【稽古録】次元的に考える事で見えてくるたくさんの自分

◆はじめに

身体感覚の稽古をし始めて、考えることが多くなりました。稽古の大半は「考える」時間に充てられていると言ってもいいかもしれません。

甲野先生に出会う前、練習とは「繰り返す事」としか知りませんでした。教えられた事を繰り返し、何度も行い、できるようにする。それだけでした。
簡単な技ならこれでいいかもしれません。しかし、手順だけではなく、実際に使えること、さらに、争いの先に「納得」を求めた時、繰り返しの練習では絶対にたどり着けない事がわかります。

たぶん、多くの人がそれを知っています。でも、「それ以外」に方法を知らないため、繰り返しの練習に戻ってしまうのでしょう。
また、段位のような序列が組織の中にある場合、技としての完成度を高めるよりも、試験を評価されて与えられる段位を上げることに気持ちを向き替えるのかもしれません。

私は考え方が幼かったせいか、「技の中に教えがある」と信じ、自らの技の向上にしか興味が持てませんでした。いくら段位が上がっても、大会で評価されたとしても、嬉しくなかったのです。
そんな時、甲野先生に出会い、「身体感覚」の世界を見せてもらいました。
この世界はそれまでの手順を学び繰り返す練習とは全く違う世界でした。あまりに違いすぎて、どう自分の中で考えたらいいのかすらわからなくなりました。まさか、「ただ手を上げる」という単純な動作の中に良い悪いがあるとは考えもしませんでしたから。

身体感覚的に自分の技を見直してみると、もう、大変でした。持っていたたくさんの技はすべて、役に立たないものになりました。自信の持てないものとなってしまったのです(笑)。
私はプライドのない人間だったので、全ての技が役立たずになる、という状況になっても、ようやく本物に出会えた、と喜びの方を先に感じることができましたが、長年コツコツと積み上げてきた人にとっては自分のそれまでの稽古が無駄だった、と思う事はかなり、キツイ経験になってしまうかもしれません。
それでも、あえて、強くお勧めしたいと思います。身体感覚の世界は人生を変えます。

◆たくさんの自分

身体感覚の稽古と繰り返しの練習、それは真逆の取り組みでした。
繰り返しの練習は定まった自分が必要です。ある意味、最初の時点で可能性が決まってしまいます。しかも、繰り返しを続ける事が出来た場合のみ、予定された力を得られます。皆さんも経験あると思いますが、目標にまで練習を続けるためにどれだけの努力、そして、運が必要かわかりますよね。

もし、最初の時点で自信満々な自分を持っているなら、繰り返しの練習もいいかもしれません。むしろ、ベストです。どれだけ壁が現れようが、心を折らずに練習を重ねていけます。
しかし、それでも、人の持つ自信はそれまでの常識から作られるものがほとんどです。
現代でなら「空を飛ぶ」という目標を作り、努力をするのも難しくありませんが、ライト兄弟が苦労した100年前に空を飛ぶという目標を作り、自分にならできる、と自信を持ってチャレンジをするのはやはり大変です。
また、空を飛ぶことができなった時代の人は宇宙の大変さはさらに、想像できないものだったはずです。

稽古によって得られたのは「たくさんの自分」です。
自分とはなにか、という問題を身体で感じさせてくれました。

一番初めに手掛かりにした稽古は「ただ手を上げる」という事でしたが、自分が上げようとしている「手」自体が良く分かっていなかったのです。

「ただ手を上げる」稽古ですが一つ条件があります。武術ですから、相手に上げようとする手をしっかりと抑えてもらいます。少しでも動いたならば全力で上がらないように抑えてもらうのです。
武道の世界になじみがない人にはわかりにくいでしょうが、敵が敵として抑え続けるという状況は普通ではありません。型稽古の世界でそれをすればまず、練習が止まります。繰り返しの練習ができなくなります。いろんな理由をつけて、抑える側は「あまり抵抗しない」ようにするわけです。

身体感覚の稽古は「正しさ」がありません。まだ見ぬ自分の感覚を求めるのですから、コツのある方法で上げる事が出来たとしてもあまりうれしくはないのです。
いい稽古相手に恵まれればその手は簡単には上げられなくなります。実は上げられずに困っている相手を暖かく見守り稽古を成立させるのはなかなか難しいのです。

そういうキツイ状況に身を置いてみると身体は考えるよりも先に動きだすものです。
結果として、「ただ手を上げる」という事を求めた時、「たくさんの上げ方」が生まれてきます。

少し思いついたものを書きだしてみます。忘れてしまったものも数多いですが、箇条書きにします。

・まっすぐ上げるのではなく、骨が回転していると思って回しながら上げる。
・片手だけを上げるのではなく、左右の手の連動を意識して上げる。
・肘から先を動かさないように上腕を意識して上げる。
・手首ではなく、中手骨(手のひらの骨)を意識して上げる。
・中指の爪をまっすぐ伸ばしたまま親指の爪を伸ばすと結果的に手が上がる。
・手を上げる事に意識することをやめる。例えば鼻を意識し、まっすぐ、整え続けると結果的に手を上げやすくなる。

まだまだ書きだせばキリがありませんが、これまで20年ずっと新しいものを探してやってきました。そして、それは今も尽きることなく、新しい自分と出会い続けています。

もし、甲野先生と出会っていなかったら、これほどの自分を見ることなく、ただ、歳を重ね、老いていた事になったはずです。持っている身体は同じものであっても、見方、考え方を知らないだけで全く違う人生を歩くことになってしまうのです。

今のレベルはまだまだ未熟なものです。しかし、先にあげた一つ一つのコツがあるだけでたくさんの人から驚いてもらえるようになりました。つまり、それは、「皆、知らない」という事です。
得意なジャンルの中の動きはすごいかもしれません。ただ、それは繰り返しの練習で得たものであり応用がききません。少し条件が変わったら、少しケガをしてしまったら、少し歳をとってしまったらできなくなってしまうものです。原理がわからず身につけてしまうとスランプに悩まされる事になるんです。

しかし、原理がわかればずっと、それは続きます。
ある意味、私の「手を上げる研究」は、より力を使わず無理せず上げる方法の探求なのかもしれません。今日は20年追い求めてきたその最先端まで全部、お話しできればと思っています。

◆自分とはなに?

