人は認めたように育っていく

こんにちは、山口潤です。
忘年会シーズンですね。お酒の入る席は実は苦手です。それは自分が飲めないから。相手は酒のチカラで強くなりますので、負けてしまいそうな気持ちが出てきてしまうんです。

でも、どうやら今年は違うみたいです。お酒が強くなったわけではありません(笑)。相変わらず弱いままみたいです。

それでも、これまでのように、気になる事が少なくなっています。一体なにが変わったのか。

考えられる事は視点。そして認め方。この二つです。
 
 
 
視点の方はこれまでも、少しお話ししてきました。相手の目線にたって、どう対応されれば喜んでくれるだろうか?というのを意識するようになりました。まだまだ、上手には出来ないものの、下手は下手なりに、相手の事を思い、対応すると、これが楽しいんですね。

これまでは、どうしても自分目線で、上手く人と話せない、と気にしてばかりでした。自分への不安ばかりが先に来てしまっていたんです。でも、そうじゃない、相手を楽しませる、喜ばせられる事ってなにかないかなぁ~と考える事が大切だったんだ、とやっと気づきました。。
 
 
 
そして、もう一つは認め方です。相手をどう認めるのか?という事が大切なのだ、という実感を得ました。
 
 
 
人は自分が認めたようになる、というような事を聞いた事はありませんか?

育児書などにも、子供はあなたが認めたように育って行く、だからこそ信じてあげなくてはいけません、と書いてあります。

そんなの当たり前じゃないか!という声が聞こえてきそうです。ただ、知識を実践していくのはやはり大変です。いつも僕は苦労してしまいます(笑)。
 
 
 
この子には無限の可能性があり、将来かならず立派な一人の大人になるはずだ。

と「アタマ」で考えても、朝起きた瞬間にゲームの電源を入れ、それに夢中になり、人の話しを聞けないような状況になると、「つい」、注意を与えたくなります。

これは、どうなんだ?自分は今、この子が将来立派な一人の大人になる事を信じているのか?

アタマの中に疑問が湧いてきます。
 
 
 
もちろん、ダメな事はダメだと注意をして導いて行くのが大人の役割です。しかし、この時の自分のココロの動きを見ていかなくては口先だけで信じている、と言っているかもしれないなぁ、と思いました。

これも「稽古」なんです。ココロの動きですから、もしかしたら外からはわからないかもしれません(笑)。しかし、ばれないからいいや、というわけにはいかないのです。僕には子供の「なにを」見ているのかがわからないで上手に育てていけるほど才能はありませんから。

だからこそ、不安な気持ちが出てくるんです。その不安な気持ちを隠さずに、稽古にして、常に問題として抱えていると、そのうち答えが生まれてきます。そういう経験を何度もしました。問題をもって、待っておく、これが僕の楽しく生きるコツなんです(笑)。
 
 
 
子供達の一体なにを見るのか?考えて見ましょう。

この問題を解決する方法はやはり「柾目返し」です(笑)。あらゆる問題を「片手で腕をつかむ」という問題に置き換えてしまうんです(笑)。

普段の稽古を言葉にして行きますから、途中、よくわからなくなるかもしれません。一応、「認識」という事がテーマです。覚えておいてくださいね。

今日は同じ柾目返しだとしても、珍しく握る側視点で考えて見たいと思います。
 
 
 
相手の腕をつかみました。この時、自分は「なにを」見ているのでしょうか?

質問自体がわからないかもしれませんね。でも、続けます(笑)。

一体なにを認めて、どこをつかんでいるのか?

当然、手首を認識して、その手首をつかんでいると思います。

これが普通であり、当たり前だと思います。

この時、相手が暴れたとします。つかまれた手首を振りほどこうと動きを始めます。どう思いますか?困りませんか?どうしようかなぁ、と。

そのどうしようかなぁ、という思いが先なのか、反射が先なのかはわかりませんが、暴れる相手の手首を認識して抑えるように、チカラを強めて握り込んでいくと思います。

困った状況をチカラで押さえ込んだわけです。いや、俺はチカラじゃなくて、技で受け流してみたよ、という人もいるかもしれません。ちょっと考えてみてください。この時、困りませんでしたか?暴れて困るからこそ、技でおさえつけてませんか?
 
 
 
武術の稽古は単純な勝ち負けでは行いません。この稽古は一つの「型」です。押さえこむ事が出来たからOKというわけではありません。思い出してください、認識の大切さを見つけるための稽古です。

柾目返しに落とし込むまえの状況設定は子供を認め続ける事ができるのか?というものでしたね。

今の状況は暴れる子供のどこを認めるのか?という事になります。暴れる事に困って、それをチカラや技で押さえ込んでしまったのなら、子供への信頼は消えてしまいませんか?

