【思考実験】

【思考実験】時間とは身体である、という喜び

今日朝、起きて思った事。やっぱり、この身体が「時間」なんだ・・・という事。
去年の初め、身体が時間なんだ、と実感した事がありました。どんなに嫌な事でも、日にち薬でなんとかしてしまうのが人間だ、と。時間が過ぎたとき、働いているもの、変化しているものはこの身体です。この身体を良く動かせて、ウキウキさせられているとき、時間はあっという間に過ぎていきます。逆に、この身体がじっと、そこに留まってしまったとき、少しの時間もなかなか通り過ぎません。伸び縮みするのが時間です。
 
時間と空間。だれでも知っている事ですが、それを身体で感じられたときにはものすごい幸せな気持ちになりました。世界がちょっと「分かった」ような感覚です。その気づきで、仕事が増えたり、技が進化したりすることはありません。でも、今自分がいる場所が、分かった事で安心している自分がいます。どんなに高価なセミナーや本でそれを教えられてもきっと、こんな幸せ感は得られなかったはずです。実感することは自分だけにしか分からないですもんね。
 
価値があるのかないのか、決めるのは自分です。ふと、そんな事を思いました。

【思考実験】ラーメン屋にて内臓について考えるw

活気のあるラーメン屋さんに行ってきました。夜も遅い時間なのに、満席状態。店員さんが慌しく頑張っていました。きっと、今、彼らの心臓は一生懸命働いているんだろうなぁ・・・、そんな事を考えていたら、この活気のある場所での動きは、そのドキドキワクワクした心臓の上に乗っているんじゃないか、と気づきました。
 
暇な店ではドキドキもワクワクもしません。退屈な雰囲気は身体まで退屈さを持ってきます。子供たちはハァハァ、ゼイゼイしながら動くのが大好きですよね。暇なときになにかをしようと思っても、それは頭の働き、手先の動きになってしまうかも・・・。
 
さて、自分の心臓はといえば・・・お腹がすいたぞ、という胃袋は多少アピールしてきているものの、心臓はおとなしく、気配を消しています。でも、もし、この心臓や胃袋が「自分」だとすれば、その心臓のビートにのって、手先の動きをあわせていけば面白いはずです。
 
新しい技に気づいた瞬間の効きや冴えはものすごいんです。今まで、なぜ、気づいた瞬間が一番技が切れるんだろう、と不思議でした。でも、「楽しい」という気持ちを出させる身体の働き(これが多分、内臓が関係しています。)が抜群に生まれているんでしょうね。でも、意識は内臓ではなく、目に見える「動き」に集まっているわけです。
 
頭を使って、その目に見える動きを研究していけば、言葉が生まれ、説明は上手にできるようになります。でも、どんどんと「当たり前」になり、面白くなくなってしまいます。面白くない、楽しくない、という感情の分、切れがなくなってしまうんでしょうね。
 
必要なのはどこの動きなんだ・・・良く分からなくなりました(笑)。

【思考実験】全力を受け止めてくれる存在

少林寺拳法の指導で、大学生になる門下生を相手に、彼らの攻撃を受けとめてみました。その攻撃で感じるのは「遠慮」です。その瞬間、あぁ、俺といっしょだ・・・と、思いました。昔の自分を思い出したんです。
 
子供の頃から、体が大きかったのと、自分は少林寺拳法をやっていて、ケンカをしてはいけない、と思っていたせいか(少林寺拳法は護身術なんです。)、攻撃が苦手でした。どうしても、相手に対して突く、蹴る、という事に対して遠慮が出てしまうのです。特に、顔面に対しては。だからでしょうか、突き蹴りの技よりも、投げや固めの技のほうに興味を持つようになりました。柔らかく相手を抑えれないかと思っていたんです。その遠慮が彼らの心の中にある気がしました。
 
考えてみると、今のこの時代に自分の全てをぶつけさせてくれるものはいません。大人が未来に不安を感じているからです。大人はバカだなぁ、と笑い飛ばして自分の力を信じて活躍しようとする子供がいても、それを邪魔する大人もいます。
 
自分の全力を知らずに、今の子達はいるのかもしれません。殴り合いのケンカは少なくなりましたからね。昨日の練習では、こちらが受け止める側に立ち、もっと、もっと、と誘導しました。どんどん、力が入ってくるのが伝わってきます。そうかぁ・・今、彼らに足りないのは、これだったか、と手ごたえを感じて帰ってきました。
 

