次元について

突然、身体に電気が走りました。いや、「身体は電気だ」と気づいたと言った方がいいかもしません。
これまでも常識に縛られてはいけない、といろいろと考え、模索を続けてきました。その中で電気的な働きについても考えてはいました。
しかし、「身体が電気だ」というところまで突き抜けた事はありませんでした。しかし、今回、もう、電気のエネルギーとしか考えられない、と思うようになったのです。

これまでの身体は「塊」でした。主に使う力は「位置エネルギー」です。位置エネルギーなら疲れていてもなくなる事はありません。
身体にはいつも、備わっています。それをコントロールすれば、相手からは気配の見えにくい技となり、有効です。
しかし、有効すぎたからこそ、この世界から抜け出せずにいたとも言えます。

身体がエネルギー体のように実態を持たない。新しい身体はそんな感じです。
エネルギー体、というのは実にオカルトチックです(笑)。
これまでエーテル体、アストラル体、意味は分かりませんし、実感もありませんでしたが、肉体ではない私をつくるエネルギー体の話は聞いた事だけはありました。しかし、それを実感する時がくるだなんて、本当に驚いています。

電気というエネルギーを通してです。
私たちの肉体に、電気は非常に都合がよいのでしょう。電気を感じ、それに伴い、モーターを身体の中に見付けました。
そのモーターはいつも、回る事ができます。そして、反転する事ができます。どれだけ抑えられようが、その回転が止められる想像を持つ事ができません。自由を感じました。

今回、この電気とモーターの気づきによって、改めて「次元」について考えるきっかけになりました。
「次元」というのは普段あまり使わない言葉です。しかし、物理学の世界ではこの世界を示す単位のように使われます。普段耳慣れない言葉かもしれませんが、専門家だけではなく、普通の人でも、世界とは何かを整理して置ければきっと、生きる事の手助けになります。

次元が一つでも変わればそれまで困難だった問題が解決してしまいます。困難は同じ次元の中で生まれるもの、身体と次元をセットで考えればそれがわかります。
私にとっても、この解説は初めてのものになりますので、よろしくお願いします。

この世界について

まずはわかりやすい次元からお話します。
この世は「縦、横、高さ」の3次元なのはわかりますよね。学校で数直線や平面の勉強をしました。私たちのこの世界は縦横高さで出来上がっている3次元です。心はアニメの世界である2次元にいけても、身体はここに残したまま、3次元の存在です。

また、時間というのも次元になります。止まる事のない時間。常に、私たちは変化をしています。
ただ、テクノロジーの助けもあり、時間が止まっているかのような気にもなれてしまうのが現代です。
しかし、やはり私たちの身体は刻々と時を刻みます。身体の奥底、表面、どこの部分も時間の影響を受けています。

これらのなじみ深い次元からお話していきましょう。

3次元 縦横高さ

縦の次元を身体では「前」と考えてみましょう。
目の前には「前」の空間が広がっています。
「前」にはどんな世界が広がっているでしょうか?

もし、前がなければどうなっているのでしょう。どんな景色が見えるのでしょうか。壁があるのかな。いや、「壁がある」というのだって前です。
壁がなければその壁を破らなくてはいけないプレッシャーもありません。結構楽かも(笑)。ただ、やはり、見通しが効かない世界は私たちには窮屈です。

次元の世界はこんなにややこしい話ばかりです。これは私たちが3次元の空間を当たり前に考えすぎている証拠です。

同じように横もそうです。
横に広がりのない空間。窮屈ですよね。
となりに敵が来なくていいかもしれませんが、一緒に人生という道を楽しむ友達もいないことになります。
横の広がりも無くてはならないものです。

では高さはどうでしょう。
この高さ、100年ぐらい前はきっと、小さくてあまり影響のないものだったはず。
高い山に登り、世界を見渡した時、心広がります。
お城はあったかと思いますが、天守閣へと登れるのは限られた人たちだけです。庶民はずっと、大地のすぐ上にいました。

それが今、誰もが簡単に何百メートルの上へと登れます。飛行機だって開発されました。まだ、100年ぐらいです。
しかも、人類は宇宙へまで進出をしました。地球から飛び出す時、きっと高さを感じるはず。ただ、宇宙に出てからでは高さはなくなるような気がします。上下も左右も前後だってぐるぐる回り、全く違う世界観を持つ事でしょう。

ただし、私が宇宙へ行くのはまだまだ先。きっと、生きている間は無理です(笑)。

重力があり、大地があるから、空間としての3次元がわかります。
そして、その3次元の空間には「空気」で満たされています。これ、とても大切な事。ついつい忘れてしまいがちですが、空気があるからこそ、私たちは生きていけます。

世の中にはニュースが溢れています。
ニュースを聞けば地球に裏側があるのがわかります。自然に3次元は広がっていきます。
意識せずとも、この現代で暮らしているだけで、私たちの3つの次元は格段に広がっています。3つの空間的広がりを信じようとしなくてもいいんです。

これがもし、幕末の日本だったら・・・。
世界、と言っても村に住んでいる人なら住んでいる藩自体が国で、日本という国を考える事もなかったかもしれません。維新に活躍した人たちは日本と世界という広い視野を持っていたからこそ、命をかけて行動する動機を得ました。

ただ、そんな維新の立役者も宇宙にまでは目を向けなかったはず。
もちろん、太陽やきらめく星など、上へと意識を持っていた人たちはいたはず。しかし、身体を現実の行動には移せません。
私たちは少しずつ、縦横高さ、3次元の空間を広げてきたのです。すでに持っている3次元をまずはちゃんと見てあげてください。身体への努力はその後で十分、いやむしろ、歳を重ねて身体に頼れなくなった時、どれだけ縦横高さの3次元空間を知っているかが大切になります。

ネットの次元

私たちが3次元空間を忘れてしまってきたのは間違いなく、インターネットの世界でしょう。
生活のあらゆる場面にネットが入り込んでいます。そして、機械も。
私たちは日常生活でも、仕事でも重いものを持たなくても過ごしていけるようになりました。日常的な道具は軽くなり、仕事ではより働きを生む機会が当たり前となりました。

インターネットの中にも私は存在します。
ただ、その私は「アカウント」としての私。たくさんの私に分かれてしまっています。
この点はまた後程お話をしますが、とにかくネットの世界は身体的には大変です。たくさんの私なんですから、そもそもの空間の使い方、活かし方を知らねば、その世界に振り回されることになりかねません。

それにしても本当にこの数十年の進歩は凄いですよね!
機械が普及し、電化製品が生まれ、ネットがつながり、今、AIが誕生し、思考を補ってくれるようになりました。この先の10年、20年はさらに激しく世の中がかわるはず。
もしかしたら、私も宇宙を経験できるかもしれません(笑)。

私の周りに広がっている空間があります。
その空間で行われることに文句はつけられません。テクノロジーの進歩についても。
私にやれるのはその与えられた空間の中で生きる事だけです。その空間を飛び出す事はできません。生きている間は。

今回、こうして次元について伝える事で、少しでも空間と身体とを考えてもらい、その上であなたは自由であり、不自由だと気づいてもらえればうれしいです。

えっ、自由で不自由?
そうです。次元を理解していくにつれ、その矛盾した二つが同時に存在している事がわかります。お楽しみに。

時間という次元

時間は不思議です。そしてこれも次元として考えれば、身体には変化として見えてきます。不思議な時間への理解になるはずです。

心を通して考えると、時間は伸び縮みをするもの、かもしれません。
楽しい時間は一瞬で過ぎ、待ちわびる時間は長く感じる。同じ1分1秒でも感じ方が違います。
しかし、私たちの世界、主に3次元の空間においては時間は同じように流れます。
こんな不思議な時間をどう扱えばいいのでしょう。

