「死ぬ」のが怖い

 常識っていうのはいつの間にかあるもの。当たり前すぎて疑いようのないものだ。
 毎日常識って何だろう?と考える人がいれば、きっと、変な人に見えると思う(笑)。
 
 
 そして、私はその「変な人」だ。
 武術を通して身体感覚が「ある」事を知って、それまでの常識がガラガラっと壊れた。
目から鱗が落ちた、というのも同じものかもしれない。
 初めて甲野先生の技を受けたとき、その技をどう言葉にしていいのかわからなくなった。一瞬にしてパニックになったのだと思う。
 武道の世界には不思議な技ってたくさんある。指先一つで投げられたり、抑えられたり。触れずに相手をコントロールするものまで。
 ただ、こういう「不思議すぎる」技にはタネがあることも無意識はよく知っているんだろう。不思議だ!と心は奪われても、すぐに忘れる事ができる。
 
 
 
 甲野先生の技は不思議なんだけど、不思議じゃなかった。
 感度を敏感にして、相手の動きを注視する。目だけではなく、指先にまで神経を行き届かせてわずかな動きも逃さないようにしていると「なんとかなる」。これが私の中の当たり前だった。
 ルールの中で勝ちを得るにはそこからまた工夫が必要なので難しい問題は山ほどあるけど、ただ、手を出す、しかも、かわしたり、フェイントをかける事無く、ただ、まっすぐ手を出すという状況で「何度やっても」崩されてしまったのだ。
 
 
 
 もちろん、この動きの中にも「タネ」はある。しかし、そのタネは心という不思議なものにあるのではなく、当たり前だと思っていた「身体」にあった。さらに甲野先生はその「タネ」を惜しげもなく、術理として言葉にして全部、教えてくれたのだ。
 
 当時は若く、頼りにする実績もなかったので、鱗を落としてくれた甲野先生の技を追いかける事に躊躇はなかった。自分の持っていた最大の運はこの瞬間だったかもしれない(笑)。
 もし、これが、ある程度の役職を得て、その立場の中で甲野先生と出会っていたら、その技を身につけたい、と考えても、すべてをすててそこにいく事は決してできなかっただろう、と思う。中途半端に組み合わせようと思っても絶対に無理だから。
 
 
 
 それでも、どんな事があろうとも、そんな常識、しがらみを捨てて、自分の「この先」を考えなくてはいけないと思う。
 私の「先」はなんと言っても「死ぬ」という事。なにより、死ぬ事が怖いのだ。
 死ぬってなんだろう、死んじゃったらどうなるのかなぁ。調べればいくつか「答え」は見つかるけれども、どれにも納得できるものはない。頭だけわかっても、安心はぜんぜん生まれない。
 
 
 
 「死ぬ」という事に恐れを持ってしまうといろいろと大変なのだ(笑)。
 どんなに力を得ても・・・それはお金や、権力や、名声であっても・・・、最後にやってくるだろう「死ぬ」という事実を考えると「役に立たない」ものになってしまうから。
 この先、世の中はさらに便利ですごい機械が発明されてくるはず。人間がこれまでいけなかった世界、宇宙だったり、時間旅行もなんとかなっちゃうかもしれない。でも、怖いのだ(笑)。
 
 
 
 「死ぬ」事を恐れてしまった人に明るい未来を描かせるのは無理かもしれない(笑)。
 しかし、世の中は未来へと向かっている。身体は必ず老いていくからだ。
 
 
 
 でも、今、私は未来に対してものすごく明るい。相変わらず「死ぬ」のは怖いけれども、きっと死ぬ頃には平気になっているんじゃないだろうか、という確信がある。
 稽古を通して見つかっているのは、子供の頃の自分の気持ちなんじゃないか、と思う。
 新しく気づくパワフルな動きは新しいものではなく、子供の頃の自分の気持ちなんだと思うようになってきた。
 
 子供たちはいろいろな事を「気にしない」。大人になっていく中で人と自分とを比べ、変わる努力をしてしまう。でも、オギャー、と生まれた瞬間はなにも気にしていないはず。
 
 
 
 武術は「具体的に」自分が「平気」かどうかを試す事ができる。自分の見ている世界が広がり、大丈夫だとわかると、次に同じ状況が来ても、気にならなくなってしまう。そんな不思議な体験が稽古をすればどんどん経験できる。
 
 
 
 「寿命」という言葉を作ったのは誰だろう。
 0歳でなくなっても、100歳でなくなっても「寿」命なのだ。言葉の上ではそれをわかる事はできても、身体を通してそれを感じる事は簡単ではない。
 自分の中の「死ぬ」という現実を「当たり前」として捉えられたとき、「寿命」という事がもう少しわかるかな、と。
 
 
 
 こんな事を考えるのは私が子供の頃から少林寺拳法という武道をしていたからなのかもしれない。身体感覚を知る前はこんな自分を「めんどくさい奴」とものすごく嫌いだった。でも、今は違う。自分の事をしる手がかりが「身体感覚」だとわかったからだ。
 
 
 
 今はなんとなく生きると、なんとなく生きられてしまう時代。便利な道具がいっぱいあり、ずっと、若者でいられる時代。でも、かならず、「死ぬ」直前はきっと来る。現実を見ないままずっと夢の国を暮らしているようなものかもしれない。
 
 誰かが「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」と言ったそうだ。良かれと思って世界は変わっていく。それはそれで仕方ない。それでも、自分の身体は自分の意思で掘り下げる事ができるものなのだ。これからも、めんどくさい、変な自分を楽しみに生きていく事にしよう。
 
 
 
 身体感覚からみた自分を知りたいのならカラダラボか、名古屋緑道院、愛知大府道院へどうぞ。

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