稽古報告

7/25、26 甲野善紀先生の名古屋・浜松稽古会報告 前編

先週の土曜日曜、名古屋、浜松に甲野先生をお招きし、稽古会を開催しました。

世話人としてもう何回もお招きをしていますが、毎回、新しい気付きを与えてくれます。

 

ただ、私は先生の「言われること」がわからない人です(笑)。身体感覚から生まれている言葉を理解するのにはどうしても、時間がかかるみたいです。

最近、その頑固さの理由がわかりました。首から下の緊張が強くって、頭がウン、ウンと前後に振れないんです。気持ちの問題ですが、原因は体に見つかっていくから不思議です(笑)。

続きを読む

人間は歳をとる、それを忘れてはいけない

甲野先生とであって20年経ちます。
20代の頃、40代は「大人」だと思っていました。でも、実際に自分が40代になってみると、全然、「大人」になっていません。それでいて「子供」でもないんです。「大人」になりたい、ならなきゃ、というまま、20年経ってしまいました(笑)。
 
 
 
ただし・・・、身体は衰えているのを感じます。徹夜もできなくなってきたし、若い頃と同じように食べて飲んでみると、後が大変です(笑)。
 
しかし、不思議な事に肉体そのものは衰えても、動きは20代の頃よりも比べ物にならないほど速く、軽くなっています。考えもしなかった夢のような技も出来るようになって、本当に不思議です。実は理由はわかっています。「動き方」が変わり続けているからです。
 
 
 
知っていますか?、単純に「歩く」というだけでもものすごく繊細な変化が身体には起きています。一歩足を進めるたびに体重が偏り、バランスを崩します。そのバランスの崩れを気に出来ればいいんですが、たいていは無意識に肉体に任せます。まぁ、無理をするって事です。
その無理が一日一日と積み重なって、30代の頃には肩こりと腰痛が出始めて、それでも仕事に勢いが付き始めて休めなくって、がんばって、そのまま40代になって痛みが慢性化して時々の整体通いなんかでごまかす、そんな人、まわりにいませんか?
 
甲野先生に出会い、「身体感覚」という事を学びました。身体の声を聞く、そんなイメージだと思ってください。大丈夫、とアタマで言い切ってがんばるのではなく、身体に無理な力が掛かっていないか、小さな動きだったとしても、全身で分担して動けないかを追及していきました。
その結果、20年歳をとったにもかかわらず、動きは軽く、速いのです。そして、声を大にして言いたいのは、これからもまだまだその動き方は進化をしていくだろうなぁ、という希望を持てている、という事です。
 
 
 
誰でも絶対に歳をとります。
特に日本人は加齢による負担が大きいです。理由は簡単、骨や筋肉が欧米人と比べて弱いからです。内臓の強さも違うかもしれません。外国人のようにいくつになってもステーキをがっつり食べられる自信ってありますか?私はありません(笑)。
 
 
 
今、多くの人が頼りにしているエネルギーは「筋肉」です。それも、鍛えるだけのトレーニングで。仕事の合間、生活の合間に少しでも筋トレを・・・と、テレビでは良くやっていますが、その努力を筋肉ではなく、動き方に向ければいいのに、と本当に思います。
皆、言われるまま、がんばってトレーニングしています。確かにトレーニングをすれば筋肉は大きくなるでしょう。でも、それは年齢と共に効率が悪くなっていきます。そして筋肉トレーニングは「栄養」「トレーニング」「休息」のサイクルが止まってしまうとせっかくついた筋肉が今度は邪魔なお肉に変身してしまいます(笑)。
 
いいですか、私たちの骨は弱いんです。歳をとった時、不意に転んで骨折をしたらどうなると思います?考えた事がありますか?それまでトレーニングで身体を維持してきた人が一気に動けなくなってしまいます。なぜなら、筋肉でしか動く事を知らないからです。 
 
 
 
筋肉で動けば疲れます。世の中には疲れたい人もいるんです。子供たちはその代表(笑)。無駄に走り回って、汗だくになって、すやすや眠ります。それが身体を大きく強くするのをわかっているんでしょうね。でも、肉体の成長がとまって衰えていく私たちはそれだけでは駄目です。筋肉以外の動き方も知っておいたほうがよくないですか?
 
