ご訪問ありがとうございます。
このウェブサイトにはカッコよさもわかりやすさもありません。まぁ私にデザインセンスはありませんが、カッコよさとわかりやすさで伝えるウェブサイトを作ってくれる人や会社は山ほどあります。依頼をすれば想像を超えたものを作ってくれるでしょう。しかし、あえてそれはやらない事にしました。
なぜなら、カッコよさやわかりやすさで人を引き寄せるとそれは頭の欲求、心の力が大きくなりすぎるから、私が伝えたいものとかけ離れてしまうからです。
これから一気にたくさんこれまで感じてきたものを伝えていきますが、この中の言葉はすべて身体から得たもの。読んでくれた人の身体にも響くものがあるはずです。そんな縁ある人と出会うために作りました。興味が続くところまでで結構です、お付き合いください。
これまで、ブログやツイッターなどでたくさん言葉にしてきました。 ただ、言葉にする事自体は得意ではありません。それでも、身体を観察し、従っていると言葉が自然と溢れ、止まらないようになってきます。
一つのテーマでなら完結した文章も書いていますが、伝えたいのはもっと大きな世界の話です。 子供の頃から人間の可能性の大きさを聞かされてきました。ただ、その可能性を自分の中には感じれず、もやもやとした日々を過ごしました。 そして、知識を得られるようになると、自分だけではなく、外の世界にもたくさんの不思議があるとわかりますが、それらを体験し、実感する機会がありません。
ずっと、自分の可能性を見つけたいと願っていたし、歳を重ねていくにつれて「生きる」とは何かなど、考えるようになりました。 求めればたくさんの知識が手に入ります。古今東西の偉人がたくさんの言葉を残してくれています。学ぶ事ができましたが、さらに迷い、不安になって行きました。
ただ、今私はそんな悩みが消え、人間の可能性を疑う事もなくなり、生きる、死ぬ、という大きな問題に対しても全身全霊で向き合っても大丈夫なのだ、と思えるようになっています。 誰かを説得する言葉は持ちませんが、自分自身の中に「確か」と思える考えが次々と生まれてきます。生きていればたくさんの経験をし、試行錯誤をする事自体が楽しく思えるようになったのです。
こんな楽しく、充実した生き方をなぜ今、教われないのだろう、と不思議です。 この生き方をするのに必要なものはなにもありません。生まれも、環境も、どんな経験があっても、なくても、関係ありません。お金も人脈も勉強という努力もいりません。病気やケガ、アクシデントがあっても、生きること自体に向き合って充実した毎日を過ごす事ができます。
大きなテーマだけにこれまでなかなか言葉にすることができませんでしたが、最近の気づきによって自分の中の不安がなくなったのか、こうして言葉にしようと思うようになりました。
ただ、初めにお話をした通り、心に響く文章を作る国語力はありません。それでも、ここは私のウェブサイト。誰にも邪魔されず、どれだけでも言葉を残す事ができます。どこか一言でも、頭の隅に残ってくれればきっとそれが身体の世界へとつながるきっかけになると確信しています。
まずは私、山口潤についてお話します。 ちょうど、先日、師匠である甲野先生のメルマガに新しく作ったプロフィールを載せていただきました。それをこちらでも紹介いたします。このプロフィールと言えない自己紹介文を書くきっかけを甲野先生からいただきました。改めて自分のこれまでの時間と向き合ったことで、この先の未来をどう生きるかを考えるようになりました。このページもその思いから始まっているかと思います。 以下、自己紹介です。
◆山口潤のプロフィール
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2019年4月から二足の草鞋の一つである少林寺拳法の道院長を辞めた。父が開いた道場を門下生に手渡した。少林寺拳法は私を何十年も育ててくれたものであり、縛ってきたもの。気持ちは大きく変わるだろう、と考えていたがやはり想像以上。
甲野先生からプロフィールも新しくしたらどうか、と提案を受けたので考えてみたが、無駄に大きく広がってしまった気持ちのまま書き出したらとんでもなく長くなってしまった。
何とか500字ぐらいに削ろうとしたら、先生から「せっかくだからいくら長くてもいいですよ」と言われたのでさらに思うところを制限なく書き出してみた。それで出来たのがこれ。もはやプロフィールの範囲を出ているが、一応これでも、これはこれで自己紹介。この自己紹介文の意義を無理やり一言で表せば「大したことはしてこなかった」という事が伝われば嬉しい。
1973年、名古屋市生まれ。父親は少林寺拳法の道院長。その影響で3歳から少林寺拳法を習う。幼稚園の頃には「夢は少林寺の先生」とすっかりと洗脳されている。その後、姉弟は少林寺から離れたが、気弱な性格と、自分の好きと嫌いがわからない私は、なんとなくずっと続ける事になる。今思うとこれが最初の幸運。
1991年、のんびりと苦しさもないまま少年時代を過ごしたからか、夢も持てず、努力も出来ず、賢くもなれなかったが、そんな私を合格させてくれた大学があり入学する。そこで父の道場から出て大学の拳法部へと入部。実は最初の動機は知らない人だらけの寂しさから逃げたかったから。ただ、そこで出会った仲間に大きな世界を見せつけられ、学業よりも拳法部で過ごす。この出会いが二つ目の幸運。
1995年、卒業。やっと持てた将来の夢、人生をかけてもいいと思える道をなんとなく決める。ただ、バブル経済の破綻が少しずつ現れていたのだろうか、希望の職場はその年、新職員募集は中止。再募集まで就職浪人を決めたが、その時期に甲野先生と出会う。考えもしなかった身体感覚の世界を初体験。生まれて初めて身体が震えるほどの体験をし、頭は真っ白、一気に虜になり一人稽古を始める。希望していた職場へ進むのをやめ、卒業はしたが職を持たない大人になった。これが三つ目の幸運。最大の幸運。
2006年、一人稽古が主となり、公の場で技を競う事から離れて数年、たまたま出場機会を得た少林寺拳法の全国大会で受身を失敗し肩を負傷。当時の仕事は力仕事があるにも関わらず、働けず会社の皆に迷惑をかけた事で人生を考え直す。そして甲野先生に見せて頂いた身体感覚世界の楽しさを伝える事を一生の仕事にしようと決意。3人目の子供が生まれたばかりなのに、妻には事後報告で会社を辞める事を告げた。煙に巻いてなんとか許可をもらえたのが四つ目の幸運。
以後、現在の活動を行っている。こうして発表の場も頂き、共に身体を探れる稀有な仲間も得て、幸せでたまらない。これも幸運だが、ネガティブと言われているものに導かれて生きてきた私には、初めての極楽に、ついついなまけてしまう。こんな時、つくづく武術で良かったと思う。なぜなら、武術なので必然的に稽古はドンドンと厳しくなり、現状からの脱出を求められるからだ。
最強になりたい、という強い思いはまるでなく、ただ一つの技「柾目返し」だけを稽古してきただけなのだが、様々な武道や格闘技の専門家にも驚いてもらえるようになった。これが不思議でならないが、幸運の結果なのだろう。身体に従ってきた結果だ。
ただ、私からすればすでに仕事にも出来るような技を持っている専門家の人たちを見ていて不思議に思う事がある。それはその仕事にもなるようなレベルの技というのは、私が見つけた身体の力をもうすでに使っている状態だからだ。気がつかない間に結果を残せるレベルになっていたからこそ専門家として生きていられるのだ。私にはその結果を残す才能が皆無だった。それなのに、その私と稽古して、そういう専門家に驚かれる。それでこの才能のなさも今なら幸運だったとわかる。
2019年、自分にしかできない使命を見つけた事で少林寺拳法の道院長の座を門下生に譲る。長く私を縛っていた呪縛がやっと解けた。6年前父が突然亡くなり、その影響で二つの道場の責任者となった。一人稽古は出来るようになっても「大勢の人を教えで導き、幸せになる」というのは私にはとても苦手な事。出来もしない事を出来ると言い、人を導くのは自分に嘘をついているようで辛かった。それでも大きな目標として自己確立と自他共楽を持てたからこそ、夢のない私も、身体の奥底に眠っていた土台としての働きを呼び起こす必要に迫られたのだと思う。この点は少林寺拳法に感謝している。
色々あったが、この6年間、組織の良い面悪い面を経験する事ができた。経験として身体を通して学べたからこそ、自分にしかできない使命を見つけられた。父を亡くさなければきっと気づけなかった。複雑だが、これも幸運な事だ。
私はコンプレックスの塊。そして今、これが一番の幸運だった、とわかる。身体は大きかったが鈍く、動けない。不器用でモノも作れない。そもそも作りたいものがわからない。何を感じているのかわからないから作文も書けない。記憶力も怪しいから勉強も苦手。食いしん坊で部屋の片づけもできず、計画も立てられない、自毛の天然パーマも大嫌い。しかし稽古の際、これらがとてつもなく役立った。
稽古は時に身体に痛みをもたらし、ネガティブな気持ちを拡大する。しかし、それが生きる上での土台となる身体が存在することを教えてくれた。
