許しの感覚

ひらめきは突然、現れます。
「降りてくる」と言われたりもしますが、まさに今日は身体を通して「降りてくる」を実感したお話です。
 

今日のこの稽古録はチャレンジです。
なぜなら、昨日、「降りてくる身体」に気づき、まだ、ほとんど稽古としては試していないにも関わらず、これは間違いない、と確信をしているからです。
それほど、これまでの身体とは違う場所に自分をは「いる」のだ、と実感をしています。 


「降りてくる身体」と言いましたが、降りてくる通り道を感じていると、そこには「許し」があり、心が落ち着いて入れられるのが感じられます。
これは「許しの身体」だ、そう直感しました。
 

許せ、というのはこれまでにもよく聞いてきた教えです。
出来るのならば、私も許せれば許したいものです。
しかし、現実に怖い顔で睨まれ、掴まれ、殴られ、蹴られたりしたなら、身体が恐怖に縛られます。この時、意識でどれだけ、落ち着け落ち着け、許せ許せと念じても、身体の緊張は取れません。
 

許しを伝えている人たちは、それでも許すのだ、と言うのでしょう。いつしか、身体も慣れという強さを得るのかもしれませんが、身体を慣らしている間に死んでしまう可能性だってあります。心に反射回路が作られて、襲う気がない相手を見ただけで身体が緊張してしまう事にだってなりかねません。
 

実際に行動に起こせるようにする、それが稽古です。
許すという教えには従いたい、と思っていましたが、これまでそれを一番には考えてきませんでした。ただ、こうなりたい、と無意識に願いを持っていると、そちらの方へと導かれるのかもしれません。

結果として、昨日、脳から脊髄を通っている間に生まれる気持ちを見つける事ができました。脳から腰椎に行くまでの短い距離、この間を大切にすれば、その間で気持ちを整えて、問題を受け入れ「許す」事が出来るようになりそうです。

心の場所

私たちの誰もが「脳」と「脊髄」を持っています。
その「脊髄は脳の一部」と知り、感激をしたのが数か月前。その感覚があったから、昨日、「これは許しだ」と気づく事ができました。
 

突然、こんな話を聞いたとしたらきっと、妄想だと思われるでしょう。
私自身、最初に「許し」という言葉を思いついた時、怖れました。いやいや、こんな事を言ってはダメだろう、と。
「許す」という世界は心の問題であり、身体を探るものとしては安易に使ってはいけないものだと考えていたからです。
 

しかし、探れば探るほど、考えれば考えるほど、この許しというひらめきは間違いない、身体を通してそれを伝えられる、と感じられてきました。
これまで身体だと思っていた部分よりももう少し「前に」心の部分はあったのです。気づく事なく、そこを通り抜けていたようです。
 

気づけなかったのは、それがあまりにもわかりにくい場所だったからです。単純に肉体的な「場所」とわかりました、今後はそれを扱えば、心の緊張を取り、身体へとバトンを渡せそうです。

ひらめきの材料

さてこの大発見になるだろう、「許し」の感覚ですが、さまざまな要因が重なり、生まれてきた事がわかります。
どれだけ計画的に研究をして行っても、気づけない時には気づけない、という事がわかりました。これまで努力禁止と言葉にしてきましたが、その思いをさらに強くしてしまいました(笑)。
 

逆にもう、「俺は骨だけで行く!」と決めたとしても、ひらめきは次々と心に生まれて来ているとも言えます。ただそのひらめきを言語化するまでにはなっていないだけ、また、言語化されたとしても、そんなわけはない!と無意識に選択をしているだけかもしれません。
 

この経験によって「ひらめき」とは何か、というのも学ぶ事ができました。
この気づきに繋がる材料がはっきりしているからです。ちょっと昨日を思い出して書き出してみます。
 

まず第一に、つくばでの初稽古の後だった事。名古屋からつくば、往復900キロぐらいでしょうか。伝える事は同じでも、場所が違えば気持ちも変わります。テンションは上がっていました。
 

いい稽古を終えて、気分が良かった事、地元に戻ってきてこの旅も終わりだな、と思えホッとできた事。何より、さすがに疲れも出て、身体が緊張を続けられなかった事。無意識の中にあった努力もなくなり始めていました。
 

また、助手席にアシスタントとして来てくれた方がいてくれた事がやはり大きいのです。ひらめきは自分だけの力ではなく、環境の方がはるかに大きい事を実感しました。
今回もいつもの二人が手伝ってくれて、三人で旅をしましたが、一人を見送り、二人になった事も大切でした。
 

三人であれば雑談に花が咲きます。たくさんのいろんな話で旅が盛り上がります。ただ、二人になった時、私は無口なんです(笑)。
 

会話が途切れたので、ふと、稽古をしようと思い立ちました。そのきっかけもわかっています。直前に事故の話を聞いたからです。
彼が経験した事故はバイクの事故。三回転半飛んで、その瞬間、スローモーションを経験したそうです。
 

スローモーションの話は色々なところで聞きますよね。特に事故の際に経験しやすいような気がしています。残念ながら私に明確なスローモーションはありませんが、人間の脳の起こす不思議の一つとして、存在しているのは確信しています。
 

その話を聞き、どうしたらそれをコントロールできるのか、と考えるのですから、ずいぶんと変な性格になってきました(笑)。しかし、この興味もなければ、今の自分から出て行く事は難しくなります。
 

