神経の発見への覚書

標題の通り、「神経の発見」までの経過を忘れないうちに書いておこうと思う。

これまで、筋肉、骨、皮膚、重力に内観、少しずつ、自覚できる世界を拡げてきた。新しい世界が見つかるたびに、それまで苦労していた技がいとも簡単にできるようになったりするのだから、本当に不思議。

そして、もっと不思議なのはその新しい世界観はすぐに普通になる、という事。なぜ、これまで、それを知らずに生きてきたんだろう、と思う。わかってみれば、その新しい世界観はこれまでの自分の時間の中でゼロではなく、ぽつぽつ、と現れていた事に気付く。ただ、その瞬間を見逃していただけだ。

今日、書き残す「神経」についても全く同じことが言える。

神経がない人なんていない。しかし、大人になればなるほど、神経に従うよりも、考えて行動しているらしい。

一応、私は、あれこれ、「変な経験」のプロセスを経て神経の自覚へとたどり着いたけど、それが「ある」のは確かなのだから、「ある」と思って生活をちょっと丁寧に見直してみるとすぐに気づく事ができるんじゃないかなぁ、と思う。

 

では、手帳を見ながら、思いだしてみよう。

2016/5/21(土) 「可哀想の発見」

この日は甲野先生の浜松講習会。例によって、先生の話はほとんど聞かない(笑)。一生懸命に聞くと、どうも私はダメらしい。一緒の時間を過ごすことからの刺激がちょうどいいみたいだ。

いつも、最後の方に少し、手を合わせてもらう。その時はなにかを盗もう、という余裕はない。ただ、自分ができる最大限の感覚で先生の動きを受け止めるだけだ。この日、なんとなく「平面化」と「内観の傾き」で向かうのかなぁ、と思っていた。

しかし、いざ手を合わせてみると、そういう事は全部吹き飛び、その直前に気付いた事だけを頼りに、技を受けていた。

その「直前に気付いた事」とは、「可哀想」と思う、という事。これまで身体、カラダ、体と考えてきた自分からは考えられないことだ。

そのきっかけも甲野先生。先生が棒を取り合う際の微妙な手の内を工夫、検討されている様子をみて、自分もやってみよう、と試してみた。やってみるとわかるが、技のない単純な棒の取り合いは間違いなく力がぶつかる。素手同士の衝突は肌や筋肉が微妙に動き相手の隙をつくことができるが、固い棒はダイレクトに相手に伝わる。単純な押しだけで相手を崩す事ができるだなんて「想像もしない」事だ。

しかし、甲野先生はその「想像もしない」事をなんとかしようとしている。その姿勢が自分もやってみよう、と意欲、必然性をくれるのだ。

 

当然、最初は全く棒は動かない。動きそうな気配もない。つい、強く力を入れたり、集めたくなったりする。瞬間的に動き、相手の隙をつきたくなったりもする。でも、それでは意味がないのだ。ただ、普通に、押してその棒を奪い取りたい。

 

こちらが押して、相手が押し返す。10分か、20分、お互い正座したままでの工夫をしたと思う。ふと、「あぁ・・・、棒が可哀想だなぁ」と思ったのだ。

そう思った瞬間、押し返されていた棒がするするっと、相手に入り込んだ。

当たり前に止められていた棒が自由に動きだしたのだ。

この不思議な感覚に気付いてしまったので、その直後の甲野先生との手合わせもその「可哀想」だけになったのだ(笑)。

 

この「可哀想」は甲野先生の動きにはぴったりだった。理由は甲野先生の力強い体幹に手が道具のように使われているようで実に「可哀想」だったから(笑)。甲野先生の手に生まれなければ、この歳になって、こんな事はされなかっただろうなぁ、など、失礼なことを頭の中で想像し、技を受けた。これがなかなか良かったので、今後の研究へ希望が持てた。

そして、何よりの確信は可哀想を逆転されたこと。先生が考え方を変えた瞬間、それまで可哀想と思えていた先生の腕がそう思えなくなってしまった。それまで可哀想に見えてきた先生の手は先生の体幹によってより「大切に」使われているように思えたからだ。

可哀想と「思う」力はパワフルだけど、それだけに、それを「思えなくなった時」は大変だ。

それにしても、本当に、甲野先生からは学ぶことが多い。しかし、それまでなかったことを経験させてもらえるのだから当たり前なのかもしれない。であった人、それぞれが違う経験をするのだから、それぞれ、違う展開をもらえるのだと思う。ちょっと壁を感じている人はぜひ、手を合わせてもらいたい。きっと、良いことがある。

 