ちゃんと、知った上で「選択」すればいいんです。全力を出し切って眠りたい人は汗をかけばいいし、そうでなければ他を選べばいいんです。それこそ、病気や怪我で全力を出せないときには筋肉以外の力をエネルギーとして選択しなくてはいけなくなります。
 
 
 
実は今からの時代は本当に危ないです。
なぜなら、ものすごい機械がどんどん出てきそうだから。
筋肉の力は使えなくなる、といいました。でも、その代わりに機械がやってくれるようになります。小型のアシスト装置を身体につければ、自分だけでは動けなくても、機械の力に助けてもらって動く事ができます・・・、身体の動かし方を求める人はもっともっと、減ってしまうかもしれません。
 
実際、仕事の現場は機械だらけです。工場では当たり前のようにロボットが動きます。物流の世界ではフォークリフトは当たり前です。介護の世界も機械だらけ。もう、身体だけではなくなりました。仕事量ははるかに増えましたが、楽しいと思っている人が減っているんです。動けるけど、楽しくない。機械の力は心にまでなかなか届いてきません。
 
理由は簡単、身体が動いていないから。身体がずっと、ぎゅっと、窮屈にされていて、動いているのは機械だからです。身体が動かなければ心にも楽しさは生まれません。どう考えたって、この先機械抜きで生活するのは無理です。だからこそ、機械と暮らしながらも、自分はちゃんと身体を使っているか、身体の声を聞かなくてはならないと思います。 
 
 
 
筋肉以外の力を少し紹介しておきます。「お尻」から生まれる力です。
前に歩く時、膝を上げたり、地面を蹴ったりして歩くと、それは「筋肉エネルギー」です。まぁ、馴染み深い、いつもの、普通の動き方です。
でも、この時、まず、「お尻を振ります」。ぶんぶんすばやくではなく、ゆっくりです。ゆっくり、お尻を左右どちらかに振れば、自然と身体が横に向いていきます。足が自然と浮いてくればそのままお尻の「重さ」を感じながら「踏む」ようにして、前へと出て行きます。たった、これだけの事ですが、肉体に掛かる負担は全然違います。
 
もし、今、あなたが身体のどこかが痛いのなら、その効果に驚くはずです。身体のブレがなくなり、少ないエネルギーで身体を動かす事ができるので、動く事によりバランスの崩れがなくなっているからです。
 
 
 
この歩き方で凍った道を歩いてみました。踏んでいるんですから、滑りにくいです。逆に筋肉エネルギーだとどうしても「蹴って」進むしかありません。踏ん張りの利かない氷道ではどうしたって転びやすくなります。
 
つまり・・・、雪国の人たちは自然とそれを身につけているかもしれないんです。ただ、凍った道がなくなると、筋肉エネルギーに戻ってしまいます。滑らないから気が緩むんでしょうね。筋肉エネルギーとお尻エネルギーとの区別をアタマで出来ていないから、使えません。せっかく動くお尻を持っていても、使わなくてもいい環境にいれば発揮されない。なんてもったいないことでしょう。
 
 
 
もう一つ例を。この例えを思いついた時、昔ってすごいな、と思いました(笑)。
お尻のエネルギーですが、なにげない日常に溢れていたはずだ、と確信しました。
どんな例えかというと、少しの間にクイクイっとお尻を滑らせ座ってこられるおば様の動きです。まさに、あれはお尻エネルギー。お尻からではなく、足から行けばもう、気配の時点でにらまれ入れません。でも、お尻から動いていれば身体全体が滑らかに目的地へと滑り出します(笑)。
 
 
 
冗談のようですが、今ではもう、ほとんど見ませんから、駄目ですね、すっかり、忘れてしまったエネルギーとなりました。そうそう、クレヨンしんちゃんでもお尻をフリフリしてますね。あれも素敵な力です(笑)。
 
 
 
仕事でもコンピューターや機械が増えて、歩いたり、動いたりする事がなくなりました。じっと座ってモニターとにらめっこです。いつのまにか動ける大人が減ってしまい、お手本がなくなってしまったので、今の子供たちはもっと大変かもしれません。身体を使う遊びも危ないから禁止になっていたりしますから。まぁ、なんと言っても、派手なゲームが楽しいですからね、余計に身体を使う機会が減りそうです。
 
 
 
まずは自分が自分の身体が動く事の楽しさを知る事です。40代を過ぎると、いつガクッと体力が落ちるかわかりません。定期健診で身体の中に悪いところが見つかり、自覚した瞬間、気持ちの支えがなくなって、体力が落ちるかもしれません。グローバルな社会になり、一気に環境が変わってしまう事もあるかもしれません。常に仕事のやり方が変わっている時代ですから、新しいことについていけなくなったら、もう、がんばれなくなります。
 
そういう時でも筋肉ではない力は大丈夫です。いつでもどうなっても、この身体は動かせる、とわかっていれば、やってくるアクシデントだって乗り越えられます。
お尻の力は「筋肉」ではなく「お肉」のエネルギー。つまり、重さのエネルギーです。重力の力を借りていますから、楽なんです。坂道を転がっていく車のように身体を使えれば、がんばらなくても生きていけます。どうせ遠くに行くには新幹線だし、飛行機です。自分が全力で走らなくても、目的地へ近づく事ができます。私たちはただ、その目的地で楽しく過ごせればいいわけです。ゆっくり、のんびり、気持ちよく身体を動かす方法を今のうちに身につけておく事をおすすめします。
 