彼のそのスローモーションの経験ですが、スローモーションは激突する瞬間までだったそうです。激突した瞬間、時間は戻り、大変な目に遭う事になります。
この話を聞き、気になった事がありました。私の中では衝突していても、スローモーションは続くのかな、と思っていたのです。
しかし、彼の話を聞いていて、そうではないと知りました。なぜ、激突をした瞬間、時間が戻ったのだろう、と疑問が浮かんだのです。
 

話を聞きながら、私の頭の中でいろいろと想像が膨らみます。
 

さまざまな材料を得て、これらが身体の観察を助けてくれる事になるのです。

腰椎の穴、胸椎の穴

このつくばの稽古に行く直前、個人的に面白い感覚を見つけていました。
「腰椎もモーターになる」という感覚です。
腰椎という身体を支えるものが細かく左右へと回転、反転が可能だ、というものです。
 

回転は「小さな次元」です。これを自覚すれば「小さな自由」が手に入ります。小さくても自由は自由。モーターは重い身体に縛られません、重力から解き放たれます。
この「腰椎」に気づいていたからこそ、その前にあった「胸椎」にも意識が届いたのは間違いないです。
 

脊椎のモーターを想像した時、カギになったのは脊椎の後ろにある「穴」でした。
この穴に脊髄が通っています。穴を観察していた時、そこにくるくると回るモーターを見たわけです。
 

腰椎にモーターを見つけ動かせば、衝突の瞬間、微調整をする事が可能になります。相手との衝突で生まれる動きの始まりをコントロールできます。この新しい気づきを深く検討する前に、腰椎の前に動いていた胸椎の働きまで見つけてしまったわけです。この私の混乱、伝わりますでしょうか(笑)。
 

腰椎に穴があれば、胸椎にもあります。腰椎に穴を見つけた時、当然のように胸椎にもそれを探しました。
しかし、在るはずの穴を感じられず、うまくコントロールができません。わからないものはわからない、扱えるのは腰椎まででした。
 

わからなくても、考えておく。そこに胸椎がある、とわかっておけば何かのきっかけでそれが活かされます。それがまさに、今回のひらめきだったのです。無駄って大事ですね(笑)。

脳が降りてくる

さて、「降りてくる」感覚についてお話します。
 

私はどこにいるのか?
そう考えた時、一番に思いつくのは「脳」ではないでしょうか。
全力で走り、息を切らした時には心臓、長い階段を歩いている時には太もも、重いものを持っている時には腕かもしれません。
ただ、コンピューターやスマホを扱う時間が増え、脳という私が活躍する時代になってきました。
 

まぁ、理性を持つ人間ですから、やはり一番の私は「脳」でしょう。
脳は肉体の中でも「上」にあります。頭の中に私がいて、その下に身体という私がいる。私の身体観は長らくそうでした。
 

一月ほど前でしたか、その身体観が崩れました。新たな私が現れたのです。
脳であるのは間違いないのですが、その脳が「全身」にまで満ち溢れ、今やっと、この世界に生まれ、立っている!そんな気持ちになりました。
 

この感覚に至ったきっかけがあります。
それはある身体の雑学の本でした。そこに、
 

「脊髄は脳の一部とも言える」
 

と書いてあったのです。構造的に見て「脳と同じ」という事です。
専門家からすれば今さらそんな事、と思うかもしれませんが、私の脳は丸いもの、ほんのちょっとしっぽが出ている。そんな程度の認識でした。
それが脊髄として、胴体にまで伸びていたわけです。もちろん脊髄の存在は知っていましたが、それが思考や認識をする事ができる脳だとは思いもしませんでした。
 

脳が身体の中で満ち溢れると不思議な感覚があります。
例えば相手に抑えられているなど、それまで嫌だな、と思っていた事が「経験」として感じられ、喜びにまで行くのではないか、思うようになりました。
これでさっそく腹を刺されても喜べるとは思いませんが、いつか命が尽きてしまうようなその瞬間にやってくるだろう感じた事のない感覚を恐れずに、前向きに向き合い味わいながら人生を終わらせられるのではないか、と期待しています(笑)。
 

この脳と脊髄の働きも「降りてくる」感覚には重要です。脳と脊髄を感じている時、まさに、それが「降りてきている」状態そのものだからです。
今日お話をしている「許す身体」はこの脊髄のコントロールとも言えるかもしれません。 


脊髄をコントロールするだって!?
と、聞こえてきそうです。神経の働きを支えている脊髄。それをコントロールと聞けばややこしく考える人の方が多いでしょう。今、私も頭の中のひらめきを文章にしながらおかしいよなぁ・・・と感じています(笑)。
 

しかし、やはり「コントロール」しなくてはダメなのです。自覚をして、制御をして、再現性を持ってこそ、武術の際に使えるものになります。たまに出現する技では命は守れません(笑)。
 

脊髄を考えた時、そこに触れているものがあります。胸椎です。
胸椎の後ろにある穴の中を脊髄は通っています。そして、胸椎も、腰椎と同じように回転するはず。そんな事を考えていた時、脳が上から下へ、左右へ行ったり来たりしながらジグザグに降りて行ったのです。
 

脊髄にも動く感覚は持てる!
この感覚がカギになりました。脳が全身に満ちた時に感じた脊髄は「パイプ」でした。ただ通り抜けて、脳が指先など全身に広がりました。
今回は腰椎の1番辺りまで伸びている脊髄をその途中所々で回転、反転しながら降りていくのが感じられます。
 