突然話が変わりますが、最近、「左耳に耳栓」をつけている事が多いです。
実はこれも、稽古の中で見つかった成果です。耳が自分の認識にこんなにも影響を与えていた事に気付きませんでした。

「耳栓の効用」については2014年の10月に気付きました。ただ、その時は「右耳」だったのです。右耳に耳栓をつけてみると、頭の中に出ていた自分を否定する言葉がでなくなったのです。その時には右耳は言葉を司る左脳につながっているからだろう、と考えました。当然、その際に反対の「左耳」にもつけ実験をしたのですが、あまりにも右耳での変化が大きく、左耳の効用に気付くことができませんでした。

あれから1年半、今、「左耳」に耳栓をつけ、試しています。
左耳に耳栓をつけてみると感じる世界がフラットになります。普段は五感と言われる感覚のうち、なにか一つが突出していたようなのです。
気になるものを見つければそれに目を奪われ、気になる音が入ってきた時、振り回されます。触覚的には身体が緊張しやすくなるようです。
それが耳栓をつける事で五感のうちなにかが主役になる、という事がなくなり、淡々と向き合うことができる気がしています。

これが「気のせい」であるのは間違いありません(笑)。
しかし、身体からの気のせいのため、失われない気のせいなのです。
耳栓一つで居つくことなく、淡々と動き続けることができるようになります。まさか、こんな事になっていたとは・・・なぜ、気付けなかったのだろうかと今でも不思議でなりません。

さて、五感がフラットになると身体に緊張がかからず余裕が生まれます。逆を言えば、それまでの自分はいつもどこかに偏り、止まっていたわけです。
この「止まっている」状態を「自分」と考えてみるとどうでしょう。
身体には癖があります。自分の苦手に出会った時、たいてい、同じ反応を繰り返します。その瞬間、身体は止まり、見え方が決まります。見え方が決まってしまえば考え方も止まります。

おそらく、力仕事を必要としていた前時代は仕事を繰り返す中で自然と身体に負担の少ない使い方に気付けたはず。日本は長らく鎖国をし、便利な機械や仕組みを入れてこなかった国です。不便な社会を意図的に持続してきたかのようです。もしかしたらその理由は身体性を大切にしたのかもしれません。
しかし、現代はもう便利な社会が広がってしまい、暮らしの中で自然と身体の感覚を身につける事が不可能な時代になりました。意識をして感覚に向き合わなくてはいけません。
自分がどんな反応をしているのか、それに気付くことができるのが稽古です。

先に「手を上げる」稽古の大切さをお話しました。
しっかりと抑えられた手を上げてみると必ずどこかで「止まります」。その止まった「感じ」を逃さないようにしてください。癖が身体に現れているのです。
身体を変えるとはこの癖を変えることです。
普段とは違う反応を身体に起こさせる。それを何度も経験していくと自分は自由だ、と気付くはずです。

ただ「手を上げる」だけでも、人によって癖は違います。
手首に力が入る人、肘や肩に力が入る人、お腹や背中に入る人もいます。力が入れば姿勢が崩れますから自然と形はいびつになります。形が変わることで出てくるのが個性なのかもしれません。
もし、その個性を自由に変えられるとしたら・・・。自分は身体という乗り物に乗っている存在のように感じられるかもしれません。

◆自分と世界

稽古をし始めると、驚くべきことがたくさん出てきます。
多くの人にとって、身体は「鍛える」ものです。努力をする事で力を得る、と思っています。
しかし、実際は違います。身体を「どう考え、どう使うか」で全然結果が違ってくるのです。考えてみると、子供の頃、運動神経が良くヒーローになっていた友達は死に物狂いの努力をしていたわけではありません。同じように学び、練習をしているのに、結果が違うのです。きっと、彼はうまく力を抜くことを知っていたんですね。

学校の勉強も、仕事も、「頑張る」事でとりあえずの解決ができます。まぁ、ここまで頑張ればいいや、と自分で自分を許せるのはとりあえずの目標を自分で決めているから。実はその目標は今の自分の観念が作り出した「限界」なのです。

「ただ手を上げる」という行為は工夫の余地の少ないものです。鍛えるから2か月待ってくれ、とは言えません(笑)。工夫ができない、思いつかない、というのは自分の中の限界に触れている瞬間です。
私たちの身体は「不自由」なものです。しかし、その「不自由があるから工夫ができる」のです。手を上げるとき、どこに意識を置くかで結果が全く違う、というのがわかれば自分の中に可能性を感じることができるのです。

無理だと思った状況の中にも解答がある、そうわかればどんどん興味がでてきます。一回一回、手を上げる時の状況に「違い」が見えてきます。
この時、下から上に手は上がりますが、「レールのようななにか」に乗った感じがわかるかもしれません。
身体は「たくさんの部分の集まり」です。その個性ある身体をうまく使えば蛇のように、柔らかく複雑に動くことができ、相手が抑えようとするセンサーを通りぬけ、手を上げることができるようになります。

たくさんの「感じ」の中で下から上に「スッと」抜ける感じがあります。その感覚はほかの柔らかい複雑な動きとは違い「直線」です。「流れ」のようなものにも思えます。
実はこの力こそ「重力」です。自分の身体にかかっている重力が「地面に跳ね返り上がっていった力」です。
当たり前ですが重力は決して、なくならない力です。誰もが等しく影響を受けるのが重力。その重力は普段、あまりにも影響の小さい力なので、私たちが普通に持っている筋力で抑えられるのです。

それでも、前時代はこの重力をうまく使うことを生活の中に取り入れていたはず。便利な機械があったわけではありませんからね。
しかし、多くの人が便利な機械で毎日を過ごすことに慣れてしまいました。いつの間にか、「重力を使う」事を意識をして動くことをしなくなりました。重力を使うよりも、機械を使った方が生産性が上がるわけですから、当たり前なのかもしれません。

しかし、重力は私たちの身体にずっと、影響を与えます。いつか、そのわずかな重力に身体が耐えられなくなる時が来るかもしれません。実際、それは起こるのですが、まわりの誰もがそうなっているので、自分の中でも「仕方がない」と諦めてしまっています。
稽古はこの常識を壊すことができます。

身体の重さを実感させる重力。そのまま筋力で支えれば「重荷」でしかありません。しかし、「流れ」として捉えると、その流れに乗ることで楽に身体を運び生活することができます。
おそらく、一流のアスリートは当たり前のようにその流れに乗り、運動しているはず。しかし、理解しているかどうかは疑問です。引退した後、輝きをなくしてしまう人が多いのを見るとそう思います。

歳をとり、老いていけば自然とやることは減ってきます。死ぬ直前、自分に課せられた仕事、運動はなんでしょう。もしかしたら、布団から起き上がるだけかもしれません。しかもこの時、介護ベッドで機械によって身体を起こしてくれたりすれば、なにもしなくてもいいかもしれません。
しかし、この機械に乗っている時にも重力はかかります。重力を見つけ、乗れるようになってくると、うまく乗っている時の快適さがわかると思います。スキーやスケート、サーフィンなど、流れに乗るスポーツをした事はありませんか?滑り台の記憶でもいいです。「流れに乗れている」という自覚が幸せな気分を与えてくれるのです。

