稽古日誌
壁を乗り越える力
瞑想教室で得たもの
ニュースが溢れるようになって、昔だったら夢だったような製品、サービスがすぐそこまで来ているのを感じるようになった。
ついさっき聞いたニュースは無人飛行機が自宅まで商品を運んでくれるらしい。無人の自動車が公道を走るのも実験は進み、後はゴーサインをどうだすか、というところまで来ているって話も。
そういえば、車が出始めた100年前、馬車になれていた人たちは「そんな怖いものには乗れない」と言っていたそうだ。
つまり、馬車であれば、馬が危険を察知して止まってくれる。しかし、車は自分の意思で運転をしなくてはいけないからとの事らしい。これが冗談なのか、本気なのかわからないけど、たった100年で常識って簡単にかわる、って事はわかるはず。
こうしたインターネットも20年前には皆が使うものではなかった。
私たちの世代は人とつながる事を目指したものが、今の子供たちにとっては、つながっていない状態を考えることの方が難しいそうだ。ここでも常識は変わる。
とくに、これからの時代はさらにスピードを上げて世界が変わっていくだろう。TPP問題も細かく問題をばらしていくから自分の権利を守ろう、という話しか聞こえてこないけど、簡単に考えれば、世界で一つのものさしを作ろうって事だろう。ある面では価格が安くなり、いいと思えるかもしれないけど、安くなっては困るものまで統一されていくのだから、どこへ向かっているんだろう、という想像ぐらいはしておいた方がいい。
今から20年、30年後の未来はどうなっているんだろうか?
そんな事を考えるのが好きになったのは、ここ数年。もっと前から無意識的には「考えたい」という気持ちはあったように思うけど、それを意識の表に出して自分の問題として考えるだけの自信もなければ、困ったこともなかった。のうのうと生きていたのだ(笑)。
年齢のせいなのか、時代のせいなのか、身体の感覚が拡がってきたからなのかわからないけど、今ってなんだ、自分って何だ、世の中ってなんだ、と考えたくなってきた。
そういう問いをインターネットを通して検索すると山ほど「答え」は出てくる。そこで出会う新しい知識は答えになっているようで、実は、また、新しい問題になっていることが多い。気がつくと、なにがなんだかわからないほど複雑な問題になっていたりする(笑)。
きっと、甲野先生に出会わなくては、その複雑な問題に振り回され、なんとか、人の意見を自分の意見だと思い込むことで暮らしていたに違いない。生きている、という点では変わらないかもしれないが、今ほど「楽しい」というのを感じていたとは思えない。
今、すごく「楽しい」のだ。
なんと、子供っぽい意見なのだろう(笑)。ここに微妙な気持ちを伝えられる言葉の術があればいいのに・・・と思うけど、仕方がない。今、楽しい、というのが自分で感じられるだけでも幸せなのだから。
いつの間にかカラダラボの活動に「わかる瞑想教室」というのが加わった。もともとやるべきことも、決まりもない、ただ、研究する会だったので、名前も付けられずにいたけど、自分が行っている事が「瞑想」という言葉がぴったりかもしれない、と思い名前をつけた。
きっと、瞑想という言葉には決まりはない。いろんな瞑想法があるみたいだから、なんでもいいはず。私にとっての「古武術」という言葉は、甲野先生やその周りで楽しんでおられた方々を周りの人が自然と名づけた、という点で、私がそれを名乗っていいのか、というジレンマがあった。
というのも、だんだんと自分が求めていく先に世間一般的に思われている武道、武術のゴールと違っている気がしてきたからだ。
せっかく武道、武術に興味をもってこられても、なんでもいいんだ、なんて事を言われたらきっと、その人はがっかりすると思う(笑)。
戦いの場面を想像し、その状況をどう克服するかを考えたとき、やっぱり、学びたいのは「どう戦う」かだから。もちろん、昔の私はそうだった。
でも、いつしか、ただ立っているだけで、争い自体がなくなってしまう事があるのだ、と気づいてからはもっと、その立っているだけ、というのを追求したくなった。
街を歩いていて襲われることは少なくなったけど、日常の仕事や生活の中で不安を感じ、緊張してしまう自分にはいつも困らされてきたから、その違和感をとりたい!という性格の問題ももちろんあったと思うけど。
姿勢の大切さに気づき、身体が変わり、結果的に動きや技にまで影響がでると、たくさんの人に驚かれるようにもなった。その「結果」を見て、教えてほしいと思われたからこそ、講座や稽古に来てくれるし、仕事もくれるんだと思う。
その声にこたえて、全部伝えたい、と思っても、自分が変わった原因は順番を変えたからなのだ。技を覚えたからできるようになったのではなく、技をあきらめ、姿勢に特化したからこそ、それまでの自分が変わったのだと思う。
