稽古の後にお茶会が出来る時があります。そこで話される話題は技の話から、仕事の話、子供のころ、学生時代の話、趣味の話、恋愛の話、お金の話、とにかく何でもOKなんです。つまり、ムダ話です。今日、そのムダ話こそが、大切なんだ、と雷に打たれたように気づきました!
技や術はドンドン進んでいます。突然出てきたような気づきも、時間をかけると、上手に説明できるようになってきます。「上手」とはしっかりとこの身体を意識して、手順化できる、という事です。つい最近は「心臓」から動く、「心臓」を主役にして、それが動く、というのをやりました。自分の中に具体的な感覚として心臓がそこにある、という事が出てきましたから、今、自分が動いている手順を示せばそこに夢のような技が生まれてきます。でも、それは自分が心臓という、これまで自分の中にありながらも見てこなかった部分を感じられるようになったからこそ、動ける手順です。
それでも、この新しく見つかった感覚を伝えれば、誰でも、その夢のような技ができると思っていました。いや、現実に、自分の中に「心臓がある」と感覚が生まれれば出来るんです。しかし、出来ているか出来ていないのかがわからないんですね。そこで、分かれ道が出てきます。稽古を続けるのか、やめるのかです。
この仕事を選択した事で、ご縁ができ、ありがたい事に、私の話を楽しみにしてくれている人がいます。その人たちにはちゃんと伝わるんです。その人たちは主に、初期のころからご縁が生まれた方たちです。今のジュツリに比べたらものすごく幼稚なジュツリだったにも関らず、そこに興味を持っていただけました。なぜ、稚拙な時の人ほど残って、今のようにはっきりとした結果が生まれるジュツリを受け取った人と深く、生きる事を語り合えないのだろう?と不思議に思っていました。
その理由が分かった気がしたのです。
大切な事は大切な事だと思っていた事ではなかったんですね。身体を通して見えてくるもの、それは意識化できなかった身体です。上腕もそう、心臓もそう、骨もそうです。まだまだ自分の身体には存在はしていても、意識化できていないものが山ほどあります。それに気づき、喜び、その感動を伝えようと、頑張ってきたつもりです。でも、その頑張りがダメだったんだ、と気づいてしまいました。
というのは、自分が大切だと思ったのは、この意識化できなかった部分としての身体です。その意識化できていない身体を意識するための動き方を主に紹介してきました。上腕であれば、上腕を掴んで、あえて、意識させて、その効果を感じてもらいました。意識をして動けば、結果は間違いなく、変わってきます。すぐに、「出来て」しまうのです。
しかし、これは長続きしない場合があります。意識化のお手伝いをすれば、意識できるものの、つい、また、忘れてしまうんですね。いつまでも、意識できる動きを続けるためにはそれを「しよう」とする意思が必要になってきます。だからこそ、型稽古には厳しくて、細かい手順が残されているんだと思います。
よっぽど、その技を求めているなら別ですが、ほとんどの場合、余暇の上で、学ぶ事が多いはずです。切実な問題としては捉えていません。つまり、それを身につけるための方法は分かっても、それをやりきれないということになります。
私は無名な存在ですから、わざわざ私についてきてくれる方は我慢してついてきても、なんのメリットもありません。本当に、感謝をしなくてはいけないのですが、私の話を聞いてくれるわけです。自分の中に聞いてみよう、という気持ちを持ってくれるからこそ、大切なお金と時間をかけて、会いに来てくれます。でも、それは「テクニック」を求めてではないような気がするんですよね。
先にお話したように、やる事は同じです。でも、やりたい、やるぞ、という気持ちがなければ、動く事をやめてしまうんです。ですから、最初にはこの人の話を聞きたい、と思ってもらわなくては始まらなかったんですね。「この人」が良く分かる事とってなんでしょうか?それがムダ話なんだと思います。
技の話は覚えればいくらでも出来ます。得意分野の話もできるでしょう。でも、興味のない分野の話やキライな事に対しての話、ありとあらゆる話題を通して、なんとなく、その人が出来上がっていくんじゃないでしょうか?そこに作られた、自分の中のその人が信用に当たる人であれば、その人が話すテクニックも壁を作ることなく、自分の中に入ってくるように思います。
とにかく、なんでも良いんです。無駄な話が必要なんだな、とわかりました。自分で自分を見ると、ついつい、この自分が気づいたこのテクニックをこの人に渡したい、と考えてしまいます。でも、その人はそんなテクニックは求めていないんです。自分が目の前の人を信頼出来るかどうかを無意識は探っているかもしれません。無駄な話、たくさんします。決めました(笑)。一緒に、お付き合い下さい。