この時、「重力=世界」になります。どんな時にも私たちは世界と一緒です。必ず、環境、背景があるはずです。しかし、嫌なことに遭遇した時、まわりが見えなくなり、自分の中が不安でいっぱいになってしまいます。
自分の「まわり」を理解する時、まず、重力から始めるのがいいでしょう。シンプルにただ「落ちる」。ただそれを考えただけでも、自分の中に動き、リズムを感じることができます。

ただ、この時、「自分」をしっかり持つ事が大切です。重力に従い落下している間、自分がバラバラになってしまえば重力どころではありません(笑)。
重さがあるからこそ、流れに乗る事ができます。この時、「身体感覚」が役に立ちます。
イメージ力だけで自分を定義したとしても、その思いはなかなか長続きしません。特に、敵を前にして困った時には。しかし、身体は確かに、そこにあるものです。例えば胸と背中を重ね合わせる事で出来ている「体幹」はまさに、塊です。その塊が落下して勢いを持てばその勢いを活かして手足が力を発揮することができます。

このような考え方を理解するのに役立つのが「次元」です。
自分がいるかどうかが「点」、その点が落下し軌跡を描くと「線」になります。
自分自身を認識する時に「身体」を使います。意識した部分を強く持続することができれば「強い点」になります。その強い点には常に重力がかかります。重力に従い動く自分を考えている時、その人の意識は少し高くなって一次元の「線」になります。
線ですから行う事はシンプルです。「行くか戻るか」、これが線です。私たちには「地面」があります。この地面があるからこそ、下に落ちていく重力と跳ね返る重力を生かすことができます。

ただし、現代に生きる私たちの頭は行くか戻るかというようなシンプルにはできていません。ついつい、あれこれ、やろうとしてしまうんです。この状態は次の段階、「面」を見つける事が出来れば解決できます。自分の思いと行動がピタリと合ってきます。
しかし、それをより深く理解するのに「点」の段階、「線」の段階が必要だと思います。
低い段階だから大したことがないのだ、とは思わないでください。面の段階でうまくいかなければ線に戻ればいいし、それでも不安なら点に納まればいいのです。最初の段階で安心があれば、点から線、面、立体になっていく過程を楽しむことができるようになるのです。

◆世界の中で自由になる

身体という「点」を見つけて「重力」にのれば「線」の中を動くという「自由」が感じられます。どんなに自分を止めようとする敵が出てきても、自分の線の中を常に動き続けることがリズムの力です。
生きる事が精いっぱいの時代はこの感覚だけで幸せになれたのかもしれません。しかし、今、私たちは戦争も、飢餓も、病気ですら普段意識する事無く、自由に過ごすことができます。「死」という終わりを意識する事無く時間を過ごしています。
だからこそ、あれがしたい、これがしたい、と自分の自由の幅を拡げたいと思うようになりました。

知識はたくさん入ってきます。実は自分がなりたいもの、やりたいこと、それになるために、それを行うためになにが必要か本当はわかっているはず。しかし、自分に経験のない最初の一歩がどうしても怖く、踏み出せなかったりします。
この時、「面」の自分を見つける事が出来ればその怖さをなくすことが出来るようになります。

うまくいかないかもしれない、と考えた時、自分の前には「敵」がいます。目に見えている敵なら対処のしようもあるかもしれません。自分の力で何とかならなければ誰かが助けてくれるかもしれません。でも、多くの場合、目の前にはいないのです。実際の敵は自分の心の中に不安として存在しています。まさに、それは「壁」のように。

目の前の壁を見つめた時、その高さと強さに驚くかもしれません。そして、もう、自分はダメだ、と諦めてしまうかもしれません。しかし、これは「相手の面に取り込まれただけ」であり、「自分の中にある面」を作り、そこに巻き込めば壁は相手のものではなくなり、自分のものとなります。

「重力は世界」といいました。その世界はただの線、行くか戻るか、です。ここから自分の世界を左右へと広げてみることができます。この時、「壁」の感覚が役に立ちます。挫折に思える「壁」ですが、しっかりしていればしているほど、頼りになるものになります。

イメージしてみてください。指先で空中に思い通りのものを書けますか?「円」を書こうとした時、壁があったほうがきれいに書くことができます。そして、さらに、その時、定規があったらもっと楽です。
実は、作りたいもの、成し遂げたいものがすでに決まっている時、自由に気持ちを置くよりも、不自由さを手入れることを考えた方がうまくいくのです。身体が「壁」を感じた時、腕脚をその壁に従い動かしてみると、想像以上に自由がある事に気付きます。

現代は知識が優先する時代です。なにかを「する前に」、いろいろなところからその問題点を学んでしまう時代です。心配性の母親がいて、なにをするにも注意を受けている感じでしょうか。
イメージの力は強大です。しかし、なかなかイメージを自在には使いこなせません。先に知識を持ってしまえば、うまくいかない自分をイメージしてしまいます。やってみて、うまくいかず、やっぱりとなり、うまくいかない経験ばかりが増えていきます。私たち大人はそんなうまくいかないイメージの塊のようなものです。

この時、「驚き」が役に立ちます。この驚きは大人であればあるほど、固定観念が強ければ強いほど有効です。それまで、何十年もダメだったことがガラリとうまくいく驚きは本当に面白いです。そして、その驚きを身体はいくつも、無限と思えるほどに見せてくれるのです。今、こうして言葉にしているのも、なにか特定の技を伝えたいのではなく、私たちの誰もが持っている身体という世界を伝えたいからです。手っ取り早く、コツや手順を知りたい人もいるかと思いますが、それで失敗したのが私です(笑)。手っ取り早いコツは簡単に楽しさを得ることができますが、飽きるのも早いんです。

「重力」という見方をすれば「線」の感覚を得るのにそれほど難しくはありません。重力は常に下へ、ですから。しかし、「左右」への広がりはちょっと手ごわいです。左右へと身体を動かそうとした時、「捻じれ」が入り、崩れてしまうからです。捻じれを生かすのは次の段階。まずはしっかりと、身体を平面に使う事をしなくてはいけません。
もしかしたら、この身体の平面化こそ、前時代と今とを結ぶ感覚なのかもしれません。