アイデアは降ってくる、と言われたりしますが、まさにその「降ってくる通り道」を得たのだなぁとニヤニヤとしています。
この通り道をどう使うか。すでに一つアイデアがあります。通り道さえ用意しておけば、「どんなアイデア」であっても、それを身体にうまくバトンを渡せるぞ、と。
 

ひらめきを得て何かを成し遂げる人を見ればその大きな成果に心惹きつけられます。
しかし、その大成功の元となるひらめきを聞くと案外と普通というか、特別な答えではなかったりします。誰しもがそれを知っている事だったりします。
しかし、普通を見て、普通ではない心を得ると、普通ではない成果を出すのですから本当に不思議です。日常生活にある当たり前を見て、「ひらめき」、それぞれ特殊な分野に応用をし、大きな成果を出しています。
 

つまり、アイデア、ひらめきなどなんでもいい!
自分が、これだ!と思いさえすれば、その中身はなんでもいいのではないか!
 

乱暴ですが、これが今、私の直感です。
心の担当する部分をうまく通り抜けさせて、身体が動くところまで進む。これにより、身体は快適に動く準備を得るのです。
それぞれの専門分野において、既に身体の力は得ているのです。しかし、不安や怖れ、迷いによって心が身体の鎖になります。その鎖を消し去るのが、「許し」です。
 

言葉にしてみると複雑ですが、こんな複雑な事を身体はやってしまうのだ、とご理解ください(笑)。

許すとは2x2x2x2x2x・・・

今日は許すとはこんな事、身体的にはこう動き、働く、と解説しています。
「ひらめきの材料」の章でスローモーションの話をしましたが、そもそもそれがスタートになっています。
 

彼によればスローモーションになっている時、肉体はほとんど動かなかったそうです。意識だけははっきりとそこにあり、思考が高速に働きこうしよう、ああしようと思いは生まれるんだそうです。
しかし、それに肉体は反応せず、困ったんだとか。
肉体のスピードと精神のスピードは違うのかもしれません。
 

ただ、そのスローモーションの間のおかげで「覚悟」のようなものが決まったとも言っていました。疲れと眠気も合わせた中での雑談ですから、詳細には覚えていませんが、いいんです、こんなので(笑)。
 

覚悟が出来て、そこで生まれる納得。
そんなものを気にしている私がいました。身体と心、それを私たちは持っています。そして、これまでコントロールできるのは身体だけ、そう決めて稽古をしてきたからこそ、次々に新しい世界を見つけることが出来ました。
 

しかし今、心はココにある、という実感を得ています。変わりやすい心をどうコントロールをするか、手掛かりを得ました。
その手掛かりは「脳」と「脊髄」と「胸椎」と「モーター」です。
 

スローモーションの際、意識だけは高速に働く、これを手掛かりに身体を探ります。
身体の始まりは脳。自分は今、ココにいる、と最初に気づける場所、それが脳です。
ちなみに武術にはアクシデント的な状況も含まれますが、そのアクシデントによって命が奪われたとしたらまぁ、今回は諦めておきます(笑)。常に、思考が優位になっている状況で考えを進めていきます。
 

脳をスタートとして脊髄を通り、私は「降りていきます」。
この際、脊髄をただのチューブだと考えると、すぐにゴールです。
ちなみにゴールはその次にコントロールの出来る「腰椎」とします。腰椎にまで意識が進めば、それを回転させて相手と向き合ったり、外したり、肉体的な出会いの大前提を作り出す事が出来るからです。
 

腰椎から先にある世界が肉体の世界です。これまで25年近くずっと、ここだけを探ってきました。
 

脊髄から腰椎。
この間こそ、心を自覚できる場所になっている、今日意識をして探ってもらいたい事はこれです。
 

脊髄が通る脊椎はたくさんの骨があります。
首に7つ、胸に12個。不思議だったのは脊髄は胸椎までであり、肉体的に重要な腰椎にまでは入り込んでいないという点でした。
これも医学的にはなにか理由があるかもしれませんが、武術的には問題にしません。脊髄は胸椎まで、この事実をそのまま受け入れ、それを納得できるような術理を作るだけです。
もっと、長く、しっぽまでを作れば色んな事ができるのに、なんて考えません(笑)。
与えられたものをそのまま受け入れ、活かす。私が学んだ武術はそこがスタートです。
 

スローモーションの間、ぶつかる事を前提に覚悟が決まった彼は見事に命を守りました。もし、そのまま意識することなくぶつかっていたならどうなっていたのでしょう。そうなればもう、運だよりです。
 

しかし、覚悟が決まれば、身体は動き出せます。怖れを持ったまま衝突をすれば何も出来ないどころか、受け身も取れない事はこれまでの稽古で分かっています。
怖れや不安、迷いから生まれる身体の緊張を手掛かりにして新たな動きを見つけてきましたが、そもそも最初から怖れや不安など、ネガティブに働く力をゼロにしておけば、身体はもっと軽く、滑らかに動くはずです。
 

さまざまな雑談をしながら私は一つのひらめきを得た事になります。
きっとこの時、脳の中の私が脊髄を通って、その脊髄を通る間、胸椎に助けられ、思考をあれこれ分岐させたのだろう、と考えています。
妄想と言えば妄想ですが、それを手掛かりに同じように「身体だけ」を動かしてみると、心の中に納得に近い感情が湧いていくのを見つけました。
 