少林寺拳法の思想の土台は釈迦の言葉。だからだろうか、心の強さに憧れを持ち続けた。ただ、現実にインターネットが普及し、情報を得るようになると、心がつながるという憧れは現実へと変わってきた。しかし夢に見ていた人と人がつながり合える時代なのに幸せになれないのは何故だろう、とずっと考えていた。
身体を探る事で得られる世界はひとりぼっちだ。どれだけ言葉を尽くしても、伝わらない。ただ、いつの間にか伝わっている時もある。その違いは何だろうと問いを持った時、それぞれが勝手に「自分の身体」に向き合った時だと気づいた。
心はつながり、一つになるが、身体はどこまでいっても、別々のもの。決して交わらないもの。しかし、同じ仕組み、構造の身体を持つのが人間だ。臓器があり、背骨を持ち、骨格、筋肉、皮膚を与えられ、複雑な神経のシステムを持つ。
その身体を基に探れば「こうとしか思えない」ところにたどり着く。身体は別々、交わらないが、思考は重なる。心への依存と憧れがこのひらめきで手放せた。
身体の凄さに気づき、一生をかけるまでになったものの「心に対して依存も期待もしない」という言葉までは持つことが出来なかった。人前でこんな言葉を発せられるようになったのも、道院長を辞めたからである。
世の中は便利で平和になり、身体の有難さを忘れさせる。私が伝えたい事は常識とは真逆な事ばかり。身体を活かさなくては生きていけなかった時代では当たり前な事だったはずだが、現代はバーチャル。身体を使う機会もなければ学ぶ機会もない。
たくさんの情報と便利な新技術を得て幸せ感を持つ人は爆発的に増えていくだろう。しかし、同時に必ず取り残される人もいる。私はそうだった。他人を知る事により、不安や悩み、怒りも増え苦しくなった。そこから救い出してくれたのが、甲野先生が見せてくれた身体を探る一人稽古だ。
ひたすら身体を見続け、一人稽古を続けていくうちに常識とは真反対、真逆なところにも生きる場所があるのに気づかせてもらった。この時代だからこそ、自分にできる事があるのだから、この時代に生きていられるのも幸運だ。誰もが「この凄い身体」を持っている事実を今後はさらに伝えていきたいと思う。
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以上、自己紹介代わりになりましたらうれしく思います。
◆伝えたい技術
私の人生を振り返れば、やはり「武道」、「武術」ばかりだったと言えます。物心つく前から稽古を始めて、20代、30代、40代になっても敵を想定した「武」の世界を生きています。 私は甲野先生に出会う前に覚えてしまった「技」があるので、どうしてもそれが邪魔をし、つい、動いてしまいます。
しかし、多くの人は武の技を知りません。多くの武術家、武道家は護身の技を教えて自信をつけてくれますが私はやりません。なぜなら、多くの技を学び、それを習得する過程で自信どころか、失敗を重ねて諦めを作りかねないからです。私はそうでした。
甲野先生に出会い、身体感覚の世界を知り、自ら探り始め、技を捨てました。つい動いてしまうのは仕方ないとして、絶対に技には頼らない、と決め稽古を続けています。 そして、今、昔では考えられないほど、自分の中に自信を持つことが出来ています。技を捨てたからに他なりません。
ただ、それでは私の稽古、講座では何を教えるのだ、と疑問に思うかもしれません。当然です。 ここは大切なので、どれだけ繰り返しになろうが何度も言葉にしていこうと思います。
技がなくとも、その土台である身体の動かし方を学べば大丈夫です。 技は繰り返していれば自然と身についてしまうものです。同じ作業を繰り返し行えば自然と手順は覚えます。 しかし、その動きはどれだけ自分自身が自分の身体を知り、快適に動いているかに制限をされます。威力ある技を学んでも、それを行うためには精密に動く身体が必要なのです。
便利な道具がなかった時代であれば自然と身体の効率的な動き方を学べたはずです。なぜなら、道具そのものが身体を活かさなければ働きを生むものではなかったからです。 鍬やスキ、スコップやナタ、ノコギリ、電動化されていない道具は身体を活かさなければ動かせません。
今、手軽に動力のついた機械が手に入ります。それも安価で。わざわざうまく使いこなせない道具を使う人は少ないです。そもそも、自分がやらなくても、代わりにやってくれる様々なサービスも充実していますし、完成品として出来上がっているものを用意すれば作り上げる必要はありません。
便利で平和な時代は素晴らしいですが、人間は身体的に辛い状況がないと楽を選んでしまうのかもしれません。多くの人が、せっかく持っていた力に気づく事なく過ごしています。 私が出来る事など、昔の人たちからすれば本当に微々たるもの。百年前、千年前にちゃんと生きていけるのか自信がありません。ただ、逆に言えば現代は便利な道具、サービスを活かし、任して生きていかなくてはなりません。昔に暮らしていた人たちからは想像もできない時代です。だからこそ、これまで通りの常識的な暮らし方だけでは駄目だと思うのです。
便利な道具やサービスと共にどう生きるのか。私はその答えを身体に求めました。 身体を鍛える、と聞けば多くの人は「努力」を考えます。確かに努力は身体を変化させるのに有効です。単純な動きでも身体は変わります。キツイ言い方をすれば考えなくても、センスを活かさなくても、繰り返しで変わります。 ただ、それは身体がちゃんと回復をする若いうちだけ。年齢を重ねていくと回復によって鍛えられる部分が少なくなり、ケガも増えていきます。
そして、それは思考力という頭の能力でも同じです。 努力して頑張る、という勉強法を想像してみてください。どれだけ努力をしても、そこに理解がなければ意味がありません。努力でカバーが出来るのは中学生まで、と聞いたことがあります。
もちろん、努力の中にも様々なレベルがあります。 今、私は四六時中、24時間身体の事ばかりを考えています。20代の頃から、遊びに行くよりも稽古をしていました。それを聞いた人はそれを努力だというかもしれません。しかし、違うのです。どこにも我慢がありませんでした。 むしろ、週に数回、数時間、決められた時間に決められた場所で決められた動きを繰り返す練習は我慢ばかりでした。運よくその我慢が成果へとつながれば報われることもありますが、多くの場合、努力は水の泡となっていきます。
私がお伝えしたい身体感覚の世界、一人稽古の世界は常識外れです。とても一言では説明できません。もちろん、言葉にはできますが理解される事は少ないです。ただ、それで伝える事を止めるわけにはいきません。少し言葉にしてみます。
24時間、あらゆる場所であらゆることを手掛かりに研究をする。 私が行っているのはこんな稽古です。今、パソコンに向かい合い、文章を打っている最中も、身体がどんな事を言っているのか気にしています。 少し疲れて紅茶を飲んでいる時も、仕事に向かう際中の車の中も、食事やトイレ、お風呂の時だって身体の声を聞くようにします。
もし、それを「強制」されたとしたら苦しくて仕方ないはず。しかし、私はそれを全くの強制なく伝えてもらいました。自分が何をしても、何もしなくてもいい稽古法なのです。今、気がつけば私は四六時中稽古をしていますが、それはもう、楽しくて仕方ないから。自分の身体の中にまだまだ未知の可能性が隠れている、と確信できるからです。
ちなみに私の稽古には定期参加の義務がありません。全て一回稽古制です。その日稽古をしたい、と思った人だけが集まります。一応、カラダラボ、と名前を付けて活動をしていますが、カラダラボに入会が出来る人がいません。仕組みがないからです(笑)。 そして、覚えるべき基本もないし、強制的な準備運動もありません。資格認定も段位もないし、大会ももちろんありません。
稽古風景をみればただ「雑談」をしているように見えるかもしれません。しかし、それもまた稽古なのです。参加をして下さればその「緩さ」がわかると思います。その緩さをご自身の生活に入れてくれれば幸いです。
私は人間の動きを研究しています。それはあえてなにか特定の競技にして行わなくてもいいのです。今、生きているだけで心臓は動き、呼吸をして、肉体には重力がかかり地面と衝突しています。その状態を観察するだけでどんどんと身体への理解は深まっていきます。
稽古をし始めた当初、技の魅力に取りつかれたのは事実です。それはそれまでの20年間、出来ない技が出来るようになるかもしれない、という可能性を感じたからです。しかし、多くの人は技を必要としません。初めから「すでに持っている身体の力」を求め、探ってもいいと思います。
もちろん技を求めるのもいいです。技は多くの人がいくらでも教えてくれます。一昔前の秘密主義の時代は終わりました。 技を求めている最中は楽しいです。ゲームやコレクションのようにたくさんの技を集めたくなります。そしてそれがたやすい時代です。でも、だからこそ、その技を支える「身体の働き」も知ってほしいと思っています。
