さて、自分は誰だろう?
そう問いかけても、答えてはくれない。
でも、生きていく過程で自然と作られるセルフイメージがあるはずだ。
結果として残るものを通して自分を見ることもできるし、動きを通して、感性を通して感じることもある。今日は感性の話。
本来の人間は全て、自由だ、といわれたりする。
確かに数百年前の身分制度のカチッとした時代に比べれば、今この現代はものすごく自由な気がする。住む自由、言葉にする自由、移動する自由。
でも、自由とはこんなものなんだろうか?
一つの動きがある。
腕をつかまれて、さぁ、どうする?という設定。
この時、肘から先をつかまれると、逃げようとした瞬間、相手に見つかり、ぎゅっと抵抗されてしまう。つまり、ひょいと持たれてしまうだけで、私たちの自由はすぐになくなってしまう。言葉でどれだけ自由を口にしても、身体は不自由を感じているのかもしれない。
少し設定を変えよう。
腕は腕でも、上腕、肘から上だ。
これは両手で抑えられてもいい。
この時、さぁ、逃げようと考え動き出すと、なんの苦労もなく、動き回ることが「できる」。つまり、相手がいようがいまいが関係ないのだ。
この動きを見つけ、感じたことは、自分はこれまでも、これからもずっと、自由な存在だったのだ・・・という事。
もちろん、これで終わりとはちょっとも考えていない。きっと、またすぐ、新しい気づきに出会えるはず。でも、ただ、ちょっとした気づきで「忘れていた自分」と言えるほど、自由を身体で感じられるってものすごい事だと思う。
誰の中にもある自由感。それを伝えられる自信が生まれた。明日はこれをやる!