「平面」の考え方は設計図に似ています。子供であれば設計図無しにいきなり、やり始めます。失敗を恐れない子供達はそれも楽しいことでしょう。しかし、私たち大人は仕事でも生活でも失敗をする事を恐れます。失敗をしないために、なにかを始める前、設計図、計画を立てます。この段階としっかりと向き合う事ができれば、事前にうまくいかないところに気付くことができます。そして、改善し、より、自信を持って行動に移すことができます。

言葉で表せばこれだけです。動く前にちゃんと、計画と向き合え、という事。しかし、私たちはついつい、先走ります。その「癖」が強いのです。この「慌てて動いてしまう癖」を身体感覚によって変えていきます。
癖は痛い目を経験しないと変わりません。自分の身体で計画、設計図の大切さをしれば、安易に動こう、なんて思わなくなります。現代は素晴らしい機械やサービスがありすぎるので、つい、全部を人任せ、機械任せにしてしまいます。これもまた、「先」の問題です。世の中進化しすぎているようです。身体感覚を手掛かりにすると、だんだん世の中のレベルに近づいていけます。ちゃんと、順番どおりに次元を上げて、自分に自信をもって機械やサービスを使いましょう(笑)。

私たちの身体は誰が設計したのでしょう。たままた、この身体になったのでしょうか?目の大きさ、パーツの配置、筋肉の量、個人個人違う要素はたくさんありますが、根底にあるデザインは一緒です。一つの体幹、二つの腕、二本の脚、そして頭。身体の中にある臓器も同じ役割を持って、同じものが入っています。
それぞれのパーツを設計図通りに動かそう、と考えた時、「平面」の身体が役に立ちます。

この時も「手を上げる」動きで確かめます。しっかり、全力で抑えられた手をどう上げるか。相手は敵として、この手を抑えてきます。ちょっとでも動こうものなら、全力でそれを止めてきます。この状況は「不自由」ですが、その中に「自由」な自分を見つけるのです。常識では考えられない事を身体で確かめられることこそ、稽古の醍醐味です。

この「手が上がらない」という恐れは「壁」です。その壁を壊すほどの力があるなら壁があっても平気になります。しかし、その力を感じられないから絶望感がやってきます。この時、この壁に胸を押し付けるように意識をします。もうちょっと具体的にすれば、背中と胸を重ね合わせ、一枚の板を作るようにします。
すると、体幹という身体が不自由になります。それまでは抑えられた手だけが不自由だったのですが、さらに、体幹まで不自由になってしまいました。絶望度がさらに増してしまいました(笑)。
しかし、この時の体幹の平面化によって、自由になった部分が生まれているのです。それが腕です。腕の中でも肩を体幹の平面にそって回すようにすると、抑えれていたはずの手が上がっていきます。

この時のメカニズムもだいたいわかっています。私たちはついつい、肘を使いすぎてしまっているからです。
「肩をあげてはいけない」、これは武道や伝統芸能に限らず、スポーツの世界でもよく言われていることです。肩を上げてしまうと、腰が捻じれ、崩れてしまうからです。肘を使う前に肩を回す。たった、これだけなのですが、意外とみんな忘れてしまったようです。
肩を回し使う、これ自体はずいぶん早く気付いた事ですが、この時、「平面にした体幹」があると、その速さ、精度が段違いになる、そこに気づくことに時間がかかってしまいました。

肩と同じ仕組みが股関節にもあります。膝が前に出る前にちゃんと、股関節を回すことで自由が生まれます。もちろん、この時も体幹の平面に沿ってです。

驚きを体験するのには想像の中で一番きつい状況から試すのが早いです。
こちらが倒れ、寝ころび、馬乗りになられ、今まさに首を絞められている状況、サスペンスドラマで犯人に襲われている状況ですね(笑)。この時、目の前にいる相手がすごく怖いです。でも、それは前後の方向、平面の「次」の問題です。相手は怖いのですが、それよりも前に、自分が崩れているわけです。
この時、先ほどと同じように、胸と背中を重ねあわせ、一枚の板にします。
実はこの時、すでに相手は体重をこちらの胸にかけているし、背中は全部、床についていて、体幹はぎゅうと相手と床でサンドイッチにされて、平面に近づいています。
体幹が平面になって動かなくなれば、今度は股関節と肩の出番となります。肘や膝を動かそうとすれば相手にそれを止められ動けません。身体が上の方向へ膨らんでしまうからです。
でも、この時、肩を体幹の平面に沿って回してみると、腕が動くことがわかります。脚も股関節を内側へと回しいれるようにすると動きます。いくら相手が動かないように抑えつけてきても動ける方向が自分にはある、とわかると逃げ道が出てきます。

床から肩と股関節が浮き上がらないように、さらに、身体が捻じれないように、肩と股関節だけを回していくと、自然と身体が浮き上がります。この腹筋で上がっているのではない力が相手には止めにくいようです。圧倒的に負けている状況であっても、難なく起き上がることができるのです。

何度もこれを実験すると、起き上がれることの方が普通になります。それが当たり前なのですから、もう、驚けません。この経験が「不自由」と「自由」の価値観を変えてくれるのです。
なにかをしようと思った時、いくつかの「壁」が出てきます。壊せるのなら壊せばいいんです。しかし、壊せないほどの大きくて頑丈なものに出会った時は考え方を見直すのです。そして、その時、その「壁」を嫌わず、ありがたいものとして考えます。壁を越して、一刻もはやく目的地に付きたい気持ちはわかります。しかし、壊れない壁と喧嘩をしても弾き飛ばされるだけです。壁を自分の動きを助けてくれるものと認めることで自然と、目的地へとたどり着けるのです。

大きな目標を作れば、いつも、目の前には壁があるかもしれません。でも、壁を見つけた瞬間、それによって勢いをつき、違う自分を見つける事ができます。目の前の敵は勢いをつけた自分に驚き、勝手に離れていってくれるのです。
天の神様は乗り越えられる試練しか与えない、と言いますが、なんとなく、それがわかってきました。衝突の前にぜひ、知っておいてほしいことです。

◆自由の次に欲しいのは衝突

今回は「次元」をテーマに話をしています。簡単に言えば、点、線、面、立体・・・と進んでいくものです。物理、数学の世界ではおなじみの次元ですが、現実の問題となると、あまり意識をしません。しかも、「身体」を見た時に、この身体が点になったり、線になったり面になるなんて考えもしないはず。
そう、私たちの身体は「塊」で「立体」なのです。
この章でもこれまでと同じように「身体感覚」を通してお話しますが、そんな意識を持たなくても多くの場合、自然と表現されているのが「立体感覚」です。

あれこれ言われなくても、自分は「立体」だ、とわかっています。ぶつかれば痛い、相手と自分は違う存在だ、それを感じられるのは、私たちがそれぞれ「立体的」であり、「塊」だからです。

