古武術に学ぶツイッター

「循環」の話をもう少しつづけましょうか。

最近話題のツイッターを始めてみました。
色々と解説本が出ているとは思いますが、あえて勉強をせずに、まず、始めてみました。
小さいブログなのかな?そんな程度の認識でした。

いざ始めてみると、そこには、以前ブログを始めた時に感じた同じ気持ちよさがありました。

循環という事を考えている最中だったので、その点をからめてお話します。

そういえばミクシィの時にもそんな気持ちよさを感じました。
ただ、やがてその気持ちよさは、すぅ~と消えていったんですね。
なんだったんだろう、あれは?

ツイッターをやってみた事で、わかりました。

出してたんです。自分の中から。
初めてホームページを作ったときには全部、手打ちでした。
言語を覚えて、一つ一つ、作り上げていったんです。
その当時、更新するのは一仕事であり、作り上げたものはなかなか変えることはできませんでした。

その大変さがホームページビルダーのように作成ソフトがでるようになって、ずいぶんと軽減されました。ただ、それでも、毎日更新、とは行きませんでしたが。

デザインも含めて、気楽に更新できるようになった「ブログ」。
そもそも日記をなぜ、外へと公開するのか?
そんな事も話題になっていたと思いますが、確かな答えなんてあるはずがありません。
なぜか、何万人もの人が、わざわざ日記を公開始めたのです。

この時感じた気持ちよさの原因が「出している」事だったんじゃないかなぁと。
見返りもなにも無い状況で、まず、出す。
とにかく自分の中にあるものが日記という言葉を通して世の中に出て行ったんです。

出て行ったからこそ、入ってくるものがある。これが循環という自然の法則です。
結果として、言葉を外に出したところに、気持ちよさが入ってきたわけです。

ただ、この気持ちよさもいつの間にか消えていました。
最初、なんの見返りも期待しないまま更新を続けていましたが、いつのまにか気になる事が出てきたのです。

それは、「アクセス数」と「コメント」。

ブログのよさの一つでもある、コメント機能。
今僕はココログのコメントは使えないようにしていますが、このコメントやアクセス数など、出したものに対する見返りが気になり始めたのです。

どうせ出しているのだから、大きく反響が戻ってきて欲しい。そんなことを求めていたのだと思います。これ、出して無いですよね・・・。ブログを書く、という点をみれば「出して」はいますが、見返りのほうが大きくなってしまえばそれは「求めている」という事になります。

求めてしまえば、出て行くものがある。それが自然です。
いったい何が出て行ったんでしょう。
期待はずれのがっかり感や、更新疲れのようなものとして外へと奪われた様な気がします。
決して、元気が入ってくるわけではありませんでした。

同じような事がミクシィでもありました。「ミクシィ疲れ」として話題になった気がします。同じことをしているつもりがいつのまにか、真逆の働きをしていたわけです。

共に魅力満載で、自然とどんどんそれに参加し、結果的に自分からエネルギーを外へと出せていたわけです。無邪気に外へ出す事が出来ていた時には還ってくるものも、それをツールとして「目的」を持たせてしまった時が危ないのかもしれません。

だからこそ、次から次へと新しいコミュニケーションツールが生まれてくるのでしょう。

ホームページ→ブログ→ミクシィ→ツイッターと、どんどん簡単に更新が出来るようになって来ました。特にツイッターは「今」、アタマの中にあるものをとにかく残しておこう、という気持ちにさせてくれます。

誰にも内緒で始めたので、なんの義務もありません。
自分のつぶやきを見てくれている人もいるのですが、どう戻ってきているのかもまだよくわかっていないですから。このまま「よくわからず」使い続けていければおもしろいかなぁ、と思いますが、多分だめですね。わかっちゃうと思います(笑)。

ビギナーズラックという言葉がありますが、それも同じことなのかもしれません。
怖さや見返りを求める欲が無いからこそ、戻ってくるものがあるんでしょう。

出していくから戻ってくる、奪ってしまえば、出て行ってしまう。その法則をしらないままでは、どんな新しいものがやってきても、楽しみ続ける事はできません。人は学ぶもの、学んでしまうのですから。

さて、僕のツイッターどこまで続くのでしょうか(笑)?

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