この時にはまだ胸椎だけしか探れませんでしたが、その胸椎だって12個もあります。そのうちのいくつかだけでもクルクルと反転する感覚を得られればいいみたいです。
 

今、こう考えています。
私の脳は思考をします。思考を通して、たくさんの可能性を作ります。脳の中にいる時、その思考は散らかった部屋の中にいるように乱雑です。落ち着かないし、決断も出来ない。選択が難しい状態です。
しかし、この世は必ず「動く」もの。脳の中だけにいたくても無理なようです。脳に繋がっている脊髄に思考は押し流されていきます。重力に従い、下へ下へと流れていきます。 


脊髄を通っていく時、そこに二つの選択が現れます。いつも、道が二つに分かれます。強制的に二つに分かれ落ちて行く事になります。
この旅のゴールは腰椎です。腰椎は意識をしてコントロールが出来ます。そこに入ってしまえば、やれる事は決まります。
許すとは心の問題、腰椎に入るまでのコントロールを考えるのです。
 

脊髄を通っていく間に現れる分岐は胸椎によって作られます。従って、もし胸椎がカチコチで動かないなら、選択をする間もなく、そのまま腰椎へと入ります。すぐにゴールになります。
当然、覚悟も、納得も得られません。
そして目の前に現れた現実に心の鎖で縛られた身体で立ち向かう事になります。こうなれば生きる事って修行だなぁ、と言いたくなりますね(笑)。
 

しかし、胸椎がそれぞれ、左右へと回転をする事ができれば、そこに納得が育ちます。
選択肢は12個。ちょっとこれを計算してみましょう。
 

2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=

いくつだと思いますか?
答えは4096です。
 

もし、自分の今後を想像した時、4096通りものバリエーションを得たならどうでしょう。自分で考えてみたとしても、その途中で飽きてくるかもしれません。こうなっちゃ嫌、という可能性だけに潰されるから恐れが出ますが、たくさんの可能性のうちの一つとして受け入れられたら納得もしやすいはずです。
選択を常に2択にして、望む方へと進んでいきます。全てを自分が望んだままに選んだ時に現れてくる現実は自分の責任と思えてきます。この時の身体は心の鎖を持ちません。身体を存分に働かせられるのです。
 

もしここに、頸椎にまで回転が現れたら・・・。
頸椎の数は7つです。さらに掛けてみましょう。
 

2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=

さて答えは(笑)。
答えは524288です。五十二万四千二百八十八!とてつもない可能性です。その中で一番望むものを選べたとしたら、文句は言えません。
 

単純に身体として考える事ができると、心は落ち着く。その希望が出てきました。
最初に言った通り、これに気づいたのは日曜日、そして今日は月曜です。
ほぼ、検証ゼロのまま、なぜか強い確信が生まれてきたので、こうして言葉にしています。
 

しかし、考えてみるとこれも当たり前かもしれません。
なぜなら、すでに何をしようか、と考え、行動する時に「納得」を得ているわけですから。こんな事を考え、文章にしてしまおう、という私を私が「許している」からです。
 


これまでは武術的実験を通して相手を崩し、そこで結果を得てから、これでいいんだ、と心を鎮めてきました。肉体的な身体を動かし、そこで得られる現実の力を借りていたことになります。
しかし、脳と脊髄による動きは心に納得を生ませるものです。行動をする前に身体を縛る鎖がなくなっているのがわかります。この先、どんな行動を起こせるかわかりませんが、結果が現れる前に気分の良さを得られるのです。
 

この心と身体の動きと働きを考えた時、これは「許し」だ、と直感したのです。
多くの人が許せ、許せ、と言いますが、それを出来ない私がいました。しかし、このたくさんの選択の結果に現れてくる身体を使えば、「許している自分」を自覚していられます。これがこの先を生きていく時、どれだけの力を貸してくれることになるのか。
 

まさに、武術は生きる事を楽しく、愉快にしてくれるものだと改めて感じています。

新たなる「浮き」は「幽霊」になる

武術の世界には「浮き」という言葉がよく出てきます。
なんの道具もなく、空気中で私たちの肉体が浮く事はありません。しかし、私たちの心はよく浮きます。心が強く意識できる時、身体は浮いているかのように軽やかに舞えるのかもしれません。
 

浮きという状態をどう考えるか。これまでにもいろいろと考えてきました。
今回、脳と脊髄、を使い「許し」について考えてきましたが、これは心寄りの話です。実際に相手を前にして何かをする時、許すという面からではなく、強烈に身体を意識せざるを得なくなる場合だってありそうです。
むしろ、そちらの方が多いのでは、と考えています。
 

この時、「浮いている」感覚が大切になります。
今、自分は浮いている、と自覚できる時、身体は軽く、滑らかな動きが可能になるからです。
 

とは言え、実際に浮いてしまった時には常識的な力は出せません。日常生活で使うほとんどの動きは重さを利用したものだからです。完全に浮いてしまったとなればどれだけ力持ちでも、その力を活かす事はできません。水の中や無重力状態での闘いって普通の練習ではやりません(笑)。
 

ちょっと前に私は身体に「モーター」の働きを見つけました。それは重さを使う動きではなく、身体が持っている電気的働きを使った動きです。
身体には電気が流れている、それはわかっていましたが、実際にそれを活かす事はできずにいました。
ある日、前腕にくるくる回る動きを見つけ、それを観察していた時、そこに「モーター」を見つけたのです。実際には骨と筋肉であり、モーターなんかではありえません。しかし、仕組みとしてモーターとしか思えないように見えてきたのです。
 