文章だけでどれだけ伝わるかはわかりませんが、ここで少し、私が伝えたいと思っている身体の持つ働きをご紹介します。紹介するそれぞれはすでに誰もが持っている働きです。そこに努力は要りません。
◆指には秘めた力がある
私は身体の楽しさを伝えています。多くの人は身体を信頼し、任せる事が苦手です。大抵の事は試行錯誤で上手になっていきますが、便利な機械や出来上がっている製品が増えたので、身体を使う機会が減ってしまったからだと考えています。平和な時になら気にならない身体ですが、一度、不安や怖れ、緊張につかまると悪い想像はドンドンとつながっていってしまいます。幸せな時があるだけに、絶望も大きくなってしまいます。
皆さんの身体は凄いんですよ、と伝えてもなかなかそれを受け入れるのは難しいです。頭では人間という素晴らしい存在を理解していても、いざ、身体が必要とされる場面になると恐怖で緊張に縛られます。その時、頑張ろう、と思って動いてもたいていの場合は失敗をし痛い目にあいます。そしてまた、身体は弱い、と固定観念を強くしてしまいます。悪循環から抜け出せません。
しかし、それは身体の働きを見る機会もないし、試す事もないからです。全然だめだ、と決めつけている頭とは裏腹に身体はいつも出番を待っています。生まれた時から持っている力を私は伝えています。多分ですが、昔なら当たり前すぎる事ですから、わざわざ言葉に残す事もなければ専門に伝える人、教える人がいなかったのではないかと思います。
便利な機械、コンピューターが主役の時代になってしまったからこそ、生きていくのに身体の力も必要としなくなりました。ただ、それでも、いつかは生きる事自体を考えなくてはいけない時が来ます。遠い未来の話かもしれませんが、せっかく持っているご自身の力です。知っておくだけでも損はありません。
現在の活動を専業にした当時、気づいた使い方があります。もう12年ほど前の気づきです。しかし、今でも、この気づきを伝えるとほとんどの人に驚いてもらえます。それも専門で活躍している人にです。私なんかが逆立ちをしても出来ない事を仕事にし、活躍している人が、驚いてくれるのです。彼らの中にもそんな発想、考え方がないからでしょう。
発想がないからと言って持っていないわけではありません。学ぶのではなく、自分も持っていたのか、と頭を切り替えられる人はすぐにでもそれを活かします。必要なのは頭の柔らかさかもしれません。
それではご説明します。「指アーチ」と呼んでいました。現在では当たり前になりあえてそれを稽古する事は少ないですが、聞いていただければ今現在の言葉で説明します。遠慮なくお聞きください。
よく「体幹が大切」、と耳にするかと思います。大きな体幹には大切なものがたくさんあります。臓器があり、背骨が通り、強い腕や脚があり、重い頭を支えなくてはいけません。大切じゃないはずがありません。みんなそんなことは百も承知です。
鍛えられるのであれば鍛えたい。そう思うでしょう。そして、実際にそれがやれる人はどんどん鍛えればいいし、それで能力は上がります。 しかし、現実には体幹を鍛えよう、と願ってもそれができない人がいます。どれだけ鍛えても成果が出ない人、もともとの体幹が弱いのかもしれません。病気やケガで鍛えること自体が出来ない人、そして心がすぐに諦めて長く意思が続かない人。多くの仕事を抱え時間が取れない人もいるかもしれません。出来ない理由はたくさんあります。
それでも体幹派の人は鍛えろ、というかもしれません。もし、ベッドの上で寝ている事しか出来なかくなったら生きている意味がないんでしょうか。体幹はこのままでもいいんじゃないか、そんな事に気づくきっかけに「指アーチ」はなりました。
私の専門は武術です。どんな相手を前にしても負けない力が欲しい、自由に動ける力を求めて稽古をしてきました。稽古をし始めた当初はまだ若く、背骨や腰にも力があり、主に体幹を探る事をしていました。そして、成果もちゃんとそこにみつかり、身体の使い方によって結果は変わる、と確信していました。
しかし、徐々に仮想敵のレベルを上げていくと、どうしても間に合わない状況がでてきます。そんな状況に身を置いて稽古をしていると突如身体にそれまで考えもしなかった動きが生まれてくるのです。この指アーチもそうでした。
手を合掌の形にして指先をつけたまま、第三関節で指を曲げ、手のひらの中に卵を包み込むように形を作ります。この時、両手の力が指先へと集まります。手の指にアーチ構造ができるのです。 この形を作ると、それまで苦しんでいた腕や腰、背中の緊張が取れていきます。全てのストレスを手のひらの中に収めていけるようになります。結果として、相手の強い力に負けずに手を自由に動かす事が出来るのです。
どれだけこの手を抑えれても、アーチなら作れるのです。私たちの手にはそんな力があります。手はまだ動いて力を発揮できる状況なのに、体幹ばかりを見ていると、体幹が崩れて転んだ時、心はダメだ、と決めつけて折れてしまいます。でも、手は違うのです。
手の中にある可能性を通して私のレベルは変わりました。それまでできなかった技も手首から先だけに意識を集中すれば難なく出来るようになったりしました。 体幹をしっかりと崩さなければ、と考えていたから、強く大きな相手に負けてしまっていたのです。出来なかったのは努力が足らないせいではなく、身体への理解がなかっただけでした。
一度大きな殻を破ると、そのあとはもっと簡単に新しい世界は見えてきます。いつもは様々な「たとえ」を使って説明をしていますが、今日はあえて「身体の部位」をテーマに伝えたい事を話します。もうすこしお付き合いください。
◆誰の中にもある手の働き
まず初めに「手」についてお話をしますが、ご自身の手についてどれだけの事を知っているでしょうか? 5本の指がついていて、それぞれに名前があって、物をつかみ、さまざまな仕事をしています。生活をする時、わざわざこの手の事を考えて暮らしている人はほとんどいません。
スポーツ選手や、楽器を使う音楽家、接骨や整体、医師などは手についての知識をたくさん持っています。そしてその手の能力を活かせるからこそ、プロとしての仕事ができます。
ただ、そんな専門家の人でさえ、これからお話をする力があるとは考えてもいなかったようです。専門の世界の中で高い能力を発揮できるのは気がつかないうちにやれてしまったから。そんな理由が多いはず。同じ教わり方をしても、最初の段階を無意識にクリアをしている場合があります。私は結果を残すような仕事が出来なかった人間。だからこそ、手そのものの働きに集中することが出来ました。
人生は予測がつかないもの、今順調でも、この先壁に当たる事もあるでしょう。そんな時、すでに高いレベルの動きを持っている手に任せるようにしたらいい、とわかっていたなら心は安心してトラブルを受け入れる事ができます。
体幹のレベルは身体の大小とも関係があり、なかなか大を小が倒すのは大変ですが、手に仕事を任せれば、人間そんなにも変わらないのです。そんな凄い手を誰もが持っています。ご自身の手を見ながら少し、私の発見を聞いてください。
手のひらを開き、閉じて拳を作る。この働きがあるからモノを掴み、扱えます。ロボットに同じ働きをさせようとしても人間のようななんにでも対応できる手を再現するのは難しいです。そんな素晴らしい手を私たちは持っています。
しかし、そんな凄い手も機械を使う時にはあまり働きません。どんどんと自動化される機械は凄い手の力を必要としないのです。使う事がなければ手の凄さを知らないまま過ごす事になりますし、当然、子や孫にもその凄さは伝えられません。このまま機械化、AI化が進めばさらに身体の凄さを忘れて人たちが増えていきます。
世の中の機械化は止めようがありませんが、だからと言って身体の凄さを忘れるのはもったいないです。言葉として発信をすれば必ず縁ある人に伝わるはず、そんな気持ちです。
大きな体幹は抑えつけられるとすぐに動けなくなります。腕や脚も大きくわかりやすい関節がありますから極められやすく、壊れやすいものです。 しかし、手を構成している骨や筋肉、皮膚は細かく、そして強いものです。
私たちは強いものと弱いもの、両方を同時に持っています。しかし、頭がそれをちゃんと自覚をしないと、自分は弱い存在なのだ、と思い込んでしまい、まだまだ諦める必要のない段階でも抵抗するのをやめてしまいます。本当にもったいない。
指のアーチで引き出したのは手の中にある筋肉の力です。両手の力をぶつけ、合わす事によってすべての力を集め、固める事ができます。その力があれば屈強な男性に対しても、重いものを持ち上げる時にも負けずに済むのです。機械化が進んでいなかった昔日の日本でなら間違いなく当たり前の動きだったはずです。
まだまだこれだけではありません。さらに、手の働きを紹介します。指先にまで力をいれ、手のひらをしっかりと開きます。そして、その手をひっくり返してみてください。抑えられていないのなら当然、出来るはずです。しかし、この普通な事が凄いのです。その開いた手を強く抑えつけられても、この「手のひらを返す動き」はいつも、自由に行う事ができます。 誰にも止められない自分を誰もが持っているのです。
