【稽古日誌】技と術の話

今日は「技術」の話をしようと思います。
技術って言葉は「技」と「術」という文字で作られています。
甲野先生は「術」と呼べるほどのもの、という事をよく言われます。
でも、「術」って何でしょうね。
 
 
 
「技」という言葉はみんな、普通に使います。
でも、「術」ってどうでしょう?
普段、使いますか?
 
使わないですよねぇ・・・。
 
 
 
つまり、現代人にとって「術」という感覚って消えてしまった、という事なのです。
「技」と「術」、セットになって辛うじて理解できるものなのかな?
 
 
 
携帯電話はあの小さな箱の中に、ものすごい小さな部品がぎっしりと詰まっています。
あれを見れば、技術のカタマリだという事が分かるはずです。
しかし、普段はその技術のカタマリを見ることも、感じることも無いまま、当たり前の道具として使っています。
この当たり前な感じこそ、危険です。
自分の中に平和を作ってしまうから(笑)。
 
人は「平和」になると、考えるのをやめてしまいます。
つい、そこに安住してしまうんです。
だからこそ、感謝しましょう、という教えがあるのかもしれませんね。
 
また、話がずれていきそうです。今日は感謝の話は置いておいて、ひたすら「技術」の話をします(笑)。
 
 
 
まずは「技」と「術」との違いについて、私が考えている事をお話します。
 
「技」というのは、手順と考えてみてください。
相手を投げる技があるとすると、腰で担ぐのか、手首を捻るのか、体を捌いて崩して投げるのか、との違いを作る部分です。
手首を捻るにしても、どう捻るのかで、技は変わってきます。
 
たくさんの得意技がある事は武器にもなりますが、反対から考えてみれば苦手な技もある、という事です。
得意な部分と苦手な部分、と分けてしまうのは、表面的な違いに影響をされやすいからです。
当たり前ですが、野球と水泳は競技がちがいます。
泳ぐのが苦手でも、走るのは得意な人もいるはずです。
この両者を比べて、得意不得意を考える部分が「技」です。
 
 
 
それに対して「術」というのは、共通する部分。
手順、形、状況など、さまざまな「違い」を違いとしてみるのではなく、同じものとして扱って見たときに変わらないものが「術」です。
 
手を上げる動きと下げる動き。
方向が「違い」ます。方向が違えば、形が違います。
しかし、この時、その手の「内側」を見るんです。
筋肉の力み具合や身体全体のバランス、心の持ち方はどうか・・・などです。
 
上に上げても、下に下げても、筋肉が力まず、バランスも崩れず、心も揺れない、と言うのであれば、共通の「術」がそこに存在している、と言えます。
 
 
 
しかし、多くの人は「見た目」に振り回されます。
上に上がっている技と下に下げている技。その技は別物に見えますよね。
でも、同じなのです。
同じ「人」を見ていても「技」的には違う「動き」をしているんですが、「術」的には同じ使い方をしている、と考えられます。
分かりやすいのは「見た目」ですが、間違いを起こしやすいのも「見た目」に惑わされた時です。
 
こんな人だとは思わなかった・・・、この言葉は見た目を信じて騙されてしまった人の言葉です。でも、私は内側が見えませんでした、という事ですから、ちょっと恥ずかしい言葉かもしれません(笑)。
 
 
 
もともと、日本でははっきりとした事を言葉に表さなかった文化があったのかもしれません。
あいまいさを生活の中に取り入れていたわけです。
その表面的なあいまいさを感じ取る部分が「術」と考えてもらえば分かりやすいでしょうか。
 
 
 
とにかく、最初が肝心です。
一体、自分はなにを学ぶのか、それを決めなくてはなりません。
技なのか、術なのか・・・。
 
古武術はピアノのような楽器演奏にも有効です。
しかし、その際に伝えられるのは「術」の部分だけです。
いくら古武術を学んでも、一曲も弾けるようにはなりません。 
しかし、すでに弾ける人であれば、たった一回の動きを試すだけで、そこに自分の中の違う面に気づく事ができるかもしれません。
すると、その瞬間、自分の演奏が見違えるようになる事もあります。
 
