日曜日に少林寺拳法の大会があった。少林寺拳法では単純な勝ち負けでの順位はつけない。技の構成を二人で決め、それを繰り返し練習し、磨く、そしてそれを表現し採点してもらう。「演武」という方法だ。
勝ち負けを競うスポーツに比べると採点方式なのでわかりにくい点もあるかもしれない。物足らない、という人もいる。しかし、やりこんでみると、単純に勝ち負けを競うものよりも楽しい部分がたくさんある。そして、それは一時の勝ち負けの楽しさで終わらず、生きていく強さに変わっていくものだ。そういう話はまた、別の機会でするとして、今日は大会参加を通して気づいた「壁を乗り越える話」をしようと思う。
子供たちが出場、私は裏方。いつも大会ではこんな感じ。そして、これが結構堪えるのだ(笑)。自分だけの問題であれば、練習、稽古をすればいい。練習が足らなくて未完成なままなら、足らない練習をしてしまった自分の責任、考えを改めてまた練習すればいい。
でも、指導者として子供たちに接しているとき、まず、やる気を持ってもらわなくてはいけない。そして、長い練習の中でそれを持続させ、大会に向かう。当然、大会が終われば結果がでてくる。
自分だけの問題であれば、出てきた課題をクリアしていけば良いのだけど、指導者としてみると、単純に答えは見つからない。たとえ大会で成績がよくてもそれが大人になったとき、生きていく強さになるかどうかをつい、考えてしまうからだ。
でも、それは「当たり前」だったのだ。
答えは一つではなく複数あったのだ。それが、今回の大会を通してわかった。人それぞれ、必要なものが違うのだ。
五行思想というのがある。この世界、宇宙は「木火土金水」という流れの中にある、というもの。それと自分の問題とがぴったりと合い、必要な事がわかった。今日はその五行に当てはめて「壁を乗り越える力」としてまとめてみたいと思う。
大会に結果を残したい、そう思って出場していても、実際に結果がついてこない場合はよくある。むしろ、ほとんどの選手はそうだ。優勝というものが一つしか無い以上、その他大勢はみんな、期待した結果を得られない。
この結果は「金」にあてはまる、形あるものだ。実力とも言えるかも。この実力を高めるにはなにが必要なのかといえば一つ前の要素である「土」だ。
「土」にあたるのは「努力」、練習時間。練習なしに実力がつくことなどありえない。勉強なしに学力がつかないのと同じ。
ただ、その努力に「陰と陽」があり、多くの場合、努力が実を結ばない方へとむかっているんだ、と気づいたのだ。
実を結ぶ努力とはそれを行っている間、がんばっている気持ちは微塵も浮かばない。ただ、楽しいからこそ、その事をずっと、考えてしまうのだ。学校の勉強は嫌いだけど、ゲームの勉強は楽しい、って事。そして、この時、ゲームの勉強は勉強だと思っていないはず。楽しいからこそ、続くのだ。「覚える」「身につける」という点では同じなのに。
勉強もゲーム感覚になれば楽しく続くかもしれない。勉強をしていく事で手に入れられるものを先に考えてみれば、楽しくなり、向き合い方が変わるかもしれない。
とにかく、「がんばり」という「努力」の前に「楽しさ」、これをしていれば間違いないという「明るい未来」が無くては実力のつく努力はできないという事だ。(無理をすれば体や心が病んでくるから、正直である。)
この時、もう一つ大切なことが。それは結果を求める「欲の強さ」だ。
現代っ子は生まれた頃からすべてを手に入れている、といわれる。欲しいもの、なりたいものがない、という子も少なくない。
欲張ってはいけません、という教えが有効だった時代もあるけど、大きな視点で流れを見た時には欲の力も絶対に必要なのだ。
少林寺拳法では「自己確立」という目的を持って修行する。自己を確立するだなんて、大きすぎる欲だ。生きている中でその自己確立を実感するのには「これでいい」という基準がいる、スポーツでも、仕事でも、人間関係でもなんでもいい。ひとそれぞれ、目標を作り、自分の事を自分で認められるようになるのが大切。
