カラダの中にたくさんの感覚があると言う事が分かってくると、自分の中から「気づく」事が多くなります。このカラダを通しての気づきと言うのはとても強力でゆるぎない「自信」の元になってくれるようになります。
「自信」が作られていく、しかもそれが無理なく大きくなっていくわけですから、すばらしい事・・・に思いますよね。ここに大きな落とし穴がありそうです。カラダから出てきた「ゆるぎない感覚」、教える側、伝える側に立った時にどうしても「押し付けて」しまいたくなります。
親切なように見えてもそれは行き過ぎると問題になっていきます。人の為だと思って善い事を「押し付けて」しまえば「偽善」となってしまうのでしょうか。
自分の中に自信を持つ事、それは自分自身の可能性をを認める事であり、自分が生きてきた道を認めてあげることですから、とても大切だし必要な事だと思っています。ただその自信がどこに根を張っているのかを考えなくてはいけません。本当の自信、というものがあるのかは分かりませんが、どんなに誉められても、非難されても、ココロを揺らされる事なく、少し冷静にそういう見方もあるよなぁ~と言えるようになりたいと思っています。
稽古をしてきて感じているのは、目に見える結果以上に工夫できる自分が育っていくことがうれしいという事です。甲野先生に出会う前、私は常に他人の目が気になってしまう人間でした。目立ってしまう自分が怖かったのです。その反面、野性味溢れる個性的な友人に憧れて形だけを真似していた自分もいました。とにかく自分がどうしていいのかが分からなかったのです。
技に憧れて甲野先生の稽古をはじめましたが、気がつくと自分らしさとはなんだろうと考え、工夫している自分を見つける事が出来ました。もちろん今の自分の中にも気に入らない部分はたくさんあります。ただその足らない部分も気がつけたことがうれしいし、次につなげていこうという気持ちが生まれてきます。
ついつい「結果」が伝えたくて、「形」を押し付けたくなりますが、その時はうまくいったとしても、自分の中から気づきとして生まれなくては一人で使えるようにはならないですからね。
つい「答え」を教えてしまうのは私自身の弱さだと思っています。甲野先生は「わかりやすい」ようには教えてくれませんでした。でも今ここに甲野先生からたくさんの事を学んできた自分がいます。これってすごいですよね。人に考えさせる、行動させる、気づかせる事ができるわけですから。
自分の中から気づいた事を自分ひとりで頑張ったんだ・・・と思っても良いでしょう。自由です。でもココロの声に耳を傾けてみるときっかけをくれた人や何かがあったと言うことが分かると思います。これを一言で「謙虚であれ」とは言いたくないですが、子供の頃いろいろと言われてきた言葉がすこし分かってきました。
やはりカラダという「正解」のないものに対して向き合える事が良いのでしょうね。どうしても学校の勉強では「一つの正解」に対してしか進めないので、自分の工夫の余地が少なくなります。そのために答えに対して一直線に進んでしまいたくなるし、人に対しても「親切心」でそれを押し付けてしまうのかな。稽古をしてきて、カラダを見てきて、回り道にも意味があるんだ、と思えるようになりました。