この時の前腕の動きが実に滑らか、そして、相手からもその動きは見えないので、抑えきれません。これを「小さな次元」として紹介しています。
このモーターの動きなら浮いていても関係ありません。むしろ、浮きによって、重力的な身体を手放せるのですから、電気の動きを使いたい時には浮いていた方がいいわけです。 


しかし、現実には重さはなくなりません。私には体重という大きな力がたっぷりとあるからです。
 

これまで私にとって「浮き」というのは、いったん下へと降り、地面を自覚してからしか生まれませんでした。
脚で支えて地面に立ち、そのおかげもあって、胴体は浮き、腕を働かせられました。そして、これがまた、有効であったからこそ、「下から浮いていく浮き」を疑いもしなかったのです。下駄に乗った時に出てくる自由で力強い動きはこの原理が働いていると考えられます。
 

実は脳から生まれた私が、脊髄を通り、降りている時、同じように身体が「浮く」感覚が生まれています。
いや、身体の重さを感じない、という点で同じですが、こちらは「身体がまだ無い」と言った方がいい感じがします。
腰椎まで降りている間、私という意識は身体よりも心に近いからなのでしょうか。
 

いつものように重さを活かす動きはできませんが、モーターの動きなら、あちこち動かせそうです。踏ん張って支えてくれていた脚もなくなります。
まるでこれは「幽霊」です(笑)。
 

幽霊のままであれば、肉体の力に負けます。誰からも邪魔をされないのであればまだ、幽霊らしくいられますが、ちょっとでも襲われれば脚が生え、固まります。身体を持っているんですからね、当然です。
もし、幽霊を続けたいのであれば、相手の動きに対してこちらが何かを変えなくてはいけません。この時、モーターで動く各部分を使います。
 

ほんのわずかに腰椎を回し、相手との正面衝突を避け、自由になった事で腕が動きます。前腕のモーターを制御し、相手の隙をつけば、気配のないカウンターのような突きへと変わります。
ほんの5分ほど、試しただけですが、電気やモーターとの相性がとてもいい感じです。
 

幽霊は漂いやすいものです。実体なく、存在しています。
この時の浮きは下から上ではなく、徐々に下へと降りているような浮きです。
重さをほとんど持たないので落下する感覚もありません。こんな浮きがあったとは、あまりの変化に驚いています。
 

今後、この「許す身体」を使い、「幽霊」にとどまり、「モーター」を使った動きを研究していきますが、肉体的な衰えがあったとしても心配は生まれないどころか、重く実感の持ちやすい肉体に諦めが持てれば持てるほど、より、相手を許していけるし、より現実感なく幽霊でいられ、モーターを滑らかに、高速に細かく動かせるのではないか、と期待まで生まれてきました(笑)。
 

勢いで昨日気づいた感覚をそのまま文章に残してみましたが、果たしてこれが、数日、数週間経った時、どう変化をしていくのか楽しみです。
術理的、感覚的には「許す」という新しい世界のご紹介でしたが、「ひらめき」という点では無数にひらめくチャンスにあふれているかもしれない予感でもあります。
 

不自由に思える時、ついその原因を現実という外の世界に求めてしまいますが、もし、自分の中にその不自由を解決する無数のひらめきの種が散らばっている、と思えればどれだけこの世は自由になる事でしょう。人生を使って楽しみながら探りたいと思います。

ブラックホールとビッグバン

もう一つ、ちょっとロマンチックなこの世の見方にも気づいたので聞いてください。
 
「ブラックホール」と「ビッグバン」のお話です
 
この宇宙がどうなっているのか、物理学者はそれを追い求めています。
昨日出かけたつくばにも研究施設がたくさんあります。その場の空気をたくさん吸い込んできたのも、今回のこの突拍子もない気づきにつながっているようです。
 
脳から生まれ、脊髄を通り、腰椎にまで落ちていく。この感覚、ブラックホール的とも言えるのではないか、そう思いつきました。
光さえも逃れられないブラックホール。
一点へとあらゆるものが吸い込まれていく様子は、落ちていくようにも見えます。
 

そして、腰椎にまでたどり着くと、仙骨に力が入り、そこに土台となる確かな肉体を感じる事ができます。
やっと、ここでいつもの肉体の私が「生まれる」わけです。
 
最近知ったのですが、ブラックホールの状態と、宇宙が始まったとされるビッグバンの状態は物理的には同じものだそうです。
膨大なエネルギーがミクロの一点に凝縮されている、それがブラックホールの中心です。 
そして、一点から爆発するようにして生まれたのがビッグバン宇宙論で語られる私たちの宇宙。
 
一方は一点へと入り、もう一方は一点から生まれています。
一点を通してつながりを持っていると考えてみたら、この身体が宇宙だと実感できます。 
東洋では「小宇宙」と言われ、西洋では「インナースペース」と言われます。西洋、東洋問わず、古代の人たちは私たちの身体の中にちゃんと宇宙を見ていたわけです。
 
何かを得られれば幸せになれます。
しかし、求めたものが得られない事もあるでしょう。現実は固く、思い通りにはなりません。
それでも、その現実を私が選び、生み出した、と思えれば単に我慢をするよりもよっぽど楽しく、ありがたく過ごせます。
その嫌であった経験がきっかけとなり、その先の未来が楽しくなる事だってあるはずです。私の稽古はずっと、この調子でした。
 

過去にあった自分の嫌な思い出はすべて身体に刻み込まれています。その固くなった身体に従っていれば、そこから滑らかで軽く、また、重く力強いエネルギーを与えてくれました。
過去にあった嫌な思い出は身体にとっては単なる経験だったのです。
 
