【身体解説】心臓について考える

身体のことをこれまでよりも丁寧に話をしていこう、と考えてこのコーナーを始めました。始めるのならなじみの深い指先からの方がわかりやすいかな?と、これまで、手のひらと、まず、お話をしました。書き出してみると、言葉だけでその感覚を全部残していくのは大変で、どれだけ書き出しても、まだ、不十分・・・という気持ちが残ります。実際に技を試してもらっている時には、このあたりの「感覚」という問題を身体に任せてしまっているかもしれません。
 
 
 
それでも丁寧に動かし方、その動きから感じられる事を言葉に残していくのは後から見直したときにも貴重な足跡になるかもしれません。すでにブログでは【身体操法の足跡】としてこれまで気づいて来たことを書き出していますが、あちらはとにかく「簡単に」伝えようとして残しているものです。
 
軽い気持ちで身体に興味を持ってもらうためにはあちらで、少し気合が入って身体のことを知りたい、と思った時にはこの超長文の解説コーナーで楽しんでもらえればと思います。このコーナーで先に感覚を「知って」、その後、技を体験したらどうなるんでしょうか?その辺りも楽しみです。講座、稽古で遠慮なく、気になったところ、わからないところを聞いてください。
 
 
 
本日のテーマですが、前回の終わりで次は「手首」をやりましょう、と言いましたが、今一番最先端の部分を残しておくのもいいなぁ、と思いましたので、予定を変えて、今日は「心臓」の話をします。
 
 
 
それにしても最初、心臓を気にして稽古しよう、と決めたきっかけはなんだったかな?まったく記憶がありません。普通の動かし方だけでなく、反射神経の動かし方がある事に気づいて、自分という存在が考えているだけの自分だけではない、と気づけたことも大切なきっかけだと思いますし、考えないで動く反射神経からみると真逆なんですが、上腕を「強く」意識して動くと、これもまた、これまで感じたことのない新しい自分だ、と次々に自分の定義が変わっていたこの時期だったからかもしれません。
 
 
 
自分ってなんだろう?なにをもって「自分」っていうのかな?そんな問いを強く持ったことが内臓へと気持ちを向わせてくれたのかもしれません。反射神経の自分、前腕の自分、上腕の自分。それぞれ、動き方も、動いている最中に生まれる感情、考えがまったく違ってきます。前腕のさらに奥にあるもの・・・それが内臓だったのかな。
 
 
 
自分の身体の仲にある内臓と言えばなんと言っても「心臓」です。お腹がすいたときの胃袋や息を大きく吸い込んだ時に感じる肺でもよかったかもしれません。呼吸する肺は意識をするとそこに不自然な感じが生まれてちょっと気に入りませんでした。胃袋はお腹がすいていればわかりやすいものの、いつも空かせておくわけにはいきません(笑)。そうなると、わかりやすい内臓はもう、心臓しかありませんでした。
 
 
 
この心臓もこれまで、ずっと同じ場所で動き続けていたはずなのに、自分の心臓がどこで、どう動いているのか「よくわからない」のです。胸に手を当ててどこ?どこ?と探してもなかなか「これ」という実感がつかめませんでした。
 
この心臓に「確実になにかがある」という確信があれば、どれだけわからなくても、それを自分で感じられるまで、絶対にやめないぞ!という強い気持ちが沸いてくるでしょうが、そこまで確信があったわけではありません。むしろ、上腕に「飽きたから次」という理由です(笑)。手がかりがつかめなければ、わざわざ苦しんで心臓を捜す理由はありません。結局、最初はなにもみつからないまま、終わってしまったのです。
 
 
 
それでも何かないかなぁ、と探し続けられたのは、まさしく甲野先生から教えていただいた「稽古法」のおかげです。その稽古法とは、今ある技術に頼らず、もっと働きのあるものを貪欲に求めていく稽古です。身に着けるために行う稽古ではなく、捨て続けるためにする稽古といってもいいでしょう。
 
特定の技術が大切ではないんです。完璧な技術ってあるのかな?私はまだ、見たことがありません。必ず、どこかで、今頼っている技術が使えない時がやってきます。その時、どう行動できるかを学ぶことが出来るような稽古の場を作りたいと思って、今、各地の稽古会、講座を作っています。
 
