気がつけばあっという間に24年が過ぎました。甲野先生と出会い、身体感覚の世界を知ってからです。
この間、ずっと楽しく稽古を続けてこられました。一度も挫折やスランプもなく、常に成長と上達と自由を感じてきました。
私にとってはこれが当たり前になってしまいましたが、よくよく考えてみれば、これはおかしな事です。
どんな学びであっても、どこかに壁は出てくるものです。そして、その壁に負け、その世界を積極的に去るか、消極的に飽きていくのか、多くはそうでしょう。
初心忘れるべからず、という言葉がありますが、私にとって、一人稽古はいつも、初心のままでいられるものです。
学びにとって「壁」は重要な意味を持ちます。
壁があるから目標になり、モチベーションも高まります。
もし、壁がなかったら・・・。
子供の頃、ドラゴンクエストといったロールプレイングゲームが遊びとして出てきました。ゲームには制限がありません。プレイ時間を重ねていけば必ず成長し、強くなります。ゲームをクリアするのに十分なレベルを持っていても、さらにレベルを上げられます。
するとどうなるでしょうか、まったく恐れる事なく、モンスターと戦えるのです。
壁のないゲームは退屈です。レベルを上げすぎた場合、他に違う目的を作らなければ続けられません。
壁があるからこそ、血が騒ぎ、ドキドキし、感情が上下し、行動を楽しむ事ができます。しかし、その時、なんとかしたら超えられる壁でなくては心は諦めて行ってしまいます。このバランス感覚こそ、ゲームクリエーターの腕の見せ所ではないでしょうか。
ゲームなら安心して壁へと何度もチャレンジできます。
しかし、現実なると、そうはいきません。社会に出た時にはすでに失敗を恐れてしまう性格になっている事だってあります。
壁をどう考え、どう向き合い、どう乗り越えるかを大人たちが見失ったようです。自然と子供たちも自信を無くします。
私にとっての武術の稽古はまさに、壁をどう乗り越えるかを教えてくれたものです。
もともと少林寺拳法という武道を修行していましたが、父が道場を開いた事から自然と始めたものであり強い志なく、続けていました。
大人になり、自分なりに意味も求めて一生懸命向き合っていたつもりでしたが、それでも、平和な世の中で過ごしている中で生まれる思いですから大した事ありません(笑)。
しかし、本当にたまたま甲野先生を知り、手を合わせられる機会を得て一変しました。
こんな世界があるのか!と驚き、漫画や映画、ゲームで見てきた達人の世界を肌で感じ、ただ、それをもっと味わいたい、と稽古をし始めました。
その甲野先生の稽古法こそ、「壁」と向き合う方法だったのです。
今、この世界にはたくさんの武道、武術、格闘技、スポーツがあります。教え方は様々でしょうが、規模が大きくなればなるほど、言葉や映像に頼るようになります。
また、日本人の学び方の癖でしょうか、手順や形を先に覚えようとします。
出来る、出来ないよりも先に、手順を覚えようと繰り返しをします。伝える方も何十人、何百人を相手に同じ言葉で導けるのですから楽です。
その繰り返しの中でもともとセンスのある人間は力を発揮します。
持って生まれて育ててきた身体感覚と効率よく結果を求めるために作られた技が組み合わさるととつてもなく、かっこいいものになります。
その成功事例がぽつぽつ生まれるんでしょう。100人もいたら、4、5人くらいはセンスのいい人間は見つかるものです。
その成功例を見て、指導者は俺の指導法は正しい、と思い、学ぶ方も、これを繰り返していけば大丈夫となっていくのかもしれません。
しかし、身体感覚というセンスなしに手順だけ、形だけを覚えたとしても、それが結果を持ってくる事は万に一つもありません。
甲野先生から教わった稽古は「手を上げるだけ」のものでした。
ここに手順はありません。身体を捻じったりするような無理をさせず、ただ真っすぐ手を相手に上げていけばいい、と教わりました。手順はないんです。
試してみるとわかるのですが、忖度をする事なく、十分に警戒し抑えられている手をまっすぐ上げる事がどれだけ難しい事か!