塊と塊が出会えば衝突します。その際、より大きく、より硬いものが有利です。また、接触した際の「形」も大切です。立体的な運動を理解して、予測するという事自体は難しくないと思います。
ただ、あまりにも当たり前に思っているので、起こってしまったことに対してつい、あきらめも簡単に生まれてしまいます。自分をより大きく、より硬く、より強さを求めた時、なかなかその変化を手に入れることができません。理由は自分が強くなるのには大変な「努力」が必要だ、と考えてしまうからです。

少年時代であれば年月とともに身体は大きくなります。子供達が未来に対して不安なく、暮らせるのもそのせいでしょう。しかし、成長はある時止まります。骨の成長も20代半ばまで、と言われています。その後の成長は努力により得られる筋肉的なものになります。
この筋肉的努力が大変で、継続していく事こそ難しい、というのは皆さんご存じのはずです。

ここで、「次元」の話が役に立ちます。立体的な強さが欲しい時に、その前段階である平面的に整っていなければうまくいかないからです。

面の世界は2次元。横に広がりを持つ事に集中すれば敵である他者からは壊されなくなります。つまり、自分の考え方さえしっかりとしていれば自由でいられるのです。よく、思考は平面的、と言われます。これは計画をいくら練ってもうまくいかない、と否定的に使われたりしますが、考えの段階でうまくいっていないものを行動に移したらあっという間に行き詰るはずです。

設計図、計画が上手に作れるようになると今度は、実際に試したくなるのが人間です。計画の段階ではうまくいくに「決まっています」。そして、それを行動に移した時、たまたま上手くいってしまうこともあるでしょう。そんな時はなぜか、失敗したくなります。冒険したくなるんです。そう、3次元的、立体的な世界は「失敗」を学ぶためにあるんです。平面的な世界からみれば「失敗」はとても贅沢なものなのです。

本屋さんに行けばどんな困ったことに対しても答えをくれる本があります。それらを読むと、心が強くなります。これで大丈夫、うまくいく!、と。しかし、現実はそううまくいきません。それどころか、その確かな答えを生み出したはずの「著者」を実際に目にすれば全然、行動に移せていない場合もたくさん見かけますね(笑)。
これは次元が違うことから起こることです。もし、考えたことを考えた通りに行いたいなら、身体を平面的に使わなくてはなりません。しかし、実際には身体を平面的に出来る人は少ないので衝突が生まれるわけです。
そして、また、その衝突に対して答えを生み出す人が現れます。そして、流儀、流派がたくさん生まれます。

3次元的な見方は「塊」と「塊」が「衝突」すること、衝突できる、という事です。2次元的な中での他者との出会いは写真のようなもの。仲いいんです(笑)。
しかし、痛みも知りたい。きっと、世の中平和になったので、無意識が退屈さを嫌ったのかも。

衝突が起こるとどうなるか、この時、作用反作用の法則が働きます。叩かれた方も、叩いた方も「同じ」ように痛いのです。ただ、丈夫な方はそれに気付けません。丈夫だから、そのダメージが気にならないのです。
武道の世界で言うと昔から、がむしゃらになにかをたたき続ける、というような乱暴な稽古も見かけます。そんな練習、時代遅れな感じもします。しかし、これにも意味をつける事ができます。拳や腕が鉄のように固くなれば相手へのダメージも大きくなるからです。

身体を大きくし、体重を増やし、筋肉を鍛え、固める。この練習を良しとするならより硬い方、より重い方が勝ちです。そのために単純なトレーニングが思いつくかもしれませんし、実際単純にガンガン鍛えれば身体はそれなりに強くなります。
しかし、努力で得た力は努力をやめた瞬間衰えていきます。

トレーニングは「努力」以外に、「栄養」と「休息」も必要なのです。この三つがうまく回せていければ「成果」も期待できます。しかし、栄養を取り続けるのも難しいですし。休息だって忙しい現代では難しいです。ついつい、努力を「しすぎてしまう」事に。そんな時、決まってケガをします。ケガをする事が決められていたかのようです。

実はこの身体を強い塊にするのにも「次元」の考えが役に立ちます。
面を作る時にねじれを作ると倒れます。どうにかして、ねじれを作らないように「立体」を作れないか考えました。実は、努力なしで立体を作る方法があります。いくつかありますが、ここでは「呼吸」を使って立体化をする方法をお話します。

これから話す「呼吸による身体感覚の立体化」ですが、その前提にあるのは平面化がされている、という事です。最初の設計図の段階でうまくいっていなければ逆にそのうまくいっていない部分が際立って、「計画通り」崩れていきます。
崩れない平面が自覚できるようになると、すこし、余裕が出てきます。どんなに頭で自分は平面なんだ、と考えても実際にそれを変える要素があります。その一つが「呼吸」です。

呼吸は吸って、吐きます。
その動きが身体に前後の動きを作るんです。その時、意識をしていた平面の身体が前に行ったり、後ろに行ったりするのに気付きます。この前と後ろの幅、これが立体を作ります。

大きく吸い、吐ければそれだけ大きな厚みを持つ事になり、身体感覚的に身体は大きくなります。もちろん、見た目も体重も変わりません。ただ、雰囲気として、他者が感じる大きさは変わります。身体感覚は同じ場所でぶつかっている相手とは共有されるのだとわかります。
ルールのあるスポーツの世界ではどんどんこの感じは無くなっていますが、現実の社会ではよく見かけます。身体は大きいのに、小さく見える人、身体は小さいのに、大きな雰囲気を持っている人、こういうのを「オーラ」というのかもしれません。

機械が進化して大きな呼吸が必要でなくなったからなのか、だんだん呼吸が浅い人が増えてきているそうです。鼻呼吸ができず、口呼吸に頼っている子供もいるそうです。やってみるとわかりますが、口からでは大きく、長く呼吸ができません。つまり、身体を大きく立体的にするのが難しいのです。
そして、身体に平面が作れないで大きく呼吸をすると、呼吸だけで身体が捻じれ、崩れていくのもわかるはずです。呼吸の大きさは身体をどれだけ平面にしていられるか、によるようです。

呼吸の大きさを身体の大きさに使えるようになってくると武術的な動きも変わります。
相手と手を合わせた時、当然、身体と身体はぶつかります。通常、リアルな身体そのものの大きさの争いになります。しかし、この時、呼吸の力で前と後ろに身体を拡げておくことができると、触れる前から、相手の事がわかり、触れてからも、背中の方から重さが通って相手に伝わり、崩していく事ができます。

