7/25、26 甲野善紀先生の名古屋・浜松稽古会報告 後編

連動・シンクロで気配が消える

まさか、こんなにも長くなるとは思いませんでした(笑)。

しかし、こうしてお付き合いしてくださる人のために、少しでも感じたままを記録しておこうと思います。なんだか自分の感じたことを記録しているうちに、この気持ちの変化こそ、楽しいことだ、と再確認しています。正しさよりも、研究の進展を求めてきましたが、それは一人一人が新しい自分を見つける事だったと思います。

 

さて、前編では「背骨が消える」体験をした事をお伝えしました。中編では「しょんぼり」の姿勢をヒント実際に自分の身体で「背骨を消す」ところまで書きました。今日は「背骨を消した事で出てきた副産物」の話をします。

一応、なんとなく「古武術の動き」と言っていますが、特に技の形があるわけではありません。私が稽古しているものは目的を持った技そのものというよりも、技を行う上で必要な身体能力と考えてくれれば伝わりやすいかもしれません。

身体能力を高める結果を得られるからこそ、古武術がいろいろな武道はもちろん、スポーツや介護、音楽のプロと言われるレベルの人からも注目されるわけです。

 

古武術を学ぶ際、結果に差が出るのは「学び方」を変えられるかどうかといってもいいでしょう。テクニックとしての形を学ぼうとすると、意外にうまくいきません。なぜなら、その形は限定された状況の中で作られたものだからです。しかし、自分の心身の状態を観察することを稽古という形で身につけてみれば、ご自身の持つ専門の中での体験を通してどんどん新しい気付きを得て、日々、進化、成長していく喜びが得られると思います。新しいテクニックを学ぶのではなく、それまで見逃してきた体からのサインを読み取れるようになれる事こそ、古武術の醍醐味です。

 

猫背、しょんぼり推奨!

さて、「副産物」の話ですが、気配についての大発見です。

これまで、私は姿勢の「強さ」を一番に考えてきました。もちろん、気配のない動きも求めてはいましたが、まずは守りぬくこと、どんな状況にあっても気にせず、自分らしく過ごせる身体を求めてきました。

その結果、肩甲骨、骨盤に張りを作る方法を見つけ、支点を一点に固着させなくてもよくなりました動きが平面的に広がったんです。平面の強さに慣れたころ、わずかに前後に身体が動くようになりました。呼吸と動きとの関係がわかり、平面的な動きが立体的なものへとレベルが上がるのを感じました。その感覚があったからこそ、もともと、骨格的に人間の身体は「厚み」を持つすごいものだ、と実感したわけですが、これらはどれも、「守者側の技術」な気がします。

 

これまで書いてきたとおり、頼りにしていた背骨を手放すことで、両手両足の自由さに気づくことができました。どうやら自由、というのは縛りがなく、外からは見えにくいもののようです。背骨という中心軸に頼っていた時にはどうしても、その強い軸からの力を手先、足先へと伝達していく必要があります。特に、私が求めていたのは素手での動きなので、中心に力の入らない動きはどうしても不安が付きまとってしまうんです。

 

もちろん、中心からの動きは腕力だけの動きと比べて「珍しい」動きですから、2度、3度ぐらいであれば相手に対して不意打ち的に使うこともできます。しかし、動きの原理を相手に明らかにしたうえで何度もそれを試せば、自然と相手もその動きにタイミングを合わせることができるようになっていきます。気配が消えているわけではないんです。

 

私が甲野先生から受けている動きはそんなレベルではありません。どんなに動きの説明を受けて、準備をしても、気配が読めないのです。今までどう気配を消していいのかわからず、後回しにしてきました。しかし、その気配をださない動き方に、自分の中で一つ納得のいく手掛かりを見つけました。自分の動きに気配が付きまとっていたのは当たり前だったのです。

 

理由は簡単、やりたい動きをそのままやってしまっていたからです。わかりやすく言えばこうです。右手で突くとします。その時、「右手そのもの」で突いてしまっていたわけです。

 

こう言葉にしてみると、変ですね(笑)。でも、今感じている感覚そのままに書きました。背骨が消えてしょぼんと立てるようになって、右手左手がそれぞれ自立するようになって、中心に縛られなくなりました。ただし、実際には背骨もあれば体幹もあります。意識の上でなくなってきたとしても、当たり前の現実としてはつながっているわけです。