ただ、「手のひらを返す」という言葉はなかなかいい意味では使われません。裏切られた時に、悔しさと共にその言葉を発します。手のひらを返すのを止めているのは「嘘をついてはいけない」、「裏切ってはいけない」という思いが止めているのです。 ただ、「出来ないの」と「やらない」のとでは大きく違います。まずは自分の中にある「自由」を自覚をして、その上で何をやるのかを選択できることを知ってほしいと思います。
この手のひらを返す動き、私よりもはるかに小さい女性を私がぎゅっと動かないように抑えたとしても、小さな女性が手のひらを返した瞬間、ちゃんと崩されます。私自身がいつもやられてしまう経験があるからこそ、誰もが持っている、と確信できるのです。絶対にその場を逃げるぞ、と決めればちゃんとなにかやれる事が残っているというわけです。体幹は痛みを作り、心を折りますが、手はいつも、働いてくれます。
もう一つ、手の働きをお話しします。これも誰もが持っている力です。 手の中に「舟状骨」という骨があります。手首を構成している一つです。親指、人差し指、中指の付け根にあります。 この舟状骨がまた凄いのです。
手首を握られ、掴まれたとします。この時、技を知っているのなら構えを作り、当身を入れ、教え通りに動こうとするでしょう。教え通りに動ければ脱する事ができますが、案外と難しいです。まぁ、難しいからこそ、長く練習をする意欲も湧いてきます。
ただ、それでは練習がうまくいった一部の人しか自信を持てませんし、なにより、時間がかかります。出来ない事を認めてしまうと自分に限界を作ってしまいます。 私たちは自由なのだ、と身体は教えてくれます。舟状骨もその一つです。
舟状骨を小刻みに動かすとその振動が指先へと届きます。その細かな動きが自由のもとです。誰もその速さと細かさについてこれないからこそ、掴まれている手を解き、逃げる事ができます。
しっかりと抑えつけてもらって逃げてみると驚いてもらえます。特に長年武道を経験していると、ここまで抑えられると大変だ、という固定観念が生まれます。それでも舟状骨は止められません。振動をさせれば手がランダムに暴れだします。ここに手順はありません。ただ、暴れさせれば結果的に抜け出せるのです。
誰かに腕をつかまれる、なんて経験は一生に一度来るか来ないかです。あえてそんな技法を学ばなくても生きていけます。しかし、腕をつかまれる、という原初的な状況にも苦しまず自由になれる、とわかれば心に自由が生まれます。心が自由だとわかれば仕事や家庭、人間関係でも何にでも楽しく前向きに向き合えるようになります。
しかも手の働きはこれだけではありません。 手のひらを構成する部分に「中手骨」というものがあり、それを活かせば指先方向へと強烈な直線的な力を生み出します。 第三関節は回るのが得意な関節です。爪は痛みに負けずに相手に入り込む事ができます。やれる事がこんなにあるのに、知らないのです。そして、それは生まれた時に得てきたもの。努力によって作り上げるものではありません。
◆下駄の効用
以前「下駄の効用」についてブログを書きました。 ここでそれを改めて紹介したいと思います。あれから数年経ち、改めて読み返してみましたが、今はそれ以上に新たな下駄の効用を見つけています。ただ、何かを見つけた「瞬間」の気持ちの強さは当時のままの方が伝わるかなぁ、と思いました。どんなに凄い発見も身体から生まれたものは「当たり前」へと変わります。これが凄いのです。 当時のブログですが、紹介します。
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今日は「下駄」の話をしようと思う。多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。
ただ、私は頭でっかちな性格だ(笑)。意味もわからず、なにかを続ける事ってできない人。だから、今日は昔の自分にあてるような気持ちでブログを書く事にする。なにも考えなくてもただ履いて過ごすだけで、カラダは変わってしまうのだ。
二階にある道場に手すりを使わないと上がれないほど膝が壊れている仲間がいる。彼に少し冗談めかして下駄を履かせて歩かせた。すると、それまで痛くて気になっていた膝が気にならないみたい。そのまま階段を降り、また、あがってきた。第一声は「なんで、あがれるのか!」だった(笑)。
下駄をバカにしてはならない。エンジンも歯車も、なにもついていない。しかも高級なブランドでもなければ、たぶん職人が丁寧に魂をこめたものでもない(1500円ぐらいで普通に買ったサンダルのような下駄なんだから)。 それでもカラダは変わってしまうのだ。
普段、きっと、頭に気づかせないように、このカラダは無意識に変化を隠している。これまでも下駄を履く機会はあったけど、まさか、こんなにも大きな変化が自分の中に生まれていたとは夢にも思わなかった。
下駄を履く事でなにがかわるのか。 最近の術理に当てはめてみると、「跳ね返る力」、「重力」の力に簡単に乗る事ができる、というところだろう。以前、「今を5つにわけてみた」としてブログを書いたけど、その2番の力、五行で言えば木行の世界に簡単になじめるようになるのが下駄なのだ。
跳ね返る力の存在に気づき、それを使いこなそうとあれこれ試し、なんとか、一通りの技の中での生かし方を見つける事ができた。それによって、これまで考えもしなかった動きが可能になり、実際に速く、そして、重い動きがでるようになったのだ。 しかし、これを伝えるのはなかなか大変。まず、なにより、タイミングが違う世界がある事なんて普通は考えないもの(笑)。
手を合わせてみればそこに普段と違う感覚と、目に見える結果があるので、タイミングが違う世界が「ある」というところまではなんとか理解してもらえると思う。問題はそのタイミングの世界にどう行ってもらうかだ。 ただ手を上げる、ただ歩く、そんな普通の中にタイミングを変えた世界がある。そして、それを変えることができれば、これまで無理だと思っていた事に光が見えてきて、楽しくなれる。そう確信はしたものの、どうしたらそれを伝えられるんだろう、と考え込んでしまった。
問えば必ず、答えは見つかるもので、その感覚を自覚し、過ごしてもらうためのアイテムが「下駄」なのだ。
今、私の中では下駄は「履物」ではなく、「乗り物」と認識している。自転車のように楽に身体を運んでくれるもの、と考えている。下駄は発明なのだ。
舗装道路のなかった日本では下駄が便利。もちろん、それもあるだろう。でも、そうなれば、現代において下駄は必要なくなる。軽い靴でかまわないもの。 でも、靴では得られないすごいものが下駄にはある。下駄に乗る事で身体を常に楽に動かす事ができるようになる。
これを武術の技を通して確かめると、もう、靴には戻れない(笑)。
ちなみに、今私のキャリアは武道暦が40年近く・・・、甲野先生に出会って20年近くになる。これまで、研究、稽古を続けてきて変わり続けてきた、という自負もある。
でも、今、自分のどんな動きよりも「下駄」に乗って動いた技のほうがキレルのだ(笑)。
甲野先生と出会い、変化こそ大切で、楽しい、とわかった今だからこそ、この状況を楽しく過ごす事ができるけど、きっと、何十年も一つの事を追求してきた人であれば、ショックで言葉もなくなり、さらに追求していく意欲を失ってしまうかもしれない。
なぜなら、何十年の努力が全部、無駄な努力だったのかも、と思えてしまうから。
少しでも動きのレベルをあげようと日々、汗をかいている。でもそんな汗を下駄はひょい、と乗り越えてしまうのだ。その現実をどう捉えるか、稽古のセンスはこういう瞬間に試される。
下駄によって身体は変わっているのだ。変わっていない、と思い込んでいるのは頭。現代は頭が強いから、つい、変わった身体をなかった事にしようとしてしまう。でも、身体も大切な自分。しかも、身体がわかる事で精神の事もよくわかるようになる。 こんなにも豊かで便利で楽に暮らせる時代なのに心につらいものを抱えている人は年々増えてきている。理由の大きな部分はきっと「身体」が使えなくなってきているから。医者も学者も皆現代人、身体を使える人、身体のすごさに気づいている人は少ない。身体のすごさを認めない人が精神の問題を解決できるとはとても、思えない。
つい、話がそれてしまった。今日は下駄に戻ります。この記事を読み終わった後、下駄を買いに行ってくれる人が一人でも増えれば、なんて(笑)。
下駄に乗る事で足からくる不安が少なくなっているのに気づく。足からくる不安とは崩れそうになる、不安。その不安定さが無意識の力みを作っているわけ。この力みは4番。筋肉、意思の世界。なにかをやろうとするタイミングは地面からの跳ね返りの力のタイミングに比べて圧倒的に遅い。その「ズレ」が力みになり、身体を硬くしてしまうのだ。
若いうちはまだ、身体にも余裕がある。、栄養も取れるようになったから、筋肉も増えたし。しかし、増えた筋肉は重さにもなり、骨格としての身体、バランスとしての身体に負担をかける。歳をとり、どこかで、負担のほうが強くなるときが必ず、やってくる。 それがわかっているのに、皆なぜ、平気なんだろう?
