感じられるので、まずは横に・・・とわかりますが、動くという事自体を経験していなかった時には、どうしても、衝突ありき、になってしまっていました。
 
 
 
横方向の動きは「可能性」です。
相手の力に合わせてみれば衝突ができるし、少しかわせば、当たらずすれ違う事ができます。
好きな人や大切な人とはまっすぐ正面からぶつかればいいし、苦手な人とは少しずらして、すれ違えばいいわけです。
でも、普通、こういうのって逆になりますよね(笑)
 
 
 
現代に生きていれば山ほどの知識が嫌でも入ってきます。そして理解という消化のできないまま過ごさなきゃいけないわけです。
これまで私がやってきたアプローチは純粋な武術、武道とは違うかもしれません。
その理由は子供の頃からなじんできた少林寺拳法が教えのある武道であったからかもしれません。
自分の中の気持ちをどう納得させるか、その迷いが出ていた時に出会ったのが甲野先生でした。
 
 
甲野先生はひたすら「身体」を見る事を教えてくれました。
少しずつ、「自分の身体」を感覚的に知る事で、自分の中にあったたくさんの知識に納得ができるようになったんです。
 
最近、このアプローチは「武」ではなく、「瞑想」だな、と思うようになったんです。
なにをどうする、というよりも、それぞれ、一人一人が自分の内面に目を向けてみれば、それぞれが持っている経験や知識から、また、新しい力が出てくるのを確信しています。
 
手を合わせて稽古もしますが、それは誰かと争い、競うためではなく、その瞬間の自分を感じるために試すものです。うまくいかないものが見つかれば、そればまた糧になり、うまくいくものが見つかれば、安心です。
きっと、私たちの体や心、頭の中にあるたくさんの経験と知識は一生かかっても消化できないはず(笑)
ならば消化そのものを楽しむのもいいんじゃないかなぁ、と思っています。
 
 
 
気楽に体と向き合えるように、競い合う事の必要の無い「瞑想」の時間を作りました。
ただ、この瞑想は目を瞑ってなにもしない、というわけではありません。
むしろ、普段のままの自分を観察する事のできる目を作りたいと思っています。
稽古、練習、瞑想の時間をわざわざ作ればどうしても、無理が出てきます。
でも、普通に過ごす日常全てを観察する事の出来る目を手に入れれば、いつでもどこでも、楽しい発見をする事ができます。
 
 
 
武術は生を求めるものなら、瞑想は死を肯定的に認める事かもしれません。
なにかに気づいてしまった瞬間、それまでの自分は古い自分となります。体はそこにあっても、それまでの古い心は死んでしまうからです。
あらゆる手を尽くして、体が死ぬ直前まで、楽しく居続けたい。それが私の願いです^^
 
 
 
お手伝いしてくれる方もみつかり、まずは掛川、名古屋で行います。気楽にお越しください。
2013/11/06(水) 名古屋 PM7:00~PM9:00
 
 
 
そうそう、甲野先生が11月4日に名古屋へ来られます。
こちらも受付中ですので、ご確認ください。
甲野先生の名古屋講習会 (一応定員あります。)

興味を持つという事とは

気がつけば、ブログの更新がひと月振りです。
改めて、自分のブログを読み返して見ると、たったひと月前の事が遠い昔のような感じがして不思議です。
 
 
 
前回、「猫背」について書きました。
肋骨を背骨とつなげる事で、腰に負担をかけずに、体を動かせる事に気づいたんです。
もちろん、それは今でも有効ですが、それを意識して行う、というよりも、自分の体をちゃんと使おうと考えて見ると、それ以外はありえない、そんな気持ちです。なぜ、これまで、ずっと、こんな事に気がつかなかったのか・・・よくわかりません。
 
 
 
振り返ってみると、甲野先生とお会いしてから18年、ずっと、こんな感じでした(笑)。
出来なかった事ができるようになり、そこに成長を感じていました。
意識をして勉強していた時には出来る気配すらなかった事が、教えてもらう、という姿勢を止め、自分の体の感覚を求め続ける事をしてみたらどんどん出来るようになっていきました。
 
信じられないかもしれませんが、そこに「努力」も「苦労」もありません。ただ、ひたすら、自分の体に生まれてくる新しい感覚を楽しみ、何が変わっているのかを探っていったら「いつの間にか・・・」なのです。
 
 
 
不思議なのは、それまで絶対に「無理」と思えた事が、気づき一つでなぜ出来ないと思っていたのか不思議、という気持ちになれるんです。
そう、まるで、自転車に乗れるようになった感覚です。
 
 
 
先週末、金曜の深夜の稽古、土曜の大人の武道塾と濃い稽古をすることが出来ました。
大人の武道塾は決められた技も手順も練習もなにもない時間です。ただ、ひたすら今その瞬間やりたいことだけを求めるんです。
いつも「発見!発見!」といっているので、またか、と思われる人もいるかもしれません(笑)。でも、新しい感覚に気づき、出来なかった事が出来るようになる、自分の体を通して、自分の事がわかってくる感覚は興奮するな、という方が無理です(笑)。
 
 
 
週末の稽古で気づいたのはなんと頭蓋骨!
その中心にあり、多くの骨をつないでいる蝶形骨という骨があります。
その骨を意識して、動いて見ると、それまで動けなかった精度で自分の体を動かせるようになりました。
 
 
 
心と体は一つです。
こんな言葉は良く聞きます。でも、それを実感して、生き方に実践している人がどれだけいるでしょう。多くの場合は気持ちよくなれば、健康でしょ、みたいな感じです。
これ、感情が振り回されちゃったら、体が悪くなっても当たり前じゃない!って言っているのと同じです。
 
