大人が大人としての、親としての自信を取り戻すための少林寺拳法をしようと決めた

これまで、このブログでは主に、古武術について話をしてきました。
まぁ、古武術、といっても、そもそも古武術、というジャンルがあるのかすら不明ですからね(笑)。
 
ブログの形を借りて、甲野先生に出会い、自分がどれだけ変わったのか、そして、私たちが持っているこのカラダがいかにすごい可能性を持っているのか、という事を気づいた事だけを書かせてもらってきました。
 
 
 
実は、私にはもう一つ、肩書きがあるんです。
それは少林寺拳法の先生。
正式には金剛禅総本山少林寺愛知大府道院道院長、となります。ちなみに少林寺拳法は6段。子供の頃から、それこそ、記憶の無い頃から道着をきていました。
なぜ、少林寺拳法の道に入ったかといえば、父が少林寺拳法の先生をしていたから。
 
それでも、少林寺拳法は世襲制ではないので、やめる、という選択肢もあったんです。現に、姉と弟は適当な時期に道場を離れましたから。
ただ、私だけはずっと、少林寺拳法を続けました。しかも、その子供の頃にはそれほど、好きでもなかったのに(笑)。
 
 
 
転機が訪れたのは大学生の時。
なんとなく入部した少林寺拳法部ですばらしい仲間と出会い、楽しい時間を過ごさせてもらったんです。
だんだんと好きではなかったはずの少林寺拳法が自分にとって、無くてはならないものに変わってきました。
 
それでも、自分に「先生」が務まるだろうか、と道場を引き継ぐ事にはずっと、抵抗があったんです。周りは大丈夫、やれやれ、と言ってくれていましたけど・・・。なかなか自信が付かず、一歩が出ませんでした。
 
 
 
私にとって最大の幸運だったのは、大学を卒業し、ガンガン練習を行える場所を失った時に「甲野先生」に出会えたことでした。
同じ「武」の道にいるとはいえ、少林寺拳法とは別の武術です。
似たような技があっても、通常は違う武道の技を取り入れると、それまでの形が失われ、バラバラになってしまうものです。
 
 
 
しかし、甲野先生は違いました。
とにかく、そこに「カラダ」がある事を私に気づかせてくれたのです。
技術という知識、情報ではなく、「カラダ」という当たり前のものを考えた事のないレベルで見せてくれた事で、初めて、カラダを意識する事が出来るようになったんです。
 
なんとなく、本当の自分ってなんだろうなぁ、と思っていましたし、色々と知識を集め、勉強してみた事もありました。
ただ、その頭に入ってくる知識では「本当の自分」は、ちっとも見えてこなかったんです。
たぶん、この自分の事が自分で分からない、という思いが、先生になり、人を導いていく、という役目を担う事を止めていたのでしょう。
 
それが、幸運にも、「カラダ」の見方を教えていただいた事で、カラダの方から自分を見る事ができるようになりました。ずっと、「アタマ」の方からだったみたいです。
 
 
 
カラダの感覚をとにかく掘り下げていこう、と思い、それまでの練習の仕方を全て変えてみると、時間はかかりましたが、自分が知りたいと思っていた事が次から次へと自分の中で納得できるようになったんです。
 
 
 
少林寺拳法は武道ですが、そこにものすごく大きな教えがあります。
その教えは簡単にいうと自己確立と自他共楽。
まず、自分が強くなる。そして、周りも助けて幸せな世の中をつくろうよ、って感じです。
とにかく、自分を信じる、ところから始まるんです。それを子供の頃からずっと、言われ続けてきました。
 
 
 
そういわれ続けてきた反動でしょうか?特に私は自分に自信が持てずにいたんです。
それがカラダという自分を見れるようになったきた事で、素直に、そのカラダのすごさ、命のすごさを受け入れるしかないようになってしまいました。
勉強が嫌いでしたから「アタマの自分」は大した事無いかもしれません。でも、「カラダの自分」は完璧なんです。
誰にも教わらずに、呼吸をし、ご飯を食べ、消化し、栄養を取り入れ、排泄する。カラダはいつも、休むことなく、動き続けていてくれています。
そのすごいカラダを実感させてくれたのが稽古でした。
 
 
 