ただ、こうした技ができるようになっても、そこだけで止まってしまったら人生を豊かには変えません。どれだけこの身体を使いこなしても、機械にはかなわないからです。機械の進化は身体の立体化の「次」の話です。
機械を使いこなす際にもそれを使う「覚悟」として自分の大きさが大切になります。誰でも使えるのが機械の特徴です。その際、大きな成果を受け取ることになるわけですが、受け止める覚悟がなければ「自滅」をしてしまいます。

現代は努力なしに誰でも大きな力を得られる時代です。大きな成果だけが欲しい、と言ってもだめです。立体的な世界に存在すのは「作用反作用の法則」です。成果を得れば、ダメージもあるのです。ただ、そのダメージに気が付いていないだけなのです。そのダメージに対する認識を変えないまま成果だけを得ているといつか、そのダメージに崩される事になります。
こんなに近代的になった時代に武術や瞑想が必要だろうか、と考える人がいますが、身体を通して学ぶことを「先に」得ることができるのです。なにも知らないまま、世の中だけが進化をすると、「こんなはずじゃなかったのに」と、後悔するのは目に見えています。

ここで「ダメージの認識」を考えてみたいと思います。
立体的な世界では成果とダメージは等しくなります。しかし、ついつい、欲しい成果だけを考えてしまいます。この時、「無意識の覚悟」がカギになります。どんな人も無意識の中にここまでは許そう、という覚悟を持っています。当然、この覚悟が桁違いに大きければ大きな成果を得られます。
しかし、便利な機械や高度なサービスになれてしまうと、自分の身に起こるダメージを考えなくなってしまいます。無意識的に生まれる覚悟だけに振り回されてしまえば、自分の人生を運命だ、と決めつけてしまうかもしれません。

覚悟は意志の力との相性が抜群です。自分が強く覚悟をすればそれだけ大きな目標へとたどり着ける事がわかれば、人生を自分の思った方向へと舵を切ることができます。身体感覚を手掛かりにすればダメージ、という見たくないものの中に基準となるものが見えてきます。逆に考えれば、先に自分の身体に大きな負担をかけておけば、その後の行動を恐れなくても済むようになります。

ここで一つ面白い実験を紹介します。「加害者と被害者」という実験です。

1、肩幅で立ち、横から押してもらいます。
この時、押された人は被害者で押す人が加害者です。なにも悪いことはしていないのに押されるわけですから、生み出されるダメージに身体は揺れ、崩れます。この時の「感覚」をよく覚えておいてください。

2、次に同じように押されるわけですが、押される「前」に自分で自分の身体を押しておきます。もちろん、この時、動いてはいけません。ぎゅっと、自分の身体を自分の手で窮屈にしておくのです。実はこの時、すでに、身体は変わっているのです。
この状態で同じように押してもらって下さい。なにもしない時と比べてかなり、強くなっているはずです。
先に身体に覚悟をさせておくと、その後押されたとしても、それぐらいは何ともない、と頭は感じられるようになっているのです。

3、次に「誰かに」身体を締め付けてもらいます。想像できると思いますが、これはダメ(笑)。締め付けられた時点で心が折れます。さらにそこから押されるのですから最悪です。

これまでこんな実験を通して、身体の不思議さを追い求めてきました。気が付けば20年経ってしまいましたが、いまだにこの身体の可能性の底は見えません。そして、皆さんに伝えたいのは実験を通して見つかった身体の可能性はすでに、誰もが持っているものだ、という事です。努力も時間も必要ありません。
私は見つけるために時間を必要としましたが、もう、それはいりません。
ただし、それを信用するための時間は必要かもしれません。私が世界的に信頼されている人間ならその時間も短くてすむかもしれませんが、残念ながら、まったく無名です(笑)。
ただ、だからこそ、皆さんは皆さん自分の体そのものをまっすぐ見ることができ、信頼することができます。いったん自分の力で自分の可能性を信頼することができればその後はどんどん、加速していき、自分の中から勝手にアイデアがわいてくるようになります。

現代は自分でやらなくてもいい時代です。そして、それはこの先、もっと進むことでしょう。だからこそ、身体を見る稽古が役に立ちます。なにかと「目に見えない力」に憧れてしまいますが、この「目に見える身体」も相当強力です。この「目に見える身体」を信頼することができると、次の段階ではさらに、可能性を拡げられるようになります。ぜひ、もう少し、お付き合いください。

◆可能性を拡げるには許すこと

ここまで「3次元」、「立体的」までの話をしてきました。まだ「塊」としての話ですから、イメージするのもたやすいかと思います。
「次元」の話は3次元でとどまりません。4次元的な世界にもつながります。4次元という言葉を聞いた時、なにを想像しますか?ドラえもん世代の私は相変わらず「4次元ポケット」です(笑)。
実は漫画やアニメ、映画などですでに私たちは「4次元」という世界に親しんでいます。問題は4次元とはなんだろう?それを「身体感覚的に」実感することがこの章のテーマです。

自然の中で自然にそって生きていた時代はある意味、可能性にあふれていた時代です。ほんの少しの差で「生死」が決まるのです。自然と明日は「わからない」という事を受け入れるようになります。「わからない」というのは「無限」の可能性の事です。
ただ、機械を使い始めると、ほぼ、100パーセントでうまくいきます。進化すればするほど、失敗がなくなっていきます。
実際にモノを作り、組み立てる段階にはまだまだ失敗の余地が残っていますが、計算の世界ではほぼ100パーセント、正解を手に入れることができます。今というのはそんなすごい時代なのです。

なにかを成し遂げたい、手に入れたい、そう願った時、無意識から「自分にはできる」と決める事ができれば問題ありません。きっと、それは100パーセント手に入れられる事なのでしょう。失敗する、という可能性がないんですから。
しかし、私たちの頭はまだ、「わからない」のです。つい、うまくいかない事を「想像」することで、失敗の可能性を作ってしまいます。最初のうまくいかない経験が強く残り、次にチャレンジするときには「また」失敗するかも、と不安になり、失敗の可能性が高くなります。だんだんと、うまく行かせたい事なのに、無意識では「絶対無理」と決めてしまう事はよくある事です(笑)。

しかし、これは逆にすごいことではないでしょうか。無限に可能性をもつ私たちのはずなのに、絶対に無理を続けられるってトンデモナイ事です。稽古を通してわかってしまうのは、絶対に無理、というのは相当難しい、という事です。本当は100パーセント大丈夫、というのも難しいのですが、こちらはついつい、忘れてしまいます。しかし、100パーセントうまく行くはずがない、というのは相当自分を縛ります。どちらも、可能性としては「ある」とわかればまた、楽しくチャレンジをしていく事が出来ます。

ただ、どんなに頭で「可能性はある」と考えても、経験が付いてこなければ自分のものになりません。

こんな事が自分にできるだなんて!