私たちはテクノロジーと社会の進化で私たちは「老い」を気にせずに済むようになりました。ある意味、時間を忘れて過ごしています。
昔であれば力仕事がどの場面にも必要でした。隣町に行くのでも、歩いて行かなくてはなりません。
しかし、車があり、新幹線があり、飛行機があり、ネットで他人と繋がれます。肉体的力を使わなくても、コミュニケーションが取れます。仕事が出来てしまいます。
重い荷物を手渡ししなくても、数字だけをやりとしてお金が生まれるんですから、凄い事です。
身体まで忘れてしまうと、こういった事にも気づきません。

しかし、肉体には刻々と時間の力が働きます。
長く現役で活躍できるのは機械のおかげ、社会のおかげです。
いつか、この身体に病気として重い負担がみえてくるわけです。病気にはならずとも、老衰、という終わりが来ます。
その時、身体をどう考えているのか。これがものすごく大切です。

なぜなら、それまでがどれほど楽しく、愉快で、幸せであったとしても、命が尽きるその瞬間、まさに目の前に死があるような時に、重く苦しい動けない身体を見つけないとしたらもう、それは地獄。それまでの幸せがある分、余計に地獄が見えてしまうかもしれません。

もしかしたらその時には薬の力を借りて痛みを感じなくなっているかもしれません。でも、それもどうなのだろう?と私は思います。
命の最後を考えるとどうしても、行きつくのがココです。死をどう考えるのか。だから私は稽古を止められないのです。
なぜなら、稽古によって、この死に対してもそれを喜びの瞬間として受け入れる事ができそうだからです。

「身体は時間そのもの」と言ったらどうでしょうか。びっくりされますか。
しかし、時間だと考えてみると、その時間を不自由なく、動きを作り出せるようになります。時間そのものは手に取って動かせるものではありませんが、身体を通してなら、その変化によって、感じ方を変える事が出来るからです。

身体を時間として考えた時、3次元空間以外の次元が見えてきました。

いよいよここから「多次元」の世界へと入ります。

多次元空間

「多次元」なんて聞けば多くの人はSFの世界の事だと思われるかもしれません。
しかし、現代物理学の世界ではそれほどおかしなものとは考えられていないようです。むしろ、多くの科学者は既に多次元を認めているとの事。現実は既に変わってきているのかもしれません。

考えてみれば、私たちの頭の中はもう、3次元の空間には縛られていません。
連絡が取りたい時に、いつでもメールや電話で連絡が取れます。物理的な距離はもう、問題ではありません。
また、ネットの世界にいる私は現実の世界から切り離された存在、少しずつ性格も変わっているのかもしれません。

誰もが知る有名人になれば、イメージと現実のギャップがある事は誰もが知っています。
そんなギャップを誰もが持つようになっています。

聖徳太子は一度に10人の人との会話をこなした、と言われたりしますが、ごく普通の高校生だって、同時に10人とのコミュニケーションをとっていたりします。日常生活を送りながら、ゲームをし、SNSをする。その瞬間、いったい何人とコミュニケーションをしているのでしょう。外からでは見えません。

とにかく「多次元はある」という観点をスタートとすべきです。
その上で、どうしたら多次元を使いこなし、活かす事ができるかを考えます。求めれば必ず答えを返してくれるのが私たちの脳、身体、宇宙です。

多次元について話を進める前に、そもそも次元とは何かをここで定義しておこうと思います。学問的に正しい定義ではありません。身体を持っている私たちが、身体を通して次元を見た時、どう考えたらいいのか、という見方をします。

次元とはそこを行き来する力、動きを得る事のできる世界だと考えてみたいと思います。
そして、大切なのは他の方向とは交わらず、それ単独で動きを表せるものとしたいと思います。

一つずつ、分けて考えられるからこそ、コントロールが可能になっていきます。
いつか、それらをわかったうえで、それを気にせず、心のままに生きて行く事が出来るようになるかもしれませんが、今日、今すぐには無理な話です。まずは、身体で感じられる一つ一つの動きを確かめていきたいと思います。

小さく見えない次元

多次元を扱う物理学に量子力学というものがあります。
ひも理論、超ひも理論などもこの量子力学の分野です。もしかしたら言葉だけは見聞きした事もあるかもしれませんね。

多次元の世界を説明する時、それらは遠く離れたところにあるのではなく、すぐそこにある、と説明されたりしています。
最初、それを聞いた時、言っている意味はなんとかわかったものの、では実際に自分自身が身体を通してどう扱えばいいのかわかりませんでした。

私たちの脳はわからない事も全て、知識としてストックしてくれています。
今回、こうして多次元の話をする事ができるようになったのも、身体に見つけた新しい状態と、それによって生まれる新しい力によってです。
新しい力によって生まれる身体の働きがまさに、「小さな次元」に感じられたのです。

まずは身体に見つけた「新しい状態」についてお話します。
私はこれまで、25年近く、身体を探り続けてきました。甲野先生出会ってからです。
そして、身体をより活かすためには「重力」を使う事が大切なのだ、と確信をしました。
その確信は変わらないどころか、日々、それはより強くなってきていました。
しかし、最近発見した新しい身体の状態はこれまでの私の確信とは真逆な状態だったのです。
エネルギーだけの私が存在し、それを身体的に自覚をしました。

その発見に至る詳しい解説はいくらでもできますが、もしそれを始めてしまえばどれだけの文章量になるかはわかりません(笑)。
今回は「次元」について考えるきっかけを渡す事を一番に考えていますので、詳しい解説は他の機会に譲りたいと思います。

まず、小さな次元とはなにか、どういうものかをお話します。
小さく、見えないものだというと、「それはミクロの世界の話ですか?」と聞かれたりします。量子力学は素粒子よりもさらに小さな世界のものですから、私の喩えが悪かったのかもしれません。

しかし、それでも、常識とは違う世界を考えてもらうために、ミクロの世界の法則が役に立ちます。
小さな次元はミクロまでは潜りません。今、ここで感じられる3次元世界とも重なっています。しかし、3次元に広がっている「縦横高さ」に目を移してしまうと、どうしても遠くを想像しすぎてしまうのです。
そこまでは広げない、という点で「小さな次元」と表現しました。

実際の動きは「回転」です。
なんだ、回転か、と思われた方もいるかもしれません。そうなんです、ごく当たり前だと思われている回転ですが、これまでそれを小さな次元だと認識できずにいたのが不思議でならないのです。
逆に、当たり前だからこそ、誰にでもそれを伝える事ができます。言葉で伝えてダメであっても、実際に手を取って、動きを確かめてもらえば、それが小さな次元だと気づいてもらえそうだと手ごたえを得ています。

回転という働き生み出すものがあります。それが「モーター」です。
「モーター」自体はわかりますよね。電気でギュイーンと動くあれです。普段、モーターそのものは見ないかもしれませんが、日常生活の中にたくさん溢れています。
電気自動車、ハイブリッド自動車はまさにそのモーターが生み出した商品ですね。

ちょっと調べてみたら中学二年の理科において電気とモーターの関係を学ぶようです。私はすっかり忘れていました(笑)。
義務教育を受けている私たちはすでに、その世界を乗り越えているのです!

