【思考実験】

表情が心の壁を作る

ここ名古屋へ向かって、台風がやってきています。窓の外はものすごい風と雨です。みんな大丈夫なのかなぁ。

お久しぶりです、山口潤です。
ずいぶんとブログに間を空けてしまいました。楽しみにしてくれる人もいるのが分かっているだけに、申し訳ない気持ちで一杯です。

「間」という事を考えると、今日、このブログの更新が大切になるんです。武術的に考えるとですよ(笑)。

どういう事かといえば、敵と対峙した時、実は目に見えるあいてそのものを見てしまうと、その後の動きが全部、相手に引っ張られてしまい、不安や恐れで一杯になってしまうんです。しかし、「相手を見ず」、相手との間に目を向け、そこを目標にして動いてみると、不思議と、相手にこちらの動きが届くんです。

分かりにくくてすいません。
もう少し、具体的な例でお話します。
壁の前に立ってみてくださいね。ちょっと遠いなぁ、と感じるところがいいです。その状態で1歩出ながら壁に手をついてください。この時の「感じ」を覚えておいてくださいね。

次に、壁と自分の間になにかあると思って、両手でサワサワ触ってください。人目が気になるなら、一人でやってくださいね(笑)。そして、その間にある「なにか」にめがけて、一歩踏み出してください。自然と体は本来の目的である壁のほうへと向かってしまうんです。

壁に手が届く、というのは同じでも、それを行う際の自分の気持ちがずいぶんと違う、というのがわかる人もいるかもしれません。試してみてください。
 
 
 
なぜ、こういう事が起こるかと言えば、やはり、足で「蹴る」動きが強いからだと思うんです。蹴ると言う動きは反動です。前へと進んでいく体がある反面、どうしても、後ろへと残る体もできてしまいます。

こういう体の動きと心の動きがリンクしている、と考えるのが、武術を生活に生かすための基礎のなるんですが、なにかをしようとした時に、無意識に力が入ったり、怖れや不安が出る事と同じだと思います。届かない、という不安がもっと蹴らなきゃ、と体をその場に居つかせてしまうんですよね。
 
 
 
とにかく「間」にこそ本質があるわけですが、この記事と一つ前の記事との間、自分がなにをしていたか、というのが無意識に出てしまうと思うんですよね。ちゃんと、真剣に体と心に向き合っていた時には、自然と伝えたい事が出てきます。逆に、その間の時間が空っぽだった時には当然、一つ一つの言葉が力を持ちません。

さて、今日のお話はどうなるでしょうか(笑)。
自分と向き合いながらお話したいと思います。
 
 
 
私の講座、稽古は基本的に「ライブ」です。決まったカリキュラムはありません。
まぁ、気がつけば、そうなっていたわけですが、このブログもそうです。なにかを書こうと思ってはじめても、気がつけば、あっちにいって、こっちにいって・・・この台風のように迷走することもしばしばです。

今日は「表情と心」について話をするつもりです。
連休中、あるテレビの番組で「さかなクン」を見ました。いつもサカナの帽子をかぶり、普通の大人とは全然違って見えます。彼の足跡を見ると、まさに「好き」をそのまま全力で表現し、人生を生きているように見えます。

ふと、彼の表情から目が離せなくなりました。うわっ・・・、特徴的な大きな目。ぐっと引き込まれている自分に気づきました。なぜ、こんなにも人を引き付ける表情ができるんだろう?そう思ったんです。それに気づいた後で改めてみてみると、それまでは彼の表情を見ないように、目を逸らしていた事に気づいたんです。
 
 
 
同じ表情を見ているのに、ある瞬間までは見ないようにしていたものが、手のひらが変えるように今度は、目を離せなくなる。人の持つ「魅力」の秘密なのかもしれません。彼の表情はガードが無いのです。その力みの無い表情はこちらの心の奥にある気持ちを映し出していたんだと気づきました。

これ、武術と同じでした・・・。
相手の攻撃に対して、自分には対処できないかもしれないぞ、と無意識に拒絶をすると、相手の力を自分の体に取り込むことを拒否をします。これが力みになり、力みとなった力をどうにかしなければ、その力で倒れてしまいますから、踏ん張ったり、様々なテクニックで解消していくわけです。

でも、実はその力みは自分が作ったものであり、自然な状態であれば、そのまま相手へと帰っていくものなのです。それをこれまで様々な技でお伝えしてきました。自分は大丈夫、心配しなくても良かったんだ・・・と自分に対してちゃんと自信を持つことが稽古です。なにかを付けて自信を持つわけではないのです。もうすでに、完璧な大丈夫な自分に気づくために、稽古するのです。
 
