【稽古日誌】我について

まるまるお休みの日曜日。
仕事としてなんにも予定が無い日曜日って家族にとってはとっても大切な日なのです。
久しぶりの日曜日、おちょぼ稲荷にお参りに・・・。とはいっても、目的は串カツだったりするのですが(笑)。
 
 
 
ここのお稲荷さんはいつも賑わっていて、参道を通るだけでも楽しくなります。
人ごみが苦手な私ですけど、なぜか、ここの賑わいは平気と言うか、ふっと、この賑わいにまぎれたくなるので、時々お参りに来ます。でも、ホントは串カツに釣られているんですけど(笑)。 
 
 
 
まぁ、串カツを食べながらでも、頭の中にあるのは、自分の中の「我」と、道具としての「腕」のことばかりです。
 
こんなところに来てまで技の事を考えているとは、我ながら、変な奴です。
しかし、もう、止めれません(笑)。
 
 
 
自分の中にある「我」を見つけたとすれば、他の人の中にも「我」があることが分かります。
そして、自分が思わずやってしまう事、これが道具としての腕なのですが、これが分かれば、相手の中にもその腕を見つける事ができます。
人が苦しむ時って、自分の思っている事と、つい、やってしまった時に生じるギャップが主な原因じゃないか、と思っています。
 
できると思っていたのに、できない。
欲しいと思っているのに、手に入らない。
こんな時、我を手放し、それを運命だからと受け入れることができたら、いいのに・・・というのも「我」です(笑)。
 
 
 
とにかく四六時中私たちの心の中にいるのが「我」であり、思わずしてしまう道具としての「腕」です。
 
 
 
武術の楽しみ方としてはこの二つの自分を扱えるようにする、という事ですが、その前段階として、自分の中には二つ「ある」というのを受け入れるのが近道ではないかと思っています。
自分と言う存在をどちら側から見ているか分かりませんが、心の中に生まれる思いと、つい、動いてしまう自分は大抵、真逆の存在としてみつかります。
問題が起きた時にこそ、意識できるからです。
 
 
でも、この意識できる、って大切なんです。
意識できるからこそ、今度は、この二つの意識がうまく役割分担をして働いている、という事を感じられますし、その瞬間こそ、喜びになります。
 
 
 
そういえば、今日お参りした、おちょぼ稲荷には「重軽石」というものがあります。
まぁ、ただの石なんですが、普通に持った時と願いを口にして持った時と重さが変わることで、願いが叶うかどうかわかるすごい石です。
 
もちろん、量りにかければ、石の重さは同じです。
しかし、持ち上げるのは自分、人間です。人間だからこそ、言葉を口にしたときに揺らぎがあります。
この揺らいだ部分を分からせてくれるのが、重軽石でしょうね。
 
・・・と身体の方からみると、神秘の重軽石も仕組みが当たり前に想像できてしまいますが、心の中では摩訶不思議な作用が働いている、と願っています。
これも、きっと、私の中の「我」ですね(笑)。
 
不思議な事、大好きなんです。
 
 
 
不思議な事と言えば、まさに、古武術って不思議です。
昔から、漫画や映画の世界には明らかに体力の劣る老人が若者をコロリと倒す場面が出てきます。
その信じられない状況を説明するのに使われるのが「気」であったり、「エネルギー」であったり、「バランス」だったりします。
 
現在でも、超能力を科学する、なんてテレビの企画があると、気功師は必ず、登場します。催眠術師もでてきますね。
人の心と動きを意のままに扱うのですから、不思議に見えるかもしれません。
 
 
 
考えてみれば、私が甲野先生に惹かれたのも、著書を読み、そこに常識では考えられない技を使っている甲野先生に惹かれたからです。
 
ただ、他の達人に惹かれず、甲野先生に惹かれたのは先生ご自身が、ご自分の技や身体について、一生懸命「言葉」にしようとしてくれていたからです。
 
 
 
最初に読み込んだ本は「井桁術理」という本でしたが、なぜ、小さな力で大きな人を崩し、投げることができるかといえば、気配がない動きだから、そしてその気配を消すためには身体をねじってはいけない、そしてねじらない様に動くためには身体を割って使い、互い違い、まさに井桁のように部分にたよるのではなく、全体を使う必要がある・・・なんて書いてあったのです。
 
 
当時、この説明で分かったかと言えば、「分からなかった」んです(笑)。
ただ、説明があることがうれしかったんですね。
 
 
世の中の多くの達人は、自分の技の秘密を語りません。
それは技は秘伝であり、それを伝える事で、自分の技が効かなくなるからかもしれませんし、感覚的に身につけてしまって、自分でもその仕組みが分かっていないかもしれません。
 
自転車に乗れる事と似てるんですよ、きっと。
自転車に乗るための「手順」って山ほどあります。コツはたくさん言葉になってます。
でも、乗れてしまえば、それは当たり前。
達人にとって、人を軽く扱い、投げる、というのがとっても、当たり前な事なんでしょうね。
 
 
そんな中、甲野先生は細かく身体を観察し、言葉にしてくれました。
その言葉は感覚が言葉になったものなので、頭では分かっても、身体は動きません。
「我」の部分では分かっても、「腕」を動かそうとしてしまっていたからかな、なんて、今は思います。
 
 
 
言葉は便利ですが、その言葉を自分の中の「我」と「腕」とどちらが聞くかで全然違ってきます。
「我」は「腕」に敵いません。
腕はその身体を使って動くという働きを最大限に行います。
我のほうで動いて欲しいと思っても、腕には腕の動き方があるんです。
 
自転車で言えば、乗り方をどれだけ覚えても、脚には脚の腕には腕の、今までの動き方が刻み込まれているので、なかなか新しい状況にたいして対応できないんです。
そのもどかしい状況を頭である我はもどかしく見ているかもしれません(笑)。
でも、こういうものです。
 
 
 
仕組みが分かれば、楽になります。
「我」の部分がやさしく見守る事ができるから。
身体に任せてみれば、必ず、身体はその状況に適応してきますからね。
 
考えてみると、現代は周りの環境の方が、どんどん便利になって、身体に楽をさせてくれています。
身体がサボっていくのも仕方ないかもしれませんね。
 
 
 
あぁ、やっぱり、書き出すとどんどん考えている事が拡がって、止まりません(笑)。
それはあらゆる状況に「我」があり、「腕」が関係しているから。
運動が大切、と言われていますが、体重がどうだ、とか、健康がどうだ、って話ではないんです。
自分とはなにか、と考えた時に頭だけの問題ではないから。
頭だけで解決してしまうのなか、脳みそだけ取り出しても生きていけます。
 
 
でも、そんなんじゃない!って事を身体で感じられるのが武術を通しての稽古です。
上手な人はどこの世界にもいます。
身体を通して受け取れる人は受け取ればいいし、言葉を通してそれがわかるなら、それもいいです。
大切なのは相性。自分の身体に届く人を師匠に持つ事がなによりの近道です。
 
あぁ、だからこそ、師匠は3年かけてでも探せ、って言われるんでしょうか(笑)。
私の場合、前を歩いてくれる師匠は甲野先生ですが、この私の「我」に教えてくれるのはこの身体、「腕」のような気がしています。
自分の身体が自分の我に教えるんですから、もう、こんな強い師弟関係ってないですよね。 
 
 
今日もお付き合い、ありがとうございます。
あっ、そうそう、11月23日(金・祝)、師匠の甲野先生が名古屋で講習会を行います。
ぜひ、どうぞ。新しい世界に気づく事ができますからね。

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