回転という次元を生み出すモーターが身体に備わっていた。これは事実なのでしょうか、妄想なのでしょうか。
もちろん、お店で売っているモーターそのものは身体にはありません。
私が一番最初に見つけたモーターは前腕にありましたが、もし、その前腕を解剖してみれば見つかるのは二本の骨、たくさんの筋肉と脂肪、そして神経、血管、皮膚、そんな感じです。どこにもモーターになりそうなものはありません。

しかし、それでも、私は前腕を「これはモーターだ!」と確信しました。
そのモーターを動かせば、相手はその動きを見つける事、認識する事ができずに、崩れていきます。
この時、結果として重さを持つ肉体が働くのですが、それは肉体以前にモーター的身体が動いた事で肉体全体が影響されたからです。

モーターを動かすにはエネルギーが必要です。
そのエネルギーこそ「電気」です。身体の中を電気が走っているのを感じたからこそ、重さというエネルギーにこだわらず、新しい世界を求められました。
電気があり、モーターを見つけ、小さく回転する働きを得ました。その回転を見つけられない相手は主に肘の曲げ伸ばしや腕全体を振り回す事で作られる力を見続ける事になります。

私の前腕モーターが作る働きは自由です。
理由は簡単、その動きの方向が見つかっていないからです。
電動ドライバーを想像してみてください。ドライバー部分を手に持ち、強い握力でそれを抑えようとしても無理です。
もし、そのドライバーの動きを止めようとするならば、その回転とは逆回転で対抗するしかありません。
つまり、お互いにモーターを知っている事が前提となります。しかし、この世の常識に生きていれば、前腕がモーターになるとは考えもしないし、聞いたとしても信じないし、経験したとしても、そこに説明がなければ理解が出来ません。

この回転する小さな動きが3次元空間とは違う異次元空間を身体で感じるきっかけとなりました。

身体という閉じた空間

異次元空間を一つ見つけました。この回転する小さな次元だけでも十分、驚いてもらえる力を持っているのですが、私の頭はもっと、さらに、違う世界があるのではないか、と考えるようになりました。
たった一つの経験こそ、大切なのです。自分が存在しているこの世界にはちゃんと多次元があった、そう思うようになったからです。

すると、これまで見つけてきた身体、主に肉体の働きですが、そこにも多次元的見方が加わるとより、はっきり身体感覚稽古の特殊性がみつかります。なるほど、これは簡単には理解されないな、とわかります(笑)。

しかし、もし、身体の多様性、可能性を求めている人がいるならば、初めから「身体は多次元を作る」と自覚をして稽古をし始めたら一気に壁を破るのではないかと思います。
まだ、誰にもこのアイデアを試しながら稽古をしていませんが、不思議と間違いない、と確信だけは生まれています。

これまで身体に見つけた働きは「陰陽五行論」という古代中国で作られた理論にそってまとめてあります。ただ、その「五行」は私の身体感覚から生まれた「勝手論」。
おそらく、正式に陰陽五行を研究している方とは認識が違うはず。それでも、生まれてくる様々な動きを「五つ」にカテゴリー分けをした事で、自分を客観視できます。そしてそれを元にすれば、この先にどんな身体の可能性が隠れているのか、想像もする事ができます。

一つずつ、五つの身体感覚を紹介していきます。

〇次元「点」

この世界は3次元の空間です。この空間をどう動いているのか、それがこれからお話をする事です。
3次元の空間がまずあります。部屋ですね。
その部屋の中をどう動くか。この時、それを決めるのが身体です。誰かとの衝突や風の影響など、外部からの力もありますが、まずは自分自身だけに集中して考えます。

そして、この時、「武術的思考」も忘れずに。
なぜ、身体を次元としてみなくてはいけないかは、敵として存在している相手がいるからです。
こちらが何か動きを始めればそれを敵は邪魔をしてきます。せっかく動ける次元を持っているのに、邪魔をされてしまえば、動けないのと同じですからね。

まずは「点」の話。点は数学的に「0次元」と言われます。動く方向、自由を持たないから「ゼロ」なのでしょう。意味は分かりますが、動かない、というのをこの身体を通して実践するのは簡単ではないんです。

動く話をしているのに、動く方向を持たない、自由を持たない、動かない?
さっそく混乱している人もいるかもしれません。
わかります。いいんです、それで。そもそも次元というわけ分からない世界について話し合おう、と言っているのですから。

少し説明をしてみます。
私の動きは「ゼロ」です。動きません。決して動く事がないようにします。。
しかし、敵とする相手はこちらへと向かってきます。私は動いていなくても、この世は動きます。他者が動けるのはそこに「時間」という次元があるから。
相手と私、その位置関係は刻々と変わっているわけです。

もし、この時、敵である相手がこちらへと向かってこなければどうなるのでしょう。
その時は簡単、こちらはまさに、なにもしなくてもいいんです。
ただ、嫌な敵がこちらに来なくても、嫌な気持ちになります、という人がいます。これは「心」の問題。身体的には触れてはいません。それは違うレベルで対処をします。

点という存在でいる時、その点に近づいてくる敵がいるならば、何とかしなくてはいけません。
この時、積極的に「動かない」事につとめます。
動かなくても、相手は近づきます。だんだんと、徐々に、距離を詰めます。
まさに相手と触れ合う直前、衝突する直前がチャンスです。
相手とどうぶつかるかを考える事ができます。

これまで動きを作らなかったので、この身体には慣性力も働かず、前後左右上下、どこにでも移動ができます。
そして、これは経験するとわかりますが、案外、正面衝突はしないのです。
心の方が敏感になりすぎて、肉体は衝突していないのに、あいつは敵だ、と身体が緊張し、止まっていただけだとわかります。

この点の次元でとどまり続けるのに役立つ身体の部位があります。それが「心臓」と「へそ」です。この二つの部位を考えた時、それは勝手に移動をする事ができません。じっとその場にいるしかない、とわかります。

0次元というわけのわからない世界ですが、身体感覚を意識をすれば簡単にその次元に居続ける事ができます。

動かないと決めてみると不思議な事に相手の動きが見えてきます。
そして、人間は動けば「必ず」隙をつくるのです。相手の動きに対してどう接すればいいのかが見えてきます。もちろん、多少の慣れが必要ですが、普段、人ごみの中を歩いている時とほぼ同じです。そのレベルの観察があれば、襲ってくる相手を交わし、ごく小さな力で崩す事が出来ます。

決して動かない。動かないでいる自由を得たなら、また一つ扱える次元を手に入れた事になります。

1次元「線」

1次元である線は小さな点の集まり、点が動いた際の軌跡になります。
点の次元を手に入れているなら、動かない事を意識し、続けていった時、それが自然と線になっています。
点である私を冷静に観察をする事で1次元の動きの感覚が得られます。

0次元の点は重心と考える事もできます。
その小さな点を動かそうとした時、手足に力を入れたなら、どうしても床や壁を「蹴る、押す」動きをしなくてはなりません。
簡単に重心は動きますが、そこにはタイムラグがあり、武術的に有効ではありません。また、純粋な1次元、線の動きからも遠ざかります。

では、どう動かせばいいのか。
0次元の説明の際に、相手の動きをよく見て動くとお話ししました。隙を見つける事が簡単なのです。この時の隙と、重心を結ぶとそこに「線」が生まれます。二つの点は線を作るのです。
これを「ガイド」にします。「レール」のように使う事が出来ます。

線として先に作れば、後はそこに乗っていくだけで済みます。
怖れは生まれますが、冷静にレールを作る事に専念します。すべき事がわかっている時、緊張感ある場面であっても、案外と強く、平気でいられます。

また、具体的に「線」のイメージを強く持つ身体の部位があります。
「背骨」です。小さな骨が集まり、線を作ります。その線に動きがなく、固くなっている人が増えましたが、それでも、背骨は流れある線を作りやすいのは確かです。

しかし、多くの人はその背骨の活かし方を知りません。理由は簡単、スマホや機械、背骨の力を必要としない生活、仕事になったからです。背骨など動かなくても楽しく生きていける、と思っているのでしょう。
しかし、それは大間違いです。

必ず、いつかやってくる老いに対して背骨の動きが必要となります。
背骨が流れを持って動く事で最大のメリットは呼吸の安定化にあります。
大きく全体をしならすように動いた時、呼吸の大きさに驚くかもしれません。呼吸の力がけがをした時、病気の時、歳を重ねた時に必要になるのです。