私も含めて、十分な武道の経験を持つ周りの誰も彼も、それが出来ずにいました。もし、これが秘伝書のようなものにかかれていたり、口伝によって伝えられているだけだとしたら、そういうものだろう、というスローガン程度のものになっていったとしても仕方ありません。
しかし、甲野先生はご自身が言われた言葉のとおり、何の負担も無理もなく、手を上げられるのです。言葉と結果を同時に見て、身体を通して五感で経験できた事は本当に幸運でした。
凄い技を見せてくれる人はたくさんいます。現代はネットの世界です。ユーチューブでも開けば達人がわんさかいます。
それでも、私にとって、甲野先生は特別です。
先生はいつも、それこそ、出会ってから25年も経とうとしている今でも、「壁」と向き合い、それを乗り越える姿を見せてくれています。
冒頭で挫折もスランプもなく、ずっと成長を楽しんでこれた、と書きましたが、これは先生も言われていた事です。
初めてそれを聞いた時にはそれこそ、「いい言葉」のようなものだと思いましたが、いざ、自分の身で試してみると、本当にスランプも感じ事が出来ません。
しかし、それは「俺は凄い」という傲慢さではなく、「今出来ていることなど、全然未熟だ」と思えるからこそ生まれる思いなのです。
私の稽古に必要なのは何より「壁」です。
上がらない手を上げる。ずっとこれを続けてきました。
最初、その手は何か月も上がりませんでした。しかし、それは稽古の仕方が間違っていたから。工夫をする、と思いながらも、つい、それまでの力を使ってしまっていたのです。努力しすぎました(笑)。
覚える型もなく、技もなく、発表の機会も昇級昇段もない稽古です。会員同士の親睦を深める合宿などの交流だってない。それでいて結果までもがついてこない。普通、こんなの続きません。
広告費を使い、心を動かし、大勢を入り口にまで連れてきて学ばせる事ができても、最初の数回で飽きるか、諦めるかで離れていきます。だって、周りを見渡せば、もっと派手で楽しく、お祭りのように騒いで心を楽しくそして、身体を強くしてくれるような人がたくさん見つかるんですから。
しかし、私には甲野先生のこの稽古法が楽しくて仕方ありませんでした。
なぜなら、多くの人たちと同時に学んできた手順による技はどうしても身につかなかったからです。センスがなく、才能がなく、努力も出来ないのですから当然です。諦めていました。
甲野先生から真っすぐ手を上げる技を体験した時、なんの手順も要らない事に感動しました。ただ、真っすぐ上げればいいだけ、身体を捻じって使わなければいいだけなんですから。センスがなくても、やれるかもしれない、と思ったのです。
その思いで稽古を重ねていくと手が上がるという結果はついてきませんが、毎回、自分の身体が自然と捻じられているし、無理に捻じっているし、真っすぐ上げられていない、と気づけます。
結果はでませんが、その結果の出ない原因はたくさん見つかります。未熟だからこそ、ダメな原因は山ほど見つかるんです。
そして、そのダメな原因を一つ潰せば、ちょっとだけ結果が変わるんです。
「相手の顔まで手が上がる」事はありませんが、しっかりと抑えられている状態から、数センチ、数ミリ、動く事があります。
当時はここまでわかりませんでしたが、この「小さな自由」が私にとっては楽しく、成長を感じられたのだと思います。毎日、毎日、ちょっとずつ、数ミリずつ変わっていきました。
一緒に稽古をしていく仲間も共に感覚が鋭くなっていきますから、本当にずっと、手が上がらない状態は続くのですが、時々、手順と形だけを学んでいる相手と手を合わす機会があったりします。その時に、驚かされるのです。普段、普通にやっている動きを相手は全く抑えられないからです。いつの間にか私の「真っすぐ」の精度が上がっていたのでしょう。結果的には強くなっていたわけですが、まったく自覚がなかったので本当に驚きました。
もし、私に誰よりも強くなりたい、金メダルを取りたい、目立ちたい、という欲求があれば違っていたかもしれませんが、幸い私は目立つのが嫌、動きが変わってきても、それに注目をされるのが嫌なので、その後もずっと、手を上げる稽古を続けました。
そして、また、壁を見つけ、それを乗り越えるための身体の使い方を探しました。気がつけば24年です(笑)。
稽古としての24年はあっという間でしたが、環境はガラリと変わりました。
結婚をし、子供に恵まれ、仕事もいくつか変わりました。そして、なんと、人前に出るのが苦手だった私ですが、こうして、身体の可能性を伝える側に立ち、それを仕事にしてしまいました。
次第に日常生活と武術の稽古が合わさっていきましたが、この生活習慣のおかげでどれだけ救われたことか!