この「変化」は身体に起こったことだけども、身体が変わると同時に、心にも変化が起こる。その動きを感じられる前には決して得られなかった気持ちがうまれるから。そして、私が楽しんだのは、その「気持ち」なんだ、とわかったからこそ、ちょっと違う名前でそれを伝えないといけないな、と思った。
なにも変わっていないけど、気持ちだけは安らかになっている、これ、すごく不思議なこと。なぜ、こんな気持ちがある事に気づけなかったのだろう、と。
鍛えて強くなったから自信がつくわけではない。自分の身体にそれまでとは違った意味があることがわかると、勝手に安心がでてくる。身体の動きが広がったことで、意識も広がっているんじゃないだろうか、そう考えた。
瞑想を教える、といっても、じっと目を瞑り、内省はしない。もちろん、してくれてもいいけど(笑)。
実際にやっている事は大人の武道塾と変わらない。ただ、見ている方が違うだけ。身体が変わることで、いったい、自分の何がかわるんだろか、というのを考えて出てきたアイデアを共有して手がかりにしてもらえれば、と思っている。
先日も自分でも「???」な発見があった。頭で考えると、到底理解できないことが、身体でわかり、間違いない、と思えてしまったのだ。
その発見とは、目に見えるこの体の一つ上の次元に自分が「いる」という事。
その「感じ」になってみると、目の前で自分を抑えてくる相手が「自分と同じ」ように感じられるようになった。コンチクショーという気持ちがないまま、相手を動かし、また、相手に動かされる感じがずっと続くのだ。
結果的に、相手が崩れるかもしれない。でも、それは、自分と相手とが分離した感覚ではなく、共にその場面を作る「仲間」の感じがする。
甲野先生はアクシデントに遭われたときよく、「こういうシナリオになっていたのか」といわれる。起きた現実に文句を言うことなく受け入れる姿勢にかっこよさを感じ、それを目指していても、実際に自分が窮地に陥ってしまえば身を守ろう、という緊張や、持っている武器を使いたくなる気持ちがでてくる。その場を「受け入れる」という感覚はまったくわからなかった。
そのわからなかった感覚が今のこの身体を一つ上の次元の「影」だと感じられるようになって、「わかる」ようになったのだ。
もちろん、これを実生活に生かすにはそれこそ、修行が必要。すぐに、不安はやってくるから(笑)。
でも、自分の意識できる場面で、自分の意思を使って、相手を含めた世界を見直せる経験があるのとないのとでは、ぜんぜん違うのだ。いつか、この感覚が「普通」になるだろう、という予感が今出てきている。
実はこういう言葉遊びのような技は大嫌いだった。
実際にその技を受け、崩され、そこになにかが「ある」とわからせてくれれば、そこに集中することができたかと思うけど、どんな人に技をかけられても、自分のがんばる事で抵抗できてしまったから。
これは私に才能があったわけではなく、何度も手を合わせているとパターンがわかり、身体がそれに対応するようになるからだと思う。だから、それによって遠回りをさせないように「抵抗しない」「一つになる」という教え、導きがあったのだと思うけど、その教えでは頑固な自分の頭は変えられなかったみたいだ。
時間はかかってしまったけど、絶対に崩されない、と向かってくる敵を前にしても自分がやわらかく、いつものままに動けばいい、とわかったのはやはり、身体を頼りにできたから。
わかる瞑想教室でやりたいのは知識の拡大じゃない。持っている知識を身体で表現すると、こう変わる、という事だ。大丈夫、と思える知識を持っていたならば、絶対に、身体は安心できるはず。でも、なかなか、こういうアプローチでの瞑想はないはず。
私がそうだったように、よくわからない人も多いはず。なにができていて、できていないのかを「自分」でなんて決められなかった(笑)。
どんなに大丈夫、と言い張っても、ちょっと押されたぐらいで姿勢が崩れてしまえば、それ、やっぱり、わかっていないことだと思うから。
最初、特になんの修行も受けていない自分が瞑想教室をやるだなんて、恐れ多い、と思っていたけど、自分でもそれを「目的」にしたことで、気持ちの中にたくさんの変化が出てきた。
自分の心を探るのに、誰の許可もいるはずなかったのだ。なぜなら、もう、自分はちゃんと、自分の心を持っているのだから。
でも、どこかで、心は高尚なもので自分なんかが研究してはいけない、なんて思い込みがあったと思う。これ、身体の時もそうだったな、と今ならわかる。自分が身体や動きを「研究」するだなんて!と。
でも、誰にでも、その権利はあるのだ。自分で研究してみたらいい。
身体も心もなんとなく、時間や世間に流されると、自分からどんどん離れていく。それが面白く、楽しいことであればそれでもいいけど、そうでないなら、ちょっと勇気を出して、「自分で研究」し始めてみるのをお勧めする。自分の中から出てきたアイデアにはきっと、素直に従えると思うから。
カラダラボのウェブサイト
5/26(月)には甲野先生を名古屋へお招きし、講習会を行います。おすすめです。
悩みの原因は頭と胴体。
とあるカウンセリング系のDVDを見ていてハッとした!
