着物を着て過ごす時間が増えてきてわかってきた事があります。
それは身体は意外と単純で、それぞれに役割があったのだ、という事です。
着物を着て過ごす時間が増えてきてわかってきた事があります。
それは身体は意外と単純で、それぞれに役割があったのだ、という事です。
身体を機械だ、といえば叱られます。
私だって自分の事を霊的に、精神的に、レベルの高いものとして認めたいですもん。
でも、それには、自分の身体をそのように見れる感性が必要です。
稽古は身体の感覚を磨くものです。
それはもしかしたら感性を磨く、という事と同じことかもしれません。
ただ、「感性」という言葉には抵抗感があります。
なぜなら、私は子供のころから、その感性をまったく自覚できなかったから。
武道の世界に限らず、日本には「心身一如」の考え方が広く伝わっています。
しかし、心と体をどう扱うか、というと、それを確かに感じている人は少ないようです。
武術を通して身体感覚を掘り下げ始めて20年経ちました。
これまでの稽古はまさに、身体を理解していく作業でした。
そのおかげでずいぶん、身体の扱い方がわかってきました。
身体がわかってきて思うのは、身体の扱い方は心の扱い方の逆なんだな、という事です。
世の中には素晴らしいものがたくさんあります。
その素晴らしいものに出会えた時、自分の幸運を喜ぶことができます。
しかし、私は自分に幸運がやってきた時、その幸運をつかめなかった人の事が気になってしまう人です。
だから、素直に幸運を喜べません。