 
 
「さかなクン」の表情はまさに、それでした。でも、その表情は今の私には簡単ではありません。なぜだろう・・・と自分の内側へと向き合ってみると、やはり、そこに関係を作るのを怖れているんですよね。人との向き合い方もそうですが、モノや経験に対してもそうです。例えば、素晴らしい絵画があっても、それを子供のようにキラキラした目では見れません。魚を見ても、それをワクワクは見れません。この時、私の表情の奥ではどんな顔をしていいのか迷っている心がありました。その心に気づいてがっかりするぐらいなら、初めから関係を作らないようにしよう、と「無関心」を決めていたような気がするのです。
 
 
 
すいません、ややこしくなってしまいました。
自分にはこの目の前のものを素直に、真っ直ぐ受け取る事なんてできない、そんな卑しい心がどうしても取れません。そんな事に気づいてしまいました。
 
でも、こうしてできない事に「気づく」事が武術的に解決する第一歩になるんです。ですから、がっかりしているわけではありません。むしろ、喜んでいるんです(笑)。
 
 
 
そこで、表情を考えました。
この表情が硬いからこそ、居ついてしまっているだけじゃないか。もう、すでに、手を掴まれても、腕を掴まれても、それこそ、首を締められてもそれを拒否せず、まず、受け入れていけば解決できる事を「知っています」。じゃあそれを応用するのであれば、無関心のまま生活をするのではなく、まず、この表情に動きを入れるために、なにができるか考えてみよう、となりました。
 
 
 
この表情にあるのもたくさんの筋肉です。
感情があって表情があると思っている人も多いでしょうが、その理屈では武術の世界ではすぐに死んでしまいます。なぜなら、怖いからカラダが動かないんです、って言い訳しても誰も助けてくれないですからね。体が動く事を知ってみると、なんだ、怖くなかったじゃん、となっていくのを知っています。怖いから怖いのではんなく、体が動かないからこそ、怖かったのです。

表情でも同じ。嫌なものに出会ったから嫌なのではなく、表情がまず、嫌な顔を作ってしまったのです。表情を崩し、緩ませ、自然に任せてみると嫌だったものも、そうではないことが分かりそうな気がしています。
 
 
 
「間」の話から表情へ来ました。
「間」にあるものは見えないものです。表情の元になっているのはその間にある、みえないものです。目の前にあるモノだけを見てしまうと、頭がそれを嫌ってしまえば嫌な間ができるし、頭が求めていたモノだと喜べれば、楽しい間が生まれてきます。でも、これでは「私」がいつも、周りのモノに振り回されて生きる事になります。

武術的にはまず「間」を作るのです。目の前のモノそのものに囚われず、表情を通して入ってきたものをそのまま受け取り、その間に生まれてくるものを自分が求めたいものに変えていくのです。どんなものが来ても、これで大丈夫・・・だと思います(笑)。
 
 
 
これまで、自分には言葉だけで人を導く事なんてできない、そう思い込んできました。
実際に稽古や講座で出会える人には手を合わせて、感覚を伝えれるからその人たちにだけでもいいや、と諦めてきました。
でも、私がどんな風に思おうとも、皆さんの体はもう、ちゃんと動くようにできているし、完璧なわけです。後はそれを自分が認められるかどうかなんだな、と気づきました。私自身がそうであったように、なかなか自分の事を認めるって難しいです。でも、疑いながらもちゃんと体は気づいてくれるのを待っています。
 
 
言葉で伝えられるものはまさに、体は完璧なんだよ、という事です。言葉からはじめてみるのも面白いかもしれない、そう考えるようになりました。
これまで以上に、ブログやツイッターにも感じた事、考えた事をどんどん書いていこうと思います。よろしくお願いします。
そして、言葉だけでも聞いてみたい、という方に応えるためにネットで学べる講座をはじめました。テキストのような形から入りますが、こまかく教材をいじれるシステムみたいですし、コミュニティも作る事ができそうだったので、始めてみることにしました。数年前では絶対無理、やらない、と思っていたことです。こちらも、ぜひご参加下さい。

参考リンク

さかなクン「いじめられてる君へ

ネット講座「古武術に学ぶ快適生活☆ピンチをチャンスに変える7つのステップ!

