稽古は身体の感覚を磨くものです。
それはもしかしたら感性を磨く、という事と同じことかもしれません。
ただ、「感性」という言葉には抵抗感があります。
なぜなら、私は子供のころから、その感性をまったく自覚できなかったから。
絵が上手な友達、素敵なアイデアをだしみんなを驚かせる友達、花や絵をみて喜べる友達、映画や小説で涙を流すほど受け止められる友達、本当にうらやましかったです。
きっと、彼らには自分が気付かないものがわかるんだろうなぁ、と思っていました。
事実、そうだったんだと思います。
人の気持ちもそうです。
相手がなにを求めているの、それが本当にわかりません。
だから、国語が嫌いになりました。作者が言おうとしていることがわからないんですから(笑)。
稽古に出会って、自分の「身体に」出てきているものを細かく観察していく事が出来ました。
最初は触覚だったと思います。
それまで、手順を視覚的にしか追っていなかったことに気付いて、触覚を使えば上手になるぞ、とワクワクしました。
結果的に触覚だけではなく、自分はすべての感覚をもっていたのだ、と気付くわけですが、相変わらず、人の気持ちはわかりません(笑)。
ただし、身体の方の精度は格段にあがりました。
相手の気持ちを推し量って、抜群の間合いをとれる人がいます。いいなぁ、と思っていました。
私は今も人の気持ちはわかりませんが、自分の身体の声は聞こえるようになりました。
相手と場所と時間を共有している時、体はたくさんの影響を受けています。
その時、自分の身体が一番納得できる動きをすると、相手の身体にも負担をかけません。
心身一如という言葉があります。
心は身体に影響を与えますが、身体も心に影響を与えるのです。
身体を楽にすることができれば、気持ちも楽になります。
今、気付いていることも、また、稽古を重ねていくと、わかっていなかったなぁ・・・というものになります。
つまり、この先、ずっと、感度は上がり続けるはずです。
子供の頃の私が迷い、落ち込んだのは、苦手な心の間合いばかりを見ようとしていたから。
きっと、心が苦手であれば、身体は得意なんでしょう。
競い合う運動は苦手でしたが、自分の内面を探ることには興味を持って向かうことができるようです。
私は心と体のバランスが極端でしたが、誰しもが心と体を持っています。
私の身体との付き合い方が少しでもご自身の身体との付き合い方のヒントになればうれしいです。