アタマとカラダとココロ、カラダラボを始めるようになって、自分が普段稽古している事を少しずつ言葉にし始めるようになった。
その中で出てきた考え方がアタマとカラダとココロだ。自分と一言で言ってしまうけれども、じゃあ、みんな自分の事を知っているのかと言えば、結局だれもわかってはいない。もし、分かっている、といっている人がいれば、僕はその人を必要としないと思う。
甲野先生を師匠とし、これまで稽古を続けてこれたのは自分を探すための足跡をずっと見せてくれていて、その歩みが止まるどころか、加速をしているのを教えてくれたからだ。
自分、っていうのは、重いテーマではあるけれども、1つ、手がかりとなるものが見つかってくれば、それはそれは楽しい道のりに早変わりをする。今、とっても楽しく、幸せである。もちろん、辛いっていう気持ちが出ることもある。でもそれは「アタマ」が見せているトリックなんだと分かってきた。
アタマは自分の中の一番、元となるものなのかもしれない。ずっと、カラダを手がかりに稽古をしてきて、ココロの領域にも入り始めてきた。でも、伝えたかった事を「これ」と提示することはできなかった。なにがなんだか分からなかったから。
今、感じるのはアタマがスタートとなり、自分の人生に対して「見方」が生まれる、という事。この見方をどんどんと楽しい方向へと変えていくことが古武術を通して学んで欲しいことだと考えるようになってきた。
例えば、アタマは悪い、でしゃばり、だと思ってきた。でも、アタマが悪くてでしゃばりなのではなく、アタマは悪くてでしゃばりだという先入観がある、という事。この先入観はどこにでもあるし、また、ほとんど気づかないまま、それを固定してしまっている。
稽古、練習をしてもそう、自分には出来ない、大変だ、という先入観がある。この先入観のもう少し奥にはいやだなぁ・・・という思いがある。この先入観がある間は稽古に大変さを味わうことになるらしい。
稽古を通してアタマを変えるのだ。つまり、見方を変える。大変で嫌なものから、チャレンジできるものに変えてしまうわけだ。子供達はチャレンジが大好き、そんなアタマになればいいなぁとおもう。
同じ事を体験したとしても、その見方が180度違っていれば、受け取る経験は全く違ってくるだろう。だからこそアタマにたどり着くために、カラダを感じ、ココロを見ていくわけだ。
もちろん、カラダもココロも見ずにアタマに直接たどり着いて、自分の先入観をどんどん変えていく人もいるかもしれない。というか、人それぞれ、方法は全く違うはずである。だからこそ、同じ人間はいないし、同じ人生を歩む人はいない。ユニークなんだ。
古武術がいいのは、自分を考えるときにカラダとココロをちゃんとあわせて稽古が出来ると言う点。しかも、自分のアタマが作っている見方もそろって調和してこなければわざとして成り立たないように出来ているから。だからこそ、あんなに鈍かった僕でもこうして、楽しく自分という存在と向き合え、楽しく探して行くことができる。
奥の深い深い、古武術です^^