呼吸は「私」の問題です。
目の前に敵が現れますが、その敵を見つけ、勝手に息を乱してしまっているのです。
まだ敵とは遠く離れていて肉体的には安全なはずなのに、普通ではいられなくなる。心が先に敵を見つけるからです。
その心の動きを敏感にとらえているのが背骨。この辺りの話になると、鶏が先か卵が先かにもなりますが、形のない呼吸を物差しにするよりも、間違いなくここに存在している背骨の動きを物差しにした方が簡単なのはわかるかと思います。

背骨の動きが滑らかになった時、自然と呼吸が落ち着いてくる。それを私は理想としています。身体に緊張があっても、むりやり呼吸で自分を落ち着かせる。多くの人はそれを選択しますが、身体に直接ダメージが現れるような状況で呼吸に集中してはいられません。
むしろ、呼吸を止めても、背骨の滑らかさは消えません。背骨基準で行きましょう。

2次元「面」

心臓とへそ、重心になりそうなものを使い「点」を意識しました。0次元です。
背骨に集中し、「線」を意識しました。これが1次元。
重心、背骨、と中心から外へとだんだんと主役が変わっているように感じませんか。

では、身体の中にある2次元、「面」とはどこでしょう。
この胴体、お腹と背中が面である、と考えてみるのは難しくないかと思います。この胴体を面として考え、どんなに敵が脅してこようが無くならない、2次元の動きを確かめてみたいと思います。

お腹や背中を面として考えてみた時、一番に気になるのはその「窮屈さ」だと思います。
しかし、この窮屈さこそ、面である証拠ともいえるかもしれません。
点の軌跡が線になるのはイメージもしやすいと思います。しかし、線の集まりが面になる、と考えた時、そのままイメージできますか?すでに胴体にはお腹と背中二つの面があったからこそ、イメージをする事ができました。
グラウンドを均す時に使うトンボはまさにそうなのですが、私は今一つ、イメージしにくく、なかなか面という2次元の世界に意識を集中するのが難しかったように思います。

手助けしてくれたのは、2次元の面を主役にするのではなく、背景として使うというアイデアです。
ホワイトボードや黒板を考えてみてください。
確かな「面」があるから、そこに自由に言葉や絵を表現する事が可能になります。止まっている背景と、動いているペン。それを身体に探してみると、胴体と腕はまさにそんな関係になっているように見えてきました。

私たちはなにも気にすることなく、腕をそのまま単純に動かしてくらしています。
きっと、重いものを持たなくてはいけなかった昔なら、腰を落とし、重心を近づけ、脇を締めなければ仕事にならなかったはず、自然に重心、背骨、お腹、腕の使い方を学べました。
しかし、現代の仕事は頭を使います。重いものはなくなり、どう身体を動かしても結果は変わらないように見えます。
そして、いつの間にか、現代人は身体の使い方を忘れました。

脇を締める。これは胴体と腕とをつなげる準備となります。
脇を締めれば腕の自由さがなくなります。しかし、その不自由さを選ぶからこそ生まれる自由があるのです。それが2次元的身体操法です。

お腹か背中、どちらかの面を意識します。背中なら肩甲骨が作った2次元平面の上を滑らかに動きます。
お腹であれば、鎖骨、胸鎖関節が始まりとなって動く感覚が見つかります。。
腕の始まりをしっかりと意識できれば、その先にある肘や手首がコントロールしやすくなります。

常に、この腕は胴体という平面に縛られているように使います。
こんな不自由なんてありえない、と思うかもしれません。
しかし、実は着物を着た時、自然とその振る舞いをしたくなるように導かれるのです。
特に、女性の帯はそう。胸のあたりに締められる太い帯。この帯がなければどれだけ自由になれる事か。この不自由さが着物から洋服へと変わったわけです。流れとしてはわかります。

しかし、一度、その働きを自覚すると、この腕の動かしやすい事!
腕にはたくさんの働きがあります。それこそ、この腕にだって、0次元、1次元、2次元、3次元があります。
その働きの違いを常にベストな選択が出来ていればいいのですが、ピンチの時には大抵、迷うんです。その僅かな迷いが崩れを生み、命を落とす事になるのを武術は知っていました。いや、日本という国は無意識である集合意識の中で分かっていたのではないかと思うほどです。

便利なテクノロジーに依存せず、その日を愉快に楽しく暮らすためにどんな文化を作ったらいいのか、一人のスターが国を作り上げたのではなく、長い歴史の中で取捨選択を重ね、着物や作法、日本独特の文化を育ててきたのだと思うのです。

2次元辺りはちょうど中間。
0次元である点になれば幸せいっぱいになれるかもしれませんが、他者や社会との交流ができません。
1次元である線は波でもあります。波と言えば感情、波を取り入れれば感情が豊かになり、誰もが同じ喜びを得られるかもしれません。しかし、案外とその幸せも退屈になりそうです。

とはいえ誰もが3次元の塊になればそこに衝突が生まれ、強いものだけが生き残るようになります。
もともと日本人の身体は弱いのです。またどれだけ人が強くなっても、自然の猛威には敵いません。この日本にいればどうしても、自然とどう暮らすのかを考えなくてはいけません。

まさに「間をとる」と2次元の平面が非常に使いやすいのです。
おそらくは昔から、日本の外にある国をずっと気にしていたのでしょう。文化の交流はちゃんとありました。
それらを精査し、日本人に合うように「考えた」。それができるのが、自分の意識を二つに割る感覚です。

胴体という動かない平面。そして、その平面を活かし、動き回る腕。動くものと動かないもの。その矛盾した性格を持つ二つのモノを同時に意識した時、思考はクリアになると思います。

こうして長々と言葉を生み出せるのも、ここが「安全」な場所であるから。自分の身体を止めていられる安全があるから、自由に動く思考を使う事ができます。
胴体と腕のように直接的に2次元と3次元の関係は見えないですが、身体と思考にも同じように2次元と3次元の関係があるように思えます。

3次元「立体」

少し2次元の中でお話をしすぎました。
ここまで0、1、2、3と分けてお話をしてきたのは、それぞれの次元を自分のものとして持てば、それだけ自由を得られる、という事を伝えたいからです。

小さな次元として「モーター」のお話を先にしました。
そのモーターの存在を身体で確かめれば、この身体は常に自由です。どれだけ抑えられても、動きを生み出す事ができます。

モーターの自覚から始まった自由の検討ですが、ただ自由だけを求めるのならモーターだけで十分です。
しかし、私たちには内臓、胴体、腕脚、手足、に指、肉体があるのです。
若い頃なら、肉体を忘れ、ただ望むことをテンション高く過ごす事が出来るかもしれません。それが若さというエネルギーかもしれません。
しかし、重い肉体も私たちは持っています。その重さを忘れられているうちは幸せですが、突然重さは現れます。

病気やケガ、突然の暴力。無意識への攻撃が私を驚かせ、肉体と心を緊張させます。
この時、モーターにすかさず戻ればいいのですが、他にも用意があればさらに安心、もしかしたらこの刺激だって楽しむ事が出来るかもしれません。

ですから、点、線、面、立体とお話を続けていますが、これらは肉体的なお話だと思って下さい。
イザという時必ず力になってくれる肉体を次元的に考え、動ける自由を自覚しておいてほしいのです。

という事で、4つ目の次元、3次元的身体をお話ししていきましょう。

胴体が平面だとすれば腕は立体。腕から先に3次元的働きを探してみましょう。
実はここは意外と簡単なんです。ぎゅっと「コブシ」を握ってみてください。
しっかり握った手はカチコチ、これを3次元的に考えるのは難しくありません。