下駄に乗ると、足指、膝の力みが消える。 どうも、私たちの足元は平らに見えるだけで、体にとっては微妙なバランスを必要とするものらしい。その微妙なものを処理してくれるのが下駄なのだ。
下駄は自分がそこにいていい、と身体で思わせてくれる。いくら、頭の中で「ここ」こそ自分の居場所なのだ、と思っても、実際に身体が緊張していては駄目だ。身体の方から安心がもらえる。ただの木材に紐がついたようなものなのに(笑)。
舟の船頭さんを考えてみて欲しい。水面のゆれを身体で受け止め、櫓をこぐ。エンジンのように馬力で進むのではなく、身体を使って、舟を導く。この時、水面のゆれに抵抗していては一人前に舟を扱う事はできないはず。舟との一体感があって、初めて櫓を使いこなせるようになるはずだ。
地面との関係もこれと同じ。地面は揺れていないけど、身体はいつも、不安定さを持ち、一体感を失ってしまっている。下駄に乗る事で簡単に一体感が得る事ができる。意味もあるけど、身体にはいらない。下駄で過ごす事が習慣になるように生活の中に取り入れると滑らかな身体、滑らかな気持ちの自分と一緒の時間が増えるはずだ。
問題は仕事のとき。下駄を履いたビジネスマンは明らかにおかしい(笑)。そこが各自の研究テーマだから、勝手にやってください。
・・・と、ここまでは私の中では「普通」の話し。下駄を履く事で地面との跳ね返りがスムーズに行われ、身体に力みを作るにくくなり、結果的に自転車のように身体を楽に「動かす」事ができる。身体が気持ちよく動くのだから精神的にもいいはずだ。
ながながと書いてきたけど、上の数行に書いた事がこれまで伝えたい事のまとめ。後はそれぞれ、試してくれれば、と。
実は、まだまだ、下駄には秘密がある(笑)。 実は「手に持っても」動きが滑らかになってしまうのだ!
両手を押さえて、歩く事をしっかりと押さえてもらう。この稽古が私は好きだ。目の前の進みたい道を行く、というのが人生と似ているから(笑)。 どんな手を使ってもいいから前身を止める。それだけをルールにすると、武術武道の高段者、スポーツの才能、身体の大きさとかあまり、関係なくなる。その状況で自分になにができるか、を求めるのがこの稽古。
この時、下駄を履くと、身体と地面との関係がよくなり、跳ね返る力が身体を動かすようになる。その跳ね返る力は筋肉のタイミングよりも早いので、結果として身体の大きさのハンデが消えてくる。ここまでは説明したとおり。
この時、下駄を「手に持つ」のだ。鼻緒に指をかけ、ぶら下げる。その状態で前に進む。すると、相手がなにもできずに、崩れていってしまうのだから、もう、なんと言っていいやら(笑)。 ポイントは手に鼻緒がかかっている事。たぶん(笑)。下駄だけを指で挟みこんだだけでは肩に力が「逆流」し、流れない。身体が力んでしまうのだ。
鼻緒でぶら下げるぐらいの時、指先から力が外へと流れていく感覚がある。この感覚が身体の自由さをくれるみたいだ。
下駄を持っていない反対の手、そして両足。それぞれは下駄を手にしている手に従い連れられていくようにする。すると、身体がスムーズに相手へと向かっていけるようになる。少しずつ理由はわかってきて、使い勝手も上手になってきているけど、下駄を手にしているときの身体の軽さはこれまでに経験した事がない。
ちなみに、つまむのであれば、他のものでもいいんじゃないか、と巾着やポーチ、ペットボトルとかを試してみたけど、それらは全部、駄目。「下駄」でなければいけないらしい。
そこで、ふと、思いついた。 もしかしたら、私たちの中に動物としての心が残っているのかな、と。私たちは手足が大地と触れて生活をする。手足は大切な接点なのだ。その接点の先に不安があるのと、安心があるのとでは当然、違ってくる。 ついつい、不安を頭にまで上げて解決したくなるけど、接点において安心を作れれば頭は他の仕事に回すことができる。
一見、関係のない手に持つ下駄も、手先から伸びる世界、もしかしたらこれは抽象的なほうの世界かもしれないが、それとの間に安心を作ってくれているのかもしれない。
遊びながら、笑いながら、この現象を試していて、ひとつ発見があった。 竹刀でお互いしっかりと打ち合ってみたのだ。 相手の隙を付くわけでもないし、竹刀を扱う技が伸びたわけでもない。この時、右手の指に下駄をぶら下げ、打ち合ってみた。すると、信じられないぐらいの重さと速さが出てきてしまった。
タイミングも力みがないせいなのか、気配を読めないし、下駄をぶら下げる事でこんなにもかわってしまうだなんて・・・。 しかも、何人かに試してもらっても、ほぼ例外なく、変わって重さと速さが乗ってきている。この変化で丈夫な袋竹刀が折れてしまったのだから、もう、なにかあるとしか考えるしかない(笑)。
普通に竹刀を持って、右手に下駄をぶら下げる姿を想像して欲しい。一言で言うと、「間抜け」。もう、まじめになんて練習できない、普通の道場では絶対に許されない事だと思う。しかし、頭のまじめさを大切にしてこの速さと重さに気づかないで練習を続けても一生、そこには行けないかもしれないのだ。
だからこそ、研究は楽しく、笑いながら、縛りなく行える場所が必要なのだ。権威を大切にするなら、それもいいけど、そんな権威は死ぬ直前には役に立たないものだし、年々、権威の力も小さくなっていっている。 どうせ生きるんだもの、楽しく生きるためにはどうすればいいのか、そんな事を考えて暮らすのもなかなか楽しいし、身体感覚を使ってみると、意外と簡単にそれを実感する事ができる。
ずっと、下駄の話をしてきたけど、乗るだけで、動きが変わるのだ。その動きは相手が敵役をやってくれるとさらによくわかる。どんなに抵抗をされても、崩していけるこの感覚は自分の中になにか「ある」という気づきに変わってくる。 高度なテクノロジーの結果の道具は自分の身体にあるなにかを教えてくれない。その「道具」がすごいのだ、と思ってしまう。でも、下駄は「ただの木」だもの。下駄に乗って変わってくる結果の要因は下駄によって変えられた自分でしかないはず。
世の中に便利なものはたくさんあるけど、その便利なものって結構飽きる。次にまた、性能のいいものが出てくるだろうし。一瞬満足があっても、すぐに不満に変わっていく。しかし昔の人が発明した下駄はどんどん内側に入っていくのだ。下駄の凄さに気がついて2週間ぐらいかな、毎日、違う自分が見えてくる。その人なりの変化が下駄によってもたらせるはず。
身体感覚の世界はマニアックな世界でなかなか上手にその楽しさを伝えられなくて凹むことがあるんだけど、下駄を履いて見れば、意味はわからずとも、軽い身体を先に渡す事ができるとわかった。最近の浴衣下駄なんかは下にゴムが付いているので、まぁ、室内でもそれほど気にせず使えると思う。ぜひ、靴屋さん、和モノ屋さん、浴衣コーナーを覗いて手に入れてきてください。1000円ぐらいのもので十分ですから。
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◆日本人が作り、残してきたもの
下駄の効用についてお話ししました。もう何年も前に書いたものですが、今はさらにその確信を強くしています。さらにそこからまた驚くべき展開をみせていますので、それもまた、稽古の際に聞いていただければと思います。
下駄をきっかけに「日本人が残してきたもの」に興味を持ちました。そして西洋の文化と日本の文化は大切にしているものが違うのだ、と改めて感じました。結果を大切にする西洋の思想とは逆に、心の中に満足、充実を求めて身体を生かす道を求めたように感じています。
着物はまさに身体へ刺激を与える仕組みが満載です。今、着物を着る人は減りました。会社に行くのに着物は着ていけません。それは結果を残すためには邪魔だからでしょう。しかし、結果はドンドンと積み重なっていくにもかかわらず、それを喜べなくなってきています。
自動車が売れに売れれば会社は喜びます。関係しているたくさんの人が喜びます。しかし、それによって引き起こされる問題は環境問題、エネルギー問題など、地球レベルの問題になり、不安を生み出します。 ネットも世界へと広がり、コミュニケーションが爆発的に広がりました。それによりたくさんのスターも生まれますが、同時に負の部分も生まれます。大きな結果だけが心の満足を与えてくれるわけではないのを皆感じているはずです。
着物は身体に刺激を与えます。しかも、気づかないうちに。 着物になれていない普通の人が着物を着れば、その窮屈さ、苦しさ、面倒さが気になり「嫌」という気持ちがでてくるでしょう。
しかし、その「嫌」は頭が作るもの。身体はその状況を受け入れ、主役を入れ替え、働きを変えます。身体は嫌がることなく、受け入れる準備をしています。 社会の誰もが着物を着ているとすれば頭はそれを嫌と思わず、着物を着続ける事を選択するでしょう。その時、身体は自然と動き方を変えます。動きが変わる事で心まで満たす。それを意識的に行っていたとは思いませんが、根底に広がる何かが、多くの他の国とは違う文化を高め、つなげてきたのです。
せっかくのその文化と知恵、それがどんどんと失われていく様子を本当に悔しく思います。ぜひ、身体の凄さと、そこから生まれる楽しさを伝えさせてください。そして、一緒に、大切な人にその世界を伝えて下さい。
