稽古日誌
興味を引き出す方法
昨日の土曜日はコミュニティサロン西春での稽古と夕方から大人の武道塾。
同じ事を同じように伝えているつもりですが、なぜか西春はいつも人が少ない。もし、じっくり身につけたい、という人がおられれば、西春はおすすめです。
ただ、少人数がいいのか、大勢の中での稽古がいいのか、といえば実はよくわかりません(笑)
。
というのは、私自身、甲野先生から手取り足取り指示をされながら教わった感じではないから。それでも、なんども、手を握らせてもらい、抵抗し(←これ、大事!)、崩され、倒される経験が何よりの刺激になりました。
少人数であれば、技をカラダでなんども経験できる良さがあります。
しかし、少人数だからこそ、つい、講師にべったりとついていまい、「自分の」稽古が出来なくなる事も。先生の話を聞く、という勉強の仕方に私たちは慣れていますから、つい、依存しちゃったりします。
大勢いれば、自然と、私の手も、目も足らなくなります。自然に稽古は自分の中のやりたいことが主になるんです。なにかが出来るようになれば、仲間に教える機会も出てくるでしょうし。結果的に自発的に練習出来るようになってしまうことも・・・。
まぁ、長所即欠点といいますからね、いいところを見ればありがたくなるし、悪いモノをみれば、ココロが汚れるだけです。そして、これに気づくことも経験でしょうか(笑)。
考えてみると、甲野先生は「稽古」というものを改めて考えさせてくれた人です。そもそも武術稽古研究会というネーミング自体がもう、すごいです!稽古の仕方を研究されていたんです。
稽古というとなじみが無い方もいるでしょうから、練習とか、勉強と考えてもらっても良いと思います。なにを勉強するのかよりも、どう勉強するのか、といったところなのかな。
そうだと仮定すると、甲野先生は勉強そのものの楽しさを教えてくれたと言えます。
強制されて勉強するよりも、自発的に、興味を持って勉強した方が成果が出るのはわかりすよね。
しかし、それが分かったとしても、「興味を出す」というのは簡単ではありません。しかし、甲野先生はそれを見事に引き出してくれました。勉強嫌いな私を勉強大好きに変えてくれたんです。
おそらく誰にとっても、自分自身のカラダは大切なもの。でも、その大切なモノを見失ってしまい、あきらめてしまっていたのが私です。しかし、そのあきらめてしまっていたこのカラダにまだまだものすごい可能性があることを教えてくれたんです。自分の中にも可能性がある事が分かってしまえば後は掘り出すだけです。もう、時間のある限り練習するのも当たり前かもしれません。
次の日曜日に甲野先生の名古屋講習会があります。
3時間、とにかく、甲野先生をじっくり楽しんでもらいたいと思います。
この3時間、空気を共にすることで、自分の中の興味が引き出されるかもしれません。なにもかわらないかもしれません。
ただ、「普通ではない」経験が出来ることは確かです。もっともっと自分の中の興味を見てみたいという人はぜひ、ご参加ください。
申し込みはこちらからできます。
【稽古日誌】つかみの話
火曜日は大垣中日文化センターにて体験会でした。大垣の中日文化センターも何クール目になるのかなぁ。毎回、新しい人達との出会いがあり、伝えることの難しさと楽しさを感じています。
今日の体験会、一番新しい研究の成果である「浮き」と「武器とり」をしようかと思ったんですが、最初のつかみの話が盛り上がってしまい、気がつけば、時間ギリギリまで、そのつかみの話で終わってしまいました。
つかみの話って骨を廻す、という話です。
手を上げる動作って誰でも出来ますけど、その上げ方が「よくない」って知っている人って多くないよ、って話です。
それは体の専門家、治療家の方でもそう。実際の患者さんへの治療ではもちろん、有効で負担のない体の使い方を指示してると思うんです。でも、「自分の体」に関していえば、ずいぶんと負担をかけてるんです。
骨の構造なのか、筋肉の構造なのか、正しいことはわかりません(笑)。だって、誰に教わったものでもないんですから。武術の稽古を通して、有効なモノを探していったら、その動かし方が見つかったんです。
手を上に上げるとき、つい、肩に力を入れて、まっすぐ上げてしまいます。確かに、これで手をあげる事はできます。スイッチを押すぐらいならこれでいいかもしれません。でも、大きな力は発揮できません。
手を上げる時、まっすぐではなく、「回旋」させながらあげるんです。内旋でも外旋でも良いんです。腕の旋回をつなげていくようにして上げていきます。すると、背骨と腕の骨の位置関係が繋がるんでしょうね。そこに強さが生まれてきます。
現代のように自分の身体を使わなくても仕事が出来る時代にはいらないように思えるかもしれません。でも、私たちの身体が私たちの心を動かします。身体に強さがあれば、ストレスにやられる事もないですが、そこの関係を忘れてしまっているんです。