 
話が長くなってしまっていますが、今日書きたいのは、ここからです(笑)。
たぶん、今日のこの日記は決意の日記です。
これまで、古武術を通して、身体の凄さ、心の凄さ、人間の凄さを伝えていくことにばかり気持ちを入れていました。
少林寺拳法の方では、父の道場を引き継ぎ、道院長という責任ある役目をおって10年も経つのに、ずっと、父に遠慮をし、それまであった長い道場のスタイルを維持していました。
それはもちろん、父が現役であったのが大きな理由ですが、引き継いでもなお、父の道場なんだ、という気持ちがあったんです。
まぁ、それも、父がなくなった事でようやく気づいた事ですけど。ホント、失ってみなければ分からない事ってたくさんあります。
 
 
 
父が普及、布教してきた少林寺拳法はどちらかと言えば、子供たちへの教育でした。
ちょうど、ベビーブームで子供たちがたくさん、道場へと通ってきていました。そのたくさんの子供たちに、人として生きる道を熱心に伝えていたんです。そして、それを他の仲間と同じように、学んでいました。
自然とそれが「少林寺拳法」と思うようになったのかもしれません。
 
ただ、時代って変わっていくものです。
30年前に必要な事と、今、この時代に必要な事って違うんです。
 
 
 
先に、身体を見る事ができるようになり、自分の中に凄い自分がいる、という事を実感できて、自分に対して自信が持てるようになった、と書きました。
つまり、アタマの自分よりも、カラダの自分を見た事で、私は自信を取り戻したんです。 
 
実はカラダが見えてくるに従い感じるのは、子供のカラダの方が遥かに自然であり、無理が無く、凄いものなのだ、という事なんです。
今も子供たちの前で先生として指導をしていますが、その時、私の心の中にあるのはキミたちのカラダとココロってのは本当にすばらしいものなんだよ、って事であり、先生でありながら、子供たちにいつも、教わっている、という気持ちなんです。
すでに、すばらしいものを持ち、それを発揮している子供たちになにを教えればいいんだろうか・・・と、悩んだ事さえあります(笑)。
 
 
 
30年前は知識を渡せばよかったんです。
社会全体がそれを望み、求めていたから。
ただ、インターネットを手に入れ、すでに私たちはたくさんの情報、知識を手に入れました。もうすでに、多くの人が、自分がなにをすべきか、というのは分かっているはずです。
 
人として正直に生き、仲良く、手を取り合って、平和を目指して生きていく事が正しい事なんだ、って分かっているはずです。
 
 
 
でも、イザ、それを行おうとしたとき、うまくいかない場合が出てくるんです。
分かっていても、うまくいかない。そして、そのうまくいかないときに、そのトラブルを自分が乗り越えられると信じられない、その苦しさが今の時代にはあるんです。
 
 
 
2013年ってちょうど、戦後の混乱の時期と似ているんですって。
歴史は繰り返すといいますが、多くの人がこれからの未来に対して不安を持っているんだそうです。
特に日本は70年の間にすばらしい仕組みをこの社会に作ってきました。
その強いシステムがあったおかげで世界一の国になった時もあります。でも、やはり人が作ったものですからね、少しずつ、うまく廻らなくなってきたんでしょう。
日本を代表する大きな会社でも、それまでのやり方が重荷になり、身動きが取れにくくなっていますから。
 
 
 
 
実は少林寺拳法はもともと、戦後自信をなくしてしまった日本人に対して大丈夫、自信を持つんだ、と教え、導き拡がっていったものです。たった一人から始めた活動が気がつけば140万人を超える人々が門をくぐりました。
 
私が学んだ少林寺拳法は小学生、中学生を中心にした少林寺拳法です。
大会などを行い、勝ち負けは競い合いませんが、演武という形で日ごろの成果を出し合い、競い合います。その経験で自分にもやればできるんだ、という自信をつけるんです。
また、技を覚え、身につけることで、徐々に上がっていく段位。それも自信の一つになっていきます。
 
しかし、70年前は違ったはず。
敗戦によって混乱した社会、たくさんの自信をなくしてしまった人。その日食べるものにも苦労したはずですから、老後の心配なんて考える事もなかったかもしれません。
そんな時に生まれた少林寺拳法は「武」という直接カラダを使うことにより、自分の中に自信を取り戻すものだったはずです。
 
もしかしたらそれはケンカをしても自分は負けない、って思える事だったかもしれません。それでも、まず、自分は大丈夫、といえる大人が必要だったんです。
 
 
 