着物の効用と呼ぶべき働きがあります。 まずは「袖」。あの邪魔な袖が実は大いに働きを持って、身体の力を引き出してくれています。 洋服の半袖、長袖であれば腕を使うのに苦労は要りません。しかし、袂を持つ長い袖はそれを気にせず腕を扱うわけにはいかなくなります。 目の前にある何かに手を伸ばした時、自然と脇が締まり、反対側の腕が袂を支えるように動きます。この時の動きが身体にとっては気持ちよく動いている状態になります。
実験を一つ行いましょう。 手を上へと上げる動きです。そのまま上げてしまえば肩が詰まりやすく、肘が主になりあがります。「上」に上げようとすると、まっすぐそのまま上げようとしてしまい、それに肘が応えて肩を置いてきぼりにしています。
上に手を上げる時、遠回りをして上げてみます。腕にらせんを作るように回しながら上げていきます。このような動きをする事で肩回りも自然と働きだし、背骨と腕との関係がよくなります。
四十肩、五十肩の人など、らせんを意識するだけで楽に腕が上がる事を自覚できたりしますが、もともと痛みのない人など、この二つの上げ方にそれほど違いはない、と思うかもしれません。しかし、それは今が身体を使わなくても生きていける楽な時代だから。もし、身体を活かさなければ仕事が出来ない昔なら、肘だけに頼った動きをしていればすぐに身体を壊してしまっていたはずです。
また、先に述べたように、結果は機械によって得る事が出来ても、心の満足は身体が働く事によって生まれます。身体がちゃんと動く事の喜びをぜひ、知ってほしいのです。身体が動いている、働いている、というのはあたり前ではないのです。
ここで武術的な実験が役に立ちます。 肘から手を上げた時、らせんを使って遠回りをしてあげた時では身体から生まれる強さがまるで違う事がわかります。 ただ真っすぐ上げただけでは上から押さえつけられた力が手首や肘、肩等、関節に集まり姿勢を崩してしまいますが、らせんを使ってあげた時には腕と胴体に伸びが生まれて一つの流れが現れます。同じように抑えられたとしても、流れによって姿勢に力が生まれて強さを感じる事ができます。
こうして努力の必要のない力を自分の中に少しずつ感じ取っていけば自然と自分の中に自信が生まれていきます。今何か出来ないものに襲われ、限界を感じてしまっても、自分の更なる内面に大きな力があるのではないか、と期待し、探る事が出来ます。
現代は指先一つでなんでもできますが、だからと言って腕や胴体がなくていいわけではありません。働きとしては手の動きの方が細やかです。しかし、その手は腕という親がいなくては生きていけないのです。親である腕にも生き生きとした流れを見つければ、更にその子である手もまた強く元気に活躍が出来るのです。 使う機械は同じものです。結果は同じように現れます。結果を得て楽しいかどうかは自分の力にかかっているのだ、と思って下さい。
さて、「袂」のお話をしました。 この腕にらせんを作るように使うと良い、というのは洋服になっても、裸の時であっても同じです。らせんを忘れずに遠回りが出来ればいつも腕と胴体はつながり快適です。しかし、緊急事態にはつい、忘れてしまうのが人間です。そこで着物が働きます。
着物を羽織り、帯を締めると洋服とは違う「窮屈さ」が現れます。現代流でない昔の日常はもっとふわっと、ラフに着つけていた、とも言われますが、それでも、あの帯ですからね、窮屈です。 しかし、この窮屈が身体の動きを導いてくれるのです。
特に女性用の帯を締めた時にはそれが顕著に現れます。胸の下に帯を締められると、自然と背中が現れます。胸と背中がくっつき、一枚の「平面」が身体に現れます。平面が強く主張し始めると体幹を「捻じる」動きがやりにくくなります。 昔の人は手足同側の「ナンバ歩き」をしていた、と言われますが、捻じれを否定した動き方全てが「ナンバ」になるのです。
そして、捻じれを作れなくなれば自然と腕は前へとは出なくなり、胸に沿って上に上がるようになります。そして、それは先に述べたらせんの動きと一致します。袂に帯、とても相性良く、働くのです。
本当に日本人の感性によって残されてきたものの凄さに驚きます。そして、それは何百年、何千年たっても変わらず、身体に気持ちよさを与えてくれます。 若い時になら大きな結果を求め、喜べますが、歳を重ねていけば次第にほどほどの結果で良くなるものです。そのほどほどでいい、と感じ始めた時、結果でしか喜べない感性のままではどれだけ与えられても、至福の瞬間は現れません。身体が動く事、働いている事によって得られる喜びをちゃんと育てながら歳を重ねる。それが先人が残していた文化ではないかと思います。
そして、更に骨盤で締める男帯にも意味がありました。 骨盤で帯を締めると自然と身体が固まります。身体が「玉」のように丸く、スキのない形を見つける事ができます。
胸が「平面」を感じさせ、腰が壊れない「立体」を作ってくれるのです。 この塊が腰に生まれると、不思議と気持ちが大きくなります。 足を上げ、ドンと踏み下ろす。当然、衝突が起き、痛みも生まれます。しかし、帯の有る無しで試してみると、帯を締めている時の方が心に余裕があるのがわかります。
ここでまた、武術的な実験ができます。 相手に向かってそのまま歩いていく時、衝突する瞬間、心は守りに入ります。自然と身体が緊張し、縮みます。 しかし、腰に帯をつけ玉を作ると、気持ちが守りではなく、楽しみに変わります。どれぐらい自分は壊れないのだろう、という気持ちが表れてきます。 そのまま相手との衝突をすると、逆に相手は強い気持ちを持ったこちらに心が負け、崩れていきます。
この働きに気づいたのはほんの数か月前です。これがどれだけ凄い事かはなかなか伝わらないと思いますが、もし、私が20代の頃、この働きに気づいていれば、わざわざ自分の強さを磨く武術、武道の道へは入らなかったと思うほどです。強さを求めなくても、自分はもうすでに、壊れない、という気持ちを得ているのですから、武術という自己探求ではなく、仕事を求め、外の世界へと飛び出していたと思うのです。
そう考えると、今は「弱くて良かった」とも思えるから本当に不思議です。弱い自分を自覚していたからこそ、そのままでは生きて行けず、何とかしなくては、と強い動機を持てたのです。そして、結果的にその弱い心は身体が働く事で支えてくれる道を見つけました。何もできなかったからこそ、一つずつ、納得をしながら身体の働きを探すことが出来ました。だからこそ、今、誰に対してもちゃんと伝えられる自信を持つ事が出来たのです。
誰にでも伝えられる自信を得たのは私が上手に伝えられるのではなく、「誰もが持っている身体が凄い」と気づく事が出来たから。心を惹きつけ感動させて記憶に残すのではないのです。感動的な場面、装置、経験は要りません。ただ、普通に暮らしている日常の中に共にある身体を見る機会を増やしていけば間違いなく、生まれてきた不思議さ有難さに気づきます。
今、長々とお付き合いくださっていますが、なかなか実際に稽古に参加する機会も作れないかと思います。そういう人はぜひ、着物を着て、下駄を履いてみてください。その窮屈さが動きをどんどんと変えていってくれます。着物の所作になれておけば、稽古に参加する機会を得た時、すぐにその着物の所作に気持ちを傾け、喜ぶ事ができます。自分の中に眠っている力に気づく事ができます。間違いなくです。
ちなみに着物を着れば長い身頃や袴が膝の動きを制限します。これも腕の時と同じ、安易に膝を使えなくさせてくれています。制限を付けられるから身体は自然と他の部分を働かせるのです。 細かく制限を探していけば日本の文化の中にたくさん見つかるはず。なんて窮屈なのだ、と「考え」、海の向こうの自由な世界へと行きたい「気持ち」は「心」の働き。ただ、日本人は心に逃げず、身体に従い生きていくのを選択したのではないかと考えています。
海に囲まれた日本という国。この国を嫌い外へと出ようとしても、簡単には出られません。厳しい環境を受け止めるのは身体の仕事です。だからこそ、身体をより働かせるための工夫を残してくれた、と思うのです。
現代は簡単に海の外へと出られるようになりました。心に広がる自由を求めて外の世界へと旅立つことができます。しかし、外へと出れば出会いがあり、その出会いは幸せなものばかりではないでしょう。敵として出会った時、痛みを受け止めるのは身体です。外へ出る事を選択するにしても、強い身体を自覚してからでないと大変です。
私が伝えたい身体の動かし方、働き方は時代遅れのように思えるかもしれません。しかし、身体は土台です。どれだけ心が進化をしようが、身体を持って生きている以上、それを支えるのは身体です。稽古するしないにかかわらず、土台としての仕組みを知っておくのは損ではありません。
◆健康について
細かい技をご紹介すればキリがありません。これまで24年間、ずっと探り続けてきて、無駄だと思える部分は一つもありません。身体のすべてに意味があり、活かす事で働きを生みます。
内臓、背骨、腕や脚を構成する骨格、筋肉、皮膚。そのすべてに働きがあります。外から身体を観察すれば、胸、お腹、背中、肩、肘、手首、手、指、お尻、膝、足首、足、足指、それぞれ、個性あふれる身体がそこにあります。 それぞれが違う形を持っています。当然、使い方は違うはず。それなのに、頭その多様性を忘れました。 「頑張る」という一つの指針だけではこの身体は動きません。
日本人の寿命は長くなりました。 人生50年という言葉もありましたが、現実に寿命は延びています。1947年のデータでは男性の平均寿命は50歳、女性は54歳でした。2017年では男性81歳、女性87歳です。はっきりと数字で寿命の延びがわかります。