スピリチュアルなものが求められる時代ですから、心身一如と多くの人が言葉にしていますが、実際に身体を感じ、心との繋がりを認識してはいません。
なにか、自分にとってイヤなこと、問題な事を解決しようとするとき、身体に解決策を求める人って少ないです。
しかし、なんといっても、身体と心は一つのモノです。次元が違って見えるとか、そんな感じ何でしょう。身体が快適になれば、心は「絶対に」快適なはず。そして、逆に、身体が弱っているのに、心が幸せってあり得ません。
心は形として見えないものです。感じるもの、なのかもしれません。
でも、体はここに、目の前にいつもあるものです。見方さえわかれば、目の前はすごく、明るくなりますよ。
骨を廻すというつかみの話はもう、何年も前に見つけた動きです。見つけた当初は驚きと共に、それを練習もしましたが、骨の構造って、ずっと昔から、変わらないんです。
知らないだけで、この体の可能性を使わずして暮らすのって、もったいないです。もっと、もっと、欲をもって、自分を信じてみたらいいのになぁ、なんて。
ではでは。
また。
【稽古日誌】つかみの話
火曜日は大垣中日文化センターにて体験会でした。大垣の中日文化センターも何クール目になるのかなぁ。毎回、新しい人達との出会いがあり、伝えることの難しさと楽しさを感じています。
今日の体験会、一番新しい研究の成果である「浮き」と「武器とり」をしようかと思ったんですが、最初のつかみの話が盛り上がってしまい、気がつけば、時間ギリギリまで、そのつかみの話で終わってしまいました。
つかみの話って骨を廻す、という話です。
手を上げる動作って誰でも出来ますけど、その上げ方が「よくない」って知っている人って多くないよ、って話です。
それは体の専門家、治療家の方でもそう。実際の患者さんへの治療ではもちろん、有効で負担のない体の使い方を指示してると思うんです。でも、「自分の体」に関していえば、ずいぶんと負担をかけてるんです。
骨の構造なのか、筋肉の構造なのか、正しいことはわかりません(笑)。だって、誰に教わったものでもないんですから。武術の稽古を通して、有効なモノを探していったら、その動かし方が見つかったんです。
手を上に上げるとき、つい、肩に力を入れて、まっすぐ上げてしまいます。確かに、これで手をあげる事はできます。スイッチを押すぐらいならこれでいいかもしれません。でも、大きな力は発揮できません。
手を上げる時、まっすぐではなく、「回旋」させながらあげるんです。内旋でも外旋でも良いんです。腕の旋回をつなげていくようにして上げていきます。すると、背骨と腕の骨の位置関係が繋がるんでしょうね。そこに強さが生まれてきます。
現代のように自分の身体を使わなくても仕事が出来る時代にはいらないように思えるかもしれません。でも、私たちの身体が私たちの心を動かします。身体に強さがあれば、ストレスにやられる事もないですが、そこの関係を忘れてしまっているんです。
スピリチュアルなものが求められる時代ですから、心身一如と多くの人が言葉にしていますが、実際に身体を感じ、心との繋がりを認識してはいません。
なにか、自分にとってイヤなこと、問題な事を解決しようとするとき、身体に解決策を求める人って少ないです。
しかし、なんといっても、身体と心は一つのモノです。次元が違って見えるとか、そんな感じ何でしょう。身体が快適になれば、心は「絶対に」快適なはず。そして、逆に、身体が弱っているのに、心が幸せってあり得ません。
心は形として見えないものです。感じるもの、なのかもしれません。
でも、体はここに、目の前にいつもあるものです。見方さえわかれば、目の前はすごく、明るくなりますよ。
骨を廻すというつかみの話はもう、何年も前に見つけた動きです。見つけた当初は驚きと共に、それを練習もしましたが、骨の構造って、ずっと昔から、変わらないんです。
知らないだけで、この体の可能性を使わずして暮らすのって、もったいないです。もっと、もっと、欲をもって、自分を信じてみたらいいのになぁ、なんて。
ではでは。
また。
【稽古日誌】太刀「獲り」
これまで、父は少林寺拳法名古屋緑道院、私は愛知大府道院を道院長として引っ張ってきた。その元気だった父が急に亡くなったことで、名古屋緑道院も私が引き継ぐ事になりました。
当然、いつかは…と考えてはいましたが、まだまだ、先だと思ってましたし、古武術の方もどうすればもっと、身体が生きることの意味を感じさせてくれるもの、だと伝えられるか模索していましたので、本当に予想外です。
名古屋緑道院の指導を引継ぎ三週間、ついつい入ってしまう気合い、いや、気負いかな、そんな力みに家に帰ってくると、バタッと倒れてしまいます(笑)。
子供たち、仲間たちを相手に少林寺拳法を修行するのは、もちろん、楽しいこと。身体を動かし、稽古をしていれば、自然と、元気にもなりますし。ただ、まだまだ、無意識に力みがあるんでしょうね。こうしたブログや新しいウェブサイトの方になかなか、時間がさけませんm(_ _)m。