 
 
とにかく、お尻の事を考えて、お尻で歩き、お尻で手を動かすのを意識してみてください。それだけでも全然違ってくるはずです。座っていたって意識をする事が出来ます。今、こうしてキーボードを打っている私のアタマはお尻を動かす事に全力です(笑)。
特に、無意識にできる仕事の中でそれを試してみると、いいと思います。自分が感じた事に自信を持って、どんどん工夫をしていってください。それが遠回りのようで、一番の方法だと思います。
 
質問があれば、遠慮なく。
 
 
 
【お知らせ】
2月15日(日)に武術家、甲野善紀先生を浜松にお招きし講習会を行います。武術、武道、スポーツ、運動の経験は全く問いません。最近は女性の参加者も多いです。ユーチューブなどで見れますが、先生の身のこなしを美しい、と思って生で見たい、と来られる方もいます。強制される事のまったくない講習会ですから、講演会気分で来られるのもいいかもしれません。お申し込みは下記のサイトからどうぞ。お待ちしています。

行動力を稽古で身に付ける

なにかをしたいけど、できない。
 
これは、大変な問題だ。
中学校の時、朝起きれなくって苦労した(笑)。
頭では起きよう、起きなければ、と思っても、身体が動かないのだ。
そして、アドバイスをくれる人は決まって、早く寝ろ、と言う。でもどんなに早く寝たって眠いものは眠いのだ。
 
あらゆる問題はできる人はできるし、できない人はできない。
 
 
 
中学時代起きるのに苦労はしても、気弱な私はそれほど遅刻することなく、いつも、走るようにして校門をくぐっていた。遅刻してしかられること、みんなの注目を浴びる方が嫌だったからだと思う(笑)。
 
ただ、大学生にもなると、遅刻は雰囲気的にも許されるようになってしまい、遅刻を止める力を失ってしまった。やらなくてはいけないことを自分はできない、この頃からそういう観念を作ってしまったのかもしれない(笑)。
 
 
 
 
あれから20数年、自分がやりたいことをやれない理由がわかってしまった!やっぱり、「身体」の問題だったのだ。
自分の頭がなにかを見つけ、答えを出しても、身体がそれに「反応しない」。ものすごく小さな行動にもそれが出ているらしい。
 
 
 
社会人ともなれば自分がしたくないこともしなくてはしなくてはいけないこともあるはず。まぁ、私はそれを我慢してやってきて、ある時、怪我をしてどうしてもできなくなって、どうせやるなら好きなことを全力で、と、身体感覚の楽しさを伝えることを仕事にしたので、今、したくないことはぐっと、減っちゃったけど。まだ、一般的には仕事は我慢だ。
 
ただ人に会うだけ、挨拶をするだけでも嫌なものは嫌だとも思う。テレホンアポインターの時給が良いそうだけど、それは、精神的にキツいからとのこと。
そういえば、家にかかってくる営業電話とか、やっぱり、逃げるように切ってるから、相手からすると、きついだろうなぁ。うん、これからはちょっと、優しく電話を切ろう(笑)。
 
 
 
ちょっと話がずれましたが、電話に手を伸ばすのも、「行動」なんです。身体が拒否をしながらでも、腕を伸ばして取ることはできます。でも、その姿勢ではちょっとしたストレスで心をやられちゃいます。
 
この電話に「手を伸ばす時」、工夫ができることがある、とわかりました。その工夫を使って手を伸ばすと、もう、電話に手を伸ばすことが天職のように見えるはずです(笑)。
電話を気持ちよく取れればその勢いでボタンも押せます。そして、さらに、挨拶にまで勢いは出ていくはずです。
 
きっと、普段は逆なんです。断れる度にこんなことは自分がやる仕事じゃない、って。そりゃ、勢いもなくなりますよね。身体を壊しちゃうはずです。
 
 
 
大切なのは自分で自分の身体に「勢い」を出せるかどうかです。多くの人は自分の身体を動かすのに「筋肉」を使います。筋肉って初動が遅いんですよね。しかも、疲れやすい。まぁ、疲れえ使えなくなったら「替わり」を、というシステムが今の派遣システムだったりしますから、自分のケアをちゃんと自分で考えておかないと大変なことになります。
 
 
話を「行動」に戻します。あらゆる行動がもう少し、元気に、勢いよく動かせる方法があります。その鍵になるのが「丹田」です。武道ではお馴染みです(笑)。
 
ただ、私はあまり、丹田が、丹田を、とは言いたくありません。なぜなら、頭の中だけのなんとなく丹田になってしまうからです。多くの武道家は丹田を大切にして稽古をしています。でも、それは、頭の中だけで。身体を見ると、丹田のことは二の次、三の次です。相手を崩すテクニックだったり、心理操作の方法だったり、ウエイトトレーニングだったりします。
 