この経験を何度も積み重ねていくと、だんだん、自分の事がわからなくなります。頑固な人はそれなりに時間がかかりますが、時間がかかった分だけ、その信念は強くなりますからご安心ください(笑)。

例えば相手と押しあった時、体格的に、筋力的に、年齢的に、技術的に相手の方が上だったとしても、ちゃんと、どこか一点、相手に負けないポイントは用意をされているのです。それを簡単に経験できる「身体」があります。「爪」です。相手に押されたとき、爪をしっかりと伸ばすようにして、その爪を相手に向かって差し出すのです。すると、それまでの自信満々の相手は一気に自信をなくし、別人のように弱くなります。

おそらく理由は「爪という道具」が機能したから。爪は自分の身体の中で一番道具に近いものです。この爪という道具は斬ることも、突くことも、ひっかく事もできます。そして、鍛える必要は全くありません。その鋭さを逃げることなく相手に向ければ相手は不思議とそれを察知します。おそらく、人間の本能にそれはインプットされているのでしょう。
鍛え抜かれた身体はちょっと突かれたり、ひっかかれたりしたとしても負けるものではありません。それなのに、爪がピタリといいところに入ると相手の心の中に「だめかもしれない」可能性を作り出すのです。
ほんの数ミリの違いが結果を変える可能性がある、これこそ、「身体で経験する」という事です。実際の問題として相手と押し合うなんて事は起こりません。武術を必要とする戦いの時代は終わりました。今はネットを通して、身体を使わないコミュニケーションの方が多くなっている時代です。
しかし、だからこそ、わずかに残った身体をちゃんと使わないと面白くない人生を送ることになってしまいます。ほんの何気ないメッセージ一つで心揺らされる時があります。その時、目の前に相手がいれば戦う事もできますが、この時の敵は自分の心の中に自分が作ったものです。
この時、心の中の敵に対してうまく向き合う、ほんの数ミリ違うだけで結果は違ってくるんです。自分の中に可能性が「ある」のか「ない」のか、決めるのは自分なのです。

 

◆座禅、瞑想、稽古のススメ

私は22歳の頃、甲野先生に出会い、この「身体感覚の世界」を教わりました。「感覚」という事を気にしなくてもたくさんの機械や、便利なサービスが楽に暮らさせてくれたので、それまでまったく意識したことがなかったのです。
20年前、私は衝撃を受けて身体感覚の世界の研究に引き込まれましたが、今、多くの人が「身体感覚」を失っているように思えます。当時はまだ、多くの人が自分の感覚を信じ、過ごしていたのではないかと思います。しかし、感覚以上に便利な仕組みはどんどん、感覚を信じる機会を少なくしました。世の中がうまく回っている時代なら機械に任せることもありかもしれませんが、便利な機械やコンピューター、新しいサービスも自分の将来を助けてくれない、とわかった時、不安がやってきます。

今、ヨガや禅、瞑想がブームだそうです。人はモノに頼れなくなると自然と「心」に興味を向かせるのかもしれません。断捨離というのはまさにそれを行動で表したものです。これまで苦労をして手に入れてきたものを手放す、それは決断のいる事ですし、行動力も必要です。

しかし、ブームに乗って始める事はできても、そこから「究める」事はなかなか難しいといいます。自分の心に向き合うはずの座禅や瞑想がいつの間にか資格になり、外に基準を求めるようになったらそれまでのものと変わりません。

甲野先生から教わった稽古はそのあたりの心の弱さをうまく助けてくれるようにできています。ポイントは簡単、正しいものはない、出来ねば無意味、一人稽古こそ上達のカギ、とするだけです。

稽古をしていると、これこそ真理だ!と興奮してしまう事と出会います。この素晴らしい気付きを自分だけではなく、たくさんの人に伝えたい、そう思うかも知れません。でも、それはゴールではなく、途中なのです(笑)。
その立派で確かな気付きがあっても、「必ず」うまくいかない事がまた出てきます。その時、自分の障害になったものをつい、排除したくなりますが、それを素直に認めてまた、研究を始める。それが稽古です。

「稽古は瞑想的」とよく話をしています。しかし、なにもしないわけではありません。常に、いろんな事を考え、工夫をし、今持っている確かなことを手放す準備をしながら身体と向き合っています。
それでも、やっぱり「瞑想的」なのです。身体はいつも、なにかと呼応して、反射、反応しています。その変化に気付かないから、気が付くと心もそれに引っ張られてしまうのです。稽古が進むと身体がどう反応しているのかがわかります。そのわかった事を受け入れられると過敏に反応しなくてもすむようになり、落ち着いていられます。

一般的な瞑想が「頭でわかる」事だとすると、稽古は「身体でわかる」事かもしれません。おそらく、何百、何千年前の瞑想は厳しい修行も共にした身体性の強いものだったはずです。いつの間にか、お手軽にリラックスのできるもの、となりましたが、生活自体が身体から離れてしまっているので、頭で作った自由はちょっとした身体へのストレスですぐに無くなってしまいます。
とはいえ、便利な現代社会をすてて山にこもることはもう、できません。だからこそ、自分の意志で、覚悟を持って、身体を「究める」姿勢こそ大切になるのです。
正しいことを教えてくれる人は山ほどいます。自分が追い求めなくても、誰かが見つけたことを聞いていればそれだけで十分、説得力のある話はできます。しかし、そのままでは自分の身体を通した「自分の経験」はできません。
先に歩いている先輩たちからしてみればちっぽけなものでもいいんです。とにかく、自分の頭と体と心で得た気付きをひとつひとつ積み重ねていく事こそこれからの世の中を生きていく上では大切だと思います。

カラダラボでは「一人稽古」を一番にお勧めしています。しかし、それはなかなか伝えにくいです。それでも、それがわかった時、自分の生きている時間のすべてが稽古になり、気付きを生み出すもとになります。
どんなに便利になっても、まだこの先、なにがあるかわかりません。なにもないかもしれませんが、あるかもしれない、そんな心配があるだけで、生きることは重くなります。
しかし、どんな時にも、この自分で大丈夫、と感じられたらもう幸せな人です。

まずは自分の身体に気持ちを向けてみてください。最初は目に映る「手の形」ぐらいしか見えないかもしれません。でも、それが「内面」をみる第一歩です。箸を持つ度、茶碗を持つ度、スマホをいじる度、身体に意識を持ってください。それがちょっとずつ習慣になればだんだん、自分の内面が見えるように、感じられるようになります。こんな日常生活も立派な瞑想になり、十分な稽古になります。
最初の一歩はわかりにくいと思いますが、それが1年、2年、10年続いた時にはあの時自分の内面を意識しだして本当によかった、と思えるはずです。

