【稽古日誌】今という時代だからこそ、古武術、少林寺拳法。

少林寺拳法を始めて40年近く。甲野先生に出会い、古武術を学び20年近く。いやいや、気がつけば、すごい時間が流れてしまったものです。
 
時々言われるのは、それだけの長い稽古をしたからこそ、出来ることがあるんじゃないですか?という事です。
 
まぁ、確かに「何々技!」のような手順を学ばなくてはいけないモノに関してはそうかもしれません。ピアノやコンピューターのようなものは扱うのに知識がいりますから。
 
でも、カラダラボの稽古では、その手順をそれほど重視していません。ただ前に手を出せるかどうか、抑えられている状態から動けるかどうか?ある意味、結果重視で稽古します。
 
 
 
結果重視というと、なんだか乱暴な稽古に感じるかもしれません。
私も甲野先生に出会う前、勝てばいいんだよ、という人に出会うと、そこに嫌悪感を感じて仕方ありませんでした。
しかし、古武術の稽古における結果というものは、まるっきり違っていました。
なにより、ルール自体がそれぞれ、お互いの暗黙の了解の上に出来ていて、その上で、なにが出来るかを追求していくものだったんです。
 
 
 
例えば、抑えられた手を上げる、とします。
力の強い人であれば、力の弱い人に抑えられても気にせず、上げることが出来るはずです。
でも、そこに、「いなし」や「ナイフ」が入ってくると状況は一変します。
それまで平気だった自分が一気に、困った自分に変わりますから。
 
この時、ナイフは使っちゃいけないよ、交わしたらいけないよ、というルールがあるとすると、どうしても、そこに甘えてしまうんです。
とは言え、抑える方にしても、ナイフを持ってきたら俺は強い!とはいえません。
なぜなら、相手が「より強い武器」を持ってきた瞬間、なにも出来なくなるからです。
 
 
 
自然と、古武術の稽古はシンプルさを求めていくように、人間の動きの根元を探していくようになるんではないか、と思うんです。
そして、この「知らずのうちに人間の根元を求めさせる」事が、少林寺拳法を修行していた自分にぴったりだったんです。
 
 
 
あまり知られてませんが、少林寺拳法は宗教法人でもあります。良くある宗教と違うのは死んでからの自分のタメにあるのではなく、生きている間に生きるとはなにかを追求する宗教です。
 
もともと、終戦直後の荒れた日本と自信をなくした人たちを助けたい、と願い、強くて優しい人づくりをしよう、と一人で立ち上げられたのが少林寺拳法です。
以来、延べで140万もの人が少林寺拳法の門をくぐりました。たった一人、5畳半の道場から始めたものが認められ、大きくなったんです。
 
その教えは自己確立と自他共楽。まず自分を認め、強くなり、その上で人を助けて、楽しくて幸せな世の中を作ろう、というものです。
 
 
 
ただ、高校生の自分にとって、その教えは矛盾でした。
自分を確立する。強いと認める。
…とはいえ、今、ここにいる自分はスポーツも出来ない、勉強しても成績の上がらない自分です。しかも、芸術的センスもなければ、あがり症で人前ではなせなくって。
そんな自分を確立するだなんて…無理!と思っていました。
 
また、強いものが弱いものを助けて豊かな世界を作る、と言われても当時の日本はバブルの絶頂。
もちろん、なにがバブルなのかもわからないままでしたが、明らかに子供の頃から学んできた理想とは違うんじゃないのか、と違うんです。
 
気がつくと、本音と建て前という大人の世界に少しずつ入ってしまっていたんだと思います。
 
こんな思いも「今思えば」ですから、当時は、一生懸命に考える事すらしませんでした。
ただ、やはり、ココロの奥に突き刺さっていたんでしょう。
子供の頃に感じてしまった矛盾を今、こうして、身体を通して、解決していけるのを感じると、幸せだなぁ、と思いますもん。
 
 
 
少林寺拳法は教えのある武道です。
まぁ、おそらく武道であればどこにでもその教えのようなモノはあるでしょうが、近年の競技武道をみていると、ドンドン建て前化しています。
個人的に信頼のできる師匠をえればそこから学ぶ事も出来るでしょうが、まず、その師匠に出会えるか、というと、現代ではなかなか、難しいかもしれません。
 