2016/5/24(火) 「爪の間」

可哀想と思う事によって棒を奪い取る遊びはずいぶん上手になった(笑)。こんな単純な動きにも上手下手はあるのだ。なにが上手になったのかというと、棒に「集中」すること、ひたすら棒を見ていけばやはり、可哀想と思えてくる。

集中するきっかけは甲野先生の稽古会のすぐ次の日に行えた稽古。棒に対して「声をかける」事で集中しやすいのでは、と教えてくれた人がいる。こういう感性はすごい。こちらがなんとなくやっていた事に対して工夫をしてくれるだから。

考えてみると、棒を手に持っている時は「触覚」、そして目で見ているから「視覚」は使っているが、その他の感覚はそれほど、効いていない。棒に対して「声をかける」というのは「聴覚」だ。棒に対して声をかける。その音を自分の耳が聞く。その瞬間、耳は棒に対して集中する。3つも感覚が棒に向かえばわずかな圧力も自分の事のように感じられる。可哀想、と思うレベルがこれで上がる。

 

ただ、可哀想、と考える自分があまり好きではない(笑)。多分、これは性格。好き嫌いの問題。これまで身体→心というアプローチをしてきたからかもしれないし、土曜日、甲野先生に最後に逆転されたように、心は移ろいやすい、とわかっているからかもしれない。なんとか、可哀想を使わずやれないかを探していた。

 

たまたま、デビルズスティックというジャグリングのような技をネットで見つけた。両手に持った棒で棒を扱う技だ。両手の棒で操られた空中に浮いている棒はまさに生きているような動きをする。その事から「間」こそ大切なのだ、とひらめき、自分の身体の「間」を探してみた。

そして見つけたのが「爪の間」。爪と指との間には間というなにも「ない」ものが「ある」。

爪自体は去年の暮れに見つけたもの。人間にとって道具のような存在であり、どんなに相手に攻撃をされても、信念を折らないですむ強いものになると頼りにしていた。それでも、その道具の存在が相手にばれていると、それを狙われる。爪に対して、より強い力で来られると爪は折れるのだ。秘伝としてヒミツにすればいいのだろうけれども、私の稽古は常に、研究、自分の一番大事にしている秘訣を相手に教えてこそ次の展開が開ける。

 

最近、爪の働きも普通になってきた事もよかったのかもしれない。「間」の事を思いついた時、目に入ってきたのが爪と指の間。その間からレーザーでも出ているかのように見えてきた。その間を可哀想と思ってみると、これがまた、いい!見えないけれど、あるというのはすごいメリットらしい。可哀想というのは心の問題だけど、爪の間は身体なのだ。これで、また、身体に戻れる(笑)。

 

2016/5/31(火) 「攣る」ことも楽しいことなのだ

デビルズスティックの動きと爪の間を考えていて、自分の手がどうにも動きすぎる事が気になった。ふと、攣らせてみたらどうだろう、と思いつく。一月ほど前、自宅で足が攣った際、関節のアソビが取れたことで頭が心配しなくてもいい、と思ったのを思いだした。なにがヒントになるか、本当にわからない(笑)。

とにかく、攣らせてみよう、と親指を下へと押し下げる。キューっと筋肉が緊張していくのがわかる。どんどん身体が不自由になっていく。その状態で刀を振り下ろしてもらった。自分がどれだけ不自由でも外から何かがくれば反応しなくてはいけない。今、頭の上には刀がある。足は不自由だが動かさないと、と思った瞬間、足が一歩出される。そして同時に動かすつもりのなかった後ろの足もついてきた。いつもよりも、シンプルに、迷いなく足が捌かれたのだ。

こういうドキッとする感覚は逃さない。行ったことは一つ、攣らせただけだ。もっと攣らせてみたら、もっといい動きができるかも、とあれこれ試す。動けないからダメではなく、動けないからいい、だなんて、想像もしていなかった。そして、大変なことに気付いた。

 

これまで、さんざん、甲野先生から教わっていたもの、トラひしぎやキツネの手、大和座り・・・それらは動かしすぎないために行っているとも言われていた。しかし、動かなさい事、不自由になる事を無意識のうちに嫌っていたから中途半端になっていたらしい。もっと素直であれば、もっと早く、このシンプルで迷いのない動きにたどり着けただろうなぁ、と思う。改めて身体を見ること、感じることは経験を積み重ねていくしかないのだと思った。

攣る、という動きはあまりにも「変」な動きだけど、不自由を楽しむためには必要な経験だったと思う。たぶん、年齢を重ねていけば自然と攣りやすくなると思う。加齢を嫌わない、楽しむ理由が一つ増えたのだから万歳なのかもしれない。

 

2016/6/3(金) 神経の発見!

