【稽古日誌】記憶の変え方

子供の指が荒れてきて、痛い、という事なので病院へ。
今回は普段行く小児科ではなく、ちょっと脚を伸ばした先にある皮膚科へ行きました。
普段は任せきりなのですが、今日は午前中、時間のあった私が連れて行く事になりました。
 
こじんまりとしたクリニックの中はもうすでに、小さな子供でいっぱい。
これは、待たされる事もあるかもな、と思いながらも、新しい病院を観察してれば時間も過ぎるだろうと受付を済ませました。
その際に、4,50分は待っていただくかも・・・と、言われ着席。
 
子供はどうかな?と見ているともう、すでに、遊び場にて、おもちゃで遊び始めていました。
彼女たちには未来も過去もないのかもしれない。
ピダハンと同じ?なんて、思いながら、名前を呼ばれるのを待ちます。
 
 
 
3番目のチビはとにかく、社交的。私とはもう、正反対(笑)。
どこへ行っても、友達を作って、遊ぶ事ができます。
もう、悔しいぐらいに(笑)。
子供でもやはり、性格が違って、それぞれに得意分野があるみたいですね。
 
 
 
自分の子供の頃はどうだっただろうか?、と思い返してみても、幼稚園の頃の思い出が戻ってきません。
きっと、今よりは軽やかに動き、生きていたはずですが、記憶に上がってくるのは小学生ぐらいから。
 
そういえば、ちょっと前に記憶ってなんだろう?って考えてました。
きっかけはなんだったかな?
確か、膝を軸にくるりとまわり、剣をさばく動きを楽しんでいた頃だったと思います。
 
 
 
この膝を軸に動くという動きはこれまでの動きを一変させた術理です。
怖さがあっても、悩みや不安があっても、膝に乗る事で、くるりと身体を動かす事ができる動きです。
 
この動きが現れて、稽古をしていた時、ふと、あぁ、昔の事を思い出したんです。
子供の頃はこんな感じで軽やかだった・・・、と。
 
そして、その時、自分がポジティブからネガティブへと意識を変えた瞬間を思い出しました。
 
小学校3年生の頃、叱られ続けた事で、自分にはできる事と、できない事があり、できない事の方がはるかに多い、と気づいてしまったのです。
しかも、自分の考えている事をただ、表現する事にもおびえる様になりました。
 
 
そんな思いになった原因は当時の担任の先生。
当時はまだ、体罰というのが許される時代です。今では考えられないくらい、毎日誰かが、バンバン叩かれていました。 
あの先生が怖くて、萎縮したのが、自信をなくしたきっかけだな、とわかったんです。
ただ、同時に、その時の担任の先生(まだ、若い女性の先生でした)に対して、あぁ、きっと、彼女も大変だったんだろうなぁ・・・という気持ちも出てきます。不思議と許している自分がいました。
 
 
 
今、身体を観察する術を持った事で、自分の身体にある感覚がどんどんと広がっていくことを感じます。
この楽しさの元はなにか、と言えば、自分の中の劣等感、コンプレックスが次々に解消、いや、このコンプレックスの元はこのままでよかったんだ、という安心感です。
 
自分の頭が勝手に、判断をして、コンプレックスを作ります。
しかし、それは、全然そうではないんです。
むしろ、コンプレックスは意識の集中。
私は「好きなもの」はほとんどありませんが、コンプレックスとしてずっと自分へと集中してきたんだと思います。
 
 
 
依存、という言葉があります。
依存症というと、つい、悪いイメージが先行しますが、そうじゃないんです。
依存できるほど、意識を集中できる事がすごいんです。
なにかに依存できている人がいると、私はいいなぁ、とつい、思ってしまいますから。
 
今、私はこれまで、自分の内側に対して、自信がない、という集中をし続けてきた事が分かりました。
だからこそ、自分の中に見つかる新しい感覚に驚き、もしかしたらこの感覚で変われるかも知れないという期待が生まれます。
 
 
 
考えてみると、人はやがて死に、皆、老いていきます。生きているからです。
この老いに対して外から、薬を飲んだり、トレーニングをして筋力をつけたり、機械を進化させ、世の中を便利にして対抗しています。
おかげでこれだけの社会になりましたが、老いに対しての怖れは逆に、大きくなっているような気がします。
 
 
 
もし、薬がなければ、もし、機械が止まったら、もし、トレーニングをする事さえできなくなったら・・・。
自分が頼りにしているものはやがて、失われてしまうかもしれません。
 
 
 
武術が見せてくれるものは、もうすでに、自分が「持っている」ものです。
ただ、気づいていなかった感覚です。
自分の内面を変えずに外側をどんどんと進化させていくやり方は西洋人にはいいかもしれません。
しかし、日本人にはちょっと合わないかもしれません。
 
なぜなら、たくさんのものに囲まれ、自分だけが幸せになっても、本当の幸せではない、と感じるのが日本人だからです。
これは、内側に対しても同じではないでしょうか?
高度な医療で身体を治しても、内側にある弱さ、老いを認めなければ満足感が得られないような気がします。
 
 
 
時々、大きな病気を乗り越えた人と出会います。
病気は人を強くしてくれるのだ、と確信します。
私は大きな病気も怪我もなく、今まで生きてきました。
しかし、その分ずっと、自分の内側ばかり気にしてきました。
この内側への掘り下げ、まぁ、ネガティブってことです。
その性格がいまでは、よかった、と思えてきます。この性格のおかげで自分の中にある不思議な感覚、すごい感覚に気づけたのですから。
 
 
 
きっと、人は誰でも、どんな時にでも、幸せを感じられるんです。
子供たちを見ているとそう思います。
そしてそのために必要なのはなんだろう?
そこにきっかけをくれるのが武術です。
身体の感覚は老いません。歳を重ねるごとに鋭敏になっていくものです。
 
もしかしたら、記憶は身体に刻み込まれていくものなのかもしれません。
過去のトラウマ、嫌な記憶を嫌なものにしているのは、体に刻まれた癖、なのかもしれません。
その癖があるからこそ、感覚を広げていけるとなると、たくさんの経験をしている事は無価値ではありません。
経験というのは自分だけのものです。
その瞬間、同じ事をしても、人それぞれ、感じている事、受け取っている事が違います。だからこそ、個性ができます。
自分の経験を生かす方法として古武術を使う、というのもいいかもしれません。
 
 
 
あれっ?
なんだったけな、今日の話は(笑)
最初は病院へ行って、病気や怪我の治し方について書くつもりだったんですけど・・・。
まぁ、こんなもんです。これが自然です。
ありがとうございました。

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