最近は「板」と「棒」を使った稽古をしています。
キーワードは何かといえばやはり「無心」という事になるんだろうと思います。
すこしまとめをしておこうと思いますね。
以前、甲野先生も言われていましたが「人がふと、なにげなく」する動きを再現したいわけです、意識的に。
「意識」をした時点でそれはもう「ふと」でも「なにげなく」でもありません。
そういうココロの動きはちゃんと受けをとってくれる人にはわかるはずです。
自分が「なにげなく」を言い張ってもメリットはありませんから、自分の弱さをしっかりと受け止めて稽古しましょうね。
さて、心の動きはこれまで日々の生活の中で何度も経験してきたはずです。
例えば、好きな人、好きな食べ物、好きな遊びだったり、逆に嫌いな人、ストレスのたまる仕事、怪我や病気もココロをうごかします。
この時、自分のココロの動きを意識で逆にしようと思っても、痛みは倍増するし、好きな人嫌いな人には余計気にしてしまってギクシャクしてしまった事ってありませんか?
この時、意識してしまったこと以上の事に気持ちが向かえば自然と意識していたものに囚われることがなくなります。当たり前ですが。
この当たり前の事を意識して行うことが難しい「と思っている」訳です。
どんなにケガが痛くても、目の前で火事があったり、車に惹かれそうになったりすれば「驚き」の方へと気持ちは向かいます。この時、痛みは意識できなくなっています。
好きな人からの電話であっても、目の前で火事がおきそうであれば、電話どころではありません。
つまり、大きな興味をもてる「なにか」を意識できるかにかかっているんです。
ここで「板」と「棒」の登場です。
相手に手を抑えられていると、どうしてもその手を意識してしまいます。自分を攻撃してきていますから当たり前ですね。この時、意識しない、といって横を向いていれば倒されてしまうという矛盾も武術にはあります。
この時、反対の側の手や足の下に板や棒を置いて触れておくと、気持ちが自然とそちらに向かうのです。
カラダが「なんだろう?」と「無意識に」探っていきます。この時、同じような板だったり同じ太さのマジックなどでは全く興味がわかないですから、やはりこの形や手触りでないとダメかもしれません。
よく分からない形、手触り、木だという事は分かっていても、なんだろうという疑問が生まれているのです。すると、抑えられているところの意識が薄れていくんですね。
目付け、目の使い方が大事といわれます。相手を恐れて、一点を見るのではなく、一点を集中するようで、しかも全体を把握するような目の使い方。遠くの山を見るような・・・とも言われますが、それをカラダの中の「無意識」でやってきるようなものかもしれません。
稽古のいいところは、何度も繰り返して感覚を確かめられるところです。
実践の場である生活の中でだけでは、どうしても気持ちに振り回されて、気づけません。
でも稽古は分かるまで、実験を繰り返すように研究することが出来るのです。
疑問を持ったらそのまま私にぶつけてください、一緒に解決していきましょうね。
※お知らせ
9/26の甲野先生の講座に参加される方には懇親会の案内を送付しました。
月曜までにお返事をいただければうれしいです。
ちゃんととどいてますか?