先週の金曜日、つまり、2015/8/21の事、突然、「すれ違い」の感覚にきづいた。
二つのものが出会うと、そのままであれば、「衝突」する。衝突を回避するのに、相手の前から動いたり、衝突しても弾き飛ばされないように力を大きくしたり、いろいろと対策をしなくてはならない。
自分よりも大きなもの、力の強いものとの衝突は怖い、でもなんとかしたい、だから稽古が続けられていたといえる。
普通、大きなものに立ち向かうには鍛える、という事を選ぶ。筋トレだ。しかし、筋トレには弱点がある。
筋トレの弱点
- いったんトレーニングを始めたらやめられない
- 筋肉は使い続けると疲労する
- 力を出すのに時間がかかる
- 筋肉は連動させにくい
ちょっと挙げてみるとこんな感じ。
トレーニングをやめられない、というのは休むことでせっかくつけた筋肉が落ちてしまうから。筋肉量に合わせた技を身につけていれば当然、パフォーマンスが落ちる。
しかも筋肉主体で動くことができる時間は限られている。力を入れ続けていると、疲れる、ってのはわかるはず。単純明快。その疲労があってこそ、また筋肉が鍛えられたりもするので、なかなか疲れないように動く、という選択もとりにくくなる。疲れ切った瞬間は隙になってしまうのでスポーツには良くても、武術には合わない。
そして、筋肉はいざという瞬間に力を出すのが難しい。膨張と収縮を使って力を出しているからだ。パッと来た攻撃に対して力を入れている瞬間にやられてしまう可能性がある。
また、筋肉は意識して動かしやすい反面、連動して動かすのが少し難しい、という問題もある。
筋肉主導から重力主導へ
筋肉の問題点を補い、解消してくれる力が身体にはある。その一つが重力だ。
筋肉にあった問題を重力は持たない。
トレーニングをやめても重さはなくならないし、疲れたからといって重さはなくならない、支えるのをやめれば重さは下へと働く、そして、重力はひとつの流れなので体中の重さが連動しやすい。いい事づくめなのだ。
便利でなかった昔はこの重力を活用しなければ生きていけなかっただろうけど、今の世の中は機械の時代になったので、つい、みんな、重力を生かすことを忘れてしまったようだ。この重力について考え、工夫をして稽古をするだけでも、大きく変化をすることができる。理由は筋肉的な動き方とは真逆だから。みんなが行っている動き方とは違うので「衝突」が少ないのだ。
この20年間は無駄だったのか?
20年前、筋肉の動きしか知らなかった自分が重力の働きを知った。工夫をし始めてみると、それまでの動き方とあまりにも違うので、覚えていた技がやりにくくなった。下手になったのだ。やろうとすると、つい、筋肉が動いてしまってうまくいかない。筋肉に頼るのをやめよう、と決めてからは本当に動けない。
動けないなら動かないようにしょう、と思えたからだろうか、工夫はどんどんと動かなくても強い自分を見つけることに向かった。例えば、肩甲骨や骨盤を左右へ張ってみる。すると、これが、びっくりするほど、強いのだ。これまで何人にも試してもらったけど、驚かない人はいなかった。そして、その強さは単純な数字的な強さとは違い、質的に違うみたい。小学生の女の子に張りを覚えさせて立ってもらいました。その女の子をプロの相撲取りに押してもらったのです。すると、そのお相撲さんが、驚くのだ。当然、押せば女の子は飛んでいく、勝てるはずがない。でも、触った瞬間に「違い」があるのがすごいし、それがわかったからお相撲さんは驚いたのだと思う。
衝突は「ある」ものだから強くなることを求めた。衝突が「ない」という理想はあっても、現実に「ある」んだから、強くなるしか方法はない。身体に感覚という確信をもらえるすごいものがある、とわかった以上、やれることを少しずつ、拡げてきた20年だった。
しかし、あるとしか思えなかった「衝突」が消えたのだ!消えた瞬間、それまで育ててきた術理がのほとんどがいらなくなった(笑)。この20年は無駄だったのかも・・・そんなことも考えたが、それ以上に、まったく新しい世界が広がったことがうれしくて仕方がない。今、こうして言葉に残しているのも、きっと、この興奮は数週間もすれば「当たり前」になってしまうから。特別なものが見つかったのではなく、当たり前の世界がちょっとわかったということだと思う。
力がすれ違う
相手と手刀を合わせると当然、ぶつかる。ぶつかった瞬間、すこし「ズレ」があった。そのズレた事でまっすぐでいられずに少し、姿勢が崩れた。そのズレはわずかだったので、いつもなら張りを作って十分支えられるぐらいだったと思う。でも、その時はたぶん、がんばりたくなかったのだろう。気張りなく、なんとなく稽古をしていたからかもしれない。とにかく、ぶつかって、身体で支える気持ちがでなかったので、身体が崩れたのだ。
身体が崩れていくのは珍しくない。むしろ、うまくいかなかった時はいつも、崩れているといえる。いつもと違ったのはその崩れがわずかだったこと、そして、その時興味を持って工夫をしていた術理が「連動」だったという事。
左右の手が連動をし始めて一か月、ずいぶんと連動が滑らかになってきた。自分の身体がくずれた瞬間の力をこの左右の手が連動をすることで吸収をしたのかもしれない。とにかく、いつもなら左右の脚へ重心が偏って止まってしまっていたと思うけど、それが偏らず、姿勢を崩さず、まっすぐで居続けられたみたい。
重心の偏りがないことで相手の力の行き場所がなくなったのかもしれない。力が自分の身体を越えて背中に抜けたのだ。背中に抜けていく力に従い、自然と、足は後ろへと下がっていった。この時、相手は「暖簾に腕押し」状態に近いのか、滑らかに前へと進みだしていた。ぶつかったと思った相手は消えて、自分の後ろへとすれ違うように抜けていった。
稽古は一瞬の感覚を当たり前にする事
人を動かすのには力がいる、無意識には誰でも思っている。その力をどこかから借りてこなくてはいけない。
筋肉からの力はわかりやすい。わかりやすいけれども、それは相手も同じ。相手も筋肉でこちらの動きを止めてくる。止めてくれる相手がいるから、そこから外れたい、と思うことができる。すれ違いの経験から、これまで経験のなかった外れ方があることがわかった。
金曜日に「すれ違い」を見つけて、土曜、日曜、月曜と稽古をしてきて、だんだんと、この「すれ違い」も日常の中に溢れていた事がわかってきた。例えばなにかを「苦手」と思うとする、苦手なものは思わなくても、苦手だ。逆に苦手でないものを苦手なふりをするのもできない。自分にとって苦手なのものの誰かにとっては苦手でもない。これは、精神的に衝突がないからといえる。
今回、すれ違いを見つけたことで、衝突が「ある」自分から、「ない」自分へと変われるかもと思えるようになってきた。そして、もしかしたら、衝突が「ない」自分から「ある」自分へも変われるかも・・・と。
とにかく、感覚という手掛かりがあるから、これまで知らなかった世界へと入っていける。もし、感覚がなく、言葉しかなかったらずっと、今までのまま変われなかったと思う。面白いのはこの「すれ違う」感覚は子供の方が強く持っている、という事。そして、苦労をして手に入れるものではない、という事。無意識にある大前提が変わるかもしれない。また、細かく、感じたことを記します。
一緒にこの手掛かりの少ない状況で研究してくれる人は今週末、大垣で稽古があります。詳細は下記のページでご確認ください。