なにを目指して稽古するのか

 父親の影響で私は子供の頃から武道を稽古してきています。そのおかげで甲野先生に出会う事が出来て、身体の不思議さ、奥深さを経験する事が出来ました。身体の感覚をみながら手探りで稽古をはじめた頃と今考えている事はずいぶんと変わってきました。
 
  はじめて触れた「術」の世界に驚き、その「技」を身につけたくてモノマネをして、今日までやってきました。最初はつかまれた右手をどう上げるか、ずっとその事ばかりを考えていました。外から見ればまったく意味のない事のように見える事を永遠と稽古していたのです。そしてそれは今でも変わりません。
 
  だからこそ自分がどこに目標をおいて稽古しているのかを考えなくてはいけないと思っています。外から見ればただ「手を上げる」稽古も自分がそこにどんな事を感じて稽古しているのかで全く意味が違ってきます。
 
  どんなに強く抑えられたとしても、笑いながら楽々手を動かせる結果だけを求めてしまえば、それはただのデモンストレーションとなり、一時の喜びでしかありません。誰かと比べる事でしか自分の行動を認められないならば、学校で一番、会社で一番、売上一番といった今の社会の仕組みとなんら変わりがありませんよね、ただ形が武術に変わっただけです。
 
  私が甲野先生に惹かれていったのは、私のやっている武道が「自分とは」「生きるとは」「幸せとは」なんだろうと考えさせてくれるものだったからかも知れません。子供の頃から人として「当たり前」のことを聞かされてきても、現実社会を間近で見る頃になるとそこに「違和感」を感じるようになります。自分の武道が人としての完成を目指しているのに、お前はそれでも良いのか、と問われているわけです。
 
  なんとなくでは続けていけなくなったときに甲野先生に出会えた事は幸運としか言いようがありません。答えそのものは教えてはもらえませんでしたが、自分の身体でその答えを探す楽しさを教えてもらう事が出来ました。
 
  スポーツには必ずついてまわる「引退」という事。高校球児の憧れである「甲子園」はどんなに頑張っても高校生でなくては出場する事は出来ません。当たり前です。大切な目標にする事は出来ても人生を生きる事の目標にはならないですよね。自分だけの目標を持つ事をあきらめてはいけません。
 
  そのためには自分の中の常識という壁を壊していく事が大切な事です。自分にはまさかそんな事は出来るはずがない、そう言ってもう一人の自分がささやいてきます。自分を作っているセルフイメージを少しずつでも変えていけるとするとワクワク、ドキドキ楽しい生き方が出来ると思いませんか。
 
  今の自動車も飛行機も100年前には夢の中のものだったはずです。でも私たちはそれらを「当たり前」のモノとして認めていますよね。自分にできる事の限界を作っているのは自分自身なのです。形が残っていく機械ならわかりやすいですよね。「人間」の能力はほんの数十年前の事でも忘れられてしまうようです。
 
  祖父が生きていた頃聞いた話があります。若い頃、自動車がまだなかった頃毎日のようにリヤカーに荷物を載せて数十キロ離れた繁華街にまで商売に行っていたそうです。祖父が特別だったのではなく、その頃の人はそれが「当たり前」だったわけです。
 
  講座や稽古会で技を披露して誉められたとしても、今の身体のレベルが落ちてしまったからであり、両親や祖父たちであればきっと当たり前に経験してきた事ばかりだと思っています。この先時代が進みどんどんと身体の使い方は忘れ去られるかもしれません。身体の楽しさに気がついてしまった以上、その楽しさを伝えていく事が私の大きな目標となりました。

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