 
 
今お話している「心臓」の意識の仕方もこれまでとはまったく違う動き方であり、より相手の予測を超えて動くことが出来ます。なるほど、これは有効だ・・・という見方がある一方で、どうにかして、この動きを止める動きはないだろうか?と探しています。すると、不思議な事に、「次」が出てくるんですよね。【身体操法の足跡】はその足跡です。私がこれまで、手放してきた術理のリストです。ご自身のレベルに停滞感を持っている人にとって、この捨て続けるための稽古は法は最高の手助けになるかと思います。
 
 
 
やっぱり、横道へとそれてしまいました、いつもどおりです(笑)。理由はきっと、今お話したことです。身体の使い方そのものよりも、その動き方を通して感じる事を伝えたいと思っているからですね。しかし、それは目に見えるものではありません。だからこそ、求めてはいけないんです。結果として、そこにいかなくては・・・。では実際に必要な「行動」とはなんでしょうか?それがこれまで気づくことのなかった自分の身体の動かし方なんです。
 
 
 
では、改めまして、心臓に意識を持っていきましょう。
心臓を感じてみたい、と思いつつ、なかなかそこにはたどり着けませんでした。ただ、おっ?と思う瞬間があったんです。それは眠る前、布団の中での出来事でした。
 
 
 
じっと、横になり、身体を丸めるように眠ろうとしていた時、ちょうど胸の辺りにおいてあった手が導いてくれたのか、胸の奥にボン、ボン・・・と動くものが見つかりました。当たり前ですが、心臓です。
 
 
 
100メートルでも駆け出せば心臓はすぐにそこにある事を教えてくれます。でも、これは私には合いませんでした。心臓そのものが主役になってしまうと、冷静にそれを
観察することが出来なくなってしまうからです。その点、眠る前の心臓というのは、いつもどおりの心臓、むしろ、身体の奥でゆっくり、隠れている普通の心臓です。その普通な状態を観察することで稽古が一気に進みました。
 
 
 
心臓に意識を持っていくと、そこに動いているものを見つけられます。
ただ、この時はまだ、「私の心臓」であって、「私が心臓」ではありませんでした。わかりにくい表現かと思いますが、それが正直な感想です。自分ってなんだろう?と問いかけてみたときに、武術が教えてくれたのは、自分の意識をどこにおくかで、そのおかれている状況、世界はがらりと変わる、という事でした。
 
 
 
例えばこんな稽古でそれを実感します。
腕をぎゅっと押さえられてそれをまっすぐ、ただ、上げるだけの稽古です。
抑えられている手首に自分が意識を集中させられてしまうと、当然、その手を上げるのは苦労します。だって、相手はそこを抑えてきているのですから。
 
 
 
しかし、この時、指先が熱いものに触れた時の様に、反射神経が働くと、抑えられている部分はまったく関係ないように、手が飛んでいきます。ダメだ、動かない、という意識が自分の身体を縛り付けているからです。
同じ理由ですが、その意識を抑えられている手首から、自由な上腕に持っていき、手を上げるのではなく、上腕を動かし、上げる、と意識してみると、やはり相手からの抵抗は関係なく、上がります。
そんなことを繰り返していくうちに、自然と外からの抵抗は自分が作っている、という事に気づけるようになります。
 
 
 
では、「私が心臓」になったとしたらどうなんでしょうか?
「私の心臓」の内はもうなにも出来ません。なぜなら心臓のリズムはこちらではなんともなりませんからね。落ち着け、落ち着け、と言ってみても、勝手に心臓は自分の作りたいリズムで動き続けています。
私のであって、私の思いとおりにならない心臓を見てもあまり面白くありません。特に、大人は。大人は「コントロールしたい」んですよね。でも、子供たちを見るとそうではありません。彼らはまるで、自らの心臓に「振り回されていたい」ように見えます。
汗だくで走り回って、息を切らせているのはもちろんですが、あえて、やってはしかられること、危険なことをやっているように見えます。
その瞬間、彼らはなにを見ているんだろう?そう考えるようになりました。
 
 
 