丹田にもものすごく「レベル」があると思います。その第一歩として考えてみるには非常に分かりやすいものじゃないかな。なぜなら、もう、具体的に身体が変わるからです。
 
 
 
では、ちょっと、具体的方法を。
行うのは単純。帯でも締めて、お腹の辺りに一キロ、ニキロほどの重りを挟み込むだけです。帯でなくても、ウエストバックに重りを入れてもいいかもしれません。
そうして立ってみると、「重心の位置」が変わります。自分の身体を動かすときにどこに重心があるかで滑らかさがかわるのは当たり前なんですが、大人になって、身体が固くなったせいでしょうか、なかなか重心の位置を自由に変えることができなくなってしまいました。
 
この時の状態を言葉すればどれだけでもできます。実際に自分の身体に起きている変化ですから、見方を変えて言葉にするだけです。でも、そうじゃなく、自分でやってみる、それをおすすめします。
 
 
おそらく、今日の話でいちばん難しいのがここです。
自分が得た知識に対して身体が動くかどうかなんですが、お腹に重りをつけよう、と最初の一歩がまず、でません。それは、重心そのものが今、固く、動きにくい状態だから。そして動かない身体の力は頭に向かいます。色々な「理由」をつけるんです。帯がない、重りがない、バッグがない、正しいやり方がわからない、そんなことをしても変わるわけがない・・・などなど。
 
たぶん、私はそういう色々な理由を作ってしまったので、これまで重心の大切さに気づけなかったんだと思います。昨日、武道の未経験者に重りをつけてもらって試しました。一応、私、武道歴は40年近くになってしまうんですが、それが、ただ重りをお腹に着けただけの人に簡単に間合いに入られてしまうんです。自分が見つけた方法だけに、やはりそうか、と嬉しかったんですが、もし、これを見ず知らずの普通の人にやられたら自分の人生の無駄さ加減に数日、数ヵ月は元気を出せずにいたと思います(笑)。
 
 
 
「姿勢的に」身体が前へと行きたがっていると、小さなきっかけで動き始めることができます。なぜなら、なにかに意識を移すだけで、バランスは崩れるからです。綱渡りをしている、とイメージしてみてください。その時、なにかに気をとられたらどうでしょう、グラグラグラ・・・、とたんに綱から落ちてしまいます。普段、私たちの心と身体のバランスはものすごく繊細な事をしているんでしょうね。
 
それでも、まわりを見ていて転んでいる人はほとんど見かけません。子供ですら転ばない時代になりました(笑)。これ、崩れたバランスをぎゅっと、筋肉に力を入れて踏ん張っているからです。一日二日は我慢ができても、何十年とこんな生活が続いてしまったら肩凝りや腰痛になるのは仕方ありません

 
 
 
私はまだ、この新しい重心の使い方に気がついて1週間ですが、なんとなく、子供の頃を思い出したような気がしてすごく、楽しいです。やはり、勢いを持って動けることは自分の心も楽しくしちゃうみたいです。楽しく過ごすために楽しいことをやる。楽しいところへいく。それは確かにひとつの答えですが、どんなことも「飽き」が来ます。夢の国は楽しいですが、毎日いっていれば、それは、そこが日常になり、勢いがなくなります。みんな大人なんですから。
 
だから、今のまま、自分の身体の動きだけを変えるのをおすすめします。電話をとるのが仕事なら、重心をその電話に向けておく。朝、いきたくない会社があったら重心だけでもまず、そこへと向かわせておく。そして、転ぶ。気がついたら会社です(笑)。勢いが生まれていると、やって来るストレスが気にならなくなります。そういう事を身体に見つけられるようになるのが稽古です。お腹に重り、ぜひぜひ、試してみてください(笑)。
 
 
 
やってわからなければ稽古に体験にどうぞ。しばらくは重りを持って各地の講座に出掛けるつもりでいますから。詳しくはカラダラボのウェブサイトで。
 
カラダラボのWebサイト
 
師匠である甲野善紀先生を名古屋、浜松にお招きします。お申し込みもカラダラボのサイトからどうぞ。これまでとは違った生き方が見つかります。

下駄の効用 その2

 この1ヶ月、下駄の効用とも言うべき楽しい事を見つけてきた。試してくれた人はいるだろうか。試してくれた人のために、ちょっとでも手がかりになればともう少し下駄について書いてみようと思う。
 
 下駄は発明だ。試せば試すほど、この下駄を生活の中に取り入れてきた昔の人の感性のすごさを感じる。下駄に乗る事で「誰でも」地面からの力を借りる事ができるようになる。ただ歩くだけで相手を崩していけるようになるのは「たぶん」そういうこと。
 
 
 
 理由は「たぶん」だけれども、現実は「確かめられる」。
 どんなに下駄になにもない、と思えても現実の存在である相手を動かす事ができるのだから、なにかしらの力があるのは確かだ。「力」があることがわかれば、それを使えばいい。どうしたらもっと、それに乗れるようになるのか、と。
 