この身体の中にはどれだけの宇宙の種が落ちているんでしょう。考えただけでもワクワクします。
現実は変わらないくても、楽しく過ごせる。こんな力も一人稽古でなら手に入ります。ぜひ、この世界を一緒に楽しんでください。

ブラックホールと根拠のない自信

私の中で身体と宇宙がつながって、ブラックホールとビッグバンの話まで書いてしまいました。甲野先生の言うように、これで技も効かなければただの変人です(笑)。
 
しかし、身体を頼りに探っていると、自然と動きが良くなり、技となります。今ではこれが私の「当たり前」ですが、多くの人にとって、宇宙と身体はつながりません。変に思われるほど、私の技は効き、自由になれます。
 
ふと、思い出した言葉があります。それは
 
「根拠のない自信」
 
という言葉です。
これ、私には本当に無縁なものです(笑)。
 
私の動きにはすべて、意味があります。手品で言えば「タネ」です。これは再現性を出すには頼りになるものですが、一度そのタネを知られてしまえば対策をされます。何度も技を受けていれば、技にかかりはするものの、驚きはなくなります。
これは、身体を崩す事は出来ても、心までは奪えない、という事です。こうなると私の負けです。
 
しかし、「根拠のない自信」から生まれる技は違います。その技を成立させるものを当人すら理解していないのです。こちらがこれに違いない、と決めて技を止めにかかっても、うまくいきません。
もし、条件がうまく重なって、相手の動きを止めれたとしても、それは身体を止めただけ、心は留まらず、さらに、相手の心の力を引き出す事にもつながります。
身体に従って動く私とは真逆の原理で動いていると思われます。
 
この私にとっての憧れを作ってくれた人がいます。
それが今回つくばへと共にアシスタントとしてついてきてくれた方です。冒頭に出てきたスローモーションの話をしてくれた方とは違う人です。
10年以上、私の動きを本当によく見てくれて、しかも言葉にもまとめてくれる本当にありがたい人なのですが、ただハイハイと私のいう事を聞くだけではなく、ご自身でちゃんと身体にあてはめ、動きを変え続けてくれています。
実力に関して言えば私が保証します。また、際立つのは、技を持たずに強さを得る事など、ありえないという事です。技を学んでしまった私は羨ましくもあります。
 
さらに、驚くべきはその人が「普通の主婦」であること(笑)。
こう書くと面白く伝わるかもしれませんが、実際に手を合わせると、私の動きが効かない事など良くあります。プロの力士には効くのに、普通の主婦には効かない、こんな事ってありますか(笑)。
先ほど、書きましたが、私のわけのわからないはずの術理をよく聞いて、かみ砕き、受け入れてしまうのでしょう。身体は崩せるのですが、心はすぐに立ち直ってくるのです。そしてその心の強さが身体の動きを変えていきます。
 
甲野先生は具体的に私の身体を崩してしまう人ですが、この驚くべき、普通の主婦は私の心をいつも打ち砕いてきます。
そして、そこで私は自分の中に「至らなさ」を見つける事が出来、さらに新しい技へと向かえるのです。心を打ち砕かれてありがたさを感じられるのですが、事実です。
 
おそらく、私とは違い、女性である、という点が大きいのでしょう。
もう一人のアシスタントの方は男性です。私と同年代であり、共通点がたくさん見つかります。ただ、彼の場合、ナチュラルに身体に丈夫さがあるのです。
その丈夫さは筋肉が隆々というわけではなく、「生きる強さ」として現れています。
ここ数日、やっと寒くなってきましたが、この季節の変わり目であったとしても、平気でTシャツに雪駄で過ごしたりしていますし、日常の生活を聞いてもいったい、どんな休み方をしているのだ、と驚かされるばかりです。
 
彼と手を合わせると肉体的に負けているのを感じているからこそ、その肉体に立ち向かうために新たな動きが必要になるのです。これもありがたい負けです。
 
しかし、丈夫な自然体を持っている相手に、そのままこちらのわかりやすい力を使っては歯が立ちません。ちょっとやりづらい程度では彼だって飽きてしまいます。
それでも、この10年ほど稽古を共にしてくれるのは、こちらの変化を楽しんでくれているからでしょう。そしてその「変化の元」こそ、もう一人のアシスタントである彼女からもらう感覚です。特に、身体に自信を持っている男性にはこの細かい術理が良く効くようです。
 
私の稽古は常に「反対」へと向かっています。今、いいものだ、と思うものを手放し、違うものを求めます。
この時、先に紹介した「普通の主婦」の方の感度が助けてくれました。女性ですから筋力はありません。身体だって私よりもはるかに小さい。もし、無理をしてガツンと乱暴に倒せば、崩す事は簡単です。しかし、それで心まで崩せるかと言えばそうじゃないんです。その心を驚かせてみたい、それがこの10年続いてきました。
 
彼女も同年代ですが、昔の話を聞かせてくれたことがあります。
子供の頃、「無敵感」があったそうなのです。私から見ればこれこそまさに、「根拠のない自信」です。小さな身体、未熟な知識でありながら「無敵」。こんなに厄介な事はありません(笑)。
しかも、これが小学生低学年あたりまで、というのであればそれはわかります。ただの世間知らずで片付けられます。しかし、聞いていくと大人になり、仕事をし始めた時にもそれを持っていたというのです。
 