そこが気になってしまうんです。
 
 
 
暴れる手首、暴れる子供。それをどう認めて行くのか?変な稽古ですね(笑)。
 
 
 
この時、抑えている側がみているものは手首という実体です。その認め方があるからこそ、相手もその手首が実体として感じられるのかもしれません。自分が手首が「ある」と認めたから、相手にも手首が「ある」という感覚が生まれ、チカラがそこに集まってくると考えました。

わかんない~、という声が聞こえていますが、止まりませんよ(笑)
 
 
 
こう考えてみてください。そこに手首が「ある」のではなく、手首だけが「ない」状態を。

手首の部分だけがぽっかりとあいているような感じです。

パントマイムでは、カラダの動きだけで見事に目の前に壁を表現しますよね。「ない」のにもかかわらず「ある」ようにみえます。あんなイメージです。
 
 
 
手首をないと考えてつかんでみます。どんなに相手がそれを振りほどこうと思ってうごいても、実体としての手首を抑えてはいけません。手首では無い部分をおさえつけて行くのです。

すると、不思議な事に相手の腕がどんどん軽くなって行きます。腕の動かし方に変化が生まれているんです。なんて表現していいのかわかりませんが、なにかをしよう、という時の動きではなく、無我夢中になにかをしている時の動きになるんです。

こちらが、相手の手首がない、と認めたからこそ、普段意識をしては出来ない軽さを体験出来たわけです。

一度でもその軽さを身体で味わえば二度目三度目は難しくありません。難しいのは自分がまだ体験していない感覚です。まず、身体で覚える。とってもいい稽古法がみつかりました。
 
 
 
力ませない腕の使い方がわかれば、相手が自分の手首を「ある」と思ってつかんできたとしても、自分はあいての「ある」という認識に負けずに、動いて行く事ができるようになります。お互いの認識がずれている以上、ぶつかる事はありません。
 
 
 
子供の話しでした。暴れる子供がいたとします。身体を抑えて、動けなくしたとします。でも、抵抗されます。相手の身体を「ある」、と思って抑えているからです。当然相手も自分の身体は「ある」、と思っています。認識が一緒ですからから、ぶつかるんです。

この時、相手の身体を「ない」、と思って抱きしめます。パントマイマーになったつもりで。当然相手は暴れ続けます。でも、認識は負けちゃダメです。相手の身体が「ない」んですよ。

すると、こちらが「ない」、と思っている認識が移って行くんですね。相手も自分の身体が「ない」ような感じになるみたいです。結果として、普段チカラの入れやすい身体がなくなってしまいます。カラダが「ない」のですから、当然暴れる事が出来なくなります。

暴れる事を抑える事が出来た、というのが大切なんじゃないですよ。勝ち負けじゃ無いんです、今回のテーマは。

大切なのはこちらが相手の身体を「ない」、と思ったらそれが「伝わった」という事です。認めたようになったことが大切なのです。
 
 
 
この時抑えた身体ですが、なんとなく、その身体はイメージの身体のような気がします。実体としてのカラダ、イメージとしてのカラダがあるんじゃないかなぁ、というアイデアです。

イメージとしてのカラダ?
 
 
 
こう考えてみてください。大好きな漫画や本の作者。あったことも無いのに、作品を通してなんとなく、人となりが想像出来ませんか?

そしてその想像はどこまでその人本人を表しているんでしょうね。

写真や学歴、職歴など表面的にわかる事と、作品を通して感じた事。きっと、作品を通じて生まれるイメージとしての方がその人本人をよく表せていると思います。

そういう感性を持っているにも関わらず、いざ、身体を使う場面になってしまうと、そこにある実体としてのカラダにとらわれてしまうんですね。
 
 
 
おそらく原因は便利な世の中になりすぎて身体を使わなくなってしまったから。

でも、そこに文句を言っても仕方ありません。そういう状況の中で、なにを選択し、どう行動していくかです。
 
 
 
人は認めたように育っていく。大切な人だからこそ、信じて続けてあげたいと思います。
 
 
 
追伸です。
来年早々、甲野先生に名古屋で稽古を行っていただきます。
先ほど、申し込みのページを作りました。
興味がある方はお早めにどうぞ。

また、12月の定例稽古の日にちが決まりました。
いつも、直前の案内になってしまい申し訳ありません。
このままでいけば、今日お話したような「認識」の稽古になりそうです。

ご質問等あれば遠慮なくどうぞ。
jun@karadalab.com

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