 
 
 前回、下駄を手に持ってあるいてみると、動きが変わる、と書いた。下駄を手に持って竹刀を持ち打つと重さと速さが変わってくる。なぜ、手に持っただけで動きが変わるのか。
 
 理由を探したいところだけど、ふと、思いついた事がある。
 この手に持つ下駄はなんでもいいのか・・・。疑問が生まれたなら試す、それが稽古だ。一本歯の下駄、普通の下駄、歯のない下駄。そして便所の下駄のような鼻緒のない下駄もなかなかいける。どうやら何でもいいみたいだ(笑)。
 
 
 
 では、この下駄が「おもちゃ」であったらどうだろう?
 さっそく、置物の下駄を探してみた(笑)。タイミングよくそれを手に入れ、気分は最高!下駄を指にはめ、歩いてみた。
 
 
 ・・・しっかりと抑えてくれと頼んでおいた相手は不思議そうな顔をして後ずさりしていく。下駄で崩され、おもちゃで崩される。もう、苦笑いするしかない(笑)。
 また、竹刀を持ち、打ち合ってみた。竹刀がぶつかり、押し合いになるところが、全然普通に、切り崩す事ができてしまう。
 竹刀に関しては本当に不思議。相手は剣の扱いをしらないはずなのに、簡単に崩されてしまうんだから。ぎりぎりの相手と戦い、負けるのであればまた次、がんばろう、と思える。しかし、これだけ、簡単にやられてみると、ものすごい気楽。手放して生きる、という気持ちを得るのに一番近道かもしれない。
 
 
 
 
 おっと、忘れてはいけない。今、手にしているのは「おもちゃ」の下駄なのだ。いったい、このおもちゃがなにを変えてくれているのだろうか。
 
 
 
 
 「気のせい」という言葉がある。下駄に乗り、動きがかわるのは「気のせい」かもしれない。考えてみると、この「気のせい」でどれだけ現実が変わるのか私はよく知らない。全然自分の気持ちの事を知らないのだ。
 
 子供たちは「自分の気持ち」に疑いを持っていないように思える。無邪気に笑い、夢を語る。しかし、私はいつのまにか、自分に限界を作り、自分がなにかをしようとした時、それは無理だ!と疑いを作ってしまう癖を持ってしまったのだ。
 なぜか、下駄はその疑う気持ちを出さない自分にしてくれる。自分の中でふと「そう思ってしまった」事だけにこの「気のせい」はパワフル。なかなか消える事ない気のせいなのだ。
 
 
 
 
 下駄にどんな力があるのかはわからない。
 でも、やっぱり、日本人の潜在意識、DNAにでも刻み込まれているような気がする。もしかしたら外国人は下駄ではなく、靴のほうがしっくりくるかもしれない(笑)。そういうよくわからない事も含めて、ぜひ、自分の身体でいろいろと試してもらいたい。
 
 
 
 実は下駄を手にする、という発見も仲間のおかげ。座りの柾目返しを試していたとき、握られている手と反対側に下駄をはめ、足のようにし、手を上げてみた事から見つけた事。手にすれば軽くなるという現象も、普段、当たり前すぎる動きの中ではついつい、見逃してしまうのだ。
 
 しかも、もっと、すごいものが!自分の中に生まれる心のビクリビクリを消してしまう働きもあるのだ!そして、これも、仲間のおかげ。私はなにもしていない(笑)。発見すらも自分の「我」の力ではなく、流れに任すことでどんどんでてくるのかもしれない。
 
 
 
 心のビクリビクリを収める方法は簡単。下駄を抱くのだ。手足から下駄に任すのと同じように、この背骨にも任すものが必要だったのかもしれない。ずっと、ネガティブなものを持っているのを自覚していただけにこの変化は超びっくり!また、改めて気持ちに特化して下駄の効用を書いてみたいと思う。しばしお待ちを。
 
 
 
 下駄は人を選ばない。使い方もよくわからない。たぶん、8割ぐらいは「気のせい」(笑)。下駄のデメリットはかっこ悪い、って事と、プライドがズタズタになる事ぐらいだ。だから、こっそり、家の中で下駄を履き、手に持って感じを確かめて欲しい。変わらないならそれでもいいんだけど、現実に変わってしまう事を「稽古」は教えてくれる。
 
 
 遊び心は発見を加速してくれる。下駄を抱く事を見つけた仲間は昨日、太ももに下駄を結わえて走っていた(笑)。これがまた、軽いのだ!!もう、理由は探さない。試して遊ぶ。こういうのも稽古なのだ(笑)。
 
 
 