この時の関係はまるで「兄弟」、左手と右手は同じ親から生まれた兄弟なんです。

どんなに勝手に左手が動いてみても、それに合わせて右手も動いている、それに気が付きました。

 

左右の手を自立させてみる

背骨を消した動き方を自覚した事でこれまでの動きと比較をしてみると、背骨を意識した動きは強い父親に従って動いている強さのように感じます。多くの人が手先だけで動くようになりましたが、それは、背骨に依存した手先で、子供も親も自信のない弱い状態です。

背骨を消した「しょんぼり」の動きは親から離れ、自立を覚悟した後の動きのような気がします。背骨はリアルに存在をしますから人としての存在感がありますが、現代のように、人間力プラス、さまざまに発明されてきた道具を生かして暮らす時代に背骨は「我」を強くしてしまうものかもしれません。

 

さて、右拳での突きをもう少し、細かく話をします。

右拳で突くとき、古武術の動きを知らなかった頃は腰の回転、踏み込みでの勢い、背中の強さ、肩甲骨の押し出し、手首のリラックスぐらいしかわかりませんでした。しかも、細かく観察をすれば、どう腰を回転させたらいいかや、踏み込む足の角度や膝の使い方、背中だって力の流れ具合もわからず、リラックスに至っては言葉ではわかっていたものの、今考えると、まず、力んでいた事すら気づいていなかったなぁ、と懐かしく思います(笑)。

 

「しょんぼり」構えでの突きはまず、第七頸椎あたりを意識して頭の重さが背骨にかからないようにします。そして、どうやら、第一腰椎あたりも抜くようにしてみると、さらにしょんぼりが活きてきます(笑)。しっかりとしょんぼりとできるんです。

 

もしかしたらこの形は四つん這いの時の背骨に似ているかもしれません。結果的に、背中に力みが出ずに手足が自由になります。

この時、手首足首から先、場所で言えば、中手骨、中足骨から先を意識してみると、左右の手足同士が「連動」しているのに気付きました。もしかしたら、手と足にも連動があるかもしれませんが、今自覚ができるのは手同士、足同士、です。

 

この連動を意識してみると、動かしたい手を反対側の手を操作する事によって動かすことができます。たとえば右手が相手の顔面、急所を狙います。武道の経験が無くったって、狙われれば嫌な気持ちになり、相手は逃げます。これが気配です。時に素人の人に突きを打つのが難しいときがありますが、それは、気配が漏れた瞬間、逃げられているわけです。相手のせいにしてはいけません(笑)。

右手は最短距離を狙わず自然にしておきます。大切なのは左手、この左手は右手とつながっています。この時のつながりはシーソーのように物理的につながっているわけではありません。一卵性の双子が不思議なシンクロをするように、離れたところにいるように見えるのに、動きがつながっている感じです。ラジコンのような無線操縦のようです。

 

突かない左手をわずかに左右上下に動かすと、突く役目である右拳が左手に従い連動するのが感じられます。左手の動きに意識を集中して「結果的に」右拳が相手へと届くように操作をします。

 

考えてみると、車のハンドルも連動です。ハンドルを回せば、それに従い、タイヤが左に右へと動きます。その時、大きなハンドルの動きに対して、タイヤは細かく動きます。多少、左手が雑に遠回りをしたとしても、右拳にはあまり、影響はでないようです。

 

「突こう」という意識が出にくいのですから気配が少なくなるのは「当たり前」です。この当たり前感覚こそ大切で、どうにかして気配を消さなくては・・・とがんばってしまえば、むしろ、逆効果になってしまいます。でも、だんだん連動感を感じられて、それに従って動けば、気配を出すことの方が難しくなります。自然と、気配のない動きにむかっていけます。

いったん、気配のない動きのヒントをつかめば、もう、後には戻れません。この先、1年後、10年後のレベルはどうなっていくんだろう?こういう楽しさが稽古にはあります。

 

さらに気配のでない動きも・・・

実は、すでに、この「先」の気配の消し方も見つかってきました。気配を消すためには「連動」「シンクロ」という感覚が必要だったのだ、とわかってから、稽古をするたび、いや、日常生活の中に気配のない自然な動きがどんどんと見つかってきました。いったん、「甲野先生の名古屋、浜松稽古の報告」としては終わりますが、観察稽古の過程をまた、細かく残してお伝えしたいなぁ、と思っています。ながながとお付き合い、本当にありがとうございました。


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