でも、少林寺拳法は教えがしっかりと、確立しています。
迷ったとき、自分の中に疑いが生まれたとき、気がつくと、少林寺の中で学んできた自己確立と自他共楽の教えが頭にあります。
そして、その教えが揺らいでしまったとき、迷いになることが分かりました。
 
自分の信じる心を試されるのが宗教です。
信じるところから始めるわけですから。
でも、その根本が崩れそうなとき、多くの人は武器を持ちません。
古武術による人間の根元への追求の仕方と出会ったことで、自分を信じるための武器を得たと思っています。
 
 
 
おそらく、人は信じたいモノを信じられる存在です。
だからこそ、お互いの信じているものがぶつかるんです。
そして、そのぶつかった所からちょっと、上に上がる、それが成長なんだと思います。
 
これだけの情報社会です。
ふと目にするモノ、耳にするモノがありますよね。そして、その中でちょっと、いいなぁ、と思うものがあるはずです。
ただ、いくら、それを自分がいい、と思っても、信じきれない自分に負けちゃったりするんです。
その時、自分が良いと思ったものを信じる力が少林寺拳法で求める自己確立です。
当然、もっと良いモノがあれば、今までのものを捨て、新しいものに向かえばいいんです。それが進歩ですから。
 
 
 
今、興味の中心は肌です。
ある人は幸せになりたいのであれば、肌に艶をだしておくだけでいい、と言い切ります。
とはいえ、そんな、まさか…と思うじゃないですか。
でも、肌に張りを持たせていると、自然とカラダ全体に張りが広がっていきます。
なぜなら、肌は一枚、全部、つながっているからです。
気がついていないだけで、私たちの肌はものすごく、情報のやりとりをし、それに対して、変化をしています。
筋肉や骨、内臓は体の中にあり、護られています。なにに守られているのかといえば、まさに、この肌。
この肌がまず、外からの刺激に対して、対応してくれているんです。
自分がこの自分の肌を信頼しておけば、もう、悩む必要も恐れる必要もないのに、つい、体の奥の方にまで、恐れをだしてしまうんです。
 
 
 
こんな事、どこにも書いてないし、学んだことではありません。
ただ、自分の体の事、つまり今なら肌ですね、それが少し、わかってきたことで、自分の中でどんな事が行われているのかが、分かってきたんです。
こういう感覚を確信、っていうのかもしれません。
誰にも分からなくても、自分の中に出てくる確かなものがあるんです。
そして、その確かなモノがあるとき、心は、それをより所にでき、安心できます。
 
自らをより所にする、というのも少林寺拳法の教えです。
なにかに頼れれば頼ればいいんです。
数十年前の日本では、それが経済だったのかもしれません。
ただ、多くの人が、今の時代、経済だけに頼っても幸せになれないぞ、って気づいてしまいました。
 
 
 
神田昌典さんという方が歴史は70年周期で繰り返す、と言われてました。
70年前は世界大戦、その70年前は明治維新です。
今、ちょうど、大変革の時期なのかもしれません。
物質的には、恵まれています。そして、情報的にも。
ただ、これだけ豊かになっても、心を豊かにする術を学んでいないんです。
 
今、私が行っている活動の全ては、自分のココロをいかに豊かにできるのか、という事です。
そして、そのための鍵となるのがカラダだったんです。
心身一如ってどこでもいいますよね。
でも、多くの人が観念だけで終わっています。
強烈にカラダから入っていくのが甲野先生の稽古法でした。
カラダがそれまでに感じられなかったほど軽やかに動いたとき、ココロも併せて軽やかになるんです。
 
 
 
肌の感覚に気づいて、私は寝たきりになったとしても、心に軽やかさを感じられる確信をえました。人間はいつ、どんなときにでも、かろやかで楽しくいられるんだ!って。
 
ついつい、いろんな事を考えて遠慮していたのも、今までの自分をよく、教えてくれて楽しいです(笑)。
これからは、遠慮を少しずつ外して行きます。
カラダラボの稽古、少林寺拳法への入門、お待ちしています。もちろん、少林寺拳法の再開も!
期待をまったく裏切らないのが私たちのこのカラダです。
この時代だからこそ、必要なものとも思います。
 
つい、熱くなっちゃいました。
いつもありがとうございます。
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