これを初めて聞いた時、これは敵わない・・・と感じました。しかし、そんな彼女も10年以上、私の話に耳を傾け、ご自身でも身体を観察し、稽古を共にしてくれています。
 
そして、その理由も秀逸なのです。信頼できる方が、私にはない経験を過ごしてくれると、その経験から得られる感覚も私に移るようです。
なぜ稽古に来てくれるのか、それを聞きました。その理由は「病気」を経験し、ご自身で自分の身体の弱さを自覚したからだそうです。
 
すでにお会いした時には元気いっぱいでまさに「普通の女性」にしか見えませんでしたが、その数年前には大病をし、布団からも起きる事ができないほど弱い自分を経験したそうです。
治療が進めば肉体は回復します。若ければ肉体の回復も早いです。しかし、一度弱った肉体を見てしまうと、その後の年齢が進む自分を想像すると、どうしても、強さを持った自分を想像するのが難しくなります。
起き上がれないほどの病気を経験すれば「無敵感」は当然消えます。ただ弱っていく身体をそのままにしておけなかったのでしょう。たまたまチラシに見つけた私の古武術講座にきてくれました。気がつけばもう、10年以上稽古を共にしています。
 
そして、この間私は古武術講座にも関わらず、武術の技も教えず、便利なコツも伝えず、ただ自分が見つけて興奮した身体の仕組みばかりを伝えていきました。それをうまく吸収し、先の実力を手に入れたわけですが、技を知らないのですから相変わらず「普通の主婦」なのです(笑)。
しかしすでに心には「無敵」を持っていたのですから、そこに「信頼できる身体」を手に入れれば当然、実力は上がっていきます。
 

良く動き、信頼できる身体を持っている彼女はこの先、もし、自分が進みたい道を見つけたならば、その世界へと怖れなく入っていけるでしょう。そこで技を得れば常識とはまるで違う速さで上達するはずです。
身体を磨く事で、才能と言われている能力を伸ばしているのです。
 
さて、ブラックホールとビッグバンの話をもう少ししたかったので、これを書いています。少し脱線した感じになりましたが、必要な話でしたのでご了承ください。
その理由とは私とは真逆の強さを持っている彼女の理由が少しわかったからです。男性女性という差は何ともならないものです。しかし、それではない理由を思いつきました。
 
それがブラックホールとビッグバンを身体にあてはめて感じる事だったのです。
脳に生まれた実体のない私。それが脊髄を通って、腰椎にまで降りて行く事で、重心を手に入れ、肉体を持ち出します。
この感覚がブラックホールに落ちていき、ビッグバンとして重心という肉体を得ているように感じるのです。
 
今やっと、身体を動かす元として、心の領域にまで達しました。
心に思う事が身体を変えてしまうのだ、と強く実感しています。この時、相手から私をみるとどう映るのでしょうか。
多くの人は身体しか見ません。その身体を観察する目もどんどんと衰えています。目に映るのは大きく動く手や足の動きばかりです。胴体や内臓の細かな動きはそれを伝えても、見つけられないでしょう。これまでの術理であっても、私よりもはるかに重い現役の力士にも技は通用しましたし、敏感なセンサーを持っている方にも驚かれてきました。
しかし、それでは物足らない、まだまだだ、と教えてくれたのが彼女です。
 
彼女の強さの源は「根拠のない自信」です。彼女は否定するでしょうが、私は勝手にそう考えています(笑)。
私はどうにかして、それを手に入れたい、と願ったのです。最初は無意識でしたが、今では強くそれを願っています。
しかし、身体に見つかる強さはすべて根拠のあるもの。確かに常識的ではないので、理解はされにくいですが、それでも、彼女のように興味を持って身体に取り組めば必ず見つかります。人間は誰しもが同じ構造で、同じものを持っているのですから間違いありません。
 
また、身体に根拠があるからこそ、伝える時に自信をもって渡せるのです。しかし、私の求めているのは「根拠のない自信」です。もう、矛盾しています(笑)。
こういった思いがあったからこそ、今日お話をした「許し」の世界へと入っていけたわけです。肉体的、表面的な勝ちよりも、見えない世界での安心を求めていました。
 
一応、許しの実感もこれまでと同じように「身体」を通してお話をしました。脳があり、脊髄があり、胸椎を使ってそれを感じ、腰椎までの間で納得を作る。こんなややこしい話をしました。今の私にはこの小さな「身体」が必要なのです。
 
しかし、この小さな身体にブラックホールを感じてみると、その先に「根拠のない自信」が手に入るかもしれない、と今、期待をしています。
 
無敵感を持っていた頃の彼女はおそらく、こうしてうまく身体を使っていたに違いない。勝手にそれを想像しています。
病気になる前、身体に不安を持たなかった頃には、心の中で生まれた決意を根拠に身体がそれを表現してくれていたのでしょう。外から見れば、身体は普通だったはず。しかし、力強い行動を生み出していたのは、その身体の奥にある自分を信じる心の働きだと考えています。
 
こうした考えに行きつくのは、彼女から心の世界の話をよく聞くからです。時折、見えない世界の話をする人もいますが、多くはそれ、勘違いじゃない、と思うものです。
私自身はまったく、見えないものには縁がないのですが、つい疑って話を聞くと、不思議な話を教えてくれる人は嫌な顔をしたりします。信じないならいいよ、と。しかし、これは、私に影響をされて自分の信念を無くしているわけですから、現実と照らし合わせればそこまでの自信はなかった、とも言えます。
 