子供たちも気がつけば大人になります。長男は二十歳になりました。私は未熟なまま大人になり、親になってしまいました。まだまだ未熟なままでも、子供は勝手に大人になります(笑)。
学生時代には考えもしなかった事を思い悩むわけですが、その時にも「壁」が出てきます。
思い悩むという心の状態は身体から見れば「壁」です。
なんの武器も持たず、ただ思い悩んでいたならきっと、目の前に現れてくる甘い言葉の誘惑について行ってしまったでしょう。
それらの誘惑は手順や型で学ぶ技と同じです。うまくいく人には有効だが、そうでない場合もあるものです。
遊びでなら失敗も笑って過ごせばいいですが、まさに人生ですからね、安易に選べません(笑)。私は絶対確実なものを求めたのです。
そして、もちろん、絶対確実なものなどありません。しかし、思い悩むたびに生まれる「壁」は出てきます。
いつ、心が作る「思い悩み」と身体が作る「壁」が「同じもの」と認識できたかはもう定かではありませんが、身体が変わり、動きが変わる事で、思い悩み困っていた自分が消えて行く事を学んだのです。
どんなに強く抑え込まれ、逃げ場がないように思えても、必ず身体は何とかしてくれる、今はそう思えるようになりました。
そして、それは心にどんな苦しい事がやってきても同じだと確信しています。
心と身体はおなじもの、と多くの人は言います。みんなきっと、気づいているんです。
しかし、それでも多くの人は「心より」です。「身体」を忘れてしまっています。今、現代を生きる程度の身体しかしりません。
肉体的に平和で安全なら、心も強くその力を発揮する事でしょう。
しかし、一度、暴力にさらされれば、身体は緊張し、動けなくなります。身体が動けなければ、心身一如なんですから、心だって止まります。
心が冷え、凍り付いた時に動く元気を与えてくれる人はたくさんいますが、身体だって止まるんです。しかし、それでも暴力がなくなった時代です。平和になりました。ただ、身体はまだ、ここにあります。
もし、病気になったとしたら。この時、病気から生まれる身体の重さはまさに武術の稽古の時と同じ苦しさです。見えない敵がこの身体を抑えてきていると考えています。
また、自分の心を変えるだけでいいのならまだ楽ですが、案外、心は他者の心ともつながります。こちらの心を受け入れない他者を見てしまった時、心は止まります。その他者を切り捨てられない時だってあるでしょう。頭でわかっていても、切り捨てられない大切な人がいます。
その時、身体を見ればそこに「壁」を感じているはず。
「壁」さえみつければその壁は身体感覚を使い、乗り越えられるものになります。
先日、甲野先生に「武術の稽古を、そのまま生きることの希望にしている人物」と言っていただきました。
私にとっては、ただ楽しく稽古をしていただけのなのですが、この当たり前の事が伝わっていないとしたら大問題です(笑)。
少し長くなりましたが、武術の稽古と生きる希望について書かせていただきました。思いつく事をそのまま一気に書いたので、細かな点では疑問を持つ場合もあるかもしれません。
ぜひ、ご縁がありましたら、稽古の場にてその疑問をぶつけてください。その疑問がまた新たな世界を見つけ出す「壁」になってくれるかもしれません。
一緒に稽古が出来るのを楽しみにしております。あなたが既にもっている身体の凄さと、この世界に「壁」を感じて生きていく楽しさを伝えさせてください。