目に見えない力ってあるんだ…

気がつけば6月。これほど、時間の流れの速さを感じたことはありません。
 
昨日、少林寺拳法の愛知県大会が終わりました。二つの道場を任されるようになっての初めての大会です。単純に指導する量は増え、さらに、数年ぶりに選手として参加する事になり、てんてこ舞いとはこの事か、と過ごしました。
 
形として残る結果はありませんでしたが、これまでにない気づきを得ることができ、嬉しかったです。誘ってもらわなければ絶対に参加しなかっただけに、感謝のしようがありません。
 
 
 
たくさんの気づきがありましたが、ひとつ、紹介させてください。きっと、他の誰にも理解されないような事です(笑)。
 
これまで、子供の頃からたくさんの大会に出てきました。その大会では予選落ちの時もありましたし、最優秀といういい結果で終われた時もあります。
ただ、どの大会も、演武が始まるとすぐに、頭が真っ白になり、周りの音が消え、アタマで自分を抑えることが出来なくなりました。
 
これまで、その状態こそ、集中できているのだ、と思っていましたが、同時に、その頭の制御の効かない自分が間違えた時にバラバラになる感じがイヤだったんです。
 
 
 
演武を失敗したとき、それが、ずっと、残るんです。求められている役割を果たせなかった自分を無意識に責めているような、そんな感じです。
 
今回、これまでに無いほど、たくさんの失敗をしました。たった、一分三十秒の間に。
ただ、そのひとつひとつの失敗をしている間も私のアタマはちゃんと、自分の身体をずっと、見つめていられたんです。
 
間違えたからこそ、そこに感情が生まれます。その負の感情を活かしていこう、と意識をしつつ、動くことが出来ました。
 
 
 
終わってみれば、これまでとは違った達成感がありました。
これまでは、無事にやるべき事をやるんだ、という事に囚われていたのかもしれません。
演武のような決められた動きの中ではそれも、一つの目標になりますが、現実の世界にはそもそも、決められた事など、あるわけないんです。
 
特に私の人生はやり出してみると、失敗。それの繰り返しでした。
ただ、甲野先生に出会い、どんなときにもこの身体を見続け、稽古する楽しさを教えてもらい、結果として、常に自分の体から生まれてくる問題を課題として受け止め、成長するためのきっかけにする事が出来たと思います。
 
 
 
この先、また、きっと、うまく行かない事に出会うこともあるはずです。
しかし、今度はそのうまくいかない状況であっても、自分をしっかり見守りつつ、体に任せることが出来るんじゃないかなぁ、と期待しています。
 
 
そうそう、そういえば、早速、この大会で軽い肉離れをおこし、今、満足に歩けない状態でした(笑)。ただ、その痛みがあるおかげで、ドンドン思いつく事があるんです。
 
 
 
例えば、つい、先週、それも、大会前の練習を終え、これで大会に臨むぞ!と終えた後の大人の武道塾での稽古で初めて、目に見えない力をこの手のひらに感じてしまったんです(笑)。
自分の身体が素早く、そして、ブレのないまま動けたとき、自分の気持ちと言うべきものが、そこに残っている感じなんです。
 
 
 
こうして言葉にしてみると、とんでもなく怪しい技に思えますが、この手に感じるものは何度やっても生まれてくる確かなものなんですよね。
 
 
 
ひょいと手を上げてみると、さっきまで手のあった場所に軽く溶かしたような粘土があるんです。もちろん、そこに目に見えるものはありません。ただ、あるようにかんじるんです。
その少し溶け出した粘土を手に取り、相手に塗りたくるようにすると、目の前の相手がそれまでの敵ではなく、自分のもの、自分の一部、自分の仲間のような気がしてくるんです。
 
 
この技(と、呼べるものなのかはわかりませんが…)の一番のメリットは相手になにかをする、というよりも、自分の中の気持ちの変化です。
それまで敵にしか見えなかった相手が仲間に見えるんですから。
 