火曜日に「攣る」ことの楽しさを見つけてしまい、ついついやりすぎたのか、翌水曜日、朝起きたころから手も上がらないし、首も痛くなった。どうやら背中が攣ったらしい(笑)。結局、一日、ずっと、攣っている感じで過ごした。それでも木曜日にはなんともなく動けるようになっていたから、あまり、気にしなかった。しかし、短期間のうちにたくさんの「攣り」を経験したのがよかったのだろうと思える発見をする事になる。

それが「神経」。

腕を攣らせた状態で手を持たせるとき、触れる「前」から相手の動きと同調している感覚があった。こちらの腕が攣りによって固くなり、迷いがなくなっているからだろう、と思っていたのだけど、あまりにも普段と感覚が違う。そして、その同調は相手にもあるようで、触れる前に崩れが始まっているのだ。

これはなにかあるのを感じてあれこれ試していて、出てきた言葉が「神経」。反射的にお互いの神経が反応しているように見えてきた。

 

これまで、筋肉から骨、皮膚と認識を拡げてきた。認識が広がると、相手との間にギャップができる。相手の知らない感覚で技をかければ嘘のように軽く技がかかるようになる。おそらく、どのジャンルの人もトップレベルの人は豊かな感覚で動いているんだろうと思う。ただ、残念なのはそれを才能という無意識に任せているため、ケガや加齢、調子の下落でなくしてしまう事。調子を落とした時、ついつい、科学的に確かだろう理論に救いを求めると結果はひどいものになったりするからだ。

相変わらず、私は「なにもできない」。お手玉やけん玉、二重跳びだってだめだ。でも、手を上げる、引っ張る、という単純な動きは上手になった。原理がわかったところまでは確実に身体は動く。その原理に新しく「神経」のレベルが入ってくることになりそう。

なにかをしようとする時、身体は動く。考えて動く時、実はもうすでに、神経的な身体は動いているようだ。神経の動きという流れができ、その上に筋肉などの動きの流れが合わさる。うまく合わさればいいけど、ずれると大変なことになるのがわかった。

 

相手の動きに対して、こちらは神経のレベルで合わせてみると、相手はその流れに乗れずに崩れる。これは骨と筋肉、筋肉と皮膚で起こっていた事と同じかもしれない。自分の知らない力の流れだからいいようにされてしまうのだ。多分、この神経の流れも自覚しだせば自然と受け入れられるようになると思う。それによって今までの技はすべて、レベルが変わるはず。

 

新しい世界が広がる瞬間は楽しい。しかし本当に、その新しい世界はすぐに普通になる。もちろん、ヒミツにすれば、「特別」は維持されると思うけど、それはあまり楽しくない。新しい世界をとにかく伝えて、さらに新しい世界を求める。それが私が得た稽古の楽しさだ。

 

 

一応、ざっと、「神経」の自覚にたどり着くまでのプロセスを書いてみた。毎回の稽古の密度がすごいので、その時々に参加してくれた方々からするとずいぶん端折っているのを感じられると思うけど、その辺りはご勘弁を。

おそらく、この「神経」の感覚もどんどん変わっていくと思います。変化こそ楽しみですので、気になったところはぜひ、遠慮なく稽古の際に聞いてください。私も忘れていた事をふっと、思いだし、助かりますので(笑)。

いい稽古をこれからもたくさんしましょうね。

 

カラダラボは自分の中の「興味」を大切にしています。 基本的に稽古は一回稽古制。義務感無しに稽古することで自然と、自分の身体を考えるようになります。 月に一度、半年に一度、年に一度でもかまいません。とにかく、ご自身の身体の事を考え、感じてあげて下さい。

開催日

会場

会場住所

時間、参加費など

6/8(水) 名古屋緑道院 名古屋市緑区浦里4-202

初心者10:00-12:00

常連10:00-12:00【3000円】

6/11(土) 浜松市福祉交流センター 浜松市中区成子町140-8

初心者16:00-18:00

常連16:00-19:00【3000円】

6/15(水) 掛川市 竹の丸 静岡県掛川市掛川1200-1

初心者19:00-21:00

常連18:00-21:00【3000円】

6/22(水) 名古屋緑道院 名古屋市緑区浦里4-202

初心者10:00-12:00

常連10:00-12:00【3000円】

6/23(木) 古瀬戸公民館 愛知県瀬戸市西拝戸町16-10

初心者10:00-12:00

常連10:00-12:00【3000円】

6/25(土) 名古屋緑道院 名古屋市緑区浦里4-202

甲野善紀先生講習会

常連14:00-17:00【6000円】

7/2(土)

大垣市興文地区センター

大垣市東外側町2丁目24

初心者18:00-20:00

常連17:00-20:45【3000円】

問い合せ:karadalab@gmail.com 090-5606-5648

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