今の時代ってどうでしょう?
大人がもう、不安だらけです。
将来、未来に対して明るいものを持っている人がものすごく少ない。もしかしたら、周りに一人もいない、って人もいるかもしれません。
 
私はどうか?といえば、もちろん、不安はあります。
そもそも、古武術なんて、組織もなにもない仕事をしていますから、自分が倒れたらおしまいです(笑)。
それでも、私の中にある未来ってどんどん、明るくなっていくんです。
10年前よりも今、5年前よりも今、そして、昨日よりも、今日の方が未来に対して明るくいられるんです。
 
 
 
 
それはなぜか?と言えば、ずっと書いてきているこの「カラダ」のおかげです。
カラダが自分の中で実感できた時、それを自分の頭でちゃんと納得できるようになれます。
自分の中に不安が生まれたとしても、それが自分にとってのなによりの課題となり、稽古をしていると、ある日、突然、その不安は不安ではないんだ、って気づくんです。
不安だと思っていたのはアタマの自分が勝手に作り出したものだったんです。
 
子供の頃からずっと言われ続けてきた事があります。
それは私たちは誰でも可能性の種子なんだ、という事。しかし、その可能性を教えてくれるはずの大人が不安だらけでは子供たちはかわいそうです。
私は本当に運良く、それが間違いない事を感じる事ができました。それを気づかせてくれたたくさんの人たちの恩にどう報いていけばいいんだろう、ふと、それが今日アタマに浮かんだんです。
 
 
 
長くなってしまいました。
これまで、少林寺拳法の指導では大人たちよりも子供たちに目を向けていたことに気づいたんです。
でも、子供たちはもう、すでに、完璧な明るさを持っているんですね。
子供たちもやがて大人になります。それが中学生の頃なのか、高校生の頃なのか、20歳を越えてからなのかは人それぞれですが、必ず、大人になるんです。
大人になった時に、自分の中にちゃんと、完璧に凄いものがあったんだ、という自信を感じられるようにする事が一つ。
 
そしてもう一つは大人たちのための少林寺拳法をしよう、と思いました。
少林寺拳法は武道ですが、その目的は競技性ではありません。単なる護身術でもありません。
少林寺拳法を通じて、本当の自分に気づき、凄い自分を見てくれれば自然と、自信が付き、明るい未来しかみれなくなります。
親として、子供たちにしなくてはいけないのはまさに、ここではないでしょうか?
キミたちの未来は明るく楽しいものなんだよ、と伝えなくてはいけません。
しかし、その時、伝えるべき私たち大人が心の奥に不安と怖れを抱き続けていれば、敏感の子供たちは絶対に、それを見つけてしまいます。
 
 
 
身体の感覚を掘り下げる稽古をし始めて18年。この間、ずっと、その身体の可能性に驚かされてきました。そしてそれは誰にでも、いつからでも感じられるものです。
毎週通わなくては身につけられないものではないんです。
もうすでに、「皆、持っているもの」だから。
ただ、その持っている事に気づけばいいんです。
 
一人でも多くの大人に、親に自分の身体の凄さを伝えていきたいと思います。
そのためにできる事は何だろう、とこれから色々と考えて、行動していくつもりです。
月に一回、年に数回でも自分の凄さに気づく事はできます。
今、こうして、自分の中に思いが生まれてくると、なぜ、これまで、それを行動に移せなかったんだろう、と不思議でなりません。
自分を信じて、ぜひ、皆さんも行動してください。親として、大人として・・・。
 
 
 
名古屋緑道院の道院長だった父がなくなり、今後、名古屋緑道院も私が長となり、活動していきます。
これまでどおり、
月・木が名古屋緑道院
火・金が愛知大府道院です。
共に、少年部が6:00~7:00、一般部が7:00~9:00です。
毎週通えなくたっていいんです。月に一度でもその瞬間、自分って凄いんだ、って事を語らせてください。目からうろこを落とし続けていくことこそ楽しく生きていくうえでは大切ですから。
 
今月最後の31日の日曜日AM10:30から愛知大府道院にて体験会を行いますので参加希望の方は下記までご連絡ください。
もしくは090-5606-5648
もちろん、通常練習日にも見学に来ていただいてもかまいません。
9:00以降であっても連絡をいただければ対応しますのでご遠慮なく。
 
 
 
本当に長くなってしまいました。よっぽど、思いがたまっていたんだな、って感じます(笑)
お付き合い頂き、ありがとうございます。

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