しかし、彼女の話は違うのです。きっと、私はいつものように、無意識の疑いを持って緊張しながら聞いたはず。しかし、それにも関わらず、彼女は自身が経験をした不思議な事を全くごく普通に、自然と話をしてくれるのです。これは、自信を持つとか持たないとかのレベルではなく、見えない世界の存在と働きを当たり前だと自覚しているという事なのです。私が何を言おうが、どう振舞おうがその見えない世界の存在は消えません。強い心の世界を持っているのです。
 
こういうレベルの話を聞くと、もう、自分でも見てみたい、という欲求にまで育ちません(笑)。聞いた瞬間諦めが生まれます。
スローモーションの経験は不思議というよりも、能力として受け取る事ができます。何とかしたら自分にも、と願望に繋がります。まだ、手が届きそうな気がします。
しかし、見えないものを当たり前に受け入れるというのは、そんなレベルを超えた世界です。それを自分も求めたい、そんな願望がまず、持てないのです。
 
しかし、今、私の中にブラックホールのような心の世界が見つかりました。
これまで私の始まりだったのは肉体的身体だったようです。
ブラックホール、と言葉にしたおかげで、身体として現れる前の私に影響を及ぼしている世界も「見てみたい」と思えるようになりました。やっとです。
身体を手掛かりにする私はいつも、この身体のちょっと先にしか行けません。いくら材料がそろっていても、私の身体のレベルが間に合わなければ活かせないのです。
 
ブラックホールの世界は全てを取り込む世界。あらゆるものを受け入れ、そこから一つへとつながる世界です。
自分が望むものにまで選択をし続ける。それができれば、肉体に現れた時には「根拠のない自信」へとつながっているはずです。私の心の中にまで入り込める人はそんなにはいないはずですから。

少し乱暴な分け方になりますが、聞いてください。
多くの男性は肉体的、身体的な強さを拠り所とします。内臓、骨、筋肉、皮膚・・・目に見えて、触れられるものです。
このわかりやすい身体を「ビッグバン後」と表現しました。
 
それに対して女性は心の豊かさ、想像の世界が得意に思えます。今、ずいぶんとこの男女の違いがなくなり、均等になってきているので伝わりにくいかもしれませんが、私が子供の頃に聞かされてきた、男は男らしく、女は女らしくのあたりを話をしています。
 
文化は時代と共に磨かれていきます。私たちの「観念」としては男女の差を無くし、平等であれ、となってきています。しかし、それが「知識止まり」であれば、現実のあちこちで歪み、衝突として現れてきます。男女平等の問題はまさにそれです。
 
しかし知識止まりではなく、身体的感覚的にも、男女の違いを自覚しなければ決して一つとしての大きな力になりません。
今、私の中に身体の世界と心の世界二つの世界があり、それがつながっているという実感を得る事ができました。
ブラックホール的な世界は全てを取り込む世界。全てを受け入れる世界です。その取り込んだ中で、どんどんとそれらを一つにまとめ上げて「納得」を作ります。
 
小さな点になった時、いよいよ身体に重心として現れる。これが今の私の身体観です。
このブラックホール的身体を目指す時、私とは真逆の世界を見ている人が必要でした。目標とするものがなければ求める事もできませんから。
 
甲野先生は師匠です。その背中を追う事でここまで来ました。しかし、ついついどうしても雲の上の存在として見てしまいます。
先生にはいつも、私の得意としているこの肉体的身体の世界を壊してもらっています。この身体では駄目なのだ、と諦めさせてもらっていました。しかし、それではいつまでたっても、肉体しか磨けません。その世界しか知らないのですから当然です。
 
運よく、真逆の感性を持つ方と出会い、稽古に興味を持ってもらえました。そこで感じられる不思議な世界を時間をかけてちょっとずつ経験して行く事で普通とは違う上達をし、甲野先生からもありがたく、評価をもらえています。
もし、私が単純な肉体しか見ていなければこんな発想を持つ事はできなかったはずです。いつの間にか得ていた幸運に感謝しなくてはバチが当たりそうです(笑)。
 
ちょっと自分の心と向き合ってみて、今自分が求めている世界を求めるのか、全く違う世界を求めるかで出会うべき人は変わります。
例えば身体を強くしたい人ならば私の言葉と動きが届くでしょう。男女問わず、強くなりたい!と思うのならたくさんの言葉と実験でそれを伝えることが出来ます。
しかし、身体ではなく、心の世界を求めるのなら、私よりも、この普通の主婦の方の言葉と動きが届くと思います。私の心はネガティブで臆病ですから(笑)。
ただし、この臆病な私が変化をしていくという様子を参考にするのなら、私でも心の強さを求めている人にもお手伝いできるかもしれません。
 
 
ただし、忘れてはいけないのは私たちは「両方」持っているという事。そして、そこに「矛盾」があるのです。いつかは「両方」と向き合わなくてはいけない日がやってきます。
また、身体が好き、心が好き。その好き嫌いの理由が反対側は諦めていた、という事だってあります。私はそうでした。
 
まずは好きな方から取り組み、余裕が出来たら反対側へとちょっとずつ、足の先手の先ぐらいを突っ込んでみる。そんな稽古で構いません。
カラダラボの稽古は型がありません。学ぶ技もありません。手順もなければ、入会もありません。どんな稽古するかは自由に決められます。
身体の世界、心の世界、今、両方ともに伝えられるじゃないか、と確信をしています。興味があればぜひ、ご参加ください。

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