【思考実験】

【思考実験】手先の先にあるもの

肘先をなくすことで、不便ではあるけど、自由になれる事を実感しました。武術の「技」は知識です。その「知識」を生かす際に、自分を自由な存在として認めているのと、そうでないのとでは、知識の生かし方が違います。
 
文化はこの肘先の発達なんじゃないかな?と考えるようになりました。小手先の技術と時々、揶揄されたりしますが、小手先がなければ、なにもできません。その小手先を生かすために「腕」があるかも・・・。
 
小手先にあるものが「単純」であれば腕を磨けば良いんです。単純とは、ピアノのように打てば響くもの、刃物のように、触れれば切れると言う事です。
現代ではその小手先の先が複雑になってしまいました。パソコン、携帯電話、ボタン一つで色々な機能を持ちます。
 
私はパソコンも携帯も無かった時代を辛うじて知っています。でも、パソコン、携帯電話が当たり前の世代の人は、その便利なものをなしで生活する事はきっと、難しいでしょう。無かった頃の「自由さ」を知らないのですから。
 
確かに、機械は便利です。しかし、その便利さにしがみついてしまえば、手放すときに苦しくなります。でも、それにしがみついているから不自由かというと、それも違います。手放せなくって窮屈に思えても、一つ、見方を掘り下げると自由になります。それを手、肘、腕、肩で試しましたね。
 
手放せないものといえば、私達のこの身体もそうです。いらない、と思っても手放せません。肘先を捨てる気づきは、いろいろ考えるきっかけくれた気づきでした。

【思考実験】計画、実行、失敗、成功について

考えてみると、これまで思うとおりになった事は一つも無いかもしれません。
出来た、と思った事も、だんだんと軌道が変わって、こんなはずではなかったのに・・・となります。これは、武術を始める前も、後もです。
 
子供の頃から運動も、勉強も、芸術も全部ダメで、しかも、面白い事を言えるような性格でもなく、やる事なすこと、自分はダメだなぁ、と思う事ばかりでした。結果がついてこれば、まだ、そこに安心できますけど、なかなか結果はついてきませんからね。
 
武術をはじめてからもそれは変わりません。
計画をつくり、目標を立て、そこに向かっていっても、なかなか達成できないんです。
でも、楽しいんです。ものすごく。
自分の予想、計画とは全く違った結果が出てきても楽しいんです。
 
今こうして、自分の好きな事を仕事にしていますが、ほぼ、全部、計画通りに行く事なんてありません。一寸先は闇です(笑)。でも、その闇を楽しめるようになったのかな?性格が変わったんでしょうか?
 
性格といえば、私達の性格は身体にくっついている、といわれる人がいます。私はそれを信じています。いや、そう考えないと説明つかない経験を自らしました。
性格を変えたいなら、身体で。お手伝いしますよ。

【思考実験】迷いの無い動き方は生き方に

なにかをしようとする時、それは頭が動いたり、手が動いたり、自分の行動を伴った時に、考えが生じます。その考えに迷いが無く、スパッと決断し、行動できれば力が沸いてきますが、なかなかどうして、そういう状態になれる事はまれで、つい、悩み、迷ってしまいます。
 
ふと、肘の説明をさせて貰っていた時、自分の中で仮説をたてて考えていた事が、腑に落ちました。
 
例えば、なにかを取るとき。
手を伸ばし、つかみ、こちらへ持ってこようとすると、必ず、肘先が動きます。肘先の動きや上下左右、回転と、さまざまな動きが考えられます。選択肢が多いと言う事です。その選択肢に楽しさなど、意味があれば、自分の動きに納得が出来るかもしれませんが、大抵適当です(笑)。
 
動きを練習していると、色んな動きを学び、知る事ができます。どうしても、習う側、学ぶ側であれば楽しいという感覚よりも、先生がこういっていたから、という知識の方が先に来たりします。すると、頭では正しいことを行っているにも関らず、楽しさがついてきてないですから、自信が沸いてきません。ふと、他のやり方のほうがよかったんじゃないか?という考えがわいてきます。これが迷いです。
 
でも、肘先が無ければ、上腕が進むしかありませんから、目標に、上腕を進ませます。この上腕は「ただ、進む」だけです。ものすごく、ここに自由があります。でも、この自由は選択をしなくてもいい気楽さです。ただ、出れば良い。私は、迷いが無ければ物事はうまく行くと思っている楽観主義者です(笑)。このあたりの事も書き出すと長くなりそうですが、ちょっと掘り下げて見たいと思います。
 
悩み、迷いのない生き方をしましょう!いや、したいです(笑)。だから、身体を研究します。

【思考実験】明るい未来を+うつむく=ひたむき

うつむくってどんなイメージを持ってますか?
うつむいて歩くよりも、顔を上げて上を向いて歩いた方が良いんでしょうか?
ふと、自分のやりたい事をしっかりと見据えて、うつむいて歩くのは、「アリ」なんじゃないかと考えました。
 
下を向いて、歩く。人によってはこれを「元気がない」と見るかもしれません。
でも、それは見ている人の元気がないからかもしれません。
この世は鏡だ。といわれます。自分が元気が無いとき、同じように、うつむいている人を見て、そこに元気の無さをみてしまうのかも・・・。
 
たとえ、うつむいていても、その人の中にやりたい事がちゃんと見えていれば(行きたい未来があるならば)、ただ、ひたむきに一生懸命生きている、という事になるんじゃないかなぁ・・・と。
「うつむく」という言葉と「ひたむき」という言葉。姿勢は似ていても、中身は全く違いますね。
 
なぜ、こんな事を考えたかというと、なんとか、頭を働かせないですむ方法はないか?と思ったんです。肘先があるからつい、手を使ってしまいます。同じ理由でなにかをすれば頭を使わなくてもいいんじゃないかと考えたんです。
 
頭は背骨に繋がっていますね。
背骨をアレコレ動かしていたとき、あごを引いてみました。すると、頭が動かせなくなります。頭が動く事がなくなれば、色々と考えなくても済みます。
回る術理で「忘れる」事をお伝えしましたが、その逆です。一つの事をじっと、ひたむきに考え続ける事が、あごを引いたときにはできるのかな?って。
 
あごを引いた姿勢。これは外から見ればうつむいているように見えます。あごを上げて上を見ていると、元気に見えるかもしれませんが、武術ではありえない姿勢です。あごを引いた姿勢、つまりうつむく姿勢を先入観で元気がない、と考えていた自分がいました。
 
明るい未来、なりたい自分をしっかり見据えるために、あごをひいて、ひたむきに過ごすことにしよう。

【思考実験】ヒラメキも共同作業

全ての動き、活動が「共同作業」だと仮定してみると、こうしてなにかを考えるなかで生まれてくるヒラメキや気づきも共同作業かもしれない・・・なんて事を思った。
 
私の思考はどこからか来るものなのか、それとも・・・科学者や哲学者はそんな事を一生を通して考えているのかな?でも私という普通の人がそんな事を考えて、自分の中に答えをみつけ、それを元に生きる楽しみ、強さになるのならどんどん、掘り下げていっても良いと思う。
 
学校で教えてもらう知識。
知識を自分のものに出来ると、多少の優越感は生まれる。でも、それは本当の喜びとはちょっと違うような気がするんです。
 
喜びをバランスを取る側にみつけ、手柄は全部、相手に上げるといいぞ、という体験がありました。そうすると、この思考から気づき、ヒラメキにいたるプロセスの裏でバランスをとっている「見えない」なにかがあるはず。
 
その「みえない」何かに感謝をして生きて行きたいなぁ、と子供達と遊びながら思いました。