7/30(水) わかる瞑想教室 【名古屋】
8/1(金) 大人の武道塾 【大府】
8/5(火) 大人の武道塾 【大府】
8/8(金) 大人の武道塾 【大府】←山口は欠席。自主錬ありです。
8/10(日) 大人の武道塾 【名古屋】わかる瞑想教室 【名古屋】

8/12(火)、8/15(金)は未定。どちらかはやりたいと思います。

8/19(火) 大人の武道塾 【大府】
8/20(水) 大人の武道塾 【浜松】わかる瞑想教室 【浜松】
8/22(金) 大人の武道塾 【大府】
8/23(土) わかる瞑想教室 【大垣】 ←ひさしぶりの大垣瞑想
8/24(日) 大人の武道塾 【浜松】わかる瞑想教室 【浜松】
8/26(火) 大人の武道塾 【大府】
8/29(金) 甲野先生の名古屋講座

下駄の効用

 今日は「下駄」の話をしようと思う。最近、ツイッターではつぶやいていたけど、あまりの効用にどうこれを伝えようかと考えているうちに時間が過ぎてしまった。
 多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。
 
 
 
 ただ、私は頭でっかちな性格だ(笑)。意味もわからず、なにかを続ける事ってできない人。だから、今日は昔の自分にあてるような気持ちでブログを書く事にする。なにも考えなくてもただ履いて過ごすだけで、カラダは変わってしまうのだ。
 
 
 
 二階にある道場に手すりを使わないと上がれないほど膝が壊れている仲間がいる。彼に少し冗談めかして下駄を履かせて歩かせた。すると、それまで痛くて気になっていた膝が気にならないみたい。そのまま階段を降り、また、あがってきた。第一声は「なんで、あがれるのか!」だった(笑)。
 
 
 
 下駄をバカにしてはならない。エンジンも歯車も、なにもついていない。しかも高級なブランドでもなければ、たぶん職人が丁寧に魂をこめたものでもない(1500円ぐらいで普通に買ったサンダルのような下駄なんだから)。
 それでもカラダは変わってしまうのだ。
 
 
 普段、きっと、頭に気づかせないように、このカラダは無意識に変化を隠している。これまでも下駄を履く機会はあったけど、まさか、こんなにも大きな変化が自分の中に生まれていたとは夢にも思わなかった。
 
 
 
 
 下駄を履く事でなにがかわるのか。
 最近の術理に当てはめてみると、「跳ね返る力」、「重力」の力に簡単に乗る事ができる、というところだろう。以前、「今を5つにわけてみた」としてブログを書いたけど、その2番の力、五行で言えば木行の世界に簡単になじめるようになるのが下駄なのだ。
 
 
 
 跳ね返る力の存在に気づき、それを使いこなそうとあれこれ試し、なんとか、一通りの技の中での生かし方を見つける事ができた。それによって、これまで考えもしなかった動きが可能になり、実際に速く、そして、重い動きがでるようになったのだ。
 しかし、これを伝えるのはなかなか大変。まず、なにより、タイミングが違う世界がある事なんて普通は考えないもの(笑)。
 
 
 
 手を合わせてみればそこに普段と違う感覚と、目に見える結果があるので、タイミングが違う世界が「ある」というところまではなんとか理解してもらえると思う。問題はそのタイミングの世界にどう行ってもらうかだ。
 ただ手を上げる、ただ歩く、そんな普通の中にタイミングを変えた世界がある。そして、それを変えることができれば、これまで無理だと思っていた事に光が見えてきて、楽しくなれる。そう確信はしたものの、どうしたらそれを伝えられるんだろう、と考え込んでしまった。
 
 
 
 問えば必ず、答えは見つかるもので、その感覚を自覚し、過ごしてもらうためのアイテムが「下駄」なのだ。
 
 
 
 今、私の中では下駄は「履物」ではなく、「乗り物」と認識している。自転車のように楽に身体を運んでくれるもの、と考えている。下駄は発明なのだ。
 
 舗装道路のなかった日本では下駄が便利。もちろん、それもあるだろう。でも、そうなれば、現代において下駄は必要なくなる。軽い靴でかまわないもの。
 でも、靴では得られないすごいものが下駄にはある。下駄に乗る事で身体を常に楽に動かす事ができるようになる。
 
 
 
 これを武術の技を通して確かめると、もう、靴には戻れない(笑)。
 
 
 
 ちなみに、今私のキャリアは武道暦が40年近く・・・、甲野先生にでっても20年近くになる。これまで、研究、稽古を続けてきて変わり続けてきた、という自負もある。
 
 でも、今、自分のどんな動きよりも「下駄」に乗って動いた技のほうがキレルのだ(笑)。
 
 
 
 甲野先生と出会い、変化こそ大切で、楽しい、とわかった今だからこそ、この状況を楽しく過ごす事ができるけど、きっと、何十年も一つの事を追求してきた人であれば、ショックで言葉もなくなり、さらに追求していく意欲を失ってしまうかもしれない。
 
