親と子の関係の研究

久しぶりに自分の体の中に親と子の関係を教えてくれる動きが出てきました。世の中にただしそうなことはたくさんあっても、自分にとってその教えが納得できるものはあまり多くはありません。体から感じられるものは頭でそれを否定しようと思ってみても紛れもない実感としてあるだけに受け容れざるを得なくなるのです。この法則をうまく使いこなすことができると、自分が信じたいものを信じることができるようになります。

さて、親と子の関係ですが、1年半ほど前にも自分の中で納得する答えを得ていました。そして今回それをさらに違う形で実感をして、以前、気づいたことがやはり、間違いなかったのだということを再確認しました。

体に教えられた親と子の関係を良くする方法は、親は出しゃばらず、子供は親を心配せずに、ただひたすら自分自身の楽しさを追求するということでした。

人間誰しも親であり子供です。テレビドラマで赤ちゃんポストの扱いが問題になっていますが、今目の前に生みのお父さんお母さんはいなくても、自分がこの世に存在しているということは間違いなく誰かの子供なんです。

少し、話はそれますが、ドラマのことが問題になっていた時、施設出身の方が書かれた言葉を目にしました。そこで彼は自分にはたくさんの兄弟姉妹がいる、たくさんの親がいると書かれていました。この言葉を見て、あーはるかに自分よりも親と子のあり方について納得をしている人なんだなと思いました。

今の時代に武術が持つ力というのは、決して人を倒すための技術ではありません。便利な道具やたくさんのサービスが出てきたことで、自分自身が経験できなくなってしまったこと経験させてくれるために武術があると思うんです。親と子の関係についても、これまで私自身、それを心の底から考えるきっかけはありませんでした。それは見かけ上、平和なことに見えるかもしれません。しかしそれは、自分自身が親となった時、自分が子供に対して何ができるんだろうという問いを生み、迷いを作り出してしまいました。たくさんの本を読み、話を聞いても、それは頭に入る知識であり、それを信じることができないままでいたのです。

そんな問いを持っていた私ですが、この体を通して親と子の関係を学ぶことができました。それはきっと自分自身が持っていた問いに対して体が答えてくれたことなんだと思います。1年半前、その答えが感じられた動きというのは前腕と上腕を肘で分離するという動きです。

肘から先は道具、という一言を聞き、その言葉を実感したくて、あれこれ試していた時、ふいに前腕が楽になる感覚を得たのです。それまでの私は力こぶに対応されるような上腕に力が溜まりすぎていました。意識は上腕にあったのです。肘を切り離すことができてそれまで心配していた上腕はただそこにあるという状態になりました。結果、肘から先、つまり前腕がのびのびと動くように感じられるようになりました。

このとき上腕を親、前腕を子供と考えてみて親が子供に対する姿勢、子供が親を思う心、それを自分の中で一つ答えを得たのです。その後、たくさんの言葉をまた知識として得ることは続いていますが自分自身の中の確信が揺らぐ事は未だありません。

そして今回さらにそれを確かなものだと考える動きが出てきたのです。

上腕と前腕は親と子の関係です。そしてこの体にはその親と子の関係がまだまだたくさんあるようなのです。胴体と腕というのも親と子の関係です。この胴体をねじらないようにしてみると肩の動きが一変します。それまで上で引っかかりがちな肩がビクビクとしないしっかりとした胴体を得たことで、小さな円を描けるようになりました。この小さな円のおかげでしっかりと押さえつけられた腕も楽々と動かすことができるようになりました。

この動きが出てきて気づかされるのは、おそらく、日常の大半の仕事を機械や人任せにしていなかった時には多くの人がこの動きを当たり前に身につけていただろうということです。雑巾がけをする時、窓拭きをする時、荷物の上げ下ろし、そういう体を使わなきゃいけない場面で、つまりやすい肩をそのままにしてしまっては仕事になりません。肩が小さな円で動くことができると、四十肩五十肩の不安が全くなくなってきます。本来の体はよく動くものなんだと理解できるんです。

この肩の動きも親と子の関係なんだとわかりましたが、さらにその奥にも親と子の関係があったんです。後手に両手で片手を突き上げられて抑えられた時、それまでのどんな工夫でも、動くことができませんでした。自分の目の前にできない動きをおいてそれを乗り越える事こそ、経験であり、それをさせてくれるのが武術の稽古です。しっかりと押さえられたこの右手をどうしたら自由に動かすことができるんだろう、そんなことを考えながらいろいろ試してみたのです。

そのとき出てきた答えが抑えられた右手を捨てるいるということです。それまで自分の目の前に置いていた右手を、あえて相手に渡してしまうように背中に置いてみたのです。するとそれまであった不安がなくなり、気持ちの中で、晴れ晴れとしたものが生まれてきました。

抑えられている形は変わりません。むしろ、体の後ろへと手放しているので、体勢的にはより不利な状態です。しかし、心の中には不安がないんです。このとき自分の体と自分の意識の順番に気づきました。

相手と向き合う時、自分が相手のことを考えることが、結果的に自分の体を信頼していないということになっていたのです。これをあえて不利な状況に身を置いてみたとき、意識の方では何をすることもできなくなりました。何かをしてやろうという意識が手放されて、体の方がその状況を解決しに行ったのかもしれません。意識と体の間に親と子の関係を見つけたのです。

つまりこの時は意識が親であり、体が子供です。体を信用しようと稽古してきたつもりでしたが、根っこのところでは、自分の意識が何かをしなくてはいけない、という気持ちを捨てきれずいました。これは、口先では信頼してるよと言いながら子供の事を心配している状況とそっくりです。子供はそういう親の心に対して敏感です。無意識の心配だっても、任されていないということが子供の動きを止めてしまうのです。

もちろん今あげた事が正しいとはいいません。しかし、体から感じられたことは自分自身の中では確かなものなのです。そして、この先稽古続けていくことによって、
今こう感じていることが否定される事も出てきます。しかしそれは、新たな確かなものが出てきたことであり、間違いなくその瞬間自分自身の心の中に幸せな気持ちが広がっているはずです。

武術を通して伝えたいこと、それは自分自身との出会いです。今の時代たくさんの知識を得ることはできますが、このまま目に間違いやサービスに依存してしまうと、自分が何を感じているか、ということを見失ってしまうかもしれません。

身体を通しての学びは一生続けて育てるものです。自分自身の体の声を聞くことで、10年後さらに、細かなことに気づくことができるようになります。おそらく、これからの時代はこれまで以上に情報がどんどん入り込んでくる時代です。入れたくなくても入ってくるでしょう。その溢れる情報に溺れないためにこの体を使い、自分が何を感じ、何を信じるのかという力を得ることがこれからの時代には必要だと確信しています。

長々とすいませんでした。久しぶりのブログでつい伝えたいことが溢れてしまいました。またよろしくお願いします。

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