 
 

大学生の時、素晴らしい相手に恵まれました。彼は私の全力を受け止めてくれたのです。自分が力いっぱい、気合をこめて打つ突きや蹴りもちゃんと、受け止め、返してくれます。少林寺拳法は相手を倒す事を目的にしません。競技はありますが、それはあらかじめ決められた技を演じるのです。だからこそ、演技のようになってしまい、本物らしさがなくなりやすいのですが、彼は自分の全力を受け止めてくれました。決められた技だったとはいえ、そこでは真剣勝負を経験する事が出来たのです。
 
 
 
家に帰り、「全力」という事を考えてみると、私にとって甲野先生は全力を受け止めてもらえる相手だったのです。武道の世界には師匠と弟子のカチッとした礼儀の世界があります。自分の持っている問題が大きいほど、なかなか素直に聞くことができません。もし、こうしたら・・・、こんな変化をしたら・・・など、とてもじゃないですが、聞ける雰囲気はありません。誰でも、出来ない自分を見せ付けられる事は嫌ですもんね。師匠にも出来ないと感じてしまうと、遠慮、してしまうんです。
 
・・・でも、甲野先生は違っていました。お会いしたときから、とにかく、私の技がかからないようにどんどん抵抗してもらっていいですから、とおっしゃったんです。そして、その言葉どおり、全部受け止めていただきました。
 
最初、それは「技」の限界についてでした。動きを通して、それまで誰にも不可能だろう、という状況ではどうするのですか?という疑問も実際に向き合う事で答えをくれました。技から入った信頼も気がつけば、自分がどう生きていったらいいのか、人間にとっての幸せとはなにか?という言葉にならない問いにも答えてくれたのです。さて、今この世の中に生き方についてどれだけの人が自分の持っている疑問を受け止めてくれるでしょうか?
 
今、テレビでは政治家が集まり、不信任決議案について討論しています。皆、立派な事を口にしています。でも、そこに行動が伴っている、と思える人はいません。本音と建前、という言葉があります。それが大人の世界なんだと、思い始めていたときに出会う事が出来たのが、甲野先生でした。
 
今、幸運な事に、甲野先生に直接疑問をうかがえる機会をたくさん得ています。しかし、その質問をする事はあまりありません。なぜなら、自分のこの身体に問い、そこで生まれてくる感情や考えに任せてもいいんだ、という事に気づかせてもらったからです。
 
さて、子供達にとって、私達大人は彼らの全力を受け止める事ができる頼れる存在であるでしょうか?形にならないからと言って、必要な事を見失ってはいけないな、と改めて、真剣に生きていこうと思いました。

いや・・・、まとまらない文章ですいません。

【思考実験】戦略・戦術・戦法 「改」

戦略・戦術・戦法。分かっているようで、良く分からないこの3つ。ずっと考えていた事が間違っていた事に気づいてしまった。
 
・・・というわけで、2011/5/31更新版です。
 
以前は戦法が知識、頭の部分だと思っていました。技を覚えなくては、と考えていたからです。でも、この戦法に当たる部分は「どう動くか」そのものの方がピタッとします。つまり、身体が対応します。
 
戦略はずっと、心と考えていました。でも、この戦略に当たるのは「どうなりたいか」、つまり、自分の未来を考える、思考として考えた方がしっくりときます。
 
では、真ん中の戦術は?
これは心の部分が適当かと・・・。つまり「どう感じたいか」です。
 
この3つで考えてみると、なにをどうすればいいのか、はっきりして来る気がします。
「どうなりたいか」、「どう感じたいか」、「どう行動したいか」、それぞれをバランスをとるようにすれば、一つ上から問題を見ることが出来ます。
 
例えば、全国展開したいとします。これは「どうなりたいか」ですから、戦略です。
そのためになにが必要かといえば、インターネットや代理店を使って、営業、宣伝、販売をします。具体的な販路を決めるわけですから戦法ですよね。
では、戦術は?
 