 なぜなら、何十年の努力が全部、無駄な努力だったのかも、と思えてしまうから。
 
 
 少しでも動きのレベルをあげようと日々、汗をかいている。でもそんな汗を下駄はひょい、と乗り越えてしまうのだ。その現実をどう捉えるか、稽古のセンスはこういう瞬間に試される。
 
 下駄によって身体は変わっているのだ。変わっていない、と思い込んでいるのは頭。現代は頭が強いから、つい、変わった身体をなかった事にしようとしてしまう。でも、身体も大切な自分。しかも、身体がわかる事で精神の事もよくわかるようになる。
 こんなにも豊かで便利で楽に暮らせる時代なのに心につらいものを抱えている人は年々増えてきている。理由の大きな部分はきっと「身体」が使えなくなってきているから。医者も学者も皆現代人、身体を使える人、身体のすごさに気づいている人は少ない。身体のすごさを認めない人が精神の問題を解決できるとはとても、思えない。
 
 
 つい、話がそれてしまった。今日は下駄に戻ります。この記事を読み終わった後、下駄を買いに行ってくれる人が一人でも増えれば、なんて(笑)。
 
 
 
 
 下駄に乗る事で足からくる不安が少なくなっているのに気づく。足からくる不安とは崩れそうになる、不安。その不安定さが無意識の力みを作っているわけ。この力みは4番。筋肉、意思の世界。なにかをやろうとするタイミングは地面からの跳ね返りの力のタイミングに比べて圧倒的に遅い。その「ズレ」が力みになり、身体を硬くしてしまうのだ。
 
 若いうちはまだ、身体にも余裕がある。、栄養も取れるようになったから、筋肉も増えたし。しかし、増えた筋肉は重さにもなり、骨格としての身体、バランスとしての身体に負担をかける。歳をとり、どこかで、負担のほうが強くなるときが必ず、やってくる。
 それがわかっているのに、皆なぜ、平気なんだろう?
 
 
 
 下駄に乗ると、足指、膝の力みが消える。
 どうも、私たちの足元は平らに見えるだけで、体にとっては微妙なバランスを必要とするものらしい。その微妙なものを処理してくれるのが下駄なのだ。
 
 下駄は自分がそこにいていい、と身体で思わせてくれる。いくら、頭の中で「ここ」こそ自分の居場所なのだ、と思っても、実際に身体が緊張していては駄目だ。身体の方から安心がもらえる。ただの木材に紐がついたようなものなのに(笑)。
 
 
 
 舟の船頭さんを考えてみて欲しい。水面のゆれを身体で受け止め、櫓をこぐ。エンジンのように馬力で進むのではなく、身体を使って、舟を導く。この時、水面のゆれに抵抗していては一人前に舟を扱う事はできないはず。舟との一体感があって、初めて櫓を使いこなせるようになるはずだ。
 
 地面との関係もこれと同じ。地面は揺れていないけど、身体はいつも、不安定さを持ち、一体感を失ってしまっている。下駄に乗る事で簡単に一体感が得る事ができる。意味もあるけど、身体にはいらない。下駄で過ごす事が習慣になるように生活の中に取り入れると滑らかな身体、滑らかな気持ちの自分と一緒の時間が増えるはずだ。
 
 問題は仕事のとき。下駄を履いたビジネスマンは明らかにおかしい(笑)。そこが各自の研究テーマだから、勝手にやってください。
 
 
 
 ・・・と、ここまでは私の中では「普通」の話し。下駄を履く事で地面との跳ね返りがスムーズに行われ、身体に力みを作るにくくなり、結果的に自転車のように身体を楽に「動かす」事ができる。身体が気持ちよく動くのだから精神的にもいいはずだ。
 
 ながながと書いてきたけど、上の数行に書いた事がこれまで伝えたい事のまとめ。後はそれぞれ、試してくれれば、と。
 
 
 
 実は、まだまだ、下駄には秘密がある(笑)。
 実は「手に持っても」動きが滑らかになってしまうのだ!
 
 両手を押さえて、歩く事をしっかりと押さえてもらう。この稽古が私は好きだ。目の前の進みたい道を行く、というのが人生と似ているから(笑)。
 どんな手を使ってもいいから前身を止める。それだけをルールにすると、武術武道の高段者、スポーツの才能、身体の大きさとかあまり、関係なくなる。その状況で自分になにができるか、を求めるのがこの稽古。
 
 
 この時、下駄を履くと、身体と地面との関係がよくなり、跳ね返る力が身体を動かすようになる。その跳ね返る力は筋肉のタイミングよりも早いので、結果として身体の大きさのハンデが消えてくる。ここまでは説明したとおり。
 
