そろそろ、街もお正月気分も抜けて、動いてきましたね。僕も、ようやく、今日、初稽古を行ってきました。今年はカレンダーの影響か、いつもよりも長く休みをいただく事になりました。
ただ、稽古がない、と言ってもそれは具体的な技の練習がなかっただけであり、生活を通してカラダに向き合うことはずっと続いているわけです。
カラダラボでの稽古は普通の練習とは違い、反復練習は行いません。それが、いらない、というわけではなく、反復したくなったら、好きなだけ行えばいいだけであって、まず「回数」があって、それをこなす事に満足してしまってはいけません。「ノルマ禁止」なんです。
稽古禁止、と言ってもいいかもしれません。
したくないのに、稽古をしても良い事はないんだ!そう、自分にも言い聞かせています。
ただ、私たちは未来の予測ができます。つい、今のままではいけないぞ、と不安を元に稽古をしてしまいがちです。不安が元になった稽古は、どうしても工夫が減ってしまうんですね。
工夫のない稽古と言うのは、つい、回数に頼ってしまいがちです。勉強と同じ、と思うと分かりやすくないですか?勉強したくなくても、しなければ不安だから、机の前には座るものの、その気持ちで勉強をしても身につかないことは誰でも知ってますよね。それと同じです。
稽古したくなるまで、考える、というのはどうでしょうか?
稽古の意味、なぜ、今自分は稽古をしたくなるんだろう、稽古で手に入ること、手にしたいことは何だろう・・・?その自分の希望、願望を達成するためには稽古しかないんだろうか・・・?色々なことを考えればいいと思うんです。
私自身、今、武術を通してカラダを見つけ、そのカラダを改めて認めていくことで、人生におけるさまざまな疑問の答えが出てくる、と言うことに絶対の自信を持っています。でも、これはたまたま私が出会ったものが「武術」であり「身体」だっただけで、武術や身体だけが人生の問いに対して答えが出てくるものではないはずです。
別に、これが学校で勉強をし始めた国語や数学でもいいと思いますし、音楽やスポーツでもかまわないと思うのです。ただ、僕は武術であり、カラダだった、というだけです。
ただし、単純に武術を稽古していればいいかといえばそうではなく、勝ち負けを基準にした見方のままではその具体的な状況でしか使い切ることが出来ません。自分が学んだ、状況がそのまま現れてくればいいのですが、なかなか型どおりの状況にはであいません。むしろ、そうでない場合が多いわけです。
スポーツ化している武術・武道も多いですが、試合に勝って喜び、自信を付け、それを糧により人生を楽しく生きる、と言うのであればそれもいいと思います。ただ、私はそれがなかったんですね。試合の中で褒められても、それがうまく自信につながらなかったんです。だからこそ、今、こうして試合のないもので自分を見つめなおしているのかもしれません。
自分がやりたい事をやりたいだけやってみる。そうすると、いつか必ず「飽き」がきます。それだけ人間には適応能力があるんでしょうね。こんなにも不思議な事ができるようになって、どうしよう♪、なんて気分よくなることがよくあります(笑)。でも、一月ぐらい、それを楽しんで稽古していくと、あれだけ興奮したものでも、当たり前になってきます。この時、無理に大切にしてはいけないんです。どんどん、捨てていく。
すると、また新しい事に気づいていけるみたいです。今まではそうでした。最初は捨てることにも勇気がいりましたが、今はもう、全然平気です。
自分にとってのやりたい事って何だろう?考えてみてください。やりたい事って言うのは「常識」のことかもしれません。例えば手をつかまれて、そこから逃げるとします。単純に力いっぱい抑えられてしまった時に、自分がつい、してしまう動き。これがやりたい事です。自分が最後の最後にどうしてもしてしまう動きです。
この自分の「常識」をバージョンアップしていく事が稽古です。ただ、腕を引っ張っていたのを骨を意識して廻しながら引いてもいいし、肘を使いながら引いても構いません。僕の場合、今なら腕を意識するのではなく、その腕の周りのほうが実体でその周りが動くことで結果的にその腕が動いているように動く、というわけの分からない動きがやりたい動きになっています(笑)。
自分が一番頼りにしている動きを知っておけば、後はその頼りになる動きを超えるものはないかと探し回ればいいのですからね。捨てることも慣れてしまえばそれほどつらくありません。
追伸
そういえば、年賀状や年賀メールで一番多かったのは「わからない」というご意見でした。
分かりやすくを考えての言葉なんですが、分かりにくくてすいません(笑)。
自分でも驚くほどの気づきがあって言葉になっています。僕自身全部、初めての経験を言葉にしていますから、時々、昔の事を聞いてくれると、また違った感じで分かりやすくなっているかもしれませんん。
ただ、「わからない」というのは、ある意味、自分の「常識外」のことなのかなぁ、とも思います。
考えてみると甲野先生の言葉を僕は全く分かっていません。稽古をしていって、あれは、この感覚を言っていたのかなぁ、と想像するぐらいです。そういう意味では「わからない」と言ってもらえる、というのもいいかもしれない、なんて考えてしまいます。
でも、甘やかしてはだめです(笑)。分かるまで、聞いてください。
その「問い」が新しいなにかのきっかけになりますから。よろしくお願いします。