そこに出てくる多くの人の鼻が曲がっているのだ!しかも、その参加者は外国人。その事が衝撃だったのだ。
鼻がバランサーになっている事に気がついて、色々な人を観察してみたとき、日本人の多くが鼻を曲げたまま生活している事に驚かされた。
その理由を「日本人は骨格、筋肉の強さがなく、重い頭を支えるのが大変」だから、と考えた。だからこそ、あごを引き、姿勢を作る「作法」を作ったのだろう。その「作法」がなくなり、現代人は首に力みが生まれ、捻じれてしまっているのだと思う。
すごいな、と思ったのは外国人の多くは首に弱さがないのだ。横を向いていても上を向いても、捻じれていても弱さがない。映画に出てくるような俳優はもちろん、観光地などで目にする外国人もみな、立派な首をもっている。日本人に比べて、外国人の首の強さは圧倒的だ!とうらやましく感心していた。(逆に、だからこそ、「作法」というすごいものを見つけれたのだ!と日本人であることをうれしくも思ったけど。)
外国人は強い、と思い込んでいた分だけ、そのカウンセリングDVDをみて驚いたのかもしれない。そのカウンセリングに参加している多くの外国人の首が捻じれて今にも頭が落ちそうなのだ。なぜだろう?
新しい事象が出てきたとき、頭はすぐに、「探索モード」に切り替わる。この切り替えを学べた事が武術を学んだ事の最大のメリットかもしれない。人生に起こる問題を楽しく、前向きに考えられるようになれるんだから。
しっかりとした体格、筋力がありながらも崩れるのはわかる。もともと人は不安定な二足歩行をしているのだから。でも、その崩れを持っている人がこんなにも集まることってなんだろう・・・って。
そこで一つひらめいた。
日本人と外国人の問題ではなく、もしかしたら、悩みの元は頭の重さを支えきれない事で生まれる「捻じれ」なんじゃないか!って。その捻じれから頭の重さを支えきれずに生まれる「不安定さ」が気持ちを揺らすんではないか、と。
心と体は一つ、と「よく」言われる。
ただ、私はその事を「間違いない」と思いつつも、それを口にする人をそれほど信用していない。
なぜなら、心と体は一つといいながらも、それは「心の影響を体が受ける」、という事ばかりで、「体を丁寧に動かしたことで生まれる心の快適さ」に気づいていないからだ。心をネガティブにしてはいけない、ポジティブにしなさい、というのは簡単だけど、それをやりきるのは、すでに悩みを持ってしまった人にとっては難しいことだから。
そして、実際にポジティブを提唱する人でもストレスに弱いだろうなぁ、という姿勢の人もいる。もちろん、姿勢は隠しきれない(笑)。姿勢に捻じれと偏りを作りながら心と体が一つです!と言われても説得力がない。
武術はどこまで行っても、この「体」を使い、状況を打破していくもの。どんなに困難があったとしても、自分の体を通して、感じられるものを大切にしている。
姿勢の崩れが心にも崩れを作るんだ、とはわかっていたけど、それが、こんなにも影響があるとは思いもよらなかった。
そのDVDの中に出てくる人は皆、心に不安があるからこそ参加をしているんだろう。そして、その多くの人は首に力みを持っている。支えるのに十分な筋力を持っているように見えていてもだ。
皆、例外なく、自分の持つ不安や悩みは取りたいと願っている。そして、アドバイスを真剣に受け取り、対話の中で明るいものが見えてきた人は見る見るうちに明るい表情になっていく。そして、同時に体もリラックスしていくのが見て取れる。まさに、心と体が繋がっているというのが感じられるいいDVDだった。
ただ、彼らは家に帰り、またいつもの生活に戻ったとき、そのままのリラックスを続けられるだろうか、と思ってしまった。長年の生活の中で作った姿勢が悩みを作ったかもしれないからだ。