ただ、「動けるかどうか」といえば疑問です。機械やサービスがありますから、「やれる事」は増えました。 江戸時代であれば旅行は徒歩です。海外に行くなんて夢のまた夢でしょう。しかし、現代なら簡単に海を渡れます。海を渡るのに体力は必要としません。確かに「やれる事」は増えました。
しかし、その寿命の長さは主に外の要因が多いわけです。豊かな栄養、衛生的な社会、何より、高度な医療が病気をやっつけ、長生きをさせてくれます。 ただ、「動く力」を忘れてしまいました。
「動く力」は筋力だけではありません。学生時代に作り上げてしまった筋肉によって身体は動く、という固定観念が歳を重ねていった時、邪魔をするのです。歳を重ねて老いていけばどうしても筋力は落ちていきます。その時、残った筋力でちゃんと滑らかに動けるように身体を作らなくてはいけません。
単純に考えれば骨は歯車のようなもの。筋肉は動力です。しかし、歯車がかみ合わないようではどれだけ力の強い動力を持っていても力は無駄になります。むしろ、歯車を壊してしまうかも。
この持って生まれた身体を理解し、納得のいくように動かす。それをさせてくれるのが稽古です。そして、その機会は道場や講座の時だけではありません。日常生活すべてがこの身体を理解するための時間となります。
初めは身体の声が聞こえません。どうしても、外にある知識やアドバイスが気になります。それは仕方ありません。考えて学ぶよりも、押し付けられて勉強する事になれてしまっているからです。
もう私たちは大人です。自分の身体の事を自分で学ぶ。方法は何でもいいんです。私はヒントになるだろうことをとにかく伝えますが、それに従う必要はありません。覚えていられないものは忘れてもいいのです。 むしろ、稽古が進めば、どうしても忘れられないもの、それが固定観念ですが、それを壊したくてしかたなくなるはずです。
うまくいかない事があれば、それを手掛かりに更なる身体の働きを求められるようになります。 病気になればたくさんの人がその病気を治してくれます。専門家に任せた方が早く治ります。自分にできる事はその時の具合の良さも悪さも身体を知る手掛かりとして使うという事。
こうなれば、常識的な健康観はなくなります。病気やケガをしてはいけない、となると行動の自由が狭まります。自分の考えに厳しい人は自らが動ける場所を無くしています。 私たちが持つ身体はいつも、ちゃんと私たちを守ってくれているのです。どんなことがあっても受け入れ、なんとかする、それが身体です。
稽古を通して健康を考え、死生観をちゃんと持つ。ちゃんと持てるようになるのが一人稽古。自分の人生を自分が生きている実感を得られます。 武術武道と言えばすぐに「ケンカ」を想像してしまうかもしれませんが、多くの武器がある現代で素手での殴り合いの技術はそのまま役には立ちません。むしろ、知っているがゆえに危険になる事だってあります。 この時代にあえて武術武道を学ぶのは自分だけの死生観を作り上げる事かもしれません。
◆過去のトラウマをなんとかする
どんなに抑えつけられても、自由に動き、振舞える。相手が警戒をしていても、自由に動き突きをあて、抑える。格闘技として考えればそれは理想的なレベルです。 稽古をしていけば常識的には考えられないような動きも可能になります。身体が持っている働きそのものに目を向けるからこそ、出来なかった事が出来るようになります。 ただ、これを目的としてしまうとあまり意味がありません。
稽古を通して精神的に自由を得る。それこそ私が求めている事です。 現代は心の世界が広くなりました。コミュニケーションが取れる場所も広がっています。インターネットのおかげで地球の裏側のニュースもたくさん入ってきますし、昔なら知りえなかった事も知ってしまいます。 たくさんの知識を持てば幸せになれる時代もあったでしょう。しかし、今、たくさんのニュースを聞いて、消化をしきれず、暗い気持ちのまま過ごしている人も少なくありません。
情報がなかった時代であれば知らずに、気にせず生きていけた事も、今は自動的にスマホにニュースが飛び込んできます。 複雑な家庭環境、いじめの問題、暴力的な事件、それらが自分自身の過去を刺激する事もあるかもしれません。目の前にちゃんと存在する敵であれば戦う、という選択も出来ますが、自分の心に持ってしまったトラウマと戦うのは簡単ではありません。
だからこそ、たくさんのカウンセラーが生まれ、心を癒してくれるヒーラーや明るい未来へと導いてくれる占い師が人気です。 しかし、苦い思いが湧いてくる過去をそのままに未来へと進んでも、またいつ、どんな時に思い出されるかわかりません。なかなか忘れる事ができないのが人間です。
一人稽古であれば、それすら、自分を探る手掛かりとなります。 私はたくさんのコンプレックスを持っていました。 人の前に出るのも苦手、アイデアを出す事も、喧嘩をするのも苦手です。しかし、弱点だと思っていたそれらのおかげでどんどんと自分の中を探る事が出来ました。
人の前にでるのが苦手なのは今もそうですが、だからと言って、出てしまった時に何もできないわけではありません。好きか嫌いかで言えば嫌いですが、それ以上に伝えたい事があれば、人前に出る事を選択できます。
こうして、自分の気持ちを隠すことなく、そのまま伝えているのも心の中には「恥ずかしさ」があります。もし、自分に人を感動させる言葉を伝える力があれば書き出す事は喜びになりますが、私にそんな力はありません。 ただ、もう誰も、身体そのものを見る事の大切さを伝えている人がいない、そう思うからこそ、今こうして伝えています。
今年の初め、「心を込める」という言葉を身体で実感をしました。自分の身体の中心にある小さな点を動かして、それが言葉を作れば、その言葉に思いが乗る事に気づいたのです。 その気づき以来、言葉にする事への抵抗感がぐっと少なくなりました。安易に周りの空気に流されて言葉にする事が嫌いだったのです。同じ言葉を発するにせよ、自分の中に納得が欲しかったのです。 そんな心の欲求を満たしてくれたのが身体の中の小さな点、重心でした。
心身一如、心と身体は一つ。それを言葉にしている人はたくさんいます。心は大切ですが、見えない心を操ろうとしても、それは無理というもの。ならば、身体の方から攻めたらいいじゃないか。そんな単純な思いで稽古を続けています。 初めは乱暴な技ばかりを稽古していましたが、徐々にそれは感度を上げ、結果的に心と身体が結びついている、という確信を得るところまで来ました。
もし、すでに大きなトラウマを抱えているのなら、それはより深い自分を探る才能を持っている事と考えてみてください。そのトラウマに心が壊されそうになっても、その瞬間、ちゃんと身体はそこにあります。
心が散り散りになり自分がわからなくなっても、身体はそこにあります。 その身体に集注をすれば、重心が見つかり、呼吸と共に背骨が動いているのがわかります。そして、捻じれない体幹を作ればそれを土台にして腕と脚がちゃんと動く事がわかります。腕と脚が動けばその場から離れる事が出来ます。
その場を離れれば景色が変わり、手にしたい何かを見つけるかもしれません。その時、自然と手が動き、つかみます。 心は大切ですが、どうしても他の存在とも一つとなり、自由がありません。苦しいところにいたい、というのであればいいですが、もし、もっと気楽で自由で楽しいところへと行きたい、と望むなら、身体に任せてその場を離れてもらえばいいのです。
上がらない手が上がります。痛かった腰痛がなくなります。と言えばわかりやすいでしょう。それらももちろん手に入りますが、それ以上に、自分の心を身体を通して知る事が出来るのです。しかもそれを誰の力も借りずにです。 なかなか伝わりにくいのはわかっています。それでも、伝えなくてはいけない事だと感じています。
◆ありのまま、無償の愛の「場所」
これからお話をする事は「健康」というテーマにもつながりがありますが、つい最近、これまでで最大の発見がありました。「鱗」です。 これまで、私の中の一番外側を「皮膚」だと考えていました。筋肉でしか力を図れないと皮膚の働きすら想像もつかないと思いますが、皮膚の働きについては数年前に見つけていました。「摩擦」の働きをうまく使えば、信じられないほどの軽さで人を動かす事ができます。
そのさらに「外側」に「鱗」があるのです。鱗は「鎧」の役割をします。外からの攻撃に対して怖れを持たずに、普通にそこにいられます。そして、自分を守るだけではなく、動きの原動力も変えてしまうものだとわかったのです。
仕組みを単純化してお話をすれば、それまで「骨と筋肉」で動いていたのが、「皮膚に近い鱗」が主導して身体を動かすのです。これは内骨格システムから外骨格システムへと変わったと感じます。
もちろん、厳密にそんな事がないのはわかっていますが、人間の想像力はそれも創り出せるほど豊かなようです。 大抵の場合、うまく動けなくなるのは骨と筋肉の力が相手に及ばない事が原因です。鱗で動く時には内側に衝突が生まれません。身体全体が「凧」のようなものになり、風を受け止めて「動かされる」感覚になります。
副産物的にそれまで身体を「動かす」のが困難だった人が身体を動かせるようになったりします。人を倒す技術を学びながら、人の痛みを癒す事もできるのはとてもうれしい事です。そして、その力を私が持っていた事がうれしいのではなく、人の中に癒えてしまう自己治癒の力を誰もが持っていた事がわかったのが最大の喜び、そんな大発見でした。