仲間に見えてくると、なにが起こるかといえば、触れたときに身体に緊張が起こりません。
相手を動かすために触れてみると、もちろん、相手は他者ですから、自分の無意識の中に彼は他者なのだから、素直には動かない、という観念が生まれます。
この観念があるおかげ、どうしても、動かないモノを動かすんだ、という力みが生まれるんです。その力みは相手にも伝わり、結果として、そこに衝突ご生まれます。
 
 
 
しかし、気持ちの粘土を丁寧に相手に塗った後では不思議と、その他人感が生まれないんです。
相手に触れた瞬間も、自分のことを理解してもらえている幼なじみに触れている感覚がするんです。
 
 
 
この技を実感してみて、思い出した事があります。
甲野先生は昔、ご自分の技のポイントを馴染むこと、ショックを与えないようにフェードアウト、フェードインさせる、と表現されていました。
 
馴染む、という言葉、これは、すごい言葉なんです。
考えてみると、私に手に馴染んだものはありません。愛着のあるものも、昔懐かしい場所なんかもありません。
馴染む事がわからない人間が馴染むように技を行うこと自体無理があったんです(笑)。
 
 
 
今、この手に気持ちを感じる事が出来るようになりました。スッと手をあげ、すくい上げるように気持ちを取り、苦手に思えるモノ、人に対して与えてみると、自分の緊張感が薄れていくのを感じます。
 
 
昨日の大会でも、スッと手に取り、コート全体に広がるように伸ばしてみると、そこがホームグラウンドのような安心感があるんです。
その感覚もこれまでになかった事なんです。
 
 
 
今の時代、治すよりも新しくものをかったほうがやすくつく場合も多いです。また、これだけテクノロジーが進化してくると、常に新しいものに触れている事の方が多いかもしれません。
 
新しいものがダメなのではなく、新しいものにばかり接することで自分の中の愛着を持った時の感覚に出会う経験が得られないかもしれない、そう思いました。
 
さらに、子供たちに関して言うと、彼らは私たちが子供の時以上に「情報」をものとしてとらえています。情報は壊れず、コピーの容易なものです。だからこそ、共有意識も広がってきたといえますが、気持ちを外に感じる経験は絶対に必要です。
 
 
 
甲野先生に出会い、手に入れる事が出来るようになったのは、自分の身体を掘り下げていくと、どんな答えも得ることができる、という事です。もちろん、すぐに、ポン、と出るわけではありません。しかし、自分がずっと、抱えている問題が新しい身体の感覚に出会うことによって、解決してしまうんです。
 
 
 
先日、この身体を通してのアプローチの仕方は瞑想そのものではないか、と気づきました。
今の時代に武術を…と言われてもピンと来る人の方が少ないかもしれません。
しかし、自分ともっと向き合いたい、と願っている人は数多くいるはずです。
そして、そのために瞑想や座禅をする人も。
 
しかし、無になる座禅、瞑想は求めて見れば見るほど、手に入れることは出来ないものです(笑)。
しかし、武術的アプローチは常に自分の中に集中を作り出してくれるものでした。
 
どんな環境であろうとも、自分の身体に絶対的な集中を作る事で、見えてくるものがあるんです。
多くの人が手探りで実感のない瞑想で迷っています。身体を通して、実感のある瞑想が出来るとしたら、どうですか?
 
 
 
また、時間をつくって、瞑想法としての活用法も紹介できればなぁ、と思っています。
 
 
 
やはり、一言では自分が頂いたものって表せません。きっと、甲野先生との出会いがそれぞれの持つ人生のテーマが刺激されるんだと思います。
 
今度、6/30(日)に名古屋で甲野先生の講習会を行います。言葉にならないからこそ、出会ったときの感動があると思います。この三時間の出会いがその後の何十年を変えちゃうかもしれないんですよ!興味のあるかたはぜひ、ご参加ください。
稽古日時:2013/06/30 PM2:00~PM5:00
稽古場所:少林寺拳法 名古屋緑道院(お借りするだけですので、直接の問い合
わせはご遠慮ください。)
会場住所:名古屋市緑区浦里4-202
参加費:6000円
問い合せ:karadalab@gmail.com
よろしくお願いします。
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