戦術は「どう感じたいか」です。どういう感情を持っていたいか、それを決めます。楽しく、愉快に、ワクワクドキドキで仕事がしたいですよね。そのためにチームの士気を高める方法があるかもしれません。お客さんとの距離を近づける方法もあるかもしれません。とにかく、感情を考えないで生活は成り立たないんです、本当は。
 
でも、意外とこの感情の事は忘れられます。心が形にならなくて、見えないからかもしれません。売り上げのように分かりやすい数字に引き寄せられてしまうからかもしれません。
 
こういう場合はどうでしょう。全国展開しよう考え、ブームを先取りして手ごたえのある戦法を見つけたとします。(最近だとツイッターやフェイスブックですね)
ブームに乗れれば売り上げは上がります。戦略として掲げた全国展開したい、というのはそれでかなうかもしれません。でも、楽しくなかったとしたらどうでしょう?
売り上げが上がっているから大丈夫なんだ、といってしまえばそれまでですが、その売り上げが次にちゃんと続いていくでしょうか?
自分の心に背いてしまえば、次への行動力が失われます。だからこそ、三つのバランスを大切にしなくてはいけないのです。
 
戦いの場面では生き延びよう、という戦略を持ちます。そのためにどう行動するかを決めます。戦法ですね。この時、心に不安や恐れが拡がってしまったらせっかくの戦法が台無しです。戦い方で恐怖を消すのも一つの方法ですし、恐怖が生まれないように、相手の背後から回りこむとか、戦術的に対処してもいいでしょう。(後ろからなら恐怖は減りますからね。)
 
自分がなにをしたいか、どう感じたいかを動きの面から考えていくのが武術のような気がします。

【思考実験】コンプレックスはマボロシ

講座の中で自己紹介代わりにいつも言っていることがあります。それは自分が子供の頃からコンプレックスをいくつも持っていた、という事です。しかも、そのコンプレックスと向き合うのもダメで、考えないように、見ないように、避けてきたんです。そのコンプレックスとは、勉強、運動、芸術、人付き合い、とにかく「出来た」と思える事が無かったので、結果的に、どこにも自信を持つことが出来なかったわけです。
 
もちろん、周りは人間はかけがえの無い素晴らしい存在、誰の中にもたくさんの可能性があるんだ、と言います。
でも、学校生活の中であるのは人と比べるものばかりです。そんな状況で自信を持てと、言われても、うまくいきません。むしろ、自分には可能性があるんだ、と思おうとすればするほど、辛さが増していきました。
 
そんな中、甲野先生と出会い、身体を通して自分に向き合う事を学びました。それまでは頭ばかりで考えていたんですね。身体を見れば心を感じられるようになります。一つのものですから当たり前ですが・・・。そのおかげで、数々のコンプレックスはだんだんと影を潜めていきました。
 
実は、なにかが出来るようになった、わけではありません。もちろん、身体は動くようになりました。人からはすごい、と言われる事もあります。毎日、毎日、成長している、って実感もあります。しかし、だからと言って、勉強が出来るとか、仕事で失敗しなくなったとかではありません。今でも多くの事は出来ないままです。それでいて、コンプレックスが消えているわけですから、これはものすごい変化だと思います。うまくいかなかった時に凹んでしまうだけではなく、次に気持ちを向かわす事が出来るようになったかな、と思います。
 
なにかが出来る、出来ない、とはほとんどの場合、誰かとの比較、外部との比較です。どんなに上手にやろうとも、上には上がいます。どうも、自信とは外の世界とは全く関係が無かったようなのです。今、自分が「出来ない」事も変化する事ができる部分として楽しく向き合う事ができるようになりました。もちろん、実際に向き合っている最中は怖いです。でも、時間が見方をしてくれるのか、必ず、変化を見せてくれるんです。その時、不安に思う事は、自分の中の一番興味のある部分です。その興味に対して身体で向き合ってみると、知らず知らずのうちに、乗り越えていってしまうものだと感じるようになりました。
 
「出来ないまま、自信を持つことが出来る方法」というのは、私がそうであったように、コンプレックスをもってしまい、どうしても自分に自信が持つことが出来ない人にとって、新しい解決法になるかもしれません。自分の中に自分だけの物差しを作る作業なんだと思います。
  
自分が出来なかった分だけ、伝えられる事もあるはずです。個人指導の時間も作るようにしましたが、技の稽古であれば普通の稽古で十分です。むしろ、みんなとワイワイやった方がいいと思います。でも、自信が持てない時に、楽しくなんてやれない、どうしたらいいかわからない、そう思う人は個人指導をお試し下さい。一緒に、自信ってなんだろう?って考えますからね、軽く考える身体の動かし方を教えます。