【稽古日誌】子供たちの身体と大人の身体

しぶとい夏の暑さも朝晩はもう、寒さを感じるほどになり、いよいよ選手交代、季節の変わり目を感じます。まぁ、それでも日中はまだまだ汗をかかせてくれるほどの夏のパワーは大きいですけど。
 
 
 
自分の目の前にあるものを「道具」として認識をすることが出来て、世界の見方がどんどん変わっていくのを感じます。これまで、嫌だった事は、ただ、自分がうまく道具を使っていなかっただけなんだ・・・と。
 
 
汗が溢れてくるほどの暑い日は「皮膚」という道具が「ちゃんと働いて」汗を出してくれます。これは体温を調節してくれています。
それなのに、僕らはそのちゃんと働いてくれているものに対して「汗が出すぎて困っちゃう」などと、文句を言います。
 
お腹が痛くなれば、お腹が痛い・・・なんていうのも文句です。
 
 
でも、これは、違うかもしれません。この見方が「道具の術理」から得た新しい見方です。
 
身体にとって必要だからこそ、汗もだすし、痛みもだすんです。
言うべき言葉はちゃんと働いていてくれて、「ありがとう」なんだ、とわかりました。
 
 
あらゆる事に対して、ありがとうを言おう、と知って20年ぐらいでしょうか。
ほんとにそうなんだ、と気づくまで、こんなにも時間がかかっちゃった(笑)。
 
 
 
これまで、身体を細かく見続けて、少しでも速く、正確に動かしたい、と掘り下げてきました。
その中で見つかってきたさまざまな事があります。
自分が選択する事、信念、情熱を持つ事、トラブルも成功も経験の一つとして楽しむこと・・・いろいろあります。
そのいろいろなところから得た自分の力をどうやら、道具を信頼することだけに集中する事が一番、この人の世の中では幸せになれる道だと感じています。
 
 
私たちの意思で、気持ちしだいでなにかできる!というのは「我」なんです。
皮膚が汗をかいてくれなければ、死んでしまいます。
自分の思いだけでは体温調節はできません。
お腹が痛くなっているからこそ、身体がまたよくなるんです。
どんなに頑張っても、目の前にある道具に比べて、私たちの「身体」は役に立ちません。
身体には身体の役割が、道具には道具の役割があることが分かると、道具たちと気持ちのいい付き合い方ができ、私たちを今まで以上に助けてくれるようになります。
 
 
身体は信頼するために使う。
ただ、これだけです。
ナイフも、コップも、パソコンも。使う瞬間、手に持つそれらを完璧に信頼し、感謝する。それがコツです。
 
 
この見方、考え方を技を通してまちがいない、と思わせてくれるのが武術です。
我をはり、頑張っていた時には叶わなかった結果が目の前に出てくるんですから、そこに「確か」なものを感じられるんです。
 
 
 
さて今日の日曜日は午前中、少林寺拳法の日曜練習。
普段の平日の練習では子供たちしか練習しません。
もちろん、お父さんもお母さんも一緒に来てくれてもかまわないんですが、なかなか時間を作れませんからね。
子供たちと一緒に動く事でたくさんの事を学ぶ事ができるのに、もったいない!と日曜日の練習の機会をつくりました。
 
 
 
子供たちを見ていると、まさに身体の思いのまま、動き続けています。
道具の術理に当てはめてみると、彼ら子供は道具をうまく使えません。
ドライバーやハサミも大人は簡単に使えますが、子供はなかなかうまく使えません。
この事をどう考えたらいいんでしょうか?音なのが有利なの?
子供たちは道具を信頼していないんでしょうか?
 
 
 
おそらくきっと、これは大人が考えるように道具を必要としていないんです。
道具はある「働き」を求めるために作られるわけです。
大人はその働きを求めるために道具を使います。
子供たちにはその働きを求めようという気持ちがありません。
むしろ、道具そのものを手に持ち、楽しむ事を一番の目的にしていますね。
手にしている道具が同じでも期待する働きが大人と子供では違うんでしょう。
 
 
 
子供たちにとって、全ては遊びです。
大人のように「しなくてはいけない事」がないですから。
 
 
いや、もしかしたら彼らの身体は全身が「自分のもの」なのかもしれません。
道具の話をしていく時、この肘から先は道具、自分の身体じゃないという見方は新鮮です。
そして、すぐにはそれを受け入れることはできません。
もちろん、口では「はい、肘から先は道具です」という事ができます。
しかし、それを技を通して表現できなければ、口先だけで、今までの自分とまったく変わりがありません。
 
 
 
動物は指の先まで「身体」なんだそうです。
だからこそ、猿は木を渡り歩きますし、おぼれる魚がいないのかもしれません。
でも、僕らは違います。
道具を使い、この世界を生きています。
 
 
子供たちは・・・と言えば、本能のまま、ただ、生きるために生きている、そんな感じがします。道具に期待をせず、この身体を全部使う事で生きているようです。
しかし、どこかで彼らも道具と出会います。
道具をしれば、そこに便利な役割があることを知ります。もちろん、無意識に。
この時代に生きていくのに、道具との関係を整えておかないと、便利であればあるほど、感情が揺れそうです。
 
 
 
子供たちは昔の自分です。
しかし、なぜか、その昔の自分を思い出すのが苦手です。
ついつい、大人の自分から、昔の自分を思い出して、しまいます。
 
 
武術を通して見つかる自分は新しい自分ともいえますが、遠い昔、子供の時に持っていた自分と言う感じもします。
たくさん、子供たちに教えてもらっています。
すこし、プライドをはずして、子供たちを見てみると、たくさんの発見が得られると思いますよ。
 
 
 
久しぶりに文字を書き出して、頭の中の掃除ができているのがわかり、楽しくなってます。
読んでくださる方には申し訳ありませんが、これからも、しばらく、ただ、感じていること、思ったことを書き出す、事だけに専念します(笑)。
ただ、道具の術理や肘の術理といった技的説明が多面的に話せる事で、意外とこの形もいい、と言ってくださる方も見えます。
そういう言葉があると、僕は調子に乗りますから、どんどん、技と動きの言葉も増やしていきます。
 
なんといっても、武術、武道はより楽しく、生きるためにある道具ですから!

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