ただ、小さなうちから勉強とゲームだけ、手に重いものを事もなく、過ごしてきたか弱い若者はこの「しっかりにぎったコブシ」を持っていない可能性もあります。
ただ、きっと、こうして私の言葉に耳を傾けてくれるのは人生の酸いも甘いも良く知った人たち(笑)。
皆さんはちゃんとしっかりとしたコブシを持っています。安心してください。

もちろん、この強いコブシにも優劣があります。努力を重ねれば、さらに強いコブシへと変身させられるでしょう。空手家が巻き藁を突いたり、瓦を割ったり、あれなど、まさに強く固い手を作り上げる地道な作業です。
ただ、私たちの暮らす場所は現代です。相手を壊すための強いコブシはいりません。
私は3次元の存在でもある、という自覚を得るためにコブシを握り、そこから学ぶのです。

ちなみにこの時、握り方があります。握り方を知るだけでも、コブシのレベルは変わります。
小指から握るのですが、さらに、その際、大きく手を伸ばし、空気でできた丸い球を包み込むようにして握ります。自然に手首がぎゅっと締まるのがわかるかもしれません。

このコブシならちょっとやそっと攻撃を加えられても気になりません。そして、このコブシをどう生かすのかはもうお分かりですね。
2次元である平面の胴体を基準にして、その上を滑るように使えば速さも生まれます。

手を握り、強く固い塊を作るのはそれほど難しい話ではありません。イメージだけならほかのどの部分よりもしやすいはず。
ただ、問題は私たちの多くは手を主役と考えていません。自分がストレスを感じた時、それを一番に受け止めてしまうのが重い胴体です。その胴体をいかに強いものと認めるのか、それが問題です。

胴体を強いものとする、と考えた時、簡単に思いつくのが腹筋や背筋を鍛える事だと思います。確かに、しっかりとトレーニングされた肉体は全身力こぶのようになり、固そうです。強く見えます。
しかし、その筋肉を誰もが作れるかというと、そうではありません。
また、その筋肉には重さという副産物も付き、滑らからに動く事を邪魔してきます。

拳骨を握り、コブシを作る。これが強いのはわかっています。コブシと胴体をいかに結ぶか、それが問題でした。ある時、自分の骨盤が外へと開いているのを感じました。目的を作らない稽古にはこういう幸運が舞い込みます。

骨盤については多くの人が研究をしています。
開いているか、閉じているか、立っているか、寝ているか。多くの人は骨盤の姿勢を気にしませんが、背骨を支えているのですから、大切でないはずがありません。しかし、必要に駆られることもないので、先送りにしています。

実は私は自分の骨盤が開いていて、しかも後ろに倒れ寝ている事はわかっていました。多くのスポーツ指導者がダメだ、という姿勢になっている事を知っていました。
ただ、その姿勢から生まれる力もわかっていたので、何となく、やはりスポーツ的身体と武術的身体は違うのだな、と考え、わざわざ修正する事なく過ごしていたのです。

ある日、女帯を身体に締めてみました。胸の下あたりです。普段締めない帯をつければそこに不自由さが感じられます。
この不自由さを何とかするのではなく、受け入れてみれば、胴体は自然と平面、2次元になり、腕は前へと伸びなくなります。腕は胴体に沿って滑るようになり前から見たなら風車のような軌跡を取り出します。窮屈ですが、自由に滑らかになれるのです。

女帯に関しては2次元の章でお話したとおりです。
女帯に働きがあるのなら男帯にだってあるはずだ、そう思い観察をしてみたところ、3次元的働きを見つける事になりました。

男帯は腰骨のあたりで締めますが、この時、骨盤に直接帯が当たり、痛いのです。その痛みを着慣れていないから、という理由で諦めていましたが、そもそも骨盤の形が丸く玉になっていなかったのです。
骨盤は構造上は玉のようになっているのにそうじゃなかった。これはつまり、意識の持ち方、イメージの作り方によって身体は変わるという証です。
私は骨盤を腸骨の上の方でしか意識をしていなかったのでしょう。どうしても、外へと開いている自分を見てしまっていたようです。

なんだ、骨盤は玉じゃないか、とわかれば、後は玉を作ればいいだけです。この時、玉のイメージを助けてくれるものがありました。
「尻」です。

お尻はそこに「丸さ」を持っています。しかもそれはちゃんと「二つ」に分かれています。
この尻を「二つのお椀」としてみてみれば、それを合わせ、「一つの玉」にするのは難しくありませんでした。

こうして一つの玉のような骨盤を得たわけですが、その瞬間、身体にまとまりが生まれ、不思議と「平気感」が感じられてきます。
それまで何とか、外からの刺激、ダメージを最小にしようと考えていたのですが、自分は玉だ、と気づいた瞬間、この玉がどこまで強く、頑丈なのかを試したくなったのです。

やはり性格は身体によって決められるのだ、と改めて感じました。
外からの刺激に消極的になれば自然と、行動は抑えられます。しかし、どんな刺激でもいいから試してみたい、と玉になると思います。ネガティブからポジティブへ、こんな変化があるとは思いもしませんでした。

もちろん、この時、筋肉の量も、骨格のバランスもそれを作る助けにはなっていますが、その大部分は骨盤の働き。仙骨、腸骨、恥骨で作られる玉が最初からあるからこそ、感じられるものです。
面白いのは寝ころんでいても、そのポジティブさが変わらないという事。寝ころんだまま、玉を意識すれば踏まれても大丈夫な気がしてきます。長い人生の中で「俺を踏んでくれ!」と願った事は初めてです(笑)。

この骨盤に作る玉ですが、男帯を締めてみると、男帯はそれを助けてくれていた事に気づかされました。
女帯は平面を作り、男帯は立体を作るようです。これが逆になれば当然苦しくなります。
今でこそ、男女同権、平等となり、仕事にもだんだんその差を見つけられなくなりました。しかし、それは機械や社会の仕組みがあるからこそ、保たれます。徐々に身体に頑張りが効かなくなっていけば、男と女の持つ特性の違いが表れてくるはずです。
便利な道具がなかった時代にはそれを意識しなくては暮らしていけなかったのかもしれません。

今、着物を日常で来ている人はほとんどいません。仕事となれば余計にそうでしょう。ユニフォームをわざわざ着物にする意味がありません。
着物という文化は縮小をしましたが、身体が持つ働きは忘れてはいけないはず。
細かく探ればいくらでもその違いを出していけますが、まずは平面と立体、2次元と3次元として考えてみたらいいかと思います。

男性は骨盤の玉を作りやすいかもしれません。女性は平面の方がいかしやすいはずです。とはいえ、基本的な身体の作りは同じです。意識をすれば、男性も平面を活かすことが出来ますし、女性でもあらゆる刺激、痛みをポジティブに受け止める事だってできます。その選択が出来る事を一人稽古では学ぶ事ができます。

4次元「分裂」

実は4つ目の次元が何なのかは意見が分かれるようです。私自身も身体の内部を想像し、そこを攻める意識で動く事はもう、3次元的な感覚を超えたものではないだろうか、と考えたりもします。
ただ、この章では「分裂」という考え方を持って、3次元の次を考えていこうと思います。

私は誰だろう、何者だろう?
そう考えた時代があったかもしれません。ここにもこれまでお話をしてきた次元の話が役に立ちます。

肉体的には私は存在しています。ただ、心的には自分を無価値だと思っていると点を失います。きっと、そんな思いを得てしまった人は生きていくのも辛かったでしょう。
ただ、心が辛いこの時、身体が助けてくれていました。心は自分の存在を疑ってしまったかもしれません。しかし、身体は常に、ココにあるからです。