心臓の鼓動はコントロールの外にあります。徐々に冷静に観察が出来るようになってきて、自然と考えが浮かんでくるようになりました。どんなにきつく抑えられたとしても、相手はこの自分の「心臓までは抑えることはできません」。じっと胸の奥に意識を持っていくと、どんな時にも自分のリズムで動いている心臓がありました。
 
 
 
あぁ、この「心臓には自由がない」んだ、と気づいたのは最近の事です。上腕の動きを通して、自らの中に子供のような自由な心がある事を知りました。そして肘先があることで、なにかをする工夫をしようと思う気持ちを持つことが出来ます。上腕には「自由」が、前腕には「選択」があったんです。
 
 
 
大人である自分が久しぶりに自由をたっぷり感じていたその時、胸の奥に見つかった心臓を見ると、そこに「不自由」があったんです。この不自由は徹底的です。手足を伸ばして動くこともできません。休むことも出来ません。起きている間はもちろん、寝ている間も規則正しく動き続けます。きっと、死ぬまでずっと、動き続けるはずです。あたりまえですね(笑)。
 
 
 
その当たり前を身体で実感し、心が軽くなりました。なぜかと言うと、これまで「不自由」という言葉に持っていた暗いイメージが綺麗さっぱり、飛んで行ってくれたからです。心臓にある不自由はコントロールが効かないという不自由です。望むことはなにもかなわないわけです。それでいて、ひたすら動き、働き続けています。その心臓も「私」です。不自由な自分がいて、その不自由な自分を受け入れる事ができたわけです。私が心臓になれば・・・。
 
 
 
技の話に戻します。相手は私を抑えてきます。力いっぱい、全力で。でもその私は相手から見える私。相手が見てくる私と私の見方がぶつかると、そこに衝突が生まれます。「力いっぱい抑えられた腕が上がらないのは、相手の見ているものと自分が見ているものが一緒だから」です。相手は腕が上がらないように抑えようとします。こちらが腕を抑えられて上がらない、と見てしまえば、上げるためには相当の苦労が必要です。
 
 
 
でも、いくらこの手を抑えられようが、私の心臓はずっと、動き続けるのです。その心臓のリズムに乗っていくと、自然に体全体にそのリズムから生まれた動きが波及していきます。そこに、相手の中に予想とは違う動きが入り込み、体勢が崩れます。結果として、上がらないと思っていたこの腕がふわっと上がっていくわけです。
 
 
 
これを横で見ているとき。見ている人が「なにを」見ているかで、受け取るものが違ってくるのはわかりますね。抑えられている部分を見てしまうと、どう動けば、相手の抑える力に負けずに、腕を上げれるのだろうか?と見てしまいます。もちろん、そこにもヒントになるような事はあるでしょうが、もっと構造は複雑なんです。心の問題もありますから。
 
 
 
とはいっても、なかなか心臓を見ることはできません。だからこそ、こうして、囚われない見方をしましょう、とお伝えしているのです。最初、私は心臓なんて・・・となかなかそこに興味を持つことが出来ませんでした。たまたま、興味を持つことが出来て、今、ここまで研究が進みましたが、これは一言、幸運だったからです。やっぱり、なにもないんだ、と研究を他に向けていも不思議ではありませんでした。
 
 
 
しかし、実際にこの心臓の働きに気づいてしまうと、なんと、ものすごいものがこの身体に入っているんだろう・・・と言葉にならない喜びがあります。心臓が意味するのは不自由といいました。別の言葉で言えば、規則性です。自分のまわりにどんな事がおきようとも、生きているうちは、この心臓はちゃんと、動き続けるはずです。イザという時、この心臓に意識をおけば、身に降りかかってくる困難も乗り越えられそうな気がするんです。強い、弱いという言葉すら入り込めない確固とした「自分」がいる事に気づきました。
 
 
 < br />そのための練習法、稽古法はないだろうか?と今、いろいろと探し回っています。今日お話できるのはまだまだ未熟な方法でしょうが、まずはみなさんの胸の中にも心臓がきっとあるからね、という事だけでもお伝えできればいいなぁ、と思い、無理を承知でお話を始めました。
 
 
 
