地面から跳ね返る前の自分

 カラダラボの活動として「わかる瞑想教室」と名前をつけて「稽古」している。
 
 実はやっている事、考えている事、意識している事、求めている事は「大人の武道塾」となんら変わりない。ただ、それでも名前を変えたのには理由がある。
 
 「自分」という存在を見て行くのに、入り口として「カラダ」なのか、「ココロ」なのかは真逆にみえるからだ。
 
 
 
 入り口は別々だったとしても、中に入れば、一緒なのは「心身一如」という言葉通り。しかし、それを口にする多くの人はなにが身体で心なのか意外にわかっていない。頭にばかり知識が入り、「わかっているつもり病」にかかっている。
 
 
 
 こんな言葉にするのは、私自身がそうだったから。
 自分の事だもん、わかっている!と思っていた。
 もちろん、口ではそんな大きな事は言わない。わからない、と謙虚でいながらも、無意識の中では疑問を持つ事無く暮らしていた。もし、自分の存在そのものに疑問を持ち、意識していたならば、それを気にする事、求める事無く暮らす事なんてできるはずがないからだ。
 
 
 
 先日、ただ「手をあげる」という動きの中にこんなにも「心身一如」があるんだ、と驚く気づきがあった。身体を研究することを仕事にまでしているわけだから、自分でも一生懸命考え、求めてきたつもりだった。それでいて、なお、こんなにも思い違いをしていたのか、という発見だった。いまだにうまく言葉にできないけど、こんなにもゾクゾクする気持ちを伝えられないのはもったいないので、無理をして言葉にしている(笑)。
 
 
 
 言葉にできない分は手を合わせて感覚を渡すことで許してもらうとして、まずは、今の時点で言葉にできる限りの事をしておきたいと思う。また、稽古、講座の時の参考にしてくれたら、と思う。遠慮なく聞いてください。
 
 
 
 「わかる瞑想教室」を通して渡したいのは、自分の意識を拡げていってもらう事。今、自分が考えている世界が身体の感覚を通してみてみるとどんどんと拡げていける事を伝えたいと思っている。
 今日の話はまさに、それ。ちょっとした技、動きの工夫ではなく、「自分」そのものの定義自体が変わってしまった、という話だ。普段、気にしないだけで、私たちの身体はたくさんの影響を受け、ここにある。時々、それが痛みや苦しみとして感情を通してあがってきてるけど、それをどんどんと潰して楽にしているのが今の世の中だ。
 
 
 嫌だな、と思う感覚を「手がかり」にするコツを覚えればこの先でてくるいろんな悩みや苦しみも怖くなくなる。人生を楽しむための武器として「稽古」を身につけてくれたらなぁ、って本当に思う。
 
 
 
 話を元に戻そう。
 「自分」という存在の話。気づいたのは、膝にかかる体重だった。
 何気なく立っていたとき、自分の膝に力が溜まっているのに気がついた。別に特別なことをしていたわけではない。ただ、立っていただけ。その何十年もしてきたであろう「普通の立ち方」が気になったのだ。
 
 
 
 膝にかかる重さが気になったので、元を正してみるか、と探し始めたとき、普段では気づかない「前」に気がついた。
 
 それまでは力の出所は足元、それも、足の親指の付け根あたりだった。そこに体重が落ち、立っていたのだろう。当たり前すぎて疑いもしなかったことだ。
 それが、その日、自分の身体が頭の先から「下へ」向かっている力をなんとなく意識することができた。
 その力が、「足裏」で「地面」と衝突し、上に上がっている。その上がっていった力が膝に集まっている事に気がついたのだ。
 
 
 
 この時、大切なのは「地面と触れ合った瞬間」だ。その瞬間、力む事無く、「地面と自分」は「同じ」になっている。くっついている感じ。
 地面に入ってきた力を跳ね返らせずに地面に流したままにしてみると、膝の重みがなくなってきた。この時の感じは自分の身体の重さをぜんぜん感じないほど、軽かった。
 それまで一度も感じたことのない軽い立ち方がそこにあった。
 
 
 
 その不思議な感覚を頼りにいったいなにが起こっているのかを探ってみてたどりついた答えが、先に書いた、自分という存在の見直しというわけ。
 
 
 
 それまで自分だと思っていたのは、地面から跳ね返ってきていた力を筋肉でぐっと押さえつける事で生まれていた自分。
 今回、新しく見えてきた自分はこの身体になる前の地面と一つになっている自分だ。
 
 
 
 言葉にすると怪しいけど、動き方もガラリと言うか、想像もつかないように変わってしまった。
 「この」身体をどうこう動かす、というのではなく、「この」身体の「下」にあった地面を「自分」として考え、その地面を傾かせる事で身体を運ぶ感覚が出てきたのだ。
 
 
 
 つまり、「自分」が「身体」から「地面」へと変わってしまったというわけ。
 
 
 
 自分でもなく、他人でもなく、周りにあった空間が自分にできるかもしれない、と今、ちょっと興奮している(笑)。
 というのは、仏教ではこの世界を「自分」と「他人」と「それ以外」、という3つの観点で考えたりするから。ただ、それを頭で理解することはできても、身体を通してそれを感じることなんて想像もしていなかった。地面は地面であり、自分はこの身体であり、疑いもなかったから。
 それが「それ以外」というのを身体で感じ、動きで表現する事ができる可能性がでてきたのだ。
 
 
 
 
 嫌な事に出会ったとき、つい、自己否定をするか、嫌な気持ちにさせる敵を攻撃してしまう。しかし、もう一つ、そういう状態になってしまった「場」がある、という事だ。
 今日の話で伝えたいのは、その「場」を動かし、自分の身体、相手の身体を動かすことができる、という点である。
 
 自己否定でもなく、攻撃でもない場合、「あきらめる」、という選択肢がある。もうちょっといい言葉を使えば「受け入れる」、という感じだろうか。しかし、潜在的な意識の中ではなかなか受け入れるって事は難しい。そういう時、身体には「力み」として無意識の抵抗が表れる。
 
 しかし、自分が「場」そのものになっている時、力みは現れない。なぜかと言うと、力みは地面との跳ね返りで生まれているものだから。
 
 
 
 もちろん、ゼロではない。むしろ、この地面と身体にあがっていく力みとの割合を変えていく事こそ今後の稽古の材料なのかな、と思っている。ちょっとした事で自分の枠は壊れ、意識は広がる。
 身体はなにも変わらなくても、意識が変わると、それまで困っていた事も、違う感じで見えてくる。人に頼るわけでも、薬や機械に頼るわけでもない。自分の考え方だけで見方を変える事が「できる」というのを知っていれば、いざという時、選択肢の一つとして思い出してくれる事もあるかな、って考えている。求めてみれば、ものすごく、大きな事を返してくれるのが稽古。もっと、もっと、欲を持って自分の観察をしていこうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 いやぁ、言葉にする事がこんなにも大変な発見は初めてかもしれない(笑)。
 でも、単純といえば単純なんです。当たり前に重力があり、地球と跳ね返って来ているんだから。きっと、無意識の動きはこの力によるものです。
 ついつい食べちゃう、なんて無意識の行動の元かもしれない、と考えると、興奮しないわけには行きません(笑)。おやつとお茶を用意して待っております。人間の奥深いところを雑談交えて楽しく、探っていきましょう。皆、そういう資格があるんですから。一部の頭のよさそうな学者さんにだけやらせるのはもったいないです。
 
 

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