 
 この時、下駄を「手に持つ」のだ。鼻緒に指をかけ、ぶら下げる。その状態で前に進む。すると、相手がなにもできずに、崩れていってしまうのだから、もう、なんと言っていいやら(笑)。
 ポイントは手に鼻緒がかかっている事。たぶん(笑)。下駄だけを指で挟みこんだだけでは肩に力が「逆流」し、流れない。身体が力んでしまうのだ。
 
 鼻緒でぶら下げるぐらいの時、指先から力が外へと流れていく感覚がある。この感覚が身体の自由さをくれるみたいだ。
 
 
 
 下駄を持っていない反対の手、そして両足。それぞれは下駄を手にしている手に従い連れられていくようにする。すると、身体がスムーズに相手へと向かっていけるようになる。少しずつ理由はわかってきて、使い勝手も上手になってきているけど、下駄を手にしているときの身体の軽さはこれまでに経験した事がない。
 
 
 
 ちなみに、つまむんであれば、他のものでもいいんじゃないか、と巾着やポーチ、ペットボトルとかを試してみたけど、それらは全部、駄目。「下駄」でなければいけないらしい。
 
 
 
 そこで、ふと、思いついた。
 もしかしたら、私たちの中に動物としての心が残っているのかな、と。私たちは手足が大地と触れて生活をする。手足は大切な接点なのだ。その接点の先に不安があるのと、安心があるのとでは当然、違ってくる。
 ついつい、不安を頭にまで上げて解決したくなるけど、接点において安心を作れれば頭は他の仕事に回すことができる。
 
 一見、関係のない手に持つ下駄も、手先から伸びる世界、もしかしたらこれは抽象的なほうの世界かもしれないが、それとの間に安心を作ってくれているのかもしれない。
 
 
 
 遊びながら、笑いながら、この現象を試していて、ひとつ発見があった。
 竹刀でお互いしっかりと打ち合ってみたのだ。
 相手の隙を付くわけでもないし、竹刀を扱う技が伸びたわけでもない。この時、右手の指に下駄をぶら下げ、打ち合ってみた。すると、信じられないぐらいの重さと速さが出てきてしまった。
 
 タイミングも力みがないせいなのか、気配を読めないし、下駄をぶら下げる事でこんなにもかわってしまうだなんて・・・。
 しかも、何人かに試してもらっても、ほぼ例外なく、変わって重さと速さが乗ってきている。この変化で丈夫な袋竹刀が折れてしまったのだから、もう、なにかあるとしか考えるしかない(笑)。
 
 普通に竹刀を持って、右手に下駄をぶら下げる姿を想像して欲しい。一言で言うと、「間抜け」。もう、まじめになんて練習できない、普通の道場では絶対に許されない事だと思う。しかし、頭のまじめさを大切にしてこの速さと重さに気づかないで練習を続けても一生、そこには行けないかもしれないのだ。
 
 
 だからこそ、研究は楽しく、笑いながら、縛りなく行える場所が必要なのだ。権威を大切にするなら、それもいいけど、そんな権威は死ぬ直前には役に立たないものだし、年々、権威の力も小さくなっていっている。
 どうせ生きるんだもの、楽しく生きるためにはどうすればいいのか、そんな事を考えて暮らすのもなかなか楽しいし、身体感覚を使ってみると、意外と簡単にそれを実感する事ができる。
 
 
 
 ずっと、下駄の話をしてきたんだけど、乗るだけで、動きが変わるのだ。その動きは相手が敵役をやってくれるとさらによくわかる。どんなに抵抗をされても、崩していけるこの感覚は自分の中になにか「ある」という気づきに変わってくる。
 高度なテクノロジーの結果の道具は自分の身体にあるなにかを教えてくれない。その「道具」がすごいのだ、と思ってしまう。でも、下駄は「ただの木」だもの。下駄に乗って変わってくる結果の要因は下駄によって変えられた自分でしかないはず。
 
 
 世の中に便利なものはたくさん歩けど、その便利なものって結構飽きる。次にまた、性能のいいものが出てくるだろうし。一瞬満足があっても、すぐに不満に変わっていく。しかし昔の人が発明した下駄はどんどん内側に入っていくのだ。下駄のすごさに気がついて2週間ぐらいかな、毎日、違う自分が見えてくる。その人なりの変化が下駄によってもたらせるはず。
 
 
 身体感覚の世界はマニアックな世界でなかなか上手にその楽しさを伝えられなくて凹むことがあるんだけど、下駄を履いて見れば、意味はわからずとも、軽い身体を先に渡す事ができるとわかった。最近の浴衣下駄なんかは下にゴムが付いているので、まぁ、室内でもそれほど気にせず使えると思う。ぜひ、靴屋さん、和モノ屋さん、浴衣コーナーを覗いて手に入れてきてください。1000円ぐらいのもので十分ですから。
 
 
 
  つい、つい、熱を入れて語りすぎちゃいました(笑)。でも、まだまだ、話し足りません。続きは講座、稽古にて聞いてください。