そして、さらにそれは、とんでもない発想へとつながります。 「ありのまま」、「無償の愛」で相手と向き合おう、とはよく言われますが、実際に命を奪いに来る相手を前にしてそれが出来る人はほとんどいません。 しかし、「鱗」への理解が広がると、ありのまま、無償の愛という実感のないものに対して非常に重要なカギになるような気がしてきました。
鱗の働きは外へと向かいます。皮膚にたどり着く前に自分を守ってくれているように感じます。ただ、鱗の場所は皮膚のちょっと下のようです。不思議ですが、ちょっとだけ、皮一枚したなのです。探りすぎて奥まで入りすぎれば相手の筋肉の抵抗にあいますし、骨にたどり着いてしまえばバランスを崩させ反射的に相手をこわばらせてしまいます。 また、遠慮をしすぎたり、手順など、考え方に偏りすぎれば相手の事を置き去りにしてしまいます。どちらも、相手との調和は困難です。
しかし、鱗に触れている時、見ている時、相手はそのどちらでもない感覚に落ち着きが生まれます。こちらの思いが強かったり、考えをしすぎる事が相手を敵として認識してしまうきっかけを生んでしまっていたのだとわかりました。
鱗は相手の形をつくる重要な場所。その形は努力によって変わるものではありません。持って生まれ、無意識レベルで仕方がない、と受け入れているようなものです。考えてみれば、まさに「ありのまま」だし、相手からの反応を期待せず、淡々と鱗を見続けるのは「無償の愛」という状態を思わせます。
これが正解か、不正解かはわかりません。しかし、私の中で「実感」を伴い「納得」へとつながってしまったのです。 実はこの体験が私が拳を合わせて戦う必要のない現代において武術を学ぶ意味だと考えています。
生きていれば悩みが深くなり、自分だけの問題も出てくるでしょう。常識的に答えは出せても、心の底から納得を得る事が出来ない問題がでてきます。 もし、そんな時、自分の中から強い確信が持てたら、と考えたのならどうでしょう。一人稽古でならそれができるのです。
◆一人稽古について
私は「一人稽古」を勧めています。私自身がそれで救われたからです。
もちろん、最初の一歩を導いてくれる師匠や先輩は大切ですし、ありがたいものです。しかし、高度に組織化された現代の仕組みだと、なかなかその後、独り立ちができません。自分の問題は自分で解決しなくてはいけません。その時、組織の目標が自分を縛ります。自分の問題の答えはその外側にあるかもしれないのです。
日本には「守破離」という教えがあります。寿命が短かった時代なら自然の流れとして師を先に亡くす事が多かったでしょう。自然と師の教えから離れざるを得ません。しかし、現代は先師、開祖の教えを受け出来上がった組織自体を師にする場合が多いものです。当然ですが、身体を持たない組織は死にません。ずっと、その組織の教えを守ってしまう素直な人も多いのではないでしょうか。
ウィキペディアによれば守破離はこうして説明されています。 守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。 破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。 離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。
守のレベルだけを求めるのなら、技をたくさん学び、覚えていけばいいかもしれません。金メダルという明確な目的を達するだけなら守のレベルだけの方がいいかもしれません。ずっと、マンツーマンで助けてくれるし、従う事が最短になりそうです。
しかし、私の目標は生きる事の意味、死ぬ事の意味、森羅万象を知りたい、という欲張りなものです。答えがない問題に対してどう向き合うか、それを求めています。 そしてそれは誰かに従っているうちは無理というもの。 ならば初めから「離」の段階を求めて稽古をすればいいのではないかと思うのです。
一人稽古の仕方はおおよそ常識とは外れているものです。 常識外れをしよう!と心に決めても、長年住んでいる常識の世界からはなかなか出られません。だからこそ、「敵」の力を借りるのです。敵に襲われ、身体が緊張、反応をします。その時、常識を押し通しても結果はやられるだけです。最初の段階で「敵」と認識できるぐらいですから、自分の力よりも上なのです。
しかし、頭では無理だと思えても、身体にはちゃんと可能性が残っています。稽古を重ねていけば、少しずつ、力の引き出し方が上手になっていきます。努力をして手に入れる感覚ではなく、忘れていた感覚を思い出すようになります。
努力なしに手に入れる力を最初、頭は受け入れられません。しかし、それを受け入れる事が上手になれば、自然と自分だけの技が生まれます。まさに「離」のレベルです。 私が稽古をし始めたころ、こんな考えはありませんでしたが、「守破離」の知識は持っていました。
一人稽古のおかげで、これは「守破離」ではないか、と思いつき、その知識に助けられると、さらに一人稽古が上手になりました。 だからこそ、まず初めに、知ってほしかったのです。
身体感覚を利用した技を受ければ誰もが驚きます。運動が苦手な人も、プロで活躍をしている人もみんなです。それほど、現代人は自分の感覚に従う事を忘れています。 ただ、その驚きがあっても、目的としてそれがやりたい!教えて!という状況になればそれは他にたくさんある組織指導と同じです。 一人になれば寂しいですが、だからこそ、自己創造の力もつき、手に入れられると知ってほしいのです。
◆稽古へのお誘い
私の稽古の仕方はすべて甲野善紀先生から学んだものです。学んだというよりも、それしか方法がなかったので、そのまま真似をしています。
カラダラボという名前は付けていますし、一応「代表」という肩書になっていますが、そもそもそこに「会員はいません」。入会をする仕組みがないのです。 私が主催する研究稽古はすべて一回稽古制。その日、自分に向き合い稽古をしたい、と願う人だけが集まります。
もちろん、定期的に開催されて義務が生じていれば元気がなくてもそこへと行けます。そして動いている間に元気もでて、また継続が出来るでしょう。しかし、それも「離」のレベルである一人稽古の習得には邪魔なのです。
常に自発的に、自分の身体と向き合うためにはほんの少しでも義務感があってはダメなのです。
私の稽古は一回稽古制。そして、参加の資格はありません。運動神経でレベルを合わせる事もしません。何もできない、と思っている人も、プロでも活躍できるほどの身体を持っていても、何も知識がない人も、施術家として仕事をしている人にも等しく、同じ場所で稽古をします。
そして面白いのは、何もしていない、何もわからない、という「素人」の方の方が素直に身体の声を聴けたりします。知識による先入観がないからです。 そうした姿を何度もみていれば自分が得てきた知識を少し邪魔だと思えます。自分の「我」をそうして手放し始めます。
初めての方なら研究稽古にそのままご参加されるのがいいかと思います。参加費も数千円ですし、負担も少ないはず。ただ、数千円で人生なんか変わらない、とも無意識は思っているはず。ここで私が数百万円という価格を設定すれば「変わりたい」という気持ちに火をつけるかもしれませんが、それでは依存も作りますし、期待という心が強くなります。「気」という心の力を得るのならそれでもかまいませんが、私は徹底的に心から離れて身体に従う事を求めています。金額が高低で効果がある、なしではないのです。
また、ここで長々と話をさせてもらった事、研究稽古で体験したたくさんの技の中から特に詳しく丁寧に聞きたい、というのであればワンテーマ研究会や個人稽古もいいかもしれません。研究稽古はどうしても、常に「最新」を求めますので、通り過ぎてしまった部分を振り返りにくいです。ワンテーマの稽古はすこし参加費は上がりますが、興味が先に来るのであればいいかと思います。ご検討ください。
ここまで読んでくださってありがとうございます。 すぐに参加をする気持ちがわかなくても、いつか、大きな出来事が身に降りかかった時、きっと思い出す瞬間もあるかと思います。人間の記憶はちゃんとすべて残っているそうですから。
人間は必ず老いていきます。テクノロジーは老いを感じさせないように様々なものを生み出しますが、最期の最期には必ず、この身体を知りたい、と思うはずです。 一人稽古はいつ始めても遅い事はありません。むしろ、義務感や焦りから我慢をして始めても自己創造の段階へはいけません。つい、頭は簡単な方、解決策を求めてしまいます。
自分の中にどうしても解決したい欲求を持つ事。これがなにより大切です。もし、ご自身の中に思い出したくない、考えたくもない病気やケガ、思い出があるならそれが力を貸してくれるかもしれません。気持ちに余裕がある時、すこしずつ、自分と向き合ってみてください。そして、身体にその解決策を求めたらいいのではないか、とひらめいたのならぜひ、ご参加ください。参加資格はありませんから、いつでもお迎えいたします。
私の稽古は覚えるべき基本もなければ、繰り返し行う基本もありません。準備体操も、柔軟運動も、なにもありません。ですから汗をかく事もありませんし、身体に負担もかかりません。努力で身に着けられるもの以外を探すからです。
参加できる稽古の場所、時間について詳しくはトップページからお進みください。 本当に、長くお付き合いくださり、ありがとうございました。