武術は違うんです!
武術は最初から、目の前に「敵」がいます。敵がいるところから始めるんです。敵がいれば当然、心に「嫌」が生まれますよね。その「嫌」をどう、自分の中で消化し、受け入れ、行動するかを求めているんです。
 
 
 
蝶形骨で動いて見ると、そこに感じるのは「興味」です。
自分が興味を持ったものに向き合っているときの滑らかさを感じました。
 
 
 
考えてみて下さい。
目の前の嫌な仕事を片つけようとする時と、待ちに待った楽しい事を行う時を。
気持ちを隠し、面に出さないようにしても、なかなか全てを隠す事はできません。体には現れてしまうんです。
 
この時の違いこそ、蝶形骨だ!と自分の中に確信が生まれました(笑)。
 
 
 
ここ大事です。
人生の中で「自分の中で分かった事」があるかで幸せって変わってくるんです。
なにかが「出来る、出来ない」ではなく、「わかっているか、わかっていないか」なんです。
分かっていれば失敗は学びになり、どんどんよくなります。
でも、分かっていないで失敗や成功を経験しても、それはいつか来るどんでん返しに敵わないから。
 
 
 
蝶形骨は眼の奥にあり、蝶の形をしています。左右に羽を広げている形をしています。
この左右の羽を意識して、どちらか一方を先に行きたい方向へと流すんです。
すると、もう片方の端が自然と導かれて行きます。片方の端に隠れる感じなんですが、伝わりますか、この感じ(笑)。
 
 
 
興味がある事に向き合ったとき、人は顔から動いているはず。
くんくん、犬がにおいを嗅ぐように歩くのもそんなイメージかも。
 
 
 
 
もしかしたら役者さんはこんな事、簡単にやってのけるのかもしれません。
まったく今日の無いものに興味を向ける事なんて簡単、と言うかもしれません、
でも、僕らは演技の練習なんてしてませんもんね。
 
でも、自分の体の事がわかれば、自分の体を使いきり、振舞う事が出来ます。
 
日本はお作法の国です。
時にそれは個性が無いものと見えるかもしれません。でも、それは間違い。お作法を通して、自分の体を使いきる事を伝えてくれているんだと思います。
 
 
 
心と体は一つです。
体を使いきることができれば、当然、心もしっかり、目の前の相手に向き合えるはずです。
私はずっと、自分の言葉が薄っぺらくって自信がもてませんでした。
だから人と出会う事にコンプレックスを持っているのかもしれません。
でも、こうして、少しずつ、体の事を知る事で、今、自分が行える全部を相手に渡せている実感が持てるようになってきたんです。
 
今の時代、刀で斬り合うことなんかありません。
精神的なストレスは大きくなっていますが、肉体的にはずいぶんと楽な時代になっています。
でも、だからこそ、自分の体の事が分からなくなり、結果、自分の心も見失って、自分がなんなのか分からない人が増えているように思えます。
 
 
 
先日、NHKで放送された甲野先生と堂本剛さんの番組でも「自分探し」としての古武術を語られていましたが、まさに、今、自分を知るために体から入る必要があると思います。
 
たくさんの知識を得ても満たされない心。
それをまた、頭でなにかをしようなんて、絶対におかしい。体でなら、そこに「ある」事がわかるんです。
 
 
 
この先、世界はどうなるんでしょう。
寿命は延びるかもしれません。もっと便利なものが生まれてくるかもしれません。嫌な仕事もしなくてもよくなるかもしれないし、食料の問題も解決するかもしれません。
でも、そうじゃない可能性も多々あります。
1000年後ぐらいの遠い未来はいろんな困難を乗り越えているかもしれませんが、目の前の30年ってあまり明るくないですよね。
 
でも、私は違うんです。
目の前にどんな事が現れても、なんか、体はそれを乗り越えちゃうかもしれないなぁ・・・と感じています。
私の回転の鈍い頭は答えをまったく出せないでいます。答えが出せないまま、時間だけを進めるって怖いですよね。
 
でも、私は頭だけで出来ているわけではない、って今は知っています。
この体の中にはまだまだ自分の知らない可能性が山ほど残っているんだ、って事を。
 
 
 
今私は40です。ふた廻りも上の甲野先生はいまだに気づきを積み重ねられ、生きることの楽しさを伝えてくれています。
たくさんの技も術も学んできましたが、なにより、先生の背中をみて生きていくことが出来た事が一番の宝物かもしれません。
 
 
 
今、カラダラボでは一人一人の稽古の場としての大人の武道塾を開催していますが、それ以上に、甲野善紀という人との出会いを提供している事の方が大切かもしれないなぁ、と改めて思いました。
出会う事によって伝わってしまう事があるんです。
甲野先生には9月にお越しいただいたばかりですが、また、11月始めにお越しいただき、稽古をしていただきます。
実は、甲野先生、前日に関西でお仕事、そして、この稽古会の翌日に岡崎でお仕事なんです。少し無理を言って、立ち寄っていただきました。名古屋という場所はお得ですよね(笑)
 
先日受付をし始めたばかりですので、まだまだ大丈夫だと思いますが、なにより、「感覚」を持っていって欲しいので定員があります。少しでも興味を持っていただいたのなら、ぜひ、ご参加ください。人生が変わってしまう・・・かもしれません。
 
 
 
よく頂く質問に「武道の経験は無いのですが、参加できますか?」というのがあります。
むしろ、なにも経験のない方にこそ、出会っていただきたいと思っているぐらいです。最近では未経験、女性の方も多くなり、時には半数以上がそんな方になる事もあります。
詳細はこちらのサイトでご確認ください。