この話はどこかで書いたような気もしていたのですが、ブログを読み返してみると、どうも書いていないみたいなので、改めて書いてみる事にします。目を閉じるという話です。
上腕と前腕との役割の違いを通して、便利さと自由さを実感しました。「腕」を二つの部分に分けて考えてみて、「便利だけど、困る」部分と、「不便なんだけど、自由」な部分に分けることが出来るんですよね。この二つはケンカするのではなく、共に自分ですから、「自由であり、便利」を求めていけば良いわけです。
ふと、腕は触覚だけど、目にもそういう、「便利」や「自由」があるのかな?と思ったんです。う~ん、と頭を捻って考えてみて、ヒラメキました。そうか、目を閉じてみればいいんだと。
目を開けているとき、そこに見えるのはそれぞれの「違い」です。その違いを探すのに、私達は苦労をします。いや、違いを見つけてしまって苦労をするのかもしれません。でも、閉じてみた時には違いを見つける事はできませんよね。
ここで問題です。
目を閉じた時に見えるものはなんでしょう?
答えは「真っ暗闇」・・・ではありません。目を閉じた中に「光の濃淡」が見えないでしょうか?見えない、と思っていた世界に濃淡がある、という事に気づいたんです。ぎゅ~っとまぶたを閉じても完全な闇は作る事ができません。光があれば闇もあるように、明るい「方向」が見えてきます。
もし、目が見えなかったら・・・。「見る」という事がどういう事か分からなければ、一体その人はなにを「見て」いるのでしょう?全くの闇なんでしょうか?今、自分の目は外の世界に違いを見つけることが出来ます。そして、目を閉じてみないようにする事もできます。目を閉じる、というのは能力なのかもしれません。
でも、目を閉じた後に、周りが見えない・・・といって違いを探してしまえばなんにもなりません。目を閉じた時には違う物差しで世界を見なくてはいけないのです。
この光の濃淡と、上腕の自由さがピッタリなんですよね。
どういう事かと言えば、目を閉じた時には見ないようにしても、光を感じる方向と、闇を感じる方向が「見えて」しまいます。もし、目を開けていれば、どこへ逃げるか、なにをしようかと「迷って」しまう事が、光と闇の世界では明るい方向、闇の方向、と二者選択なんです。明るい方へ行きたいと思えば行けるし、暗いものを見て落ち着きたいと思えば行けるのです。
見ないことが見えない、ことではなく、違う選択、しかも強い信頼を持った決断をさせてくれるとは思いもよりませんでした。
考えてみると、子供は友達を明るさ、暗さ、そういうもので選んでいるかもしれません。大人になると、学歴、仕事、家柄、年収・・・いろんな違いで選んだりします。どっちもいいんです。自分の心にちゃんと信頼があれば。
まぁ、たまには目を瞑ってみてください。