同じように、自分の1次元的な部分でも身体と心を考える事ができます。1次元は波としての私。感情が揺れたりした時、見つける事ができる自分です。
全てを手に入れたり、全てに絶望をした時、人間には諦めの心が生まれます。この時にも身体は助けてくれます。心が諦めても、身体は決して諦めません。身体には感覚が備わっているから。
現代は痛みから遠く離れて暮らせるようになりました。時々出会う痛みに反射的に緊張し、思考が停止します。しかし、この痛みという感覚を活かせば自由がやってくるのです。
2次元、3次元でも同じように、心はパニックを起こし混乱して制御不能になりますが、身体が爆発する事はありません。いつも、確かな身体がココにあります。

ただ、もし、パニックによって「爆発感」を得た人がいるのならそれは実に大きな才能であり、幸運です。
この身体は爆発しませんが、肉体そのものはたくさんの細胞の塊とも言えます。この私たちの肉体にはたくさんに分裂する可能性は残されているのです(笑)。

ただ、この「分裂感」をコントロールできなければ、心にショックを残すだけで終わります。まさに今、「私は分裂している」という感覚を求めていきましょう。
大丈夫、手掛かりはちゃんとあります。

3次元の章で「骨盤の玉化」についてお話をしました。
コブシと同じうように、骨盤も玉として使えば「壊れない私」を得る事ができます。
玉の持つ壊れなさを自覚するようになると、それがやがて当たり前になります。ある時、ふと、私の持つ皮膚に「鱗」を感じました。

この気づきがなぜ生まれたのか、ちょっと定かではないのが残念ですが、働きとしてはもう、疑いようのないレベルになりました。私たちは鱗を持っているのです。

しかし、もちろん、はっきりとした鱗があるわけではありません。イメージと言われればそうなのですが、そのイメージを支えるものがたくさんあるのです。
骨盤を通して見つけた玉の感覚もそうですし、ある研究では私たちがもつ体毛のシステムと鱗のシステムには共通点が多くあるとも聞きました。
そして、そもそもがたくさんの細胞の塊なのですから、たくさんの鱗を持っている、と考えても問題なく思えます。

鱗を見つけてみるとさらに「大丈夫感」は高まりました。
鱗という言葉が持つ、「頑丈さ」というイメージの影響もあるでしょう。また、「たくさん」というイメージも大切です。もし、一つの大切な玉しかなければ、そこに傷一つでもついてしまえば心配も生まれます。しかし、鱗ならば、一枚二枚、壊れてしまっても平気です。

頑丈でたくさん。この二つのイメージを鱗は与えてくれます。
外からの攻撃、刺激、ストレスを気にしなくなります。この安心が動きを変えてくれるのでしょう。外を気にする事がなくなり、身体が自然と動きます。
おそらく、直接的に身体にかかるストレスよりも、心が生み出す不安の方が多いのでしょう。取り越し苦労癖から抜け出す事が出来ます。

私たちには「形」があります。形にはそれそのものに力があります。中身などなくても、外側にある形に力があります。もちろん、中も大切なのですよ。その大切さはこれまで、0、1、2、3次元の章でお話してきました。
外側にある形は見るだけで得る事の出来る力です。触らなくても伝わる力。だからこそ余計に、心の働きが大切になるのでしょう。

その形の力を鱗は最大限に発揮させます。言い方を変えれば「張りぼて」かもしれません(笑)。
しかし、決して壊れる事のない張りぼてなら問題ないはず。また、すでに身体の内面に不安を持ってしまっているのなら、張りぼてによって中を気にしなくて良くなるのですから、うれしい事と考えられます。

私たちの肉体は必ず、老います。壊れていきます。望む事でないのは知っていますが、まだ、人類はこの老いから逃げ出せません。一部の臓器は取り換えも利くようになっていますが、根本的な解決にはなりません。
内側に心配を常に抱えているし、それは年々大きくなります。その不安を小さくしてくれるのが鱗です。頑丈な玉が全身を覆っている。この分裂感を活かしている時、私は4次元の世界に生きている、そう考える事ができます。

言葉で伝えていると、少し無理があるな、と感じる事があります。しかし、これを稽古として手合わせしてみれば、徐々に4次元的世界観を持つ事が出来るはずです。実際に試して経験を得る事以上に強力な学びはありません。
しかし、それが出来るのも、私たちの身体がすでに、分裂をして生まれ、一つになっているようにみえるから。すでに土台は出来ているのです。

身体の外にある二つの次元

今回は「次元」という考え方を使い身体感覚をお話しています。
外の空間に「縦横高さ」の三つ、「時間」の次元が一つ。そして、身体を感覚的に分けて使った時、大きく分けて「点、線、面、立体、分裂」の五つあります。たくさんお話してきました。

ここでさらにもう二つ追加をしておきます。
今日、いきなりこれを見てくださった人はもう、お腹いっぱい、となるかもしれません。そんなにも要らない、と思うかもしれません。
しかし、これまで武術として考えてきて、いかに自由を得たらいいのか、と求めた時、見つけてしまったものです。
自らを自由にする物差しが増えていきました。これらの自由を自覚なく手に入れてしまうと迷いを生みますが、私はたまたま無自覚に動ける自信が全くなかったので、一つ一つの自由を見つけるたびに嬉しくなれます。

中心にあるのは身体です。この身体の外には空間があります。その空間は実に確かなもので、それを疑うのは難しいですが、間違いなく存在する世界が少なくとも、二つ見つけています。

想像次元

一つは「想像」の世界。
なんだ、想像か、と思われたかもしれません。そうです、まさにその想像です。
そしてその想像の世界も私が自由になるためのもの、自由にしてくれるものです。

夢を見ている時、私たちは想像の世界にいます。寝ている時、想像の世界にいます。麻酔が効いていれば腹を切られても平気です。不思議だなぁ、と思いますが、それが普通です。身体はそういうものです。

どんな時にも想像の世界にいられればいい、のですが、敵を目の前にして想像の世界に居続けるのは大変です。痛みを与えられ、苦しい時、肉体の存在が大きくなります。忘れろ、と言っても簡単にはできません。

しかし、だからと言って、想像の世界がないわけではありません。
むしろ、痛みによって、想像が悪い方へと働き、さらに肉体を縮めさせる。悪循環が起きています。
想像の世界は「ココにある」、それがわかれば、現実から想像へと行き来する事ができます。身体を基準にする事で、想像の世界を見つけやすくなります。

過ぎてしまった過去を悔んだり、まだ来ていない未来に喜んだり、気付いていないかもしれませんが、想像はいつも今の私に影響を与えています。
私の生き方は「術理」を使う事によって思うとおりになりつつありますが、それは術理が「身体由来の想像」だからともいえます。

例えば心臓を考えた時、私の身体は心臓という点に近いものになります。
外に胴体、腕や手がありますが、心の中で心臓、心臓、心臓と唱えていれば、身体は小さな点のままでいられ、相手との間に間合いを見つけられるようになります。
そして、その間合いがあれば、相手の動きを観察する事ができ、衝突寸前のところで動きを作り、かわす事が可能になります。
その時、相手はこちらを見失うのか、転ぶのです。

これは身体からの想像です。実際、心臓は点にはなりません。しかし、点のように動くぞ、と考えた時、心臓がその想像を助けてくれるのです。
一度この経験をすれば、次には想像だけでそれがやりやすくなります。
ゼロからの想像はやはり難しいのです。

もちろん、想像に長けている人なら、一気に別人へと変わっても構いません。まさに、変身ですね。
ただ、現実に、この肉体がある、と感じていると、年々、歳と共にどうしても、想像よりも身体の方が存在感を増していきます。だからこそ、術理として、頭で整理をしておく事が大事になります。

そして、想像が長けてきてきたからでしょうか、さらににわかには信じられない事もお伝えします。実は想像力を発揮しやすい「場所」があるのです。

先に言っておきます。瞑想ルームとかではありません。大自然の中、山の上でもありません。いや、山の上はちょっと近いかも(笑)。ご自身で確かめてみてください。

想像力が発揮される場所、それは「空気の外側」です。
3次元空間のお話をしました。最初の方にです。もう、忘れてしまっているかもしれませんね(笑)。
大丈夫、「縦横高さ」、私たちが今いるこの空間の事です。

