少林寺拳法の指導で、大学生になる門下生を相手に、彼らの攻撃を受けとめてみました。その攻撃で感じるのは「遠慮」です。その瞬間、あぁ、俺といっしょだ・・・と、思いました。昔の自分を思い出したんです。
子供の頃から、体が大きかったのと、自分は少林寺拳法をやっていて、ケンカをしてはいけない、と思っていたせいか(少林寺拳法は護身術なんです。)、攻撃が苦手でした。どうしても、相手に対して突く、蹴る、という事に対して遠慮が出てしまうのです。特に、顔面に対しては。だからでしょうか、突き蹴りの技よりも、投げや固めの技のほうに興味を持つようになりました。柔らかく相手を抑えれないかと思っていたんです。その遠慮が彼らの心の中にある気がしました。
考えてみると、今のこの時代に自分の全てをぶつけさせてくれるものはいません。大人が未来に不安を感じているからです。大人はバカだなぁ、と笑い飛ばして自分の力を信じて活躍しようとする子供がいても、それを邪魔する大人もいます。
自分の全力を知らずに、今の子達はいるのかもしれません。殴り合いのケンカは少なくなりましたからね。昨日の練習では、こちらが受け止める側に立ち、もっと、もっと、と誘導しました。どんどん、力が入ってくるのが伝わってきます。そうかぁ・・今、彼らに足りないのは、これだったか、と手ごたえを感じて帰ってきました。
大学生の時、素晴らしい相手に恵まれました。彼は私の全力を受け止めてくれたのです。自分が力いっぱい、気合をこめて打つ突きや蹴りもちゃんと、受け止め、返してくれます。少林寺拳法は相手を倒す事を目的にしません。競技はありますが、それはあらかじめ決められた技を演じるのです。だからこそ、演技のようになってしまい、本物らしさがなくなりやすいのですが、彼は自分の全力を受け止めてくれました。決められた技だったとはいえ、そこでは真剣勝負を経験する事が出来たのです。
家に帰り、「全力」という事を考えてみると、私にとって甲野先生は全力を受け止めてもらえる相手だったのです。武道の世界には師匠と弟子のカチッとした礼儀の世界があります。自分の持っている問題が大きいほど、なかなか素直に聞くことができません。もし、こうしたら・・・、こんな変化をしたら・・・など、とてもじゃないですが、聞ける雰囲気はありません。誰でも、出来ない自分を見せ付けられる事は嫌ですもんね。師匠にも出来ないと感じてしまうと、遠慮、してしまうんです。
・・・でも、甲野先生は違っていました。お会いしたときから、とにかく、私の技がかからないようにどんどん抵抗してもらっていいですから、とおっしゃったんです。そして、その言葉どおり、全部受け止めていただきました。
最初、それは「技」の限界についてでした。動きを通して、それまで誰にも不可能だろう、という状況ではどうするのですか?という疑問も実際に向き合う事で答えをくれました。技から入った信頼も気がつけば、自分がどう生きていったらいいのか、人間にとっての幸せとはなにか?という言葉にならない問いにも答えてくれたのです。さて、今この世の中に生き方についてどれだけの人が自分の持っている疑問を受け止めてくれるでしょうか?
今、テレビでは政治家が集まり、不信任決議案について討論しています。皆、立派な事を口にしています。でも、そこに行動が伴っている、と思える人はいません。本音と建前、という言葉があります。それが大人の世界なんだと、思い始めていたときに出会う事が出来たのが、甲野先生でした。
今、幸運な事に、甲野先生に直接疑問をうかがえる機会をたくさん得ています。しかし、その質問をする事はあまりありません。なぜなら、自分のこの身体に問い、そこで生まれてくる感情や考えに任せてもいいんだ、という事に気づかせてもらったからです。
さて、子供達にとって、私達大人は彼らの全力を受け止める事ができる頼れる存在であるでしょうか?形にならないからと言って、必要な事を見失ってはいけないな、と改めて、真剣に生きていこうと思いました。
いや・・・、まとまらない文章ですいません。