目の前の問題はきっと、わかりやすいもの。言葉になっていれば多分そう。そして、それは何らかの方法で解決できるはず。でも、首に捻じれをつくったままの姿勢で暮らせばまた、新しい悩みを作ってしまう、かもしれないと思った。
もちろん、新しい悩みが出たらまたカウンセリングを受ければいい、という考え方もある(ビジネス的にはこれを望んでいるカウンセラーも多いかも(笑))。でも、これでは根本的な解決からは大きく外れていくだろう。長い時間をかけて崩した姿勢がその後の長い人生でよくなっていくとは考えにくいからだ。私たちは老化っていう大きな問題を抱えているからね。
武術的にこれを解決するならば、「自分の心が持っている悩みを解決しようとしない」、という方法がある。ひたすら、自分の姿勢だけを整えていくのだ。
武術であれば目の前に敵が現れるのは「当たり前」。この「敵」が悩みであり、不安そのものだ。自分を倒しにくる相手が現れているのに、消えてくれ、と願っても消えるはずない。だからこそ、心を変える方法ではなく、体に基準を作り、動かし、整えていく方法を作り上げたのではないだろうか。外を変える工夫ではなく、内側を掘り下げ、かえる工夫を求めたのだ。もちろん、目の前の敵、悩み、不安から脱するために。
でも、この方法はきっと理解されにくい。
想像してみて欲しい。自分には今、大きな悩み、不安があり、押しつぶされそうだ、と。
その状況でアドバイスをする私は「鼻が曲がっているよ」という。どんな悩みであろうとも(笑)。
アドバイスを受けた人はそれを素直に受け入れられるはずはない。身体のことを知らなかった自分の経験もあるのでその気持ちはわかる。むしろ、それがわかる方がすごい(笑)。
でも、考えて解決しなかった問題はやっぱり考えてはいけないのだ。
ただ、原因はある。「姿勢が悪い」のだ。
ちょっと前には悩みがあったら汗をかいて発散しろ、と言われただろう。衝動買い、やけ食いなんかで解消する方法もあった。でも、体から作法がなくなり、弱くなった事で発散をすると、またそこから「新たな悩み」が出てくるようになってしまったようだ。リセットした後の身体が弱いからだ。
そして、心の分野も研究されてより、丁寧に言葉を尽くして誘導するようになったのも原因だと思う。ちょっと効果が出ればそれに頼るようにもなるだろうし、どんどん、体の本来持っている強さに気づけなくなってしまっている。
しかし、とにかく、「姿勢」の強さを忘れないで欲しい。身体は絶対に、自分から切り離されることはない。絶対に自分を助けてくれる存在なのだ。
その身体の力を借りるためにはがんばることなく、続ける事が必要だ。身体の力を信じ、任せ続けることが大切だ。
ただし、世の中はどんどん便利になっていくだろうから、体にかかる負担は軽くなっていく。その事がどんどん自分の頭から体の感覚を忘れさせる。まぁ、今がきっと、そんな感じ(笑)。
悩みがある、不安がある、違和感がある、というのは実はありがたいことかもしれないのだ。その状況では「もう、いやだ」と信号をだしてくれているのだから。行動を起こすきっかけをくれているとも考えられるだろう。
とにかく色んなことを試して悩みは解決すればいい。でも、どうしても解決できない、とあきらめそうになったとき、「体から心を整える方法がある」、と覚えておいて欲しい。
いつか、本当に困った、変わりたい、と思ったときに自然と身体のことを思い出すはず。こうしてブログを読んでくれた経験は無意識に残るから。
気づいてあげればすぐに働いてくれるのが「身体」。遅すぎる、というのはないから安心して大丈夫。いつか手を合わせて感覚を渡せるその日まで、私は研究を続けておきます(笑)。より簡単に身体の事がすごい、と信じてもらえるように。
稽古の詳細等はカラダラボのウェブサイトをご確認ください。