心臓を意識する稽古としては今のところ、二段階です。一段階目は先ほどお話した、ドキドキ動き続けている心臓に気づく、という事です。私は出来ませんでしたが、走ってドキドキさせてもいいし、ちょっと恥ずかしいこと、無理だなぁ・・・思う冒険をやってみて、そこでドキドキしている自分を観察するのも良いかもしれません。私は眠る前にじっと集中する事で、動き続ける心臓に気づきましたが、なんでもいいんです。実際に聴診器を胸にあて、ご自分の鼓動を音として聞くのもいいかもしれませんね。
 
 
 
そして、第二段階。私自身、まだまだの状態ながら、技になったときの効果はこれまでとは一つレベルが違う感じです。
心臓を見つけられたら、じっと意識を集中して、その動いている心臓が私になるようにしてください。ポイントは「動かない」事です。なぜかといえば、動いてしまうと、心臓ではなく、手足、体、考えるというのも動きかもしれません。ありとあらゆる動きの可能性を取ってしまいましょう。すると、そこに、ボン・・ボン・・ボン・・っと動き続ける心臓になることが出来ます。
 
 
 
外の世界に対してなにかをしよう、という欲求がなくなると、より、自分がただ、動くだけの心臓になることが出来ます。この時、ふと、あっ、心臓って丸いんだ・・・と気づいたんです。もちろん、正確な丸ではありません。しかし、三角でも四角でも、星型でもありません。そして、ハート型でもないな、丸い、と感じたんです。
 
 
 
武術の世界では「丸」というのは特別な意味を持ちます。それまで、一所懸命自分の身体を丸く動かそうと工夫をしてきました。丹田という言葉を聞いた事がある人も多いと思いますが、お腹の中に丸いものができる感覚がある、といわれています。私も、これまで、その丹田を作りたい、意識したい、と思って稽古してきました。途中、丸っぽいものをイメージできるような工夫も見つけましたが、今感じている丸さとはレベルが違う感じがします。
 
 
 
以前は丸を「イメージ」していたんです。でも、それはあくまでもイメージ。お腹の中に丸いものはあっても、外の世界と接しているのは、この手足を持った人型です。しかし、私が心臓だ、と思えるようになって初めて、自分の身体は「丸」と確信する事ができました。
 
 
 
丸いものであれば、当然、動くことができません。ビー玉を想像してみてください。ビー玉はどうやったら動き出すでしょうか?ビー玉自体が自由に動くわけではありませんね。そうです、ビー玉が動くには、そこに傾きがなくてはなりません。ビー玉が乗っている「場」が傾くことによって、ビー玉本体が動き出します。
 
 
 
この感覚を身体で感じたんです。では、傾きを作るものはなにか?それが手足です。手足があって移動するのではなく、手足はあくまでも、丸い自分を動かすために傾きを作るものなんだろうと思います。子供のころ迷路の中をビー玉を転がして遊びませんでしたか?あの感覚です。この身体を動かすというのは、そう動かざるをえない状況を作ることが肝心なのかもれません。
 
 
 
どんな稽古がこれを感じさせてくれるようになるのでしょうか。今私がやっているのは正座のまま動くという稽古です。相手と向かい合って座り、相手に突きを入れるとします。当然、その間には距離があります。この距離をどうにかしなければ、突きは相手に当たりません。立っていると、「つい」、足を出してしまうんですよね。でも、正座という動きにくい形であると、その動きたい、という欲が消えていきます。残っている欲は手だけです。
 
 
 
この手の欲求を消す方法はまだ、見つかっていませんが、それでも、ビー球である自分を相手のところまで運ぶために、下半身のバランスを崩し、場を傾けることによって、転がらせる、という感覚までいけるかと思います。お試しください。
 
 
 
無理を承知に、今、講座や稽古で話をしている一番新しい身体の見方をお話しました。書いてみて気づきましたが、かなり、講座の中でお話している内容と近いような気がします。ブログを通してでも、この画面の向こうにいる人を感じられるようになったからなのかもしれません。きっと、それを感じているこの心臓の事がすこし、わかったからですね(笑)。
もちろん、講座や稽古では双方向でやり取りできますから、いいですが、このブログも双方向です。頂いた質問や感想を元に感じたことを書いているつもりです。わかりにくいところがあれば、遠慮なくどうぞ。
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