この空間、当たり前すぎて意識にも上りませんが、「空気」があります。この空気が私たちの肉体を強く意識させてきていました。
しかし、それは当然と言えば当然です。空気がなければ死んでしまいますし、大気圧が地面へと身体を押し付けてくれています。空気がなければ大変な事です。

しかし、もし空気がなかったら。
もしかしたら無重力空間を体験した人はそれを実際に体感として得ているかもしれません。しかし、私たちにはまだ無理です。宇宙へは行けません。

安心してください!、それでも空気の外へと手を伸ばす事ができるのです。私たちの身体はちゃんと想像力へと入っていく力を持っていました。
この時、どう空気の外へと向かうのか。それには「指先」を使います。

これからこれまでで一番不思議な事を言うかもしれません。
電気やモーターの話、細かい次元、多次元の話も相当ですが、想像力の場所への移動の仕方なのですから、普通には信じられないと思います。しかし、これが効くんです(笑)。想像力の話ですから、まぁ、そんなものかと読み飛ばすぐらいでいいかもしれません。もし、実際に手を合わせられる機会がありましたら、その時ぜひ、味わってみてください。
まず第一に、私たちの周りに満ちている「空気」を自覚しなくてはいけません。
そんなの当たり前でしょ、もう自覚している、と思われているかもしれません。しかし、それでは足らないのです。何かあったら、その空気の事を忘れてしまいますから。それではいけません。

私がいう自覚はもう、頼るしかない、というレベルのものです。
絶体絶命を乗り越えて、息の大切さを知った方は空気の大切さをわかっているかもしれません。しかし、私はのんびり毎日を生きています。なかなか息も出来ないほどのピンチには出会えず、大切さと凄さを感じられずにいました。

しかし、あるシルクのスカーフを身に着けた時、一変しました。その瞬間、頭の中に電気がビリビリは走ったのです。
そして、同時に、身体がバリアのように守られているのを自覚しました。驚いたのなんのって凄かったです。ただ、今では当たり前になってしまいましたが、まさにその強さと安心感は空気が与えてくれていたものでした。

そのシルクスカーフ、カンボジア産なのですが、ある人が見つけてプレゼントをしてくれたものです。そのスカーフ、見ていただき、試してもらえれば一番なのですが、手にした瞬間からふわりと軽く、空気の形をそこに見せてくれるのです。
持っているはずの手が、軽くなるのですから、物理的には変なのです。しかし、その軽さは空気が助けてくれている、と思えばありえなくはない、今はそう考えています。実際のところはわかりません(笑)。

この空気がありがたい事がわかりました。これで空気をずっと、注目、集中していられます。
そして、いよいよ、この空気の外へと手を伸ばします。
「手を伸ばす」と書きましたが、まさに文字通り、そのまま「手を伸ばします」。
ただし、この時、目いっぱい伸ばすんです。そのバロメーターが「指先」です。ぎゅーっと、爪先にまで意識を飛ばし、どんどんと伸ばしていきます。
そして、指先に空気の壁のようなものを感じたら、そこを切り裂きます。切り裂いたらすかさず、指を押し入れていくのです。

当然、外からはただ手を伸ばしているようにしか見えません。
しかし、この時の感覚は手だけがこの空気の外へと伸びているように感じられます。
この空気の外にある手がまた、軽いのです。それまで、重力に縛られ重かった手が軽いです。
この軽い手が想像力を作るのです。

空気の外にある手の先に刀でもイメージするとします。そして、掴みます。
掴んだまま、手を戻し、縮めます。もちろん、この時、手には何も持っていないようにみえます。しかし、私の感覚では、ちゃんと剣を持っているのです。

このままではただの妄想ですが、この想像の剣を相手に向かい斬ってみれば相手はそれに反応をしだします。不思議ですが、私が強く「ある」と思ったものを、相手も「ある」として認識をするのでしょう。脳はつながっている、と言われますが、こういう事かもしれません。

正確な理由はわかりませんが、強く想像をする事が自由を作る可能性が出てきました。これも「次元」となりうるもの、そう考えています。
「空気の外」なんて奇想天外な事でも、身体を通して、何度か確かめていくとその確度が上がっていきます。
手だけしか入っていかなかったものが、身体ごと入れるようになったりします。

想像力の力を確かめながら過ごしていて思うのは、きっと、こんな感覚で生きている人がいるはずだ、という事。
生な肉体を過度に心配せずに、自身の思うまま、望むままをいつも持ち、それを実感しながら生きている人がいるはずだ、そう思うようになりました。
言葉の上では夢を生きる、未来は叶ったとして生きろ、と簡単に言われますが、それを試し、出来てしまう人はこんな身体の使い方をしているのだろう、と思います。

どこにでも才能あふれた人がいますが、理屈を知らなければ、無意識に作る想像で、考えもしない未来を引き寄せてしまう事もあるかもしれません。想像力が長けていたからこそ、大きなトラブルに巻き込まれるかもしれません。
やはり、武術として、自分の身に起きた事をちゃんと解決をできる力を身につけておかねばなりません。才能を自覚している人は特にです。

創造次元

「想像」の話をしました。同じ「音」で「創造」があります。イマジネーションとクリエーションが同じ音なんですから、実に見事です!
想像は身体が働く前の事、想像はこの身体を使って生み出すものです。
何もないところに何かを生むのですから、それも想像のように思うかもしれません。この想像と創造をわけるものも、やはり、身体です。

身体を通して生まれてしまうものがあります。
恐怖はその一番手かもしれません。夢がない人は時々います。私がそうです。しかし、恐怖のない人っているんでしょうか。
これだけ平和な時代なので、恐怖がない、と思い込んでいる人はいるかもしれません。しかし、じわじわと身体に痛みを得ながら、それでいてその場を逃げ出せもしないとなった時、身体は恐怖を作り上げます。動けません。

この時、「次元」の考え方が必要なのです。
身体が固まった私を助けてくれる人はいません。空間的にも逃げられません。状況は変わりません。時間が経てば助かるわけでもありません。そとの次元には救いを求められない時、絶望を感じます。

しかし、身体にたくさんの次元があるとわかれば、多少なりとも動く事ができます。想像では無理だったとしても、前腕に意識をしてみれば、そこに「モーター」があるとわかるはず。全身、こわばっていても、モーターぐらいは回るかもしれません。いや、回るのです。
今、私にとって、一番頼りになる次元はこのモーターです。
ただ、その他の「点、線、面、立体、分裂」だって負けてはいません。これだけ用意をすると、たいてい、何かが有効です。

ほとんどの人は才能で戦っています。この世がどんな構造になっているのか、どんな次元がかかわっているかなど、考えません。
一つ二つまではぶつかる事がありますが、五つもあると混乱するようです。実は自分でも混乱します(笑)。相手をよく見て、最適な術理はなかなか選べません。ただ、失敗した時、思い切って切り替える事はできるようになりました。

だんだんと大丈夫だ、と思えるようになってきたからでしょうか、昔の自分と今の自分がものすごく、違うように思えます。
私の中には昔のままの自分がいます。何かを考える時など、昔のままの自分です。ですから、そこで考え付くアイデアはたいてい、ネガティブなものです(笑)。
しかし、身体を強く意識してみた時など、この身体があれば大抵の事は大丈夫だろうなぁ、と楽観的になります。
この身体の私はこれまでの稽古によって「創造された私」と言えそうです。

創造によって生まれるものがある、それを自覚しました。
新しい術理に気がついた時、それまでの私をさっさと捨てて、今見つけた新しい可能性へと飛び込みます。一匹狼になった私にはそれができます。遠慮しなくてはいけない人は誰もいません(笑)。