それでもなぜか、技の研究、身体感覚の新発見は止まらないんです。いや、むしろ、加速している気が。会う人会う人に不思議がられるのは、全然落ち込んでいない様子だからでしょう。親不孝何ですかねぇ(笑)
でも、本当にこの武の道に導いてくれたのは父と母のおかげですから。悲しみ、寂しさよりも、感謝の気持ちの方がいっぱいなんです。
改めて、ここ数日の発見を書かせてください。自分で言うのもなんですが、ものすごいんです(笑)
昨年稽古納めで偶然気づいた肌の感覚。そこから、浮きの大切さ、重力に縛られている事に気づき、工夫を重ねてきました。
そこで見つけたのが、形の力です。
ついつい、力というと、体の中からでてくるものだと考え、それを鍛え、出していくことに頑張ってしまいます。きっと、それは、筋肉の力。わかりやすいですもんね。
でも、その筋肉の力はいずれなくなる力ですし、そもそも、出し続ける事のできない力です。
しかし、現実に相手を崩すとなると、その筋肉の力を使わずして崩す事はできませんから、みんな、仕方なく、それを鍛え、求める事を止められないんです。
それがどうも、肌の感覚が高まってくることで、私たちの体には、もう一つ、形の力があることに気づいたんです。
もちろん、気づいた、というのは、崩すのにも使える、という事ですよ。頭でだけではありませんので。
しっかりと抑えられ、つい、力を必要と考えてしまう時にも、選択肢として、形から力を取り出す事ができるようになりました。
具体的に技になったのは先々週の金曜日。突然、相手の抱えている剣をヒョイと取り上げる事が出来たんです。
それまでは相手の武器を取り上げるだなんて、考えたことがなかったんです。だって、しっかりと、警戒をしている相手から武器を取り上げる事なんてできない、と思っていましたもん。
もちろん、当て身などを使って取り上げる、という選択肢はあります。しかし、それを技として身につけるには相当の訓練が必要です。
でも、その技のために時間を費やしてようやく身につく、ってのは、古武術的上達とは違う、と考えていますから。
私の考える、古武術的上達は体の中にそれを簡単に行えるなにかを見つける事だと思っています。
出来ない、とは出来ないと思っているからなんです。むしろ、出来るときには出来ないことの方を考えられなくなるから、出来てしまうのです。
今回、まさに、それを実感する事が出来たんです。
というのは、剣を取り上げるだなんて、出来るわけないと思い、全く期待もしていなかったんですよね。それが、たった一つの気づきで、ヒョイと取り上げる事ができるようになってしまうだなんて…、マンガみたいです(笑)
この歳になって、こんな刺激を味わえるんですよ。なんか、本当に不思議です。
具体的に言葉にしておきますね。また、動画なんかは改めて。
まず、ポイントは相手の持つ剣を動かす方向です。先に筋肉の力ではなく、形の力だ、と言いました。この時に刀を動かす力は筋肉ではなく、刀そのものが持っている力のような気がします。
相手の剣を掴めば当然、相手はそれに抵抗し、もみ合い、全力で綱引きが始まります。この時、筋肉の力が出やすい方向があるんです。それは、相手と剣を取り合ったとき、前後の方向なんです。ついつい、その前後の方向で刀を取り合ってしまうんですね。
しかも、私たちの感覚って、結果敏感じゃないですか?
前後に動かさないように、といしきをしても、つい、動いてしまうんです。そのわずかに動いた瞬間を相手も見逃しません。しっかりと、抵抗され、もみ合ってしまうのです。
ですから、形の力に気づかなくてはいけないのです。筋肉の力はもう、捨ててしまってください。
剣をつかみ、取り合いをするのをまず、やめます。
指先に意識をして、剣の表面を切っ先の方向へと引きずります。この時、指先だけが滑るように動くのではなく、指先に摩擦を感じながら、抑え込まないように、表面を引きずります。
すると、形を持つ刀ですから、その引きずられた瞬間、刀の柄の裏側の表面も動くんです。その動きを加速させるように、もう一方の手の指先で押し出して見るんです。
すると、その両手の動きのおかげで、剣の中心に軸が出来、回転が始まるんです。このいきなり動く横方向への回転により、相手は剣をつかみ続けることが難しくなるんです。
多少粘り強くても、回転重ねたり、体も加速に協力出来るようになると、まさに、ヒョイという言葉が似合うような技になるんです。
これを中学生、小学生、そして、保育園の子にも伝え、試してもらうと、気持ちよく刀を取られて、それも、楽しいんです。
大の大人が何十年もかけて出来ないのは、不可能な技でも、才能を必要とする技でもなく、ただ、原理に気づいていないだけなんですよね。
また、ゆっくりと書きたいと思います。よろしくお願いします。