カラダラボHP「カラダラボ

※お知らせ 現在師匠である甲野善紀先生の稽古会の参加を受付中です。名古屋はもうすぐ、9/24(土)です。お急ぎ下さい。

初の浜松での開催の稽古は10/9(日)です。

上記、カラダラボのサイトから詳細をごらんのうえ、お申し込み下さい。

古武術ダイエットの続き

8月初め頃に「古武術ダイエット」という冗談のような真剣な話を書きました。
 
 
あれから、一月、飽きることなく、諦めることなく、順調に毎日を過ごしています。
80キロを境にやきもきしていましたが、どうやら完全に峠を越えたみたいで、今は78キロあたりをウロウロしております^^
 
 
 
数字は分かりやすくって頼りがいがあります。
ただ、その数字しか見えなくなると、心や体のバランスを崩します。
今までの減量はそんな感じでした。
 
10キロぐらいやせる事はあっても、どうしても、そのやせた場所は無意識に考えている自分の場所とは違う気がしていてたんですよね。
少しずつ、我慢とかが溜まっていくんだと思います。
いつの間にか、また、ちょっと重い自分に戻ったりしているんです。まぁ、いわゆるリバウンドですね。
 
 
 
ダイエット法が気になって楽しい、ってのはリバウンドしてるって事ですから(笑)。
 
 
 
それが、今は、ちょっと違うんですね。
どれが自分の無意識か、なんてのはもちろん、わかりませんが、以前よりも、深く掘り下げられているのは確かです。
その以前よりも、ちょっと深い部分でそれまで好きだったものがちょっと変わったんです。
 
 
 
たった、それだけで、食事の趣向が変わって、結果的に、入ってくるエネルギーと出て行くエネルギのバランスがやせていく方へとシフトしたんだと思います。
この2、3ヶ月の間で1週間とかを切り出すと、体重が減らないどころか、増えている時があります。
 
でも、大きな眼で見てみると、減っている方へと向かっている。
ここに心の余裕が生まれていて、気楽にやれているような気がします。
 
 
 
稽古の同じなんですよね。
気がついたら、以前よりも動ける自分がいるし、自分の生き方が受け入れられるようになっていました。
宝くじに当たるように一発逆転のような感じはありません。
あくまでも、上達して当たり前、やせていって当たり前、そんな感じです。
 
 
 
講座や稽古では聞かれれば答えますので、まぁ、興味があれば聞いてください。

【思考実験】睡眠について考える

そういえば、この数日、睡眠時間が短い気がする。
それでいて、体調はものすごくいい。体調どころか、アイデアやヒラメキも調子が良い気がする。
 
ふと、こんな事を考えた。
なぜ、眠たくなってしまうのか・・・。
もしかしたら現実から逃げたくなってしまうから?
 
今、目の前にワクワクドキドキすることがあれば眠くなるのだろうか?
もし、自分を殺しにくるような怖い相手が現れたならば眠くなるのだろうか?
 
自分の心の持ち方によって、眠気はいろいろ変わってくるはず。
心が変わるというなら、体も必ず、変わっている。それが体を通して考えるという事。
 
 
 
寝たくないのに、眠たい・・・。
この状況を考えてみると、まだ、自分には遣り残した事があるのに・・・そういう状況なんだと思う。そのなんとかしたい事を「時間」というものを使って力技でなんとかしようとしているんじゃないだろうか?

もし、起きていた時間を充実させることが出来れば、ぐっすりと、眠りを楽しみに出来るかもしれない・・・。
 
 
 
と、まぁ、そんな事を考えたりして、「今」を楽しむのだ。

【思考実験】困った事は自分だけのもの

以前、ダイエットの事を書きました。冗談ではなく、真剣にです(笑)。
体重ほど、人によって気にする気にしない、というのが違う事は珍しいです。
そして、なかなかうまく続かない、成功しないというのも面白い。
雑誌をみればバンバン10キロ、20キロと出てるのに、なかなかそううまくは行きません(笑)。
 
困った事といえば、健康もそう、人間関係もそうです。
どうすればいいのか・・・それを教えてくれる人はたくさんいても、実際に自分が経験する困った事は、自分だけの問題。
 
 
 
必要なのは「答え」ではなく、「問題への取り組み方」かもしれません。
しかも、その問題には「正解」がないのです。
一般に「正解」といわれている事が、実は自分には「不正解」の場合だってありますからね。
 
体重であれば、重さは減少しても、それで楽しく幸せになれない場合もあります。いや、難しい(笑)。
 
 
 
あらゆる問題に対して「共通点」があります。
それは自分が問題だと思っている、という事。
ただ、自分が「考えている」事は心の問題であり、あまりにも幅広いです。
無限に広がる心の世界を考え、解決していくのはなかなか難しいんじゃないでしょうか?
 