稽古に来ていただければそのお手伝いはしっかりやらせていただきます。ぜひ、お近くの講座、稽古にお越しください。

◆おわりに

身体がなにを感じているのか、それは本当にわかりません。今も、なにかを感じ取って、勝手になにか動いていて、その小さな動きが自分の気分を左右しているんだろうなぁ、と感じます。
この身体をなんとかしたい、そういう気持ちも確かにあります。でも、それはきっと無理。身体は無意識が形になったものなのかもしれません。

人間の脳は能力の数パーセントしか発揮していない、そう言われています。また、最近の研究ではそれは間違いで、フルに使っているんだ、とも言われます。
これ、私はなんとなくわかる気がします。どちらも正しいんです。
自分のやりたい事をそのままやろうとしても脳はうまく全部がそちらに向かわず、思わぬ動きをしてしまいます。結果的に全然働いていないじゃないか、といいたくなります。これ、身体も同じです。

なにかをやろうとした時、この身体でやるしかありません。でも、うまく動かないのです。すると、私たちは私の運動神経はない、と決めつけます。能力はあっても発揮できていないのですからそう思うのも仕方ありません。

そして一方、脳は常にフルに働いている、という考え方も実感があります。どんな出来事に対しても100%そう思えるからこそ、現実があるからです。
身体で言えばどんな「失敗」だって、身体がそこにあり、動いたからこそ、「失敗」が「創造」されたと考えます。
「自転車に乗れる」人は、「乗れない人」にはもう、戻れません。「乗れない」、「できない」人は身体がフルに働いた「結果」なのです。

この「失敗を受け入れる」事が上手にできるようになるのが稽古です。武術ですから「敵」が必ず目の前に存在します。その敵は私に「失敗」を経験させてくれる存在なのです。失敗する人は成功する人になれます。でも、成功している人が「同じ条件」で失敗する人にはなかなかなれません。失敗こそ入り口としてふさわしいのです。

しかし、世の中は失敗を嫌いました。なるべくなら勝ち続けたい、と。
ただ、それでわかるのは半分です。失敗を恐れる人になってしまうかもしれません。
気持ちのいい場所で、やりたいことを、やりたいように行うのはリラックスができていい気分になれます。しかし、その状況もいつか必ず「飽きる」のです。人間には終わりのない「欲」があるからです。
アロマを変えたり、音楽を変えたり、雰囲気を変えたり、いろんなものを変え、欲に応え気持ちよさを目指します。これも一つの自分探しですが、その方法は現代的な常識とあまり変わりません。目新しさを求めるのなら生活や仕事の中でも十分できます。

ぜひ稽古は「敵と共に」行ってほしいのです。自分の身体と精神を縛り付ける敵をちゃんと見つけて、それに自分がどう対応するのかを研究することは「楽」を求める現代的な常識とは逆なアプローチです。
反対側にあるもの、見たくないものの中にありがたいものを見つけられれば恐れはなくなります。心がきっと、広がっていきます。

この稽古録を書いている途中、熊本、大分で大きな地震が起こりました。天災は忘れたころにやってくるといいますが、本当にそうです。ただ、その「忘れている」のは身体で、頭では東日本大震災は当然、覚えています。
身体は忘れていますが、それはもしかして、前の身体を引きづっていない、という事かもしれません。
東日本大震災の時、生まれて初めて「これで終わりかもしれない」という恐怖を体験しました。未来がなくなる経験でした。しかし、私たちはそれを乗り越え、また新たな未来を作り、今に来ています。
今、また大きな地震が起こり、不安が私たちの心の中に生まれました。でも、大丈夫、まだ未来を作っていける、という強い気持ちがあるのを感じます。これは紛れもなく、「稽古」のおかげです。

一人一人、違う人生を送っています。弱い自分は多くの人が感じられることです。もし、そんなことない、自分は強い、なんでもできる、というのであれば、どうぞ、それでどんどん、みんなのお手本、ヒーローとして活躍してください。
私は稽古のおかげで、弱い自分は自分が作っていた事で、強くて力強い自分もいたのだ、と気づく事ができました。武術的な技は考えもしなかったことがやれるようになり目に見える成長をしましたが、日常生活をみれば、それほど変わりません(笑)。普通がずっと、続いているんです。でも、その普通を生活している時も、心の底には「人間ってすごいよなぁ」という気持ちで暮らすことができるようになりました。
苦手なこともありますし、嫌いな人もいます。むしろ、身体の感覚が高まり、そこに情報も入ってくると、心を揺らされる事も増えました。知らなきゃよかった事はたくさんあるんです(笑)。

でも、その瞬間にも「人間はすごい」という気持ちはなくなりません。むしろ、その嫌な経験があるからこそ、人間のすごさを改めて経験できる、というものです。

4月の予定はサイトで告知をした通りですが、こういう時だからこそ、ちょっと違う視点で稽古を見てほしいと思いましたので、急ですが、ゴールデンウィークを利用して稽古を行いたいと思います。
普段、道場では「一人稽古の会」としてとにかく「過ごす」という事を考え稽古しています。これは動いてもいいし、止まってもいいし、本や漫画を読んでも、食事をしてもいい稽古です(笑)。一見、稽古に見えずに、ダラダラしているように見えるかもしれません。でも、その時間も自分のものです。自分の時間を納得して使うための練習が稽古です。

4/29(金・祝)を浜松で、5/1(日)を名古屋で「出張一人稽古」として行います。時間を長く設定しましたので、とにかく稽古に浸って、稽古とはなにか、時間とはなにかを考えてみてください。

「一人稽古」ですが、もちろん、知りたいこと、体験したい技、動きがあればそれをぜひ
聞いてください。「おしゃべりだって稽古」です。私はコミュニケーションが苦手だったので身体の感覚を探る一人稽古が本当にピタッと来ました。なにをしていてもいいんですから。それまで、なにをすればいいのか、という事を考えることすら遠慮していた私ですが、初めて自分に出した許しがこの稽古だったのかもしれません(笑)。

出張一人稽古

開催日

会場

会場住所

時間、参加費など

4/29(金・祝) 浜松市福祉交流センター 浜松市中区成子町140-8

13:00-19:00【3000円】

5/5(木・祝)

訂正しました

名古屋緑道院

名古屋市緑区浦里4-202

13:00-19:00【3000円】

問い合せ:karadalab@gmail.com 090-5606-5648

お申し込みは下記のフォームをご利用ください。

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