もしかしたら、それは、自分勝手でわがままな自分になってしまうかもしれない。ひたすら自分の力、納得をもとめるのだから。
そこで少林寺拳法にはもう一つ目的がある。「自他共楽」だ。自分だけが強くなるのを良しとするのではなく、「俺もがんばるからお前もがんばれ」、と相手の事を考えるのだ。
スポーツの世界で考えてみると、これはありえない。相手の弱点を研究し、戦術を組み立て、勝ちを獲りに良くのだから。
開祖は「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という言葉でそれを言われた。頭だけで、うんうん、いい言葉だ、とそのまま流してしまうのはもったいない。これを身体を通して、実感として、確信する事こそ、自分が自分の人生を生きていくうえでは必要になると思う。大切なのは欲を認め、育て、大きくして行くことにある。少林寺拳法では「自己」の欲から「他人」の事も考えられる人へと育てている。そして、「半分は・・・」という言葉でやさしさもつけながら(笑)。
今回大会を通して気がつけたのは「自分の目の前にある壁をどう乗り越えていくか」、という事だ。乗り越え方がわからなくて、とりあえずがんばろう、という人は多い。もしかしたら「がんばれない」、という人は無意識の中でこの方法では実力が得られない、と思っているのかもしれないし、その実力自体を必要としていないのかもしれない。
仕事をするようになれば好むと好まざると、実力、結果を求められるようになる。今はそういう時代、社会なのだ。だからこそ、稽古、練習を通じて自分の力を信じて壁を乗り越えていく力を伸ばしていく事こそ、大切になるはずである。
実は「金」「土」「火」以外に「木」と「水」に関してもはっきりとわかった事がある。最後にそれをまとめて終わりにする。
結果、実力は「金」、それを求めるのなら自分の与えられた時間をできる限りそこに向かせればいい。努力、練習すれば間違いなく力はつく、これが「土」。ただ、いやいや努力をしても集中力は続かない。楽しく努力することが必要だ。この時、本人は努力をしている、なんて感じないだろう。それを可能にするのには自分が持つ解決法、勉強法、練習法に対して疑いがあってはいけない。明るい未来を探すのだ。
未来には明るいものと暗いものがある。自分の未来をどちらにするか、探すことが「火」。
しかし、探していると自分には暗い未来しかない、という諦めが生まれる場合もある。それを出さないように助けてくれるのが火の前の要素である「木」だ。木にあたるのは責任、役目、仕事、自分にはその価値がある、と認めること。自分で認めることができなければ、誰かからの命令でもいい。自分がその問題から逃げ出せないほどの「圧力」があれば、明るい未来を探し続けることができるだろう。
やってはいけないのは明るい未来を探す前にただ、命令のまま努力をしてしまうこと。追い越してはいけない(笑)。
そして最後に「水」。これは「運」を表している、「他力」と言ってもいいかも。自分に圧力がかかって逃げ出したい、と思ったとき、それを受け入れるのに必要なのが「運」だ。自分はそういう運命だったのだ、と考えてみる。これは決して「諦める」という事ではない、自分の周りには自分だけではなく、他人という存在がいて、自分の力に合わせて他人は動き、自分に帰ってくる、という大きな流れを教えてくれているのだから。
これで五行、「木火土金水」が一巡りした。実力(金)がつけば、他人はそれをほっとけない(水)。これが「運がつく」状態。考えもしなかった役目(木)をもらい、重荷だと思っても諦めず、明るい未来を探し(火)、それを十分に感じてみると、自然と身体と心は楽しいほうへと動き出す。四六時中楽しいことと向き合えるようになる(土)。すると、それにあわせて力はついてしまう(金)。
こういう循環があるんだ、というのが実感できた。そしてこの20年、私は知らず知らずの間にこのいい流れの中に居られたみたい。
明るい未来がどんどんなくなっている今の時代、明るい未来は自分の中にあるんだ、それをこれからも伝えて行きたいと思う。