 
 
困った事は時が解決してくれる。
そんな事をよくききます。
今、困っている事も、時間がたつにつれ、必要がなくなるのかもしれません。
 
時と共に移り変わっているものはなんだろう?
カラダこそ、その時を現しているもののような気がします。
時間と共に、この自分のカラダに必要なものはどんどん変わっているからです。
 
 
新しい身体の使い方を見つけると、それまで困っていた事が瞬時に困らなくなる事がよくあります。まさしく「変身」。見た目のこの身体は変わらなくても、動き方としての身体は変えることができます。
 
 
あらゆる経験の中心にあるもの、それが「身体」です。
身体を意識しなくても便利になり、生活が出来るようになってきたけど、まだ、当分、この世の中に困難を感じないまま、暮らす事は出来そうにありません。
 
このまま、ただ、その時が来れば良いなぁ、と待つだけにするのか、今、出来る事、気づいていないだけでまだ、知らない動き方を探しに行くのか・・・それを決めるのは自分自身だなぁ、と思います。
 
必要なのは勇気なのか、必然性なのか・・・。
それは分かりませんけど(笑)。
その「する」、「しない」というところに運命の力が隠されていたりして・・・。

働くという事。

今帰ってきました。
今日は朝から大垣の中日文化センター、そして、四年連続となる、掛川市役所での講座のダブル。
大垣から掛川までの移動中、そして、真夜中の帰宅の間、頭にあったのは、働くって何だろう?と言うこと。
20代の頃、なぜ自分は働くのか?自分はなにがしたいのか?という疑問を持つこともなく、ただ、生活の糧として働いていた気がします。
あの頃の忙しさと今の忙しさ。比べるとはるかに、今の方が時間をとられます。また、決まった仕事ではないため、うまく感覚が言葉にならないときにはもどかしさも感じることがあります。
それでいて、決まりきった安定収入があるわけでもなし…。
それでも、心の充実、体の充実を考えるともう、比べようがないほどの喜びを感じています。
今日の講座も、初めての方もお見えになって、普段仲間同士では当たり前になっている動きや感覚も、驚きとともに受け取ってもらえて、人生がかわる、なんて大きな感想を頂いてしまいました。
まさしく、僕が古武術に出会い、人生が変わった人間ですから、その気持ち、よくわかります(笑)。
働くという事が社会問題化しています。大学生の就職難もそうですし、定年まで勤め上げられるだろうか?という不安もそうです。景気自体が上向かないことで、経営者も従業員もドキドキハラハラしています。
いったい、どうすればいいんでしょうか?
いったい、どうなれば、自分が「幸せ」なのでしょうか?
お給料を安定してもらえればそれでいいんでしょうか?やりがいがあれば、お給料は少なくてもいいんでしょうか?
この悩みの中には自分の力ではどうにもならないこともたくさん含まれてしまっています。
昔の話をもう一度します。私は働く意味を感じられないまま、働いていました。当然、その仕事にやりがいも、楽しさもありません。1日八時間、その大切な時間をただ、我慢して過ごしていたように思えます。今、考えると…ですが。
もし、今、その頃の自分にアドバイスができるのならば、その考えは違ってるよ、と言いたいです。
つまらない仕事はないんです。つまらない自分がいるんだよ、と。
確かに、毎日決まった仕事かもしれません。それでも、そこには必ず気づきや発見があるはずです。その気づきのもとになる、体の感性が低かったからこそ、つまらない自分を作って、過ごしてしまったみたいです。
それでも、その時間があったからこそ、いま、この瞬間に働く事の大切さ、喜びを感じることができました。そういう意味では、その当時のつまらない自分も役に立っているのかもしれません。
この仕事を始めて、これまで、お願いされたことは全て受けてきたつもりです。無我夢中って、こんな感じなんだ…とシミジミ考えました。色々な仕事の中で、赤字のものもありました。もしかしたら、経営という点でみるとダメな事なのかもしれません。
それでも、自分を必要としてくれる人がいる、と感じると俄然力がわいてきます。
これからも、その姿勢を変えるつもりはありません。自分にできること、それをしっかりやっていくだけかな、と思っています。協力させてください。
時々、もともとの自信のなさと、体の潜在的能力を伝える使命のようなものが、自分の中でぶつかりますが、最近は少しずつ使命感の方が勝ってきたかな?と思うようになりました。
これだけ便利な時代です。きっと、これからも便利になるでしょう。だからこそ、体の力、深層心理、潜在意識に対して、体の面からアプローチできる古武術は誰にたいしても、必要不可欠なものだと思います。
自分にできることは、話を聞いてもらえるように、魅力を高めていくことだけかな?とまた、今、この瞬間から稽古を始めます。