【稽古日誌】自らをよりどころにする

11月に入って、いきなり寒くなったよね!
昨日の大人の武道塾道場を後にしたのは午前1時。
この時間になると、体の芯に冷えが入り込んでくる感じがするんです。壁の薄い道場ですから(笑)。
 
 
 
でも、今はこういう刺激が全然イヤじゃなくなっているから、ちょっと不思議。
なぜかというと、自分の中に冷えを感じて、素直に反応している部分と、それを解釈して、気持ちを揺らしている二つの自分がいる、というのが感じられるからのなの。
 
 
時々、水のシャワーを浴びるんです。
水シャワーは冬に行うと、もう、逃げ出したくなるぐらいつらい事(笑)。
水がかかっただけなのにね。
 
 
でも、体は正直だから、すぐに、反応するんだよね。
そして、その反応に対応して、感情が動くみたい。
そして水のシャワーで、やめてくれ〜、と心が動いて、再び、暖かいお湯のシャワーで生き返る〜と、ほっとします。
心と意外と単純なんですよ(笑)。
 
 
 
いつの頃か、この心ってものに興味を持ってきたんだけど、最初はその心を「自信の無さ」を何とかしたい、というところから入ったの。
もし、私が自信満々だったしたら、今のように、心ってなんだろうって、興味を持つこともなかったはずだから、本当にネガティブで良かった、と思ってる(笑)。
この前、ブログに書いたけど、ネガティブである自分を超喜んで受け入れていくことが出来るようになって、毎日がこれまで以上に軽やかに、楽しく感じられるようになってしまった!
 
それって、ポジティブってことじゃないの?と聞かれる事もあるけど、私は、頑固としてネガティブだと、信じたい(笑)。
まぁ、どちらでもいいんですけど。
ただ、今の自分、今までの自分を変えることなく、そのまま受け入れられたら軽やかに生きていけるって事を伝えていければなぁ、と思ってる。
 
 
 
こんな事を考えながらいつも稽古してるんです(笑)。
そして、もちろん稽古の時も。
 
昨日の金曜日は稽古三昧の一日。
朝、栄の中日文化センター、お昼からは新しくなった一宮の中日文化センター、夕方から九時までは少林寺拳法、その後、1時まで大人の武道塾。
特に一宮の文化センターには体験の方がたくさんきてくれて、武術の技、動き、感覚を楽しんでもらいました。
 
 
初めての人は私の話をどう思うんだろう?
昔はそんな事をよく考え、どうしたら伝わるだろうか?とあれこれ、試してきたりもしたんだけど、最近は、もう、そういうこともなくなったの。
もちろん、手を抜いているわけじゃないからね(笑)。
 
どんな人にも自分にはまだ、知らない可能性がある、って事をみせて、感じてもらえばいい、って事がわかったんだよね。
 
昨日の体験会でも、私の半分以下しか体重がないんじゃないか、ってぐらいの細い方が見えてね、ちょっと腕を握ったら、痛い、っていうんだよね!
でも、そんな人にも伝えることは同じ。
自分の中に壊れない強いものがあるって事を見せることができるから。
 
その細い人も、楽しさを感じてくれて、勝手に色々試しあってたから、きっと、動くことの楽しさを感じて帰ってくれたんじゃないかなぁ。
 
 
体験にされた方に話をしている中で、いくつも、「あれっ」って顔をみたの(笑)。
きっと考えていた「古武術」とのギャップがあるからだとおもう。
でも、それはあたりまえ(笑)。
だって、私は普通に思われてることをやるつもりなんか、全然ないもん。
 
文化センターだろうが、大人の武道塾だろうが、個人稽古だろうが、伝えたいのは体の面からみた自分の心だから。
 
このブログもそうだけど、そうとうややこしいことを書いてるし、実際の稽古の時にはもっとややこしいことをいいながら、技をかけてる。
単純に介護の技、相手を投げるって技を身につけたい、という人がいても、頑固に、心と体の事を伝え続けてるの(笑)。
 
だって、私の技が効くようになってきたのは、トレーニングの結果ではなく、いつも、
体と心とが一つだった!っていう安心が生まれたときだから。
 
 
 
こんな事をはなしていると、時々、それは宗教みたいだね、といわれる(笑)。
まぁ、実際に今、指導している少林寺拳法自体が宗教法人だから、生まれたときから少林寺漬けの生活を送ってきた私の中に宗教へのあこがれや期待感があっても不思議じゃないと思う。
 
でも、この宗教みたいだ、って言葉はイヤじゃない。
むしろ、ちゃんと自分が自分の心に向き合ってるって感じるからね。
 
よく日本人に宗教はあわない、といわれるよね。
まぁ、宗教について考えている暇もないほど、忙しくなっちゃってるからね。
でも、それは日本人には無意識的に自分の内面を探る性格が備わってるからだと思うんだよね。
 
わざわざ外から、この宗教はこんなおかげがあって、すばらしいよ、だから信じなさい、なんていわれるよりも、ずっと、深く、みんな自分ってなんだろうって事を考えているような気がするの。
 
だからね、その自分を掘り下げた結果を仕事や生活の中に自然ととけ込ませていってきたんじゃないかなぁって。
ただ、なんかちょっと不安なことがおこると解決策を外の世界に求めるってのもおもしろい日本人の癖だとおもう。
このあたりの内面と外面とのバランスが取れたときに日本人らしい解決がとれるような気がします。
 
 
 
宗教みたい、っていわれたりするのはきっと、仙骨とか、波動とか、運命とか自分って言葉をつかって、技を稽古して、説明したりするからだと思う。
もっと、わかりやすく、手はここ、肩胛骨はこう開いて、股関節を回すように動かす、なんて説明をしたらもうちょっと体操っぽいくなるよね。
でも、それはおもしろくない(笑)。
 
だって、伝えたいのは自分の体と心がすごいって事だから。
しかも、現代は頭でっかち。
この頭に心の事も教えなければならないとおもってるもん。
心を伝えるときに言葉だけで伝えている人は多いよね。
たくさんいる。
ネット時代には言葉で伝えるのが一番効率がいいから、まぁ、それはよくわかる。
でも、私は体にこだわりたいんです。
だって、心と体が同じなんですよ。
両方からみなきゃ。
 
 
 
 
宗教って言葉は幅が広いから一概にはいえないけど、外に救いを求めている感じが私はしてる。
神様、仏さま、おねがいします!って。
でも、僕が求めているのは神様にではなく、この「自分」に頼りたいって事。
自分をより所にできたら幸せだろうなぁ、って思ってる。
少林寺拳法の教えがまさに、これなんだけど、その自分をみるのに、体っていうのはものすごく役に立つんだよね。
 
 
 
体が変わると、そこに新しい自分への見方が変わる。それも、劇的に。
何かが出来ないときって、出来てるかどうかを誰かに聞きたくなるんだけど、本当に出来ているときには実はそんな事を聞かなくっても、体に確かな実感が生まれるんです。
 
 
 
実は、昨日もその大きな気づきがあって、心の中に大激変がうまれたの。
ちょっと長くなっちゃったから、記事を分けて、また、書きますね。
とりあえず、これはここで閉じさせてもらいます。
 
 
 
いつも、ありがとうございます。

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