これは、技を学んだのではなく、身体の使い方という「術」を学んだわけです。
 
 
 
武術とピアノほどジャンルがかけ離れていれば、混同する人もいませんが、これが武道と古武術の場合はつい、技の方に気をとられてしまうんです。
 
 
 
「突き」という技があります。
シンプルにただ、まっすぐ手が出て行くだけなのですが、かく流派によって、こぶしの握り方や手を出す方法が微妙に違ってきています。
 
古武術には「無拍子突」というのがあります。
気配がない突きで、あっ、と思うと目の前にコブシが届いていて、受ける暇もありません。
武道、格闘技をしている人であれば、気配がないという突きを身につけたい、と思うのは当たり前ですよね。
 
この時、コブシの形、手が進むルート、捻るのか捻らないのか、という「形」を変えてしまうと自分の行っている流派の技を否定してしまう事になってしまいます。
いや、それでも突きなんだから許容範囲だ、と考えて練習する事はできても、だんだんとその妥協が増えていくと、やがて、自分の流派の中ではやっていけないほど、違う技になっていってしまうものです。
 
 
 
無拍子突きは「技」的には特別なものではなく、ただ、突きとして手を出しただけのものです。
ポイントは「術」があるかどうかなのです。
気配がでるのはなぜかと言うと、身体の各部分がバラバラに動いていて、統制が取れていないからです。
つい、お腹に力がはいり、腰を捻り、肩に力がたまります。
そんなバラバラの動きをみんなしています。
そのバラバラさを長年の練習を通して整わせ、自分のものにしていく過程こそ稽古なのですが、この忙しい現代ではその心の余裕をもつ事が難しいわけです。
 
 
 
反射、という動きがあります。
熱いものに触れれば誰でもものすごい速さで手が動きます。
この時、気配なんかまったくありません。
熱いものに触れた瞬間、身体の方がびっくりして、手が動いてしまうんです。
 
この原理を利用すると無拍子突きは簡単です。
誰でもできます。
もうすでに、自分の中に反射のシステムがあるからです。
 
 
 
しかし、これでは頭は納得しません。
だって、自分でなにかをしている、という実感がないから。
 
「術」ってなんだったか思い出してください。
全ての中に共通する動きです。
反射で考えてみれば、手を出すのも、引くのも、上げたり、下げたりする動きも、「やろう」としてもできますが、「反射的」にもできます。
同じ動き、同じ形だっとしても、その内側の部分が「意識的」なのか「反射的」なのかでは当然、違ってきますよね。
 
 
 
何十年と休まず繰り返し行ってきたことは無意識の中に刷り込まれてきます。
この無意識の中に刷り込まれた動きは意識をせずとも行える動きです。
当然、気配なんかありません。
 
朝起きて、歯を磨き、会社にいく。
これ、無意識にパターンです。
みんなたくさんの無意識のパターンを持っているんです。
 
 
 
自分の中にある意識していない部分を意識して使えるようにするのが「術」です。
自分の中にゆるぎない「術」を意識できると、外がどんなに荒れて、つらく感じられる時にも、あせらず、自分に戻ってくる事ができます。
 
単純に「一つの技」だけを身につけたいのであれば、手の形、脚の位置、タイミングなどを限定して、繰り返し練習をするのもありです。
むしろ、そちらの方が速く身につきます。
しかし、技と術の区別の無いまま身につけてしまうと、無意識にできる事が一つ増えただけで、応用ができません。
遠回りのように思えるかもしれませんが、自分の「術」として考えて稽古してみる事で、生きていく間に起こる全てのことに使えるコツを手に入れることができます。
 
 
 
自分はどっち側がやりたいのかなぁ、と考えて、稽古してくださいね。
今日は技、今日は術、って感じで軽くやればいいんです。
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