実はいま、「もう一人の私」もずいぶんとはっきりしてきています。
理由はわかりませんが、すぐそばにいてくれる感覚があります。
そして、そのもう一人の私に従えば、より滑らかに動き、相手に向かって行けるようなのです。意識が集中するのはもう一人の私であり、相手ではありません。だからこそ、余分な緊張、負の想像力から生まれる緊張がなくなるのでしょう。失敗したって、自分のせいじゃないもん!ぐらいな感じです。
失敗したって、自分がやるよりましだろう、とも思えます(笑)。

もう一人の私の作り方は「化学変化」のようなもの。
想像の何かと、身体から感じられる今の私とを組み合わせる事で生まれます。
二つのものを組み合わせると別のものになる、という感覚はすでに私たちが持っている常識なのかもしれません。ただし、この時、材料になる二つをどれだけはっきりと自覚するかがカギとなるようです。

だんだんややこしくなってきました。
見えないものを見るだなんて、実にやばいです(笑)。

見えないものには魅力があります。それに惹かれる人が多いのもわかります。
ただ、見えないものを漠然と追いかけても、それを使いこなす事はできません。
天性の才能を持って、見えないものをみて、見えないものに従える人がこの世にはいません。努力ではその人には勝てません。
しかし、こちらには身体を通して確信している力がいくつもあります。
その力を組み合わせていけば、こちらにだって見えないものを作り上げる事ができるのです。あとは、どちらがどれだけ見えないものを見続けるか、です。

武術を通して見つけてきた身体から生まれた見えないものです。どれだけ身体に痛みがあろうが、これに任せた時、それはちゃんと仕事をしてくれるでしょう。
しかし、才能で見えないものを見ている人の多くは、身体にストレスがかかると、想像力が暴走をし始めます。こうなったらもう、自滅を待つだけで良くなります。

「創造」できる自由を持っている。そう自覚をすれば、この力も動きを生み出すための「次元」となります。そして、その想像されたものをさらに、細かく見ていけば、擬人化され、身体を持ち、モーターも見つかるかもしれません。
正直、ここまでの確信はまだ得てはいませんが、そうなるだろう、という想像はしています。

稽古をすればするほど、新しい世界が広がり、選択肢が増えていきます。
常識では歳を重ねていけば身体的にも、精神的にも自由はなくなる、と思われがちですが、全然そうではありません。
これは試してもらわなければわからない事です。

立派な言葉、スローガンはどこにだってあります。
自由を「与えてくれる人」はたくさん見つかるでしょう。私はそういうサービスはしません。
私がお伝えする事、お渡しする事はあなた自身の身体を観察する方法です。人間として同じ身体を持っているのですから、私が見つけた身体の使い方は間違いなく、あなたにも有効です。すでに、私たちは凄い身体を持っているのです。
後は、それを自分で探すだけ。その探している間こそ、楽しく、幸せなのです。
結果が欲しい、という人もいるでしょう。結果は自然とついてきます。
ぜひ、一人稽古の楽しさを持って行ってください。

次元まとめ

さて、長々と「次元」についてお話をさせてもらってきました。
SFに興味がある方ならまだ、ついてきてくれたかと思います。しかし、大部分の方はなんだこれ、と思われたかもしれません。
なんとなくでもいいじゃないか、と思う方もいるかもしれません。しかし、なんとなく生きて、幸せだ、と感じられる人は多くはありません。今は幸せでも、本当に最期の最期までなんとなくで生きていけますか?

私がなんとなくでは駄目だと思う理由があります。
それは寿命が延びている事。人類史上未知の世界に突入しています。しかも、テクノロジーの発達により、これまた人類がこれまで経験をしたことのない世界を作り出しています。おそらく、寿命も、便利さ、豊かさも、これまでの数十年よりもさらに速いスピードでこの先の数十年が過ぎるはずです。
100歳で死ねるかどうかがわかりません(笑)。

しかもこの頭はどんどんと知識を蓄え、いろいろな答えをだしてくるはず。その膨大な情報から、今幸せじゃない!と頭が答えをだしたとしたら・・・。
私はそれが嫌なのです。

しかし、身体はどんな状況、状態になっても、必ず、心地の良い答えを出してくれるとわかりました。確信しています。
幸せじゃない、と頭が答えを出してしまっても、身体に問いかければ、必ず、自由でいられる部分を見せてくれます。どこか動けば状況は変わり、自分を不幸せにしている何かと関係が変わります。

もし、この時、不幸せ感が増したのなら、すかさず、次元の向きを反対へと変えればいいだけです。私を追いつめてくる不幸せは消えていくでしょう。
不幸せだった分、ちょっとでも改善が感じられればそこに幸せを見つけてしまうのです。これも人間の不思議なところ(笑)。

私たちのまわりには3次元の空間があります。
時間という次元があります。
この4つの次元は私たちみんなに共通のものかもしれません。

そしてさらに、それぞれに身体があり、そこに5つの次元があります。
点という0次元、これは心臓、へそ、重心になりやすいものです。

線という1次元、これは背骨や呼吸、リズムを作りやすいもの。液体のように揺れるもの、と考えれば血液やリンパ、感情も手助けしてくれます。

面という2次元、これは胴体です。お腹や背中、広い面があり、そこに腕や脚が乗っています。動かない面を作るからこそ、安心して腕や脚が暴れまわる事ができます。身体に捻じれを生み出さない限りはこの面は強く、そこにいられます。

立体という3次元、これはコブシや骨盤、塊を作るものです。形をもっているものはこの次元です。ですから、道具や武器も、それに従えば次元となります。3次元ですから、衝突をします。衝突を嫌うのではなく、壊れない、と思う事ができれば、形の力をしっかりと発揮してくれます。

分裂という4次元、これは細胞や身体がリラックスした時に感じられる鱗の感覚、小魚の群れの感覚、指の感覚です。自分は一つじゃない、と思う事で攻撃をされ、ダメージを受けても分散されますし、狙いをつける際にも、同時に複数を狙えます。
実は私たちは日常的に「摘まむ」という動きをしています。摘まむ動きをする時、胴体はもちろん、腕や手もリラックスしたまま、動かずにいます。指だけが動けば、目にもとまらぬ速さを見せてくれるのです。凄いんですよ、指は。

更に「モーター」という小さく回転する次元も持っています。
今見つけているモーターは、前腕、膝からしたの脛、首、指の第1関節と第2関節の間、さらに外に広がっている景色も回る事がわかっています。
回る動きは本当に気づきにくい!伝えにくくもありますが、何度か、それを体験していけば疑いようがなくなります。自然と身に着けてしまうものかもしれません。

最後に「想像」と「創造」の次元です。これは先ほどお話したとおりです。

とにかく、私たちは自由なのだ、とお伝えしたいのです。
中には私を縛ってくれ、自由を奪ってくれ、という人もいるでしょう。自由がわかれば、逆に不自由もわかります。
これだけの自由があるからこそ、もうこの先には行けない、という不自由がわかるのです。
不自由を得るには、私を抑えてくれる優秀な敵が必要です。しかし、なかなか人様にその役は頼めません。敵と出会う事だって運が必要です。自分でやれる事は準備をしておきたいものです。

一人稽古は日常生活にこそぴったりです。
当たり前だと思っている事をとにかく観察をします。観察の際、次元のアイデアを使ってみていけば一つの状況からたくさんの観察結果を得られます。それらの中から自分が楽しいもの、必要なものだけを得ていけばいいのです。
自分自身の身体に問いかけるわけですから、成功も失敗もありません。身体に問いかけ、答えをもらい、失敗したなら、それも一つの経験です。
経験を積み重ねていけば必ず、成長をしてしまうのです。

ぜひぜひ、毎日の